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八話
発情期特有の怠さと熱っぽさが完全に消えていない麒麟が、熊谷のロフトでまだタオルケットに包まっている中。
先にロフトを下りた熊谷は、シャワーを浴びに行った後、キッチンで朝食の支度を始めた。
「麒麟、何か食えそうか?」
フライパンでベーコンをカリカリに焼きながら、熊谷がロフトの方を見上げる。
麒麟、と昨日の行為の最中も何度も呼ばれたのに、改めて理性の戻った状態で呼ばれると、どうしてもドキリとしてしまう。
「……食欲は、あんまりないかも。喉は乾いてるけど……」
「そうか。なら、何かサッパリした飲みモンの方がいいな」
焼き終えたベーコンを皿に移して、熊谷は顎に手をやった後、冷蔵庫の中を漁り始めた。
麒麟もまだ身体は少し怠いとはいえ、以前の発情期に比べればその辛さは雲泥の差だった。熊谷の方はどうなんだろう、といつものようにキッチンで動き回る熊谷を眺める。
昨日、獣じみた荒々しさで麒麟を組み敷いていた熊谷と、とても同一人物とは思えない。同時にそんな昨日の熊谷の姿をハッキリと思い出してしまって、また身体が疼きそうになる。
何だか自分だけが酷く卑しい人間に思えて麒麟がケットの中で丸くなっていると、冷蔵庫から数種類の果物や野菜を取り出した熊谷が、ロフトに伸びる梯子の下までやって来た。
「動けそうなら、お前も軽くシャワー浴びてくるか? 身体、流してぇだろ」
何なら風呂場まで連れてってやるぞ、と揶揄うように言われて、麒麟は慌てて身体を起こした。
「ひ、一人で行ける……!」
裸の身体にタオルケットを巻き付けるようにして、慎重に梯子を下りる麒麟を見ながら、熊谷が呆れたように苦笑する。
「なに今更恥ずかしがってんだ」
「熊谷さんは、なんでそんな平然としてんの……!?」
「お前が言ってくれたんだろうが。俺を一人にしたくないって。それで色々、吹っ切れたからだろうな」
言いながら、麒麟の耳朶を躊躇いなく甘噛みする熊谷に思わず甘い声が漏れそうになって、麒麟はカッと熱くなる顔を伏せると足早に脱衣所へ逃げ込んだ。
「具合悪くなったり、何かあったらすぐ呼べよ!」
背中に飛んできた熊谷の声に無言で頷き返してから、麒麟は脱衣所にタオルケットを投げ出して、そのまま浴室に飛び込んだ。
熊谷に甘く歯を立てられた耳朶が火を灯されたみたいに熱い。熊谷と交わって一度は消えかかった炎も、煽られれば発情期間中の身体はいとも簡単に火照りだすのだと思い知る。
浴室の壁に背中を預けるように凭れかかると、タイルのひんやりとした感触が熱を帯びた身体には心地良かった。
そのまま、シャワーに手を伸ばそうと少し体勢を変えた瞬間。ツ…、と後孔からトロリと何かが伝い落ちてくる感触にギクリと麒麟は身を強張らせる。
後から後から溢れ出ては麒麟の内腿を伝って零れるそれが、熊谷が麒麟の体内に残した精なのだとわかって、思わずシャワーを持つ手が震えた。
どうにかコックを捻ってシャワーを頭から被ったものの、溢れる精はなかなか止まってくれなかった。何せ途中で記憶も無くなっているだけに、一体どれだけ熊谷が麒麟の中に欲を放ったのかもわからない。
洗わないと、と頭では思っているのに、それに反して麒麟の身体は昨日の熊谷を求めるようにドクドクと疼き始める。シャワーの湯が肌を叩く感触さえも、麒麟の肌を這う熊谷の手を思い起こさせて、麒麟はシャワーを握ったまま浴室の床にしゃがみ込んだ。
(……どうしよう……)
心は躊躇っているのに、右手が勝手に後孔へと伸びる。
「あっ……!」
震える指先が入り口に触れただけで、思わず声が漏れた。浴室内に響いた自身の声に、慌てて唇を噛み締める。
シャワーで洗い流しているそばから、いつの間にかすっかり芯を持っていた性器の先端から欲望が染み出してくる。
