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第9話
どうして隆春が土下座をしているのかが理解できない。そんな高級スーツを着て、このあとやっぱり金を貸してくれと続くのだろうか。隆春の能力なら、そんな見栄を張る必要などないだろうに、とも思う。深青はただぼんやりと、スラックスが汚れるから土下座なんて止めればいいのに、などと考えていた。
隆春は、ソファ脇の床に額を擦り付けるようにして、口を開く。その内容は深青が驚愕するに値するものだった。
「俺にできることなら何でもするから、どうか俺と付き合ってくれ。……俺はお前のことが好きだったんだ」
冗談と取るには悪趣味すぎる、切ないほどの懇願だった。
卒業してから三年以上もの間、深青は隆春の消息すら噂で聞く程度だった。大学時代でさえさほどの交流もなく、いきなり現れて好きだの付き合えだの言われても、深青にはどうする気もない。そもそも男同士ではないか。深青は隆春が大学時代、派手に浮名を流していたことを覚えていた。
しかし、である。その隆春がこんなところまで出向き、土下座までして深青に好きだと告げているのだ。大学時代でもあるまいし、いたずらにしては手が込み過ぎてはいないだろうか。だからといって、本気と取るのもまた怖い。ずっと好きだったと言われても、はいそうですかとは信じられない。
隆春に恐怖なんて感じたことはないのに、このあと何を言われるのかが怖くてたまらなかった。逃げ出したい。でもここは深青の事務所で、隆春を残したまま逃げるところなどない。
その反面、深青は土下座までして深青の愛を乞う隆春が、強くは出られないのだと確信もしていた。深青が傷ついた以上に、隆春は深青を傷つけていたことを後悔している。故に、深青に嫌われていることを承知の上で、こんな時間にここまでやってきて、許されないであろう謝罪をしている。
「――いいよ、もう」
ふと、口をついてそんな言葉が出てしまった。下げた頭を踏みつけるほど、深青は高いプライドも持っていなければ、嗜虐趣味もない。今はとにかく、毎日がひたすらに忙しく、何かを深く考えるような余裕はない。とりあえず今日は、なんとか隆春に帰ってもらいたい一心だったのかも知れなかった。
「仁科……?」
「昔のことは、もういい。されたこと全部覚えてるわけでもないし、今更って感じもある。ただ、付き合う云々の返答は、今は出来ない」
なんとか隆春に帰ってもらうよう、そう告げるだけが、今の深青に出来る精一杯だった。
連絡先を交換するために名刺を渡すと、隆春は何故か「やっぱり……」と感慨深げにしていた。隆春の名刺は社用のものらしく、表の空きスペースにプライベート用の番号を書いて渡される。さすが商社らしく、裏には英語で名前や所属が書いてあった。
遅くまですまなかった、家まで送るという隆春を、自転車だからと固辞し、なんとか先に返した。事務所の戸締まりをして、駅近くの駐輪場まで歩いていく。静まりかえった夜の街に、さきほどの隆春の訪問は嘘だったかのように思える。
名刺入れを確認すれば、一番上に水澤隆春、の名前があって、深青はなんとも複雑な思いに囚われた。
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