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最終話
◆◆◆◆
「あれ、熊谷さんは?」
GW明けの最初の日曜日。
この町では毎年恒例だという町民総出の田植えがあるからと、亮太から指定された待ち合わせ場所に一人で現れた麒麟の姿を見て、亮太は後をついてきている気配もない熊谷を探すように、首を伸ばしながら問い掛けてきた。
「……別に。ちょっと先に来ただけ。それより、俺らが手伝う田んぼってここ?」
「え、そうだけど……って麒麟、熊谷さんと何かあったんじゃないの?」
「ホントに何でもないから」
いつになく素っ気ない答えを返して、目の前の水田にさっそく長靴で足を踏み込む麒麟に、「絶対嘘じゃん……」と困ったような呆れたような呟きを漏らしつつ、亮太も麒麟に続いて濁った水に足を踏み入れる。
麒麟たちが任されたのは、住宅地を抜けてすぐの場所にある、比較的面積の小さい水田だった。周りの水田では、既に他の町民たちが、慣れた手つきで苗を植え始めている姿があちこちに見えた。その中には、商店街に時折熊谷と買い出しに出掛ける店の店主など、見覚えのある面子もチラホラ見える。以前、熊谷がお気に入りだという梅酒をくれた、田中商店のお婆さんの姿もあった。
町には田植え機が二台しかない為、広い水田は機械で苗を植え、残りの小さな田んぼは町民たちが分担して田植えを手伝うのだと亮太が教えてくれた。
初めてこの町の駅に降り立ったとき。余りにも閑散とした商店街を見て、営業している店なんてないんじゃないかと心配になった麒麟だったが、実際に出向いてみると、確かにシャッターが下りたままの店も多いのだが、亮太の家の三井青果をはじめ、精肉店や、昔ながらの豆腐屋、小さな薬局に、居酒屋を併設した酒屋、それに熊谷が麒麟に自転車を買ってくれた自転車屋など、思いの外様々な店があった。
その中には理髪店もあり、そろそろ髪が伸び始めていた麒麟は切ってもらおうと思ったのだが、「角刈りか丸刈りの二択しかないから止めた方がいい!」と亮太に強く止められ、結局亮太が高校時代からずっと通っているという隣町の美容院を紹介してもらった。
この町からだと電車なら二駅向こう、車では三十分ほどかかる隣町には、大きな国道も二本通っていて、ここ数年で大型商業施設が出来たり、宿泊施設も備えたスーパー銭湯が出来たりと、この町とは違って随分発展目まぐるしいらしい。
この町には鮮魚店がないので、髪を切る以外にも熊谷の車で何度か隣町の大型スーパーに買い物に出掛けたことがあるが、確かにこの町に比べると東京には程遠いものの、随分賑やかな感じがした。
もしも麒麟が東京から出てきたとき、あと二駅向こうまで行って隣町に降り立っていれば、当分の生活には困らなかったかも知れない。けれどきっと、たった二駅向こうで暮らす人々は、この町の住民とは全く異なるだろうし、何より熊谷も亮太も月村もそこには居ない。それを考えると、敢えてこの町に降り立ったことは、やっぱり運命なんだろうかと、麒麟は月村との話を思い出す。
「麒麟……熊谷さん、待ってなくていいの?」
周囲で黙々と田植えに励む町民の姿を見詰めていた麒麟に、亮太が躊躇いがちに問い掛けてくる。そこでふと我に返った麒麟は、「いい」と頑なに首を振った。小屋を出て来る直前の出来事を思い返すと、どうしても麒麟の細い眉が寄る。
「なに、折角番になったって聞いてめでたいと思ってたのに、喧嘩でもした?」