普段通り朝食の支度をしている熊谷が、こんな風に浴室で欲情している麒麟の姿を見たら、どう思うだろう。昨日あれだけ求めたのに、どれだけ卑しいんだと呆れられるかもしれない。
熊谷が番ってくれたお陰で、麒麟はもう熊谷に対してしかフェロモンは発しないけれど、熊谷も麒麟以外のΩのフェロモンに反応することはない。
だが、番の関係というのは一度結んでしまえば相手が死ぬまで解消されることはない。熊谷が例え麒麟に嫌気が差そうが、解消することは出来ないのだ。
「……嫌だ……っ」
熊谷に知られる前に、どうにかしなければと心は焦る一方だったが、身体が言う事をきいてくれない。後孔の縁を辿るように触れた指を強請って、濡れた入り口がヒクついているのがわかる。
嫌だ、駄目だ、と自分に言い聞かせる麒麟の心の声を嘲笑うように、麒麟の指は、完全に意思を離れてツプ…と静かに後孔に沈んだ。
「んん……っ」
太さも長さも全く違ったけれど、それだけで昨日散々麒麟の中を掻き回した熊谷の熱量を思い出し、大きく背が震える。
一度箍が外れてしまうともう止めるのは不可能で、麒麟は壁に縋りつくようにしながらゆっくりと指を沈めていく。開いたままの唇から熱い呼気が漏れて、麒麟の指が中ほどまで体内に沈んだとき。
「だから、何かあったらすぐ呼べって言っただろうが」
ガチャリと浴室のドアが開けられたと同時に、まるで麒麟の状態を予想していたかのような熊谷の声が降ってきた。
「くっ、熊谷さん……っ!?」
咄嗟に指を引き抜いて、麒麟は昂ぶった下肢を隠すように浴室の隅で膝を抱えた。
「違うんだ……っ、ゴメン……! ごめんなさい……ッ!」
熊谷に知られた。見られた……!
後ろめたさから膝頭に顔を埋めるようにしてひたすら謝罪を繰り返す麒麟の手からシャワーヘッドを奪い取った熊谷が、湯が出たままのそれをフックに引っ掛けた。
「麒麟」
濡れるのも構わず、熊谷が浴室のドアを閉めると、麒麟の前にしゃがみ込んで静かに名を呼ぶ。
「……ホントに、ゴメン……」
くぐもった声で尚も謝る麒麟の両腕を、不意に熊谷が掴んだ。えっ、と思う間もなく、強い力で上体を起こされた麒麟はそのまま背後の壁に張りつけられる格好になった。
「熊谷さ……」
「あのな、麒麟。俺とヤったことで前の発情期よりは楽に感じるかも知れねぇが、お前はまだ発情期を抜けたわけじゃねぇんだ。だから、身体の方が勝手に反応するのも当たり前のことで、お前が悪いわけじゃねぇんだよ」
「でも……っ、熊谷さんは、もういつも通りにしてるのに……」
泣きそうに顔を歪めて訴える麒麟に、熊谷が溜息混じりに苦い笑みを零す。
「俺がいつも通りにしてなきゃ、お前が辛いだろ。発情期っつっても、昨日アレだけヤってんだぞ。けどお前がこうやって欲情したら、結局簡単に俺もアテられる」
そう言った熊谷に無理矢理両脚を開かされ、腰を掴まれる。服のまま床に膝をついた熊谷が、衣服越しに熱を持った下肢を麒麟の剥き出しの後孔へ押し付けてきて、麒麟はビク、と背を慄かせた。
求めているのが自分だけではなかったことに安堵すると同時に、こうして熊谷の熱を感じると麒麟の身体は一気に熊谷を欲し始める。
「熊谷さん……服、濡れる……っ」
言いながらも熊谷の首に腕を絡めてキスを強請る麒麟に応えながら、熊谷がジーンズの前を寛げる。
「どうせシーツも洗濯するから丁度いい」
熊谷が下着の中から取り出した自身の先端を、焦らすように麒麟の後孔に宛がって意地悪く笑った。
「……ここに指入れて、何考えてた?」
「っ……な、なにって……」
早く貫いて欲しくて、蜜を零してヒクつくそこに、熊谷はなかなか挿入してくれない。もどかしさに身を捩る麒麟をキスで宥めて、熊谷の唇がそのまま麒麟の耳許へ移動する。
「昨日、お前のココに入ってたのは?」
吐息と共に、低い声で問い掛けられて、麒麟の全身が期待にゾクゾクと震える。
「も……やだ……っ、熊谷さん……ッ!」
