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第3章 まぼろし 7
「だからもう、ゆづも、オレを傷つけただとか。そんなこと、気に病まないでいいよ。ゆづはオレのことなんて忘れていいんだ」
坂下に背を向けて、男はそう言った。
丸めた背中が切なくて、坂下は何も言えない。
だけど
ーー忘れたくない
この切なさも苦しみも愛しさも。
二人で重ねた一秒、一秒を。
ーー忘れたくない
振り返った男は、坂下を見て笑い出す。
「ねぇ、オレ、そんなに良かった?」
坂下は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「オレ、上手かったでしょ?」
首を傾げる男は投げやりに、けれど壮絶な色気を放つ。
「ゆづが忘れられないのは、オレとのセックスなんじゃないの?最後にもう一度、抱いてあげようか?なんて、冗談だよ。だからもう、行って」
「本気でそんなこと言ってるのか?」
真っ直ぐに見つめる瞳は強く光っていて、それが男にはまぶしかった。
「嘘だよ」
「俺は今でもお前が好きだ。だから最後なんて嫌だし、一度だけなんて、もっと嫌だ」
「ゆづ」
「そんなんじゃ、足りない。足りる訳ないっ!」
引き止めることが、もしも出来るのなら、どんなことでもしただろう。
けれど、現実は坂下にいつも優しくはしてくれない。
「ゆづ……俺には、深月がいる。深月を裏切れない」
ーー深月
アーモンド型の瞳と心地よく響くアルトの声。
佑月の双子の妹。
城野の寝室で鉢合わせたその日から、ずっと坂下の意識の奥に彼女はいた。
それはいつかこんな日が来ると知っていたからなのか。
だけど、嫌いになれなかった。
その理由も今なら分かる。
息を吐いて両手を開く。ぎゅっと握り締めて、それでもすり抜けていってしまうものたち。
目の奥が熱かった。
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