「……喧嘩とかじゃない。それより田植えのやり方、教えて」
不機嫌な顔のまま言った麒麟に溜息を零して、亮太は畦道に置かれたケースの中から一まとめにされた苗を二セット取り出すと、その内の一つを麒麟に差し出した。
「取り敢えず、これが一列分。奥から順番に、真っ直ぐになるように植えてくんだ。最初の一列は俺が植えるから、麒麟はそれに合わせる感じで隣の列植えてって」
言われた通りに亮太の後に続こうとして、麒麟は思わずその場で大きくフラついた。
長靴を履いた足が泥の中に埋まり込んでしまっていて、足が踏み出せない。
「ちょっ……亮太、コレ歩けないんだけど……!?」
必死に足を引き抜こうともがく麒麟とは違い、亮太はさすがに慣れたもので、あっという間に田んぼの奥まで辿り着いて、早くも苗を植え始めている。
「なんでそんな普通に歩けるんだよ!?」
「ハハ、慣れ慣れ。ほら、頑張って進まないと次の列いっちゃうぞー」
ようやく一歩踏み出すたびに、身体が右へ左へと大きく傾いで、何だかやっと歩けるようになった子供に戻ったような気分だった。四苦八苦しながら麒麟がどうにか田んぼの中ほどまで辿り着いたところで、
「おいコラ、麒麟! お前、待ってろって言っただろうが!」
ジャージに長靴を履き、頭にタオルを巻き付けた熊谷が、怒鳴りながら駆けつけてきた。麒麟が勝手に不貞腐れて先に出てきたというのに、熊谷のその格好が余りにもしっくりきすぎていて、思わず笑いそうになるのをどうにか堪える。
熊谷は躊躇いなく田んぼに足を踏み入れると、亮太と同じく慣れた足取りで難なく麒麟の元までやってきた。満足に歩くことさえ出来ない麒麟は、逃げる暇もなかった。
「まだ怒ってんのか?」
「……別に、怒ってない」
「嘘吐け。仏頂面しやがって」
皺の寄った眉間を突かれて、麒麟は「だから怒ってない」と熊谷の手を振り払った。
綺麗に一列分、苗を植え終えた亮太が心配そうに麒麟たちの元へ歩み寄ってくる。
「ちょっとちょっと。二人とも、マジで何があったの」
「何がも何も、コイツがさっき届いたソファ見るなり、機嫌損ねて飛び出してったんだよ」
「ソファ?」
きょとん、と亮太が目を丸くする。一方の麒麟は、何でもないことのように言う熊谷に、益々眉間の皺を深めた。
「だって俺は、買うなら熊谷さんが気に入ったソファにしようって言ったじゃん」
「だから、俺がいいと思うやつにしたんだろうが」
「違う! 熊谷さんがいいって言ってたのは別のやつだっただろ!? ……俺がいいなって言ったやつ、なんで買ったの」
「ま、待った……! なんか話がよくわかんないんだけどさ……麒麟は新しく買ったソファが気に入らなくて怒ってるわけ?」
「何度も言うけど怒ってない」
そう、麒麟は最初から怒ってなんかない。そうじゃなくて、悔しいのだ。
────数日前、月村病院で検査を受けた日の夜。
ノートパソコンを広げ、有名インテリアメーカーの通販サイトで麒麟は熊谷と一緒にソファを見ていた。
数あるソファを順番に眺め、なかなか「これだ」と絞り切れないのか顎を擦りながら唸る熊谷が、不意に麒麟に問い掛けてきた。
「ちなみに、お前だったらどういうデザインが好きだ?」
あくまでも参考意見として、深い意味もなく聞かれたのだと思った麒麟は、単純に自分が好きだと思った木製フレームの布張りソファを指差した。
「俺はこういうスッキリした感じの、好きかも。……熊谷さんは?」