早く、とうわ言のように懇願する麒麟に僅かに目を細めた熊谷が、麒麟の中を待ち侘びた熱で満たしてくれた。
「あぁっ! ────…ッ!!」
逞しい先端で最奥をズン、と突かれて、麒麟の腹にパタパタと白濁が散った。
「……ッ、まだ、奥に昨日の残ってんな。音、わかるか?」
麒麟の締め付けに片目を眇めた熊谷が、わざと体内に残った精を掻き混ぜるように腰を揺する。シャワーの水音に混ざってぬかるんだ音が麒麟の中から響いて、麒麟は羞恥に顔を背けた。
恥ずかしいのに、それ以上に、麒麟に向けられる熊谷の劣情が堪らなく嬉しかった。
「んっ、ぁ……熊谷さ……っ、もっと、奥……ッ」
突いて、と蕩けた瞳で強請る麒麟に、熊谷が何かを堪えるようにぐっと息を詰める。
「ッ……お前のそのギャップ、堪らねぇな……壊しそうだ」
壊しそうだと言いながら、行為の激しさに反して触れてくれる熊谷の大きな手や、あちこちに口付けてくれる熊谷の唇はとても優しくて、勝手に涙が溢れた。こんな風に身も心も満たされる幸せを味わえるΩは、一体どのくらい居るのだろう。
熊谷が絶頂を迎えて麒麟の裸の腹に精を放つまで、麒麟は熊谷の広い背に縋りついたまま何度も「好き」と繰り返した。
「……もう嫌だ……」
ソファは昨日麒麟が汚してしまった為、熊谷が工房から持ってきてくれた木製の椅子の上で膝を抱えた麒麟は、啼きすぎて掠れた声で呟いた。
そんな麒麟の髪をドライヤーで乾かしてくれながら、自分はまだ濡れた髪にタオルを被った熊谷が、可笑しそうに笑う。
「お前、マジでそのギャップ可愛いな。さっきまであれだけ乱れてたヤツと同一人物とは思えねぇ」
「……お願いだから言わないで……」
結局浴室で何度も果てた麒麟は、最後はくたくたになりながら熊谷に体内に残っていた体液の後処理までしてもらい、全身綺麗に洗ってもらった。
昨日と違って、今回は最後まで記憶もちゃんと残っていたので、自分が熊谷をどんな風に求めたのか、ハッキリと覚えている。
麒麟はもう、申し訳ないやら情けないやら恥ずかしいやらで、ずっと椅子の上で小さく丸まっていたのだが、熊谷はそんな麒麟の様子すら楽しんでいるようだった。
「そんな凹むなよ。言っただろ、発情期の間は仕方ねぇって。俺としては、発情期の度にいつもと違うお前が見られるのかと思うと、素直に今後が楽しみだ」
まるで麒麟の不安を見越したように、熊谷はこの先のことをサラリと口にして、麒麟を安心させてくれる。
麒麟の髪を乾かし終えてドライヤーを片付けた熊谷が、冷蔵庫から緑色の液体の入ったグラスを持ってきてくれた。差し出されたそのグラスからは、甘酸っぱい果物の匂いがする。
「……コレなに?」
受け取ったグラスを見詰めて首を捻る麒麟に、熊谷は「スムージー」と自分の髪はタオルで適当にガシガシと拭きながら答えた。
「熊谷さんが作ったの?」
「食欲ねぇなら、せめてちょっとでも果物か野菜くらい摂れた方がいいだろうと思ってな。家にあったモン混ぜただけだが、一応味見はしたから安心しろ」
「……熊谷さん、カフェかレストランやっても良かったんじゃないの。スムージーとか、さすがに名前は知ってるけど飲んだことない。クラスの女子はよく飲んでたけど」
スムージーと言うと、何となく小洒落た女子が飲む身体に良い飲み物、というイメージがあった麒麟は、目の前の熊谷がそれをあっさり作ったと聞いて目を丸くする。
改めて、本当に何でも出来てしまう熊谷にただただ感心するばかりだ。……ただし裁縫は別だが。
「……いただきます」
一口含んでみると、甘酸っぱい爽やかな味が口の中に広がったが、中でもキウイの味を一際強く感じた。火照って疲れた体に、キウイの程よい酸味がスッと沁みていく気がする。
「なにコレ美味い……キウイ?」
「他にもちょっとずつ色々混ぜてるが、この前亮太が持ってきてくれたキウイが美味くてな。キウイなら栄養価も高ぇから、今のお前には丁度いいと思ったんだが、飲めそうならちょっとずつでも飲んどけ」
