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第一話『 その関係 』

 夏というにはまだ早い。  だた、春と言うには少し遅い。  そんなとある日もまた、五から渡されるバトンは、六の手元へと日に日に近付いていた。 「お疲れ」 「お疲れ様でした!」  放課後の練習メニューを終え、更衣室で着替えを終えたらしい上級生たちの挨拶に、後輩たちもそれぞれの挨拶を返す。  そんな上級生たちが更衣室から出て行った後、その場はその年に入学した一年生と、少し先輩らしくなってきた二年生らのみとなった。 「ほんじゃ、俺らもお先」 「お疲れ~」 ㅤそして今度は、その中で先に着替えを終えた二年生の中の二人が、揃って皆に挨拶をした。  残っていた面々はその二人にそれぞれの挨拶を返す。中には元気に手を振る彼らの同級生も居た。  そんな仲間たちに見送られた二人は、そのまま共にお互いの寮室へと向かった。  彼らはこの男子校の寮生に属する生徒であった。そんな二人の寮室は、別々ではあったが隣り合わせの部屋だ。  雑談を交わしながら歩いていた彼らは、それから少ししてそんなお互いの寮室の前へと辿り着いた。そこで二人は改めて挨拶を交わす。 「んじゃ、また明日~」 「おう、また明日」  緩く手を振りながら先に自分の寮室に入ってゆく親友を見送りながら、彼もまた挨拶を返す。  そして彼は、その赤く染められた髪がまだしっとりと濡れているのを感じながら、自身の寮室のドアを開けた。 ― 虹色月見草-円環依存型ARC-ツキクサイロ篇-Ⅰ❖第一話『その関係』 ―  彼の部屋は、つい心惹かれるようなこってりとした香りで満ちていた。  ふんわりと甘みも帯びたその香りは、ふつふつとしていた彼の食欲を酷くそそる。  寮室の扉を開けた彼を真っ先に出迎えてくれたのは、そんな心踊るような香りだった。 「あ、もんちゃんおかえり~」  "もんちゃん"と呼ばれた彼が寮室の扉口で靴を脱いでいると、軽やかな声がかかる。  先ほどの香りたちに続いて彼を出迎えたのは、そんな声だった。その声の主は今、キッチンのある左手の部屋からひょっこりと顔を出して微笑んでいる。 「ただいま、美鶴(みつる)」  そんな出迎えが妙に嬉しくて、"もんちゃん"と呼ばれた彼はその言葉と笑顔を返した。  "もんちゃん"というのは彼のあだ名だ。もちろんのこと、その命名者はこの美鶴である。彼らが少し友達らしくなり始めた頃に、美鶴がそのあだ名を考案したのだ。  そんな"もんちゃん"と呼ばれる彼の本名は、夜桜(よざくら)瑞季(みずき)という。見事にあだ名とかすりもしない本名だ。変わった姓だが、残念ながらこの姓もあだ名の由来とはならなかった。  変わった姓と言えば、美鶴もそうだった。美鶴の本名は、天羽(あもう)美鶴(みつる)という。  彼らはそのように変わった姓同士というわけだが、美鶴においてはその命名センスも変わっているらしかった。  そして、そんな"もんちゃん"こと瑞季の応答に満足したらしい美鶴は、またキッチンスペースの方へと顔を引っ込めた。  美鶴は瑞季のルームメイトだ。二人は寮生としてこの私立高校、白狐(びゃっこ)学園に所属している。  白狐学園は都内でも知名度の高い男子校だ。この学園では、生徒たちが自由に通学方式を選べるようになっている。その為、白狐学園は"半寮生"の男子校とされているのだった。 「めっちゃイイ匂いすんな」 「ふっふっふ、そうでしょうそうでしょう~。今日はもんちゃんの好きなハヤシライスですからねぇ~」  瑞季の言葉を受け、美鶴は嬉しそうにそう言った。美鶴は趣味というだけあって、料理が得意だ。  そんな料理上手な美鶴が瑞季の大好物を作っているともなれば、瑞季の食欲がそそられないわけがなかった。 「なんか手伝う事あるか?」  その日の夕食の仕上げにかかっているのであろう美鶴に瑞季がそう言うと、美鶴は半身を返すように瑞季を見上げて言った。 「ううん、大丈夫。ありがと。てか、それよりもんちゃん、先にお風呂入ってきちゃいなよ。髪、濡れたままだと風邪ひいちゃうよ?」  美鶴はそう言って首を傾げるようにして微笑む。この首を傾げる仕草は美鶴の癖だ。料理もさながら、瑞季は美鶴のそんな仕草も気に入っていた。 「あぁわかった。そうする。ありがとな」 「いいえ~」  美鶴はそう言いながら、わざとらしく上半身を横に折るようにする。 (――なんだそれ。めっちゃ可愛いな……)  その美鶴の行動を見て、瑞季は直感的にそう思った。  そして瑞季は、そんな美鶴を見つめたまま黙した。  だがその現実の様子とは反し、瑞季の心の中は非常に騒がしかった。瑞季は心の中、脳内にいる大勢の人々と共に歓声をあげていたのだ。そんな人々の中にはその感激に押され涙する者もいる。そして、その感動からついにはスタンディングオベーションが成された頃、瑞季は美鶴の声により現実へと引き戻された。 「えっと~……もんちゃん? 大丈夫?」 「へえ!? あ、あぁ悪い、だ、大丈夫だなんでもない」 「えぇ~ほんとにぃ?」  美鶴はそう言いながら瑞季に一歩近付き、首を傾げながら彼を見上げる。  瑞季はそこで再び衝撃を受けた。