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第九話『 愛に逢いて 』 上

――俺、殺されるかもしれない……  瑞季(みずき)はその日、美鶴(みつる)がモデルの仕事へ出かけるのを見送った後、いつものように情報の海へと大航海に出ていた。  以前、美鶴の幼馴染であるという八雲(やくも)真智(まち)との初対面を交わして以降、その大航海はすっかり瑞季の習慣となっていた。もちろんその習慣は、“一人でいる時の”――である。  そしてそんな瑞季は航海の中、ずっと気になっていたあの赤いシルシについての情報をいくつか知り得たのであった。  まず一つ目に、赤いシルシ――いわゆるキスマークというものには、それをつける位置によって意味があったりする――という雑学。これが一つ目に知り得た事だ。  そして二つ目は、――キスマークというのは、そのマークを付けた者から他人への牽制や虫除けの目的のもと、恋人などにつけられている場合もある――というもの。  更には、――こいつは自分のものだ、という意味を込めてつけられている場合もある――との事だった。  とはいえ、これらは情報の海から拾い上げた情報だ。果たしてこれらの情報にどれほどの信憑性(しんぴょうせい)があるのかはわからない。  わからないが、美鶴につけられていたあのキスマークにはそういった"虫除け"の意味が込められていた、という可能性はあるわけだ。 (どっちだ……アレはどっちがつけたんだ……)  そうしてそんな考えに至った瑞季は、更によからぬ想像をして己の肝を冷やしたのだった。  瑞季は真智と初対面を交わしたあの日、外出先から戻った美鶴の首筋に赤いシルシを見た。それは紛れもなくキスマークだった。  そして、それをどちらがつけたのかはわからないが、真智か、美鶴のもう一人の幼馴染が付けたもの、という事だけは確実なようだった。 (八雲さんなら……八雲さんならきっと謝れば、土下座すれば許してくれる……でも……)  美鶴のもう一人の幼馴染の名は(いちじく)洋介(ようすけ)と言った。そんな洋介という人物について美鶴は、 ――洋ちゃんて、小学生の時はそんなじゃなかったのに、海外から帰ってきたらめっちゃ身長伸びてて、身体も大きくなってて――凄いんだよ! こないだ鉄パイプで殴られてたのにびくともしないで、その相手のこと蹴り飛ばしちゃったの!  と目を輝かせながら語ってくれた。 (鉄パイプってなんだよ……)  瑞季は、真智については美人で優しい微笑みが印象的な穏やかな人物として記憶している。 (八雲さんなら……ギリギリセーフなはず……)  だが、洋介については恐ろしい以外の何ものでもないという印象が強く、まだ会った事がないにも関わらず、瑞季の中では彼は既に恐怖の対象となっていた。  つまり、そんな洋介があのキスマークをつけ、美鶴に寄ってくる男たちに敵意を示しているのだとすればそれはつまり、美鶴に好意を寄せている瑞季にも敵意を示しているという事になる。  そして、そこまでの結論に至った瑞季は、 (俺、殺されるかもしれない……)  と、怯えずにはいられなかったのであった。      ― 虹色月見草-円環依存型ARC-ツキクサイロ篇-Ⅰ❖第九話『愛に逢いて』 ―     (190cmか……)  瑞季(みずき)は心の中でそう呟きながら、学校近くにあるコンビニで、ふと自分の目線より少し上にある商品を見上げた。  瑞季の身長は今年で185cmほどとなっており、同年代の男子の平均身長からすればそこそこに背の高い方だった。それゆえに、瑞季も自分より大柄な人物に会うという事はそう多々ある事ではなかったのだ。  だが、その洋介(ようすけ)という人物は瑞季よりも背が高いらしい。  瑞季は商品棚の上の方を見上げながら、再び青ざめた。 (恐ろしすぎる……)  先ほど覚えた恐怖心を紛らわそうと、わざわざ暑苦しい中校外のコンビニへ出向いたというのに、これではいらない汗までかいてしまっている。 (アレつけたの、八雲(やくも)さんだといいな……)  瑞季はそんな事を願いながら目当ての商品を手に取り、レジに向かう。そして会計を済ませた後、コンビニの出口へと向かった。 (あん時もすっげぇ優しそうな感じだったし、八雲さんなら話し合いで解決してくれそうだよな……きっとマジで土下座でもすれば笑いながら穏便(おんびん)に済ませて――) 「おい、このクソあちぃ中で更に汗かかせんじゃねぇよ。校外の殴り合いは禁止されてるっつってんだろ。ちゃんと脳みそ入ってっか?」  瑞季がささやかな希望を抱きながらコンビニを出た直後、彼の目の前に一人の少年が勢いよく倒れ込んできた。そして、それと同時にドスのきいた不機嫌そうな声が、目の前の少年から発せられた。  どうやら先ほど倒れ込んできた少年は、このハスキーな声をもつあの人物に飛ばされたらしい。 「………………」 「クソっ」  コンビニ前で瑞季が唖然としていると、殴り飛ばされたらしい少年が呻きながら悪態をついた。  そして、瑞季が言葉を失ったまま立ち尽くしていると、悪態をついた少年と同じ制服を着た二人の少年たちが、次々に眼前の人物に殴られ、更には蹴り飛ばされ地に沈んでゆく。  瑞季はまるで漫画かドラマかのような光景を目の当たりにしながら、思考停止状態に陥っていた。  三人の男子高生に囲まれながらも瞳孔を光らせ、まるで人数差などものともしない様子で彼らをなぎ倒したその人物は、なんと瑞季がささやかな希望を抱いていた、あの八雲(やくも)真智(まち)だった。 「んっとだりぃなクソが……」  文字通り、己の力で彼らを打ちのめしながら、真智は更に低く掠れた声でそう言った。 (こんなの嘘だ……)  そしてその時の瑞季は、ただその様子を眺めながら、脳内で現実逃避をするのだけで精一杯だった。 「次は必ず泣きっ面拝んでやるからな! 覚えてやがれクソ八雲!」 「うい~ひねりのない捨て台詞あざーす」  瑞季の眼前で暴力沙汰が起こってから数分後、真智にのされた三人組はお互いを支え合いながらその場を去って行った。真智はそんな彼らに気だるげに手を振りながらそう言った。  そうして、瑞季もどこかで聞いた事があるような捨て台詞を吐いていった彼らは、真智とは違う制服を着ていた。恐らく、真智や瑞季とはまた違う高校の生徒なのだろう。 「……あ」 「……えっ」  瑞季がそんな彼らを見送っていると、ふと振り返った真智と目が合った。 「えーと、なんだっけ……“もんちゃん”じゃなくて……夜桜(よざくら)さん」 「あ、はい、すいません……」  瑞季はその時、ただただ動揺していた。  あのキスマークは、洋介がつけたものでなければ殺されないと思っていた。だが、どうやら真智がつけた場合であっても殺される可能性が出てきた。つまり、瑞季の希望は全て消えたという事だ。  それ故に、反射的に謝罪が出てしまったのだが、真智はそれに対し訝しむような表情を浮かべた。 (駄目だ、これは殺される)  瑞季はそんな彼の表情を見て、“睨まれている”と勘違いした。 「……なんで謝るんすか」  ポケットにしまっていたらしい煙草を取り出し、手慣れた手つきで火を点けた真智に更に気圧され、瑞季は自分が情けなくなり始めていた。 「そ、それは……」  真智は静かに瑞季から距離をとり、顔をそむけるようにして煙を吐く。 「“それは”……?」  そして少し離れた位置でしゃがみこみ、真智は再び瑞季の言葉を待った。風向きのおかげだろうか、瑞季の方へ煙草の煙がやってくることは無かった。  だが、その事に瑞季は少しだけ安堵した。この状況で嗅覚まで嗅ぎなれない煙草の香りを感知してしまえば、完全に気圧されてしまうところだったからだ。瑞季はそこでなんとか必死に考えた。  ここでうまくごまかせれば、美鶴(みつる)に好意を持っている事を悟られずにこの状況を回避できるかもしれない。そうすれば、問題なく寮へと帰れるだろう。  