「これならいくらでも飲めそう。丁度喉渇いてたし、嬉しい」
「………」
喉の渇きを満たすように、あっという間にグラスの中身を飲み干す麒麟を、熊谷が黙ったままジッと眺めてくる。最後まで飲み終えてからその視線に気づいた麒麟が、「なに?」と首を傾げると、熊谷はタオルを引っ掻けた項を掻いて苦笑した。
「いや……これまでは自分がどんな味の料理作ってるとか、そんなこと気にかけたこともなかったが、お前はいつもコレが美味いとか、コレ好きだとか言ってくれるだろ。……一人じゃねぇって、有難いことだと思ってな」
熊谷の言葉に、麒麟は空になったグラスを傍のカウンターに置くと、思わず立ち上がって自分より遥かに体格の良い熊谷の身体を抱き締めるように腕を回した。
「……俺、これからも熊谷さんが作ってくれる美味い料理楽しみにしてる。でも、熊谷さんが忙しいときとか、たまにはまともに手伝いたいから、俺にも料理、教えて欲しい」
「そう言えば、前に俺が東京行ってる間にお前が炊いといてくれた米、粥になってたな。まずは米の炊き方からか」
「うっ……アレは、ホントにゴメン……」
水加減を間違えて、炊飯器で米を炊くことすら失敗した過去を突かれて凹む麒麟を、熊谷が声を上げて笑う。
「お前に料理も教えるのもそうだが、ソファも買い替えねぇとな。いっそベッドにしてもいいがそれだとリビングが狭ぇし、いい機会だから増築も考えるか」
「増築!?」
そんな簡単に言ってしまって良いことなんだろうかと驚いたが、熊谷の方は早くも二階増やすか、平屋で行くか…、と既に間取りを考えているのかブツブツと独り言ちている。
「……もしかして、この小屋も、熊谷さんが建てたの?」
ここまで来ると実はログハウスだって建てられるんじゃないだろうかと思った麒麟だが、さすがにそれには熊谷は首を振った。
「いや、ここは元々月村の親戚の土地だったんだよ。林業やってたらしくて、作業小屋も兼ねた住居があったんだが、もう随分前に亡くなっちまって、中は多少片付けられてたんだが、建物自体はオンボロでな。で、この町で住むとこ探してる俺に丁度いいからって、土地ごと譲って貰ったんだ。そのときに小屋は建て替えてるが、さすがに俺一人じゃ無理だから、町の連中が皆手伝ってくれたんだよ」
「え、でもそれって結局自分たちで建てたってことじゃん!?」
「まあ、俺も手伝ったことには違いねぇけどな」
「亮太が、田植えもこの町は住民総出でやるって言ってたけど、なんか凄いな、そういうの……」
都会なら、家を建てるのにご近所総出で……なんて考えられないし、有り得ない。けれどこの町ではそういうことが当たり前で、だからこそ、αだとかΩだとか、そんなことじゃなく、人と人の繋がりを重んじるんだろう。
「田植えの件、亮太から聞いたのか。そういや、そろそろ田植え時期だしな。慣れねぇ内は絶対次の日腰にくるから気ぃつけろ」
「そう言えば田植えのコツ、熊谷さんに聞いておくって亮太に言ったんだった。俺やったことないけど、上手く苗植えるコツは?」
「セックスと同じだ。身体で覚える、これっきゃねぇ」
「……農家の人に怒られるよ」
ジロリと睨んだ麒麟の折角乾いた髪をぐしゃりと乱して、熊谷は笑った。
「取り敢えず、最初は楽しんでりゃいい。多分、亮太なんかドヤ顔でレクチャーしてくれるぞ」
「今度亮太に言っといてやろう」
熊谷につられて笑った麒麟の米神を「この野郎」と軽く小突いてから、熊谷は一度大きく伸びをした。
「さて、と。取り敢えず、昨日放ったらかしだった工房の片付けでもしてくるか」
「あ、俺も手伝う」
そう言えば、昨日義父と揉み合っている最中、熊谷のガラス細工をいくつも壊してしまったことを思い出した。昨日はちゃんと確かめる余裕がなかったが、熊谷が想いを込めて作ったであろう作品が、一瞬で沢山砕け散ってしまったのは確かだ。
その責任の一端は自分にもあるのでついていこうとした麒麟を、熊谷が今度は指先で額を弾いて制止した。