「そうだなあ……俺はこっちのビンテージっぽい革とか、割と好きなんだが」
「ああ、確かに熊谷さんはそういうの似合う気がする。ログハウスにも合うし、コレいいんじゃない?」
熊谷が示したソファを見て、そこに座る熊谷の姿を想像した麒麟は、断然熊谷が選んだソファの方が良い気がしたので賛同した。熊谷も「そうだなあ」と呟いていたので、麒麟はてっきり熊谷はそのソファを購入したと思っていたのだ。
……ところが。
今朝一番の便で届けられたソファは、麒麟が好きだと言ったソファだった。
決して麒麟の選んだソファも熊谷の小屋に似合わないことはなかったし、元々麒麟が好きなデザインを聞かれて選んだソファなので、気に入らないわけもない。
けれど、熊谷が自分よりも麒麟を優先したことが、気に入らなかったのだ。
本来なら素直に喜ぶべきで、麒麟は我が儘なのかも知れない。けれど麒麟はずっとタダ飯食らいのまま、熊谷の小屋に住まわせて貰っていて、それに見合ったことなんて何も出来ていない。ソファだって、汚したのは自分だから麒麟が買うと散々訴えたにも拘らず、その訴えは聞き入れて貰えなかった。だからこそ、熊谷の好みを優先して欲しかったのに、結局熊谷はまた麒麟を甘やかしてくれた。
……麒麟だって、本当はわかっている。
熊谷はただ優しいだけで、何も悪くない。悪いのは、どれだけ甘やかされても熊谷に対等に何かを返すことが出来ない麒麟だ。そのことが、酷くもどかしくて悔しくて、麒麟は熊谷の制止も聞かずに一人で不貞腐れて小屋を出てきてしまった。
事の顛末を一通り聞いた亮太は、はあ…、と一際大きな溜息を吐いたかと思うと、
「……麒麟、ちょっとゴメン」
そう言うなり、ドン、と麒麟の背中を思いきり突き飛ばしてきた。
「わっ……!」
「おい、亮太……っ!」
グラリと大きく熊谷の方に向かって傾いていく麒麟の身体を咄嗟に受け止めようとした熊谷が、ここが田んぼのど真ん中であることを失念していたのか、バランスを崩す。
そうして次の瞬間。
────バシャン!
派手な音と共に濁った水飛沫を撒き散らして、麒麟と熊谷は揃って泥水の中に倒れ込んだ。
「………っ」
「……くっそ……!」
一瞬何が起こったのかわからずに呆然とする麒麟と、更にその麒麟の下敷きになる形で仰向けに泥水に沈んで舌打ちする熊谷。その二人を、新しい苗の束を手にした亮太が、してやったりとばかりに笑って見下ろした。
「痴話喧嘩なら家でやってくださーい。……まったく、心配して損した。麒麟は田んぼの洗礼受けて反省しろ」
「俺は巻き添えかよ!」
全身泥まみれになりながら立ち上がった熊谷に、亮太は「連帯責任」としれっと言い返して、さっさと次の列に苗を植え始める。
「ったく……おい、大丈夫か?」
まだ水の中に座り込んだままの麒麟の腕を、熊谷の手が掴んで引き上げてくれる。
「……大丈夫。ちょっと、ビックリしただけ……」
こんなにも全身泥まみれになったのなんて生まれて初めてで、まだ呆然としている麒麟を熊谷が笑う。
「お互い、何の仕事もしてない内に酷ぇ格好だな。……まだ怒ってるか?」
麒麟の大好きな、熊谷の優しい目が覗き込んできて、思わず息が詰まった。
「……だから、最初から怒ってない。……ゴメン」
「今回は、謝る相手が違うんじゃねぇか?」
熊谷が、一人せっせと苗を植えている亮太の背中へ視線を向ける。
……そうだ、麒麟の背を突き飛ばした亮太の腕は、心配の証だ。
前にも亮太から考えすぎだと言われたことを思い出して、改めて亮太の存在の有難さに胸がぎゅっとなった。