だがここで失敗すれば、先ほどの彼らと同じように、地面に沈められてしまう。 ――いや、最悪の場合、海かもしれない (考えろ……うまくごまかして帰るんだ……) 「えっと……」 (――そうだ、吃驚して反射的に謝っちまった事にすればいい。そうすればイケる! よし……)  そこでそう閃いた瑞季は、意気揚々と言葉を紡ごうとした。 「その、ちょっとびっくりし――」 「ねぇ夜桜さん、これから時間あります?」  だがそんな瑞季の閃きは、真智のその一言で無に帰した。 「……え?」  暴れた後の一服を終えたらしい真智は、近場にあった灰皿に煙草を投じるなりすっと立ち上がり笑顔でそう言った。  その笑顔は今、瑞季に向けられている。だが、それはあの優しげな笑顔とは違い、どうにも有無を言わせぬ威圧感を放っていた。 「ん?」 「……あ、……ります……」 「良かった、じゃあこれからちょっと付き合ってもらっていいっすか」 「へ……?」  すっかり絶望感に打ちひしがれていた瑞季は、もはや間抜けな返事をする事しか出来なくなっていた。 「ど、どこに行くんでしょうか……」 「あぁ、ちょっと話したい事あるんで……俺ンちに」 「や、八雲さんち……」 「そ。外じゃ暑いっすから、んじゃ、行きましょ」 「……は、はい」  すっかり放心状態となってしまった瑞季は、ただそう返事をし、何も考えられぬままに真智の後に続いた。 (終わった……)  そして、心の中ぽつりとそう呟いた瑞季は、様々な悪夢を思い描きながら真智の家へと向かったのであった。 「あの、今炭酸とか切らしてて、紅茶とか珈琲くらいしか出せないんすけど、どっちがいいっすか?」 「え! あ、ええと、じゃあ紅茶で……」 「わかりました――じゃ、ちょっと座って待っててください」 「は、はい……」  真智(まち)の家にあがるなり、すぐに殴り倒され、次にバットか何かで撲殺されるのだろうというところまで想像が膨らんでいた瑞季(みずき)だったが、この静かな家にあがってからというもの、一向にそんな衝撃がやって来ることはなかった。  そして瑞季は、結局導かれるままにこの部屋へと案内され、今に至る。  今瑞季が待たされているこの部屋は、どうやら真智の自室らしい。玄関から入るなり目前には廊下があり、その先にはリビングがあった。そしてそのリビングから通ずる廊下に面し、この部屋がある。そのような経路を辿ってこの部屋までやってきた瑞季だったが、その間、真智の家族などに会う事はなかった。 (共働きなのかな……)  なんとなくそう思いながら、瑞季は何気なく室内を見まわした。 (なんか……すげぇ大人っぽい部屋だな……)  真智の自室であるらしいこの部屋は、モノトーンのインテリアで整えられており、置かれているものや収納されているものたちは全てきちんと整頓されていた。  更にその室内には、一時期瑞季の姉や妹がハマっていた、透き通ったビー玉のようなものが入った手作りであるらしい芳香剤が置かれていた。また、デスクの上にはいくつものシルバーアクセサリーが飾られていた。  瑞季はそうして室内を一見するなり、同年代の男子の自室とは思えないその様子に驚きを隠せずにいた。 「すんません、待たせて」 「あ、いえ!」  瑞季がすっかり部屋の雰囲気に呆気にとられていると、二つのグラスを片手で器用に持った真智が部屋に入ってきた。  瑞季はそれに姿勢を正すようにして応じる。 「紅茶、甘い方がいいっすか? あとはミルクとか……」 「いや、そのまんまで大丈夫です!」 「ん、じゃあどうぞ。今茶葉がそれしかなかったんで、苦手だったら言って下さい」 「……え?」 「え?」  瑞季はこの自室の様子だけでも十分驚かされたというのに、真智のその一言で更に驚いた。 「茶葉って……もしかして茶葉から淹れたんですか……?」 「え、あぁ、まぁ。嫌でした?」 「や、そうじゃなくて……マメっていうか……」 「あぁ」  瑞季の言葉を受けた真智はそう言って苦笑するように笑った。  瑞季はなんとなくその笑顔を見て緊張が解けるような感覚を覚えた。 