「お前はまだ横になってろ。ロフトのシーツ、交換してあるから」
「でも……! ……俺昨日義父さんと揉めたとき、熊谷さんのガラス細工、いくつも壊しちゃったから……。ホントにゴメン」
項垂れる麒麟に、熊谷が苦笑交じりの溜息を零す。
「それは、完全にお前じゃなくてあの変態オヤジの所為だろ。一応昨日と今日でお前の身体は隅々まで見たつもりだが、怪我しなかったか?」
「し、してない……!」
麒麟の気持ちを切り替える目的なのか、敢えて揶揄う言葉を混ぜてくる熊谷に、麒麟は紅くなりながら首を振った。仮に怪我をしていたとしても、熊谷の心の方がきっと痛いだろうと麒麟は思ったのだが、熊谷は麒麟の返事を聞くと、少し険しい顔になった。
「昨日レコーダーに残ってた音声聞いて驚いたが、お前、見かけに寄らず喧嘩っ早いな。昨日、自分がどれだけ危ない目に遭ってたかわかってるか? あの時、俺が帰ってくるのがもうちょっと遅かったらと思うと、正直ゾッとした。ガラス細工なんかいくらでも作れるが、お前はたった一人しか居ねぇんだぞ」
「………」
麒麟を窘める熊谷の顔は、麒麟が抑制剤を飲み続けていたことを知ったときのものと似ていて、麒麟は言葉に詰まった。
見かけに寄らず優しい熊谷が怒るときは、いつも麒麟の身を案じてくれているときだ。思った以上に熊谷に大事に想われていたことを改めて思い知って、胸がギュッと締め付けられる。
「……心配と、迷惑かけて、ごめんなさい」
いつかの謝罪を再び口にした麒麟に、一瞬目を瞬かせた熊谷が、険しい顔を綻ばせた。
「今回は『迷惑』は要らねぇだろ。……俺を一人にしたくないって言うなら、お前はまず、もうちょっと自分を大事にしろ。心配し過ぎて俺が禿げる前にな」
「熊谷さんが禿げても、傍に居るよ」
「禿げたくねぇからそこは本気にすんな!」
笑い声と共にそう言い残して、熊谷は工房へと消えていく。その姿を見送って、麒麟は熊谷の言葉に甘え、再びロフトに上った。
横になると、微かに柔軟剤が香る清潔なシーツの香りがする。
自分を大事にしろ、と同じようなことを言って、時には叱ってくれる熊谷や亮太や月村が居てくれるなら、麒麟も少しずつ変わっていける気がした。
◆◆◆◆◆
「へーえ、結局番ったんだ? ふーん、そうかー、へー」
「……何が言いてぇんだよ、月村」
診察室に入って来た麒麟の項の傷跡に気が付くなり、月村は大袈裟に感心したような声を上げて熊谷をニヤリと見詰め、一方熊谷は居心地が悪そうに顔を顰めた。
二度目の発情期を無事乗り越えた麒麟は、前回からひと月半で発情期を迎えたこともあって、念の為に月村病院を熊谷と共に訪れていた。
「いや、別に? お姫様のキスで熊も起きるんだなーと思ってね」
「うるせぇ」
二人のやり取りについていけず、一人『?』マークが脳内を飛び交う麒麟に、「ああ、ごめんね」と月村が椅子を動かして向かい合った。
取り敢えず一般的な聴診や触診を一通り終えて、月村がカルテにその結果を記入する。
「聴診・触診の結果は特に問題なし。あと、さっき診察前に採血させて貰った結果だけど、それも特に異常はないね。何か、体調に違和感があったりはする?」
月村に問われて、麒麟は「いえ」と首を振った。
「だとすると、考えられるのはやっぱり以前飲んでた薬の影響かな。女性が、ホルモンバランスが崩れると生理周期が乱れたりするのと同じで、Ωにも発情に関わる特有のホルモンがあるんだけど、それが乱れてるのが原因かも知れない。暫くはこうやって不定期な発情期が来るかも知れないけど、もう薬は飲んでないよね?」
月村の問いに、今度は熊谷の鋭い視線も飛んできて、麒麟はそれには大きく頷いた。
「だとしたら、暫くは様子見かな。例えば今後、どんどん間隔が短くなってくるとか、そういったことがあればもっと詳しく検査する必要があるけど、今後徐々に平均的な発情期の周期になっていくなら、特に問題ないと思うよ」