「亮太……! 心配させてごめ────…っ!」
亮太の方へ歩み寄ろうとした麒麟だったが、泥水に沈んだことで長靴の中まで水が入り込んでいて、足を踏み出した瞬間、長靴から足がすっぽ抜け、麒麟はまたしてもバッシャンと泥水にダイブした。
「麒麟!」
顔まで泥水に浸かった麒麟を、熊谷が再び抱え起こしてくれる。その麒麟の顔を見た熊谷と亮太が、一瞬の沈黙の後、揃って爆笑し始めた。
「え……ちょ、なに……」
自分がどうなっているのかわからない麒麟に、亮太が笑い過ぎて涙目になりながら言った。
「き……麒麟が熊オヤジみたいになってる……!」
「熊オヤジ……!?」
「お、お前……口の周り見事にオッサン髭になってるぞ……」
熊谷にまで笑いに震える声で言われて、麒麟は慌てて服の肩口で口許を拭ったが、服も既にドロドロなので、泥が余計に広がっただけで、亮太は更に腹を抱えて笑い転げている。熊谷も肩を揺らして必死で笑いを堪えているようだった。
自分が一体どのくらい酷い姿になっているのか、麒麟にはわからなかったけれど、二人がこんな風に笑ってくれるならそれもいいかと思えて、自然と麒麟の口からも笑いが零れていた。
そんな三人の笑い声に、突如「こら!」と迫力のある怒鳴り声が割り込んできた。
「田んぼは水遊びの場所じゃないぞ!」
麒麟たちの声を聞きつけてきたのか、住宅地の方から立派な白髭を顎に蓄えた高齢の男性が歩み寄って来た。七十歳はゆうに過ぎていそうだが、背筋も真っ直ぐ伸びていて、その佇まいから威厳を感じる。
「松田さん、ご無沙汰してます」
珍しく熊谷が敬語で会釈をして、亮太も「こんにちは」と男性に向かって頭を下げた。
「町長の松田さんだ」
熊谷が素早く耳打ちしてくれて、麒麟も泥だらけながら慌てて姿勢を正す。
「なんだ、騒がしいと思えば熊谷だったのか」
「すんません、コイツ田植え初めてで」
熊谷の言葉に、松田が視線を麒麟に移して、威圧感のある瞳で見定めるようにジッと見詰めてくる。
「ああ……熊谷のところに来た若いのってのは、お前さんか」
「た、立花麒麟です。……すいません、こんな格好で……」
麒麟が頭を下げると、松田がフッと口許を緩めた。笑うと目尻に皺が出来て、一気に優しい印象になるところが、熊谷に少し似ている。
「キリンにクマとは、また随分と似合いだな。確かに酷い格好だが、孫が好きな何とかって名前のアイドルみたいな顔じゃないか。若手が増えるのは有難いことだ。田植えは慣れるまで大変だろうから、亮太、しっかり教えてやれ」
「はーい!」
まるで祖父と孫のようなやり取りを交わして、亮太が麒麟の泥だらけの手を引っ張ってくれる。改めて新しい苗の束を渡してくれて、今度は隣に付き添いながら、亮太は麒麟に苗の植え方をレクチャーしてくれた。そんな麒麟たちの傍らで、熊谷がその場を離れようとした松田を呼び止めた。
「松田さん! ちょっとウチの増築考えてるんですけど、また工務店の山下さんに、口利いて貰えませんか。なるべく急ぎでお願いしたいんで」
(……増築、ホントにするんだ)
亮太に教わって、不慣れな手つきで苗を植えながら、麒麟は耳をそばだてる。
また、ということは、きっと今の小屋を建てるときにもその工務店に依頼したんだろう。
「……そうか。出て行く若者が多い中、有難い話だな。山下も今日は田植えに出てきてくれているだろうから、話しておこう。さすがにあの小屋じゃあ、クマとキリンには手狭過ぎるだろうからな」
