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第1章4話 出会い
九号館の通路は教室移動をする学生達であふれていた。そんな中で城野はひとりの青年に目を止めた。
こんな大勢の中にいても吸い寄せられるようにその姿に目を奪われてしまう自分に苦笑する。
彼は似ているのだ。
「げっ」のひとことで城野の心を奪った少年に。
初めて刑法特講の講義で彼を見た時城野は
「ゆづ…る?」
声をかけそうになった。
一度も色など入れたことも抜いたこともないような素直な黒髪。
くっきりとした二重瞼。
意思の強そうな、それでいて微笑んでいるみたいな口元。
大人になったらまた会おうと笑った五歳のゆづが二十歳になってそこにいた。
けれど
「筒井くん、筒井俊介くん」
出席確認の講師の呼びかけに
右手を低く上げて
「はい」
と彼は答えたのだった。
それでも城野は、ついつい彼を目で追ってしまうことをやめられなかった。
今日のような偶然に心が揺れるのも。彼の隣で笑う学生に苦い感情を持つことも。
それから
月曜日の三限を城野は心待ちするようになった。
たまにキャンパスで見かける彼は、いつも誰かしら友人と一緒なのだがこの講義の時はひとりだった。
二号館は歴史を感じさせる古い建物で、そこの一階の教室の窓際の席が、どうやら彼のお気に入りの場所らしく、左の掌に顎を預けた横顔がいつもそこにあった。
ーーいた
その日もやっぱり彼はそこにいた。
まだ講師の訪れる前の騒つく教室で、彼の周りだけが清廉な空気に満たされているように感じられて、城野は目を閉じて息を深く吸った。数秒後その息をゆっくりと吐くと、まるでそれで禊を終えたかのように、やっと彼から少し離れた斜め後ろの席に着席した。
そしていつまでも早く打つ己の心臓の音に耳を傾けた。
まだ若い講師の熱弁とも言える講義を聴きながら板書された文字をノートに書いていく。
黒板を見てノートを見る前に何度、彼を盗み見ただろうか。
自分でも呆れてしまう。
ーー彼はゆづじゃないんだぞ
初恋は今でも彼を甘く束縛し続け
毎夜城野が眠りにつく前に思いを馳せるのは
「由貴 ちゃん」と自分を呼んだ少年だった。
城野が何度目かに視線をやった時
彼の頭は微かに前後に揺れいていた。
ーー寝てる?
それを確認したくて城野は自分の席から身を乗り出したり身体を傾けてみたりしたが彼の閉じた瞳を見ることは叶わなかった。
「くそっ」
自分以外の誰かが彼の寝顔を見るかもしれない。たったそれだけのことが許せなかった。焦燥と腹立しさで城野は、今すぐにでも彼を揺さぶり起こしたくなった。しかし、それと同時に誰からも邪魔されることのないよう彼の眠る空間を守ってやりたいとも思うのであった。
その相反する想いは、ゆづると初めて会った時の感情と同じもので、そのことが城野を頼りなく不安でけれど大切なものをやっと見つけたような、やるせなく切ない気持ちにさせたのだった。
やがて講義は終わり、当然声などかけられる訳もなく彼の真っ直ぐな背中を見送った城野は、さっきまで彼が座っていた席まで行くと、そこに腰掛けて彼が見ていただろう景色を眺めた。
「何やってんだろオレ。バカじゃん」
それでもそんな自分を城野は嫌いじゃないと思った。
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