月村の言葉に、麒麟も熊谷も、ホッと安堵の息を零した。そんな二人を見て、月村もほんの少し口元を綻ばせる。
「さて、ここから先はちょっとデリケートな話になるから、熊さんは外で待っててくれる?」
「デリケートな話? ……まさか、麒麟に余計なこと吹き込むつもりじゃねぇだろうな」
「余計なことって、例えば酔い潰れた君が知らない客に勧められるままブラジャー着けて店で踊ってた話とか?」
「お前な……!」
「ぶ、ブラ……!?」
思わず熊谷のブラジャー姿を想像してしまって絶句する麒麟の前で、熊谷が月村の胸倉を掴む。
「嫌だなあ、ほんの冗談なのに。まあ君の醜態をこっそり教えるのも悪くないけど、Ωの彼だからこそ気を付けるべきことなんかを、説明したいだけだよ」
全く動じる様子もなく飄々と告げる月村に、何となく二人の関係性を垣間見た気がして、麒麟は少し羨ましく感じた。
勿論、熊谷が麒麟を特別大事にしてくれた上に、番にしてくれたことは麒麟にとって嬉しくもあり、誇りでもある。けれど、同い年だからなのか、α同士だからなのか、それともその両方だからか…こうして熊谷と対等に話が出来る月村の代わりに、麒麟はなれない。
代わりには決してなれないけれど、麒麟もいつか、こんな風に熊谷ともっと対等になれる日が来るだろうか。
渋々診察室を出て行く熊谷の背中を見送ってそんなことを考えていた麒麟に、月村が「わかりやすいなあ」と目を細めて微笑んだ。
「熊谷も大概わかりやすいけど、君もよく似てる。心配しなくても、君はもう充分熊谷の一番近くに居るから、大丈夫だよ」
「え……?」
「この前みたいにウチに来ないで、番になったってことは、熊谷から過去の話も聞いたんじゃないの?」
「あ、はい……。でも、先生はもっと前から知ってたんですよね?」
「まあ、熊谷はこの町に着くなりウチに運ばれてきたし、僕も医者っていう立場上、ある程度患者のことを知る必要はあるからね。あの時の熊谷は相当自暴自棄になってたから、住む場所を提供する条件として、熊谷の話を聞き出したんだよ」
「自暴自棄……」
飲まず食わずでこの町に辿り着いたと亮太も言っていたし、その当時の熊谷は一体どんな様子だったんだろう。
知らない熊谷のことを想像しようとしても正解が出るわけもなく、麒麟は無意識に眉を顰める。その顔を見た月村が、椅子の背に身を沈めて苦笑した。
「これは熊谷にも何度も言ったことだけど、過去に囚われても、何も変わらないよ。過ぎた時間は巻き戻せないし、亡くなってしまった人の時間が、再び動き出すことも無いんだ。だけど、過去っていうのは厄介なもので、どこまで行ってもついてくる。だから逃げることは出来ない。だけど、前に進むことで、受け入れることは出来るんだ」
その言葉は、医者という立場上、恐らく人の死に何度も立ち会ってきたであろう月村が言うからこそ、より一層重みを増して麒麟の心に響いた。
亡くなってしまった麒麟の母の時間も、熊谷の想い人だった香芝の時間も、再び動き出すことはない。それに麒麟の義父との一件も、例え今後関わることがなくなったとしても、恐らく麒麟の記憶から完全に消え去ることはない。
けれど、熊谷が傍に居てくれるなら、その日々には確かに幸せや喜びが存在しているだろう。
「……熊谷さんも、俺が居たら前に進めるのかな」
ポツリと呟いた麒麟に、月村が麒麟の首筋を見詰めて笑った。
「何言ってるの。ちゃんと、足跡遺されてるじゃないか」
そう言って、月村が椅子から立ち上がると、麒麟の背後に回って項の傷跡を確認する。
「がっついちゃって、あの熊男は……。コレ、暫く痛まなかった?」
「二、三日は触るとちょっとヒリヒリしましたけど、今は全然……」
「我慢強いねぇ、相変わらず。幸い化膿したりはしてないけど、かなりがっつり噛まれちゃってるよ。熊相手だと番うのも大変だね」
「……そんなに凄いんですか? 自分じゃ見えないから……」