「お願いします」
軽く頭を下げた熊谷に頷き返して、松田は周囲の水田で作業に勤しんでいる町民を労いに、歩き去っていった。
「おいおい麒麟、お前の植えたとこ、蛇みてぇになってるぞ」
「え?」
熊谷に言われて顔を上げると、亮太が植えた苗は真っ直ぐ綺麗に並んでいるのに対して、麒麟の植えたところはうねうねと左右にズレてしまっている。
「手元だけ見てると慣れない内はどうしても歪むから、時々前見ながら植えるといいよ」
「……田植えって、こんな大変なんだな……」
最早汚れるのも気にせず、こめかみから伝ってくる汗をシャツで拭って呟く。同じように流れてくる汗を服で拭きながら、亮太が肩を竦めた。
「全部機械でやれたら、手で植える部分なんてもっと少なくて済むんだけど、この町じゃなかなかね。ていうか、そもそも東京じゃ田植えなんかしないんじゃない?」
「うん、やったことない。……でも、慣れてる亮太とか熊谷さん見てたら、早く上手くなりたいって思う」
麒麟の言葉に一瞬目を瞬かせた亮太が、ニッと笑って「その意気」と麒麟の腕を肘で軽く小突いた。
「終わったら、肉屋の野口さんがバーベキューの用意してくれてるらしいから、頑張ろ。大人はビール飲み放題だってさ」
「おお、そりゃ有難ぇな」
汚れたジャージの袖を捲って、熊谷が気合を入れる。
きっと小屋の増築費用も、熊谷は麒麟から一銭も受けとらないだろう。それなら今度の工事は自分もしっかり戦力になれるようにしたいと、徐々に緑が増えていく水田を見詰めながら、麒麟も密かに気合を入れるのだった。
「……こ……腰が……」
泥だらけの身体を風呂で綺麗に洗い流して出てきた途端、慣れない作業からの疲労が一気に全身を襲って、麒麟はぐったりと真新しいソファへ倒れ込んだ。熊谷が麒麟の為に買ってくれたソファが、疲れた麒麟の身体を優しく受け止めてくれる。
今朝は怒ってゴメン、とソファにも謝りたくなって、麒麟は痛む腰を軽く浮かせた尺取り虫みたいな恰好のまま、そっとソファの座面を撫でた。
身体が鉛みたいに重かったけれど、どうにか無事に田植えを終えた達成感からだろうか。不思議と不快な疲れではなかった。
田植えの後のバーベキューで、麒麟はこれまで会ったことのない町民にも大勢紹介されたが、誰一人として麒麟がΩであることを気にする者は居なかった。むしろ、熊谷の番であることを知ると、まるで身内の結婚発表でも聞いたかのように、やれ赤飯だ、やれ祝宴だと盛り上がられ、麒麟は別の意味でいたたまれない気持ちになった。
この町の人たちが温かいこともそうだが、何よりも町の皆から熊谷が愛されていることを改めて思い知って、麒麟は自分の事のように嬉しく思った。
そんな熊谷と番えた幸せを麒麟がしみじみと噛み締めていると、
「だから田植えは腰にくるって言っただろ」
風呂場から下半身だけスウェットを履いた半裸の熊谷が、バスタオルでガシガシと髪を拭きながら戻って来た。
「……てかお前、なんつー格好してんだよ」
麒麟の体勢を見て、熊谷が髪を拭く手を止めて複雑そうな顔をする。
「この姿勢が、一番腰ラクで……」
「……思ったこと、言っていいか?」
え?、と麒麟が身を起こす前に、バスタオルをソファの背に雑に引っ掛けた熊谷が、背中越しに麒麟の上に覆い被さってきた。
「熊谷さ……」
「……誘ってんのか?」
「………ッ」
浮かせた腰に腕を回して抱き締めるようにしながら、耳許で低く囁かれて、麒麟は思わずギュッと目を閉じて背を震わせた。
