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第1章9話 雨、その後で
雨が降っている。
あの日からずっと止まない雨が。
シートにもたれながら水槽の中ような世界を黙って見ている。
「よく降りますね」
さっきからバックミラー越しにそんな城野の様子をチラチラと窺っていた運転手が言った。
「……」
「そろそろ梅雨入りですかね」
「……さあ……」
運転席に視線を向けることさえしないで、投げやりに城野は答えた。
それはもう話しかけてくるなという意思表示だった。
それを察した運転手はそれ以上もう何も言わなかった。二、三日前から続いた微熱は城野から体力と思考能力をゆっくりと奪っていった。
苦しい呼吸で頑なに外を見つめ続けていた彼の瞳が一瞬見開いたのは、見慣れた背中を水槽の中に見た気がしたからだった。
それが求める姿かどうか確認する前にタクシーはあっという間に背中を追い越して行ってしまった。
*
医者に来たせいで余計に具合が悪くなった。
数分で終わった診察の後、薬を受け取るのにもう随分待たされて、城野は風邪くらいで病院に来た自分を呪った。待合室のソファに腰掛けて目を閉じる。そして、ここに来る途中のタクシーの窓から見た背中に想いを馳せた……その時。
「坂下さんー」
アナウンスされた苗字に城野は伏せていた顔を上げた。はらりと髪が揺れて隠されていた美貌が現れると周囲の視線が集まる。
その羨望と好奇心、時に憎悪にも満ちた視線は何処にいても城野に付きまとった。
ーー坂下
それは特別に珍しい苗字という訳ではなくて。
だけど城野にとっては、とても大切で、特別な苗字だった。
「坂下さん。坂下ゆづるさんー」
ーーその瞬間……
城野の心臓は止まって、再び狂ったように早く動き出した。
『坂下ゆづる』
周囲を見渡してもそれらしき人物は見当たらない。
同姓同名でそれは城野の求めるその人ではないのかもしれない。
それでも城野は席を立ってアナウンスが流れてきた受付の方に歩き出す。
『坂下ゆづる』
という名前の持ち主に会うために。
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