思わず自分でも項を撫でてみたが、噛まれた箇所の皮膚が軽く腫れ上がっているような感触は何となくわかるものの、見た目まではわからない。
「何なら、帰ってから合わせ鏡で見てごらん。立派にマーキングされてるから」
「ま、マーキング……」
月村の物言いについ紅くなる麒麟を微笑ましそうに笑って椅子に戻った月村は、項の傷の所見もカルテに記入しながら続ける。
「でもまあ……遅かれ早かれ、君たちは番になってただろうと思うけどね」
「え? ……どういうことですか?」
トン、と走らせていたペンをカルテの上に置いて、月村が麒麟と向き合うように椅子を捻った。
「君は『運命の番』って、知ってる?」
「聞いたことくらいは……」
αとΩの間には、単なる番よりも更に絆の強い『運命の番』というものが存在するという。
『運命の番』になる相手に出会えば、互いの意思など関係なく、本能的に身体が惹かれ合って番になるそうだが、そもそも『運命の番』のパートナーに巡り合うこと自体が相当稀なことなので、殆どのαやΩは、そんな相手に出会うことなく生涯を終える。だから麒麟も学生時代、クラスメイトが『運命の番』について話しているのを、最早おとぎ話的な感覚でぼんやり聞き流していた記憶がある。
「君たちは既にお互い同意の元で番ったようだから、今となっては確かめようがないけど、僕は君と熊谷は『運命の番』なんじゃないかと思ってるんだ」
「ええ!? でも、『運命の番』って、そもそも出会うことすら殆ど有り得ないことだって……」
「そう、確率的には相当低い」
巡り合うことが非常に珍しいとされている『運命の番』の元に、フラリと訪れた町で偶然辿り着くなんて、そんなドラマや映画みたいな話があるんだろうか。
「……先生は、どうして俺と熊谷さんが『運命の番』だって思うんですか?」
「もしかして…、と思ったのは、君が初めての発情期でウチに来たときだよ。Ωの発情期っていうのは、本来理性で抑えられるものじゃない。心はどんなに拒んでいても、身体が本能的にαを求めてしまうんだ。それが初めての発情期となれば、尚更わけもわからず本能的な欲求に振り回される。だけど君は、最後までずっと熊谷のことを求め続けていた。────熊谷もそうだ。君の発するフェロモンに、熊谷は異様なほど過剰に反応していた。抑制剤を投薬し続けて、少しずつでも薄れているはずの君のフェロモンを、熊谷だけはずっと感じ取っていたんだ」
「……そう言えば熊谷さん、最初の発情期で俺をここに連れてきたのは、思わず番ってしまいそうだったからって言ってた……」
熊谷の言葉を思い出して呟いた麒麟に、月村が「やっぱり」と確信したように頷いた。
「いくら暫くΩと接触する機会がなかったとは言っても、いきなり番ったりするようなαじゃないよ、熊谷は」
確かに、二度目の発情期のときも、熊谷は必死に理性を保ちながら、ちゃんと麒麟の意思を確認してくれた。
初めてのときも、二度目のときも、その気があれば熊谷が麒麟を組み敷くことなんて容易いはずなのに、熊谷は決して無理強いしようとはしなかった。
「『運命の番』は、例えお互いが嫌悪し合っていたとしても、本能に逆らえずに番ってしまうくらい強い繋がりなんだ。だけど君たちは、偶然にもお互いに惹かれ合った上で番になった。その繋がりが『運命の番』だったとしたら、こんなに素晴らしい運命はないと思わない?」
月村に微笑まれて、麒麟はどこかフワフワとしたような気持ちでその顔を見詰め返すことしか出来なかった。
今となっては、麒麟と熊谷が本当に『運命の番』なのかどうか、確かめる術はない。けれど、熊谷がかつて辿り着いたこの町に麒麟も降り立ち、熊谷と出会ったことが運命なのだとしたら、それは本当に奇跡的で幸せなことだと思う。
「僕が何度言っても熊谷はずっと過去に囚われたままだったけど、君はそんな熊谷にやっと、前に向かって踏み出させてくれた。そのことにも、僕は特別なものを感じてるよ」