そのまま麒麟の耳朶を甘く食みながら、熊谷の手が麒麟のTシャツの裾を捲って胸元へ這い上がってくる。
「く、熊谷さ……っ、俺、まだ発情期じゃないけど……?」
麒麟の言葉に、熊谷の手がピタリと止まる。その後、顔の横でガックリと項垂れた熊谷が、呆れた声を上げた。
「お前なあ……俺が発情期っていう理由だけで、お前に欲情してるとでも思ってたのか?」
「えっ、だって……」
それ以外に、Ωの男である麒麟の身体に何の価値があるのだろう。熊谷の言葉を肯定するように絶句する麒麟に、熊谷は深い溜息を吐くと、少し乱暴な手つきで麒麟の顎を捕らえ、強引に捻って口付けてきた。
「ん、ぅ……っ」
苦しい体勢に喘ぐ麒麟の唇が抉じ開けられ、熊谷の舌が麒麟の咥内を蹂躙する。
散々貪られた後、ようやく解放された唇で浅い息を繰り返す麒麟の項の傷跡に、熊谷がやんわりと歯を立てた。
「それじゃあどっかの変態オヤジと同じじゃねぇか。それともお前は、発情期以外に俺に触られんの、嫌か?」
「あっ……!」
胸元を這う熊谷の手に、胸の先端を軽く摘まれて、電流が走るような刺激に思わず声が漏れた。
発情期のときと違って思考がクリアな分、与えられる刺激がよりリアルに感じられて、麒麟は小さく首を振る。
「い……嫌じゃ、ないけど……っ」
「……『けど』、なんだよ?」
問いながら器用に片手で麒麟のTシャツをスルリと脱がせた熊谷に、両方の胸の尖りを弄られて、ジンジンと痺れるような感覚に麒麟はビクビクと背を震わせる。
これまでは身体の方が先に反応していたお陰で、そこに羞恥や恐怖なんて覚える暇さえなかったけれど、こうして熊谷によって一から熱を煽られるのは初めてで、どうして良いのかわからない。
明らかに発情期のときと感覚は違うのに、でも熊谷に触れられると嬉しくて胸は震えるし、身体もその刺激に反応する。けれど────
「……俺、変じゃない……?」
「変?」
「俺……熊谷さん以外とこんなことしたことないし……発情期でもないのに、悦んだりするのって……変じゃない?」
肩越しに振り返った麒麟の唇を軽く啄んで、熊谷が苦笑した。
「それは、今正にお前に襲い掛かってる男に向かって言う台詞か?」
熊谷の片手が、胸元から下肢へとゆっくり下りてくる。その手が、確かに芯を持ち始めている麒麟自身に服越しに触れた。触られることで改めて自身が反応していることを実感して、膝が震える。
そんな麒麟を宥めるように、熊谷が互いの衣服越しに、固くなった熊谷自身を麒麟の臀部へ押し当ててきた。
「悦んでるのはお前だけじゃねぇから、安心しろ」
麒麟の柔らかい髪に唇を押し当てながら、熊谷の手が麒麟のハーフパンツのウエストに掛かる。そのまま下着ごと下ろされそうになり、麒麟はハッとしてその手を慌てて掴んだ。
「ま、待って……!」
「……どうした?」
「その……折角新調したソファ……また汚れる」
「────なら、思う存分出来るとこに移動だな」
そのままロフトに誘導された麒麟は、今度こそ熊谷に呆気なく裸に剥かれた。
さっきまでと同じように四つん這いになるよう促され、全裸で熊谷の目の前に秘部を晒す姿勢に、麒麟は羞恥で全身真っ赤になった。
「熊谷さ……っ、この格好……やだ……」
恥ずかしい、と訴える麒麟の後孔に、熊谷の指が触れる。
「さっきは自分からこの格好してただろうが。大胆かと思えば、急に恥ずかしがるとこが可愛いんだけどな、お前は。……発情期じゃねぇから、あんまり濡れてねぇな。緊張してるから余計か?」