美鶴にはその意図はなかっただろうが、彼よりも身長の高い瑞季からすれば、これは完全に美鶴からの上目遣いなのであった。  その状況に陥った瑞季は再び脳内で雄叫びをあげる。それは動揺と歓喜が入り混じったような雄叫びであった。  そうしてその晩もまた、瑞季の心内がいつも通りの騒がしさをみせ始めた頃、美鶴に見つめられている事を思い出し再び我に返った瑞季は、その胸の内を気取られぬよう必死に平静を装い言葉を返す。 「ほ、ほんとだって……」 「そう? ならいいけど……」  美鶴はそう言うとすっと身を引き、一歩下がる。  そこで瑞季は、美鶴に悟られないように安堵の溜め息を零した。  瑞季は美鶴とルームメイトになったとある時期から、こうして男心を激しく攻撃をされながら毎日を過ごしてきた。そんな美鶴の"素"から放たれる攻撃はいつも重いのだ。  そうして、その晩もそんな攻撃に耐え抜いた瑞季は思った。  もしかすると、美鶴の前世はアイドルか何かだったのかもしれない。それともこれが天性のアイドルというものなのだろうか。  瑞季は、調理に戻ったらしい美鶴の横顔をちらりと見ながらそんな事を考えた。  するとそんな視線に気付いてか、ふいに美鶴が瑞季を見た。そして、そんな美鶴の動作を察知し損ねた瑞季は、再び美鶴と目が合ってしまった。  それからそのまま、少しの沈黙が流れた。  瑞季はそんな中、美鶴と目が合った事で反射的に動きそうになる体を制し、やっとの思いで目を反らして言った。 「あ~……じゃ、じゃあ俺、風呂行ってくるわ」 「…………」  瑞季がそう言うも、美鶴は(いぶか)しむように目を細め、黙って瑞季を見続けた。  だがそれから少ししてひとつ溜め息を吐いた。  「はぁ、まぁいっか。疲れてるならあんまり無理しないようにね? お風呂もゆっくり入ってきていいからさ」 「お、おう、さんきゅ」  そうしてなんとかその場を切り抜けた瑞季は、隠しきれない心音を抱えながら浴室へと向かった。  そして浴室に通ずる脱衣所に入り、ドアを閉めた。瑞季はそこで溜め息を吐く。  その溜め息は安堵からなのか、はたまた感嘆の余韻からなのかは分からなかったが、きっと両方からなのだろう。  瑞季はそれに今一度呆れの溜息を吐き、制服を脱いでは近場のカゴの中へと収めていった。そして浴室に入るなりシャワーのレバーを引き、少し頭を冷やそうと頭からシャワーを浴びて深呼吸をする。 「…………」  頭上から降り注ぎ、髪や体を伝っては落ちてゆく雫を視界に入れながら、瑞季は自分の足元を見る。そうして、浴室の床で弾けるそれらをなんとなく眺めながら、瑞季は先ほどした美鶴とのやりとりを思い出す。  部活を終えて部屋に帰って来ればお手製の夕食が用意されていて、部屋には美味しそうな香りが漂っている。  そして、そんな香りと共に笑顔の美鶴が、おかえりと自分を出迎えてくれる。  それに返事をした後は他愛のないやりとりをしたり、風呂を促されたりと、まるで家族や夫婦のようなやり取りをする。  そしてその後は、こうして一日の疲れを洗い落としてから美鶴の手料理を楽しんだりする。  美鶴とルームメイトになってから、瑞季は毎日のようにこのような日々を過ごしている。  それは、瑞季にとってただひたすらに幸せな日々であった。  だが、その年に高校二年生となった彼らの関係は、出会った当初から変わっていない。  例え家族や夫婦のようなやり取りをしていても。  例え二人のうちどちらかが恋心を抱いていたとしても。  彼らの関係は友人という形のまま、今に至っている。  だがその関係は、これまでの日々で両者が恋心を抱けていれば、また違う形のものになっていたかもしれない。  もし"お互いに"恋することが出来ていれば、二人の関係は友人というものではなくなっていたかもしれない。  だが、そうはならなかった。  この二人のうち、恋することが出来たのは瑞季だけだった。  美鶴は、この一年間を経てもまだ、恋をすることが出来なかった――のだろう。  瑞季に美鶴の真意は分からないが、恐らくそうなのだと瑞季は思う。 「もんちゃ~ん、あがったぁ? もうご飯よそっちゃってもいい~?」  その後、瑞季が浴室から脱衣所に出ると、浴室のドアの音を聞き取ったらしい美鶴が脱衣所の向こうから声をかけてきた。 「あっわりぃ! 大丈夫! ありがとなっ」 「は~い」  美鶴にそう返事をした瑞季は、美鶴によって丁寧に畳まれたタオルを手に取る。それから身体を拭き、部屋着を身に着け、近場にあるタオルハンガーにタオルをかけたところで、瑞季はふと、その反対側にある洗面台を見やった。 「…………」  瑞季が美鶴に恋をしてから、もう少しで一年と一カ月ほどになる。  そして、瑞季が初めて美鶴の涙を見てからは、一年ほどになるだろう。  約一年前のこと――瑞季はこの場所で、初めて美鶴の涙を見た。  その涙は紛れもなく、瑞季の行いにより流されたものだった。  瑞季は今でもあの時の事を後悔している。  だがあの時の瑞季は、まさかそんな事になるなどと思わなかったのだ。  だから瑞季は、自分の下らない思い付きのままに行動してしまったのだ。  その行いが、美鶴の心を酷く痛め付ける事になるとも知らずに――。  

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