「そんな……俺はなにも……」
どちらかと言えば、麒麟の方がいつも熊谷に助けられてばかりな気がする。けれどそんな麒麟の言葉に、月村は肩を竦めて視線でドアを示した。
「その謙虚さというか無自覚さが、君の良いところだね。きっと外の熊男は、今頃君を心配してドアに張り付いてる気がするなあ」
後半、声量を上げた月村の言葉に応えるように、「おい、まだか!?」と外からドアを叩く熊谷の声がして、麒麟は思わず月村と顔を見合わせて笑う。
「熊谷さんに席を外させたのって、この話の為ですか?」
「それもあるんだけど……もう一つ、改めて確認しておこうと思って」
「確認?」
首を傾げた麒麟の目の前で、月村が白衣のポケットからかつて麒麟から没収した抑制剤の薬瓶を取り出し、デスクの上に置いた。
「もう二回発情期を経験して、大体感覚もわかったと思うけど、今後抑制剤はどうする? 勿論、出すとしてもこの薬じゃなくて、ちゃんとしたヤツだけどね」
月村に問われて、一度だけ瓶に視線をやった麒麟は静かに首を横に振った。
「もう、薬は飲みません。熊谷さんのこと、哀しませたくないから」
「……そう。じゃあ、この薬ももうこっちで処分しておくよ。また何か体調に異変があったら、そのときはすぐに診せに来るように」
「はい、ありがとうございます」
月村に一礼して麒麟が診察室を出ると、扉のすぐ脇で痺れを切らして待っていた熊谷にガシッと両肩を掴まれた。
「なんか変なこと言われなかったか!?」
焦った形相で問い掛けてくる熊谷が何だか可笑しくて、麒麟は思わずクスリと笑いながら首を振った。
「熊谷さんの秘密とか、そういうのは聞いてないから大丈夫」
「じゃあ一体何の話だったんだよ?」
怪訝そうに眉根を寄せる熊谷を見上げて、麒麟は改めて月村とのやり取りを思い返す。
「……熊谷さんは、運命って信じる?」
会計待ちの間、ふと問い掛けた麒麟に、熊谷は凛々しい眉を片方持ち上げて「運命?」と問い返してくる。
「……そういうのは、俺はあんまり考えたことねぇな。そもそもガラじゃねぇし」
けど、と一旦言葉を途切らせて、熊谷が隣に座る麒麟へと顔を向けた。
「俺と同じ東京から逃げてきたっつーお前がウチに来たときは、今思えばそういう運命的なモン、感じたかもしれねぇな」
「……そっか」
熊谷の答えに、胸の奥がじわりと温かくなる。
例え確かめようがなくても、単なる偶然だったとしても、熊谷との出会いが麒麟の人生を大きく変えてくれたことは間違いない。熊谷の隣に居られる幸せがあれば、この先何があっても乗り越えられる気がした。
運命が何かあんのか?、と熊谷が首を傾げたタイミングで、会計から名前を呼ばれた。内緒、と笑って先に席を立った麒麟の後ろで、熊谷が拗ねたような顔で舌打ちする。
そして病院からの帰り道。熊谷の車が住宅地から農道へと差し掛かったところで、麒麟は気になっていた質問を思い切ってぶつけてみた。
「熊谷さん。……さっき月村先生が言ってた話って、ホント?」
「どの話だ?」
「その……酔い潰れて……ブラ────って、うわっ!」
麒麟が言い終わる前に、突然車が大きく蛇行した。反動で大きく身体が傾いで、麒麟は熊谷の肩にこめかみをぶつけた。
「ちょ、熊谷さ……っ!」
顔を上げた途端、今度は反対側にまた大きく車がフラつく。咄嗟に熊谷の二の腕にしがみついた麒麟は、わざと熊谷が無言のまま蛇行運転していることに気が付いた。その横顔は、不貞腐れたような顰め面だった。
「ご、ゴメン! もう聞かないから、真っ直ぐ走って熊谷さん……!」
縋るように叫ぶ麒麟を無視して、熊谷の車は田んぼに落ちるギリギリのラインをぐねぐねと何度も蛇行しながら走っていく。
真っ直ぐな道をひたすら蛇行しながらも、麒麟と熊谷の乗る車は確かに目的地を目指して、前に進んでいくのだった。
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