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第2章19話 揺れて
何もなかったみたいに。
坂下は何も聞かない。それは恋を失いたくないからで、だけどそのことは、いつも心のどこかにあって、影を落とす。例えば、会って食事をして「美味かったな」とひと息ついた時。例えば、甘い香りの髪に指を絡ませて「好きだよ」と囁いた後。例えば、ふたり見つめ合って、唇の距離が近くなっていく、その一秒、一秒毎に。不意に胸が苦しくなる。それはもう息も出来ないくらいに……苦しくなる。
「ゆづ」
そんな坂下に気が付かない訳もなく、だから城野もまた不安に揺れる。もしも、立場が逆だったのなら、自分はもっと問い詰めただろうと。それが想いの深さの違いのようで、もしもたった一言だけでも
「彼女は誰?」
と聞いてくれたら、どんな言い訳だってしてみせるのに。それさえもさせてくれないことが、坂下が自分に突きつけた罰のなのかもしれないと。
もし、そうなのだとしたら、自分からあの日のことを持ち出すわけにはいかないと城野は思う。実際は『ゆづ』と再会した日から、深月との間には友情以外には何もなかったし、もちろん他のどんな相手とも寝てはいなかった。
ただ、深月の双子の兄に会う約束はどうしても守ってやりたかった。
「来週の週末に会いに来るみたい」
電話の声は遠慮がちで全然深月らしくないと、城野は思った。
だから
「お兄様か?緊張するな。どこで会う?」
ふざけてそんな風に言ってみせるのに
「城野、本当に、お願いしてもいいの?」
深月の声は晴れない。
「何だよ。今更。良いに決まってる。それともよくよく考えてみたら、オレみたいなロクデナシじゃ役不足か?」
笑う深月の声が聞きたかった。
なのに
「城野は、ロクデナシなんかじゃないよ」
「……」
「城野は……城野は、優しいよ」
深月はポツンとそう言った。
優しいなんて言葉を自分にくれるのは、世界中を探してもきっと、ふたりだけだろう。ひとりはもちろん今話している深月で、もうひとりは……。
その名前と面影を思い浮かべるだけで、会いたくなる人。
会いたくて。
会いたくて、たまらなくなる人。
ーーゆづ
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