「好きなんすよ、こういうの。紅茶もそうですけど、飯作ったりとか、もの作るのとか……」 「えっ……じゃあもしかして、あの芳香剤とかももしかして八雲(やくも)さんが?」 「っすね――つか、よくあれが芳香剤ってわかりましたね」 「あはは、ちょっと前に俺の姉と妹がハマってたんで、見たことあったんですよね」 「へぇ、そうだったんすね」  真智はなんとなく嬉しそうな表情で呟くようにそう言うと、十分に氷で冷やされた紅茶に口をつけた。  瑞季もまた、真智につられるように紅茶に口をつける。 「――で、夜桜(よざくら)さん」 「はい?」  部屋の中央に置かれていた背丈の低いテーブルにグラスを置き、真智が瑞季に向き直る。光沢のある真っ黒なテーブルに、冷えたグラスが反射して映る。それを何となく一瞥してから、瑞季もまた真智の方を見た。 「さっき、なんで俺に謝ったんすか?」  真智のその一言を受け、真智の双眸に射られながら瑞季は心臓を跳ねさせた。 「………………」  瑞季はそんな真智の問いに対し、上手く言葉を紡げずにいた。  心臓の音ばかりが騒がしくなる。 「当てましょうか」 「えっ……」 「美鶴(みつる)の事でしょ」 「……っ!」 「大当たり~」  正直すぎる瑞季の反応を受け、真智は目を細めて笑み、そう言った。 「そ、その、すいませんっ」 「え?」  瑞季はやっとの思いで再び謝罪した。そして不思議そうにしている真智の様子に構わず、勢いのままに言葉を続けた。 「でも俺、別に八雲さんから美鶴を横取りしようとか思ってるわけじゃなくて……なんていうか、確かに美鶴の事はいいなって思いますけど……二人が付き合ってるならなるべく距離とるようにするんで……」 「え、あー……」 「だからどうか、……殺すのだけは勘弁してください……っ」 「………………」  そこまで勢いよくまくしたてた瑞季は、土下座とまではいかなかったが、その場で頭を下げた。  それからやや短い沈黙がその場にとどまり、それを追いやるように真智が言った。 「あの……なんかすっげぇ色んな勘違いしてんだなってのはわかったんで、面白いっすけどちょっと一回落ち着いてもらっていいっすか」 「え……勘違い?」 「ん、なんか夜桜さん、片っ端から全部勘違いしてると思いますよ」 「えぇっ……た、例えばどこを……」  瑞季がやっと落ち着きを取り戻してきたので、真智は苦笑して続けた。 「まず最初に、……俺は夜桜さんを殺しません――つか、なんもしません」 「………………」  真智がそう言うと、瑞季は心底ほっとしたような表情を見せた。  それに対し真智がひとつ笑いながらため息をついた。 「もしかして、ここに来るまでやたらビビってたのってそれが原因すか?」 「あ……はい……」 「はは、でかい図体してるくせに意外と可愛い性格してますね」 「………………」  おかしそうに笑いながらそう言われ、瑞季は情けなさにとどめを刺された気分になった。だが、――あんな暴力的な一面を見せられたら誰だって思う――と心の中で小さく反論した。  そんな事をしていると、真智はもう一つの誤解を解き始める。 「それと、俺は美鶴と付き合ってないっすよ。つか、なんでそんな考えに? 付き合ってるように見えました?」 「あ、いやその……最初はそう思ってなかったんですけど……やっぱアレ見ちゃった後に、俺が謝ったのは美鶴の事が理由だってのも見透かされたんで……そうなのかなと……」 「アレって?」 「………………その……キスマーク的な……」 「キスマーク? どこに」 「え、うなじあたりだったと思いますけど……」 「……それ、いつっすか?」 「えっと、俺が八雲さんと初めて会った日の夜です……」 「………………あー」  どうやら思い当たる事があったらしい真智は、半目気味に中空に視線をやり、考えるようにした後に言った。    

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