殆ど濡れていなければ固く閉じたままの孔の縁を辿るようにしながら、熊谷のもう一方の手が麒麟の性器をやんわりと握り込む。そのまま緩々と扱かれると、下腹が甘く疼いて前と後ろがジワリと濡れるのがわかった。
「あっ、熊谷さ……ッ、ゃ……っ」
前を弄る手は止めないまま、熊谷の指と舌で後孔を丹念に解されて、麒麟はシーツに額を擦りつけて未知の感覚にただ声を零して震えるしかなかった。発情期のときは何をされても漠然と「気持ちいい」としか感じられなかったけれど、今は熊谷の指の形や舌の感触までハッキリとわかって、ゾクゾクと身体中が粟立つ。それが快感なのかどうか、初めての麒麟にはまだよくわからなかった。
充分に解された入り口に熊谷の先端が宛がわれて、不安と緊張から麒麟の喉がヒュッと鳴る。
「あっ……! ぃッ…────!」
先端部分を軽く押し込まれただけで、痛みと圧迫感に麒麟はシーツに爪を立てて歯を食いしばる。
「ッ……麒麟、キツイか……?」
発情期ほど柔らかくなっていない所為か、熊谷も息を詰めて一旦動きを止めた。
苦しさに萎えかけていた麒麟の雄を再び熊谷に擦られると、その刺激は素直に気持ち良かった。
麒麟の上で浅い息を繰り返しながら、熊谷がどうにかして麒麟の身体を解そうとしてくれている。宥めるようにあちこちに口付けたり、敏感な乳首や性器を刺激して煽ってくれる熊谷が愛おしくて、麒麟は例え苦しくても熊谷を受け入れたいと思った。
「熊谷さん……平気、だから……そのまま挿れて……」
「けどこのままだと、お前が辛いだろ」
「っ……辛くてもいい……発情期じゃないときの、熊谷さん……知っときたいから」
薄らと涙の滲んだ目で肩越しに振り返った麒麟に、熊谷がギリ…、と奥歯を鳴らした。
「ったくお前は……。……知らねぇぞ……ッ」
絞り出すような声で呟いた熊谷が、グッと強く腰を押し進めた。
「ひ、ぁッ…─────!!」
身体を内側から無理矢理押し拡げられる焼けるような苦痛に、麒麟は声にならない悲鳴を上げた。くっ、と麒麟の上で呻いた熊谷が、シーツに縋る麒麟の手を上から包み込むように握ってくれる。
「う、ぁ……っ」
ボロボロと勝手に零れる涙を拭う余裕もなく、苦しさに胸を喘がせる麒麟の背に、熊谷がピタリと密着するように身を寄せてきた。
「ッ、麒麟……そのまま、ゆっくり息、吐いてろ」
熊谷の声にも余裕がなくて、麒麟は言われるがまま開きっぱなしの口でひたすら呼吸を繰り返す。何度目かの呼吸の後、最後まで麒麟の中に挿り込んだ熊谷が、ハ…、と麒麟の耳許で熱い息を吐いた。
「ッ、は……挿、った……?」
声を出すだけで、腹の中の熊谷がズンと響いて苦しい。顔を歪める麒麟の苦痛を和らげるように、熊谷が首を伸ばして溢れる涙を唇で吸い取ってくれる。
「ああ……全部挿った」
「……っ、良かった……ちゃんと、記憶もある……」
覚えてられる、と浅い呼吸を繰り返しながら力なく笑って見せた麒麟の身体を、熊谷が強く抱き締めた。
「…………好きだ」
触れ合った肌から、繋がった箇所から、全身で伝えるように熊谷が囁いて、その瞬間、麒麟の胸がドクン、と一度、大きく鳴った。発情期のときの動悸とは違う、麒麟の心が上げた悦びの声だった。
告げられた直後に、熊谷を受け入れた麒麟の体内がじわじわと濡れ始めて、熊谷のたった一言で、心も身体も悦ぶことを麒麟は知った。
それを感じ取ったのか、控えめに律動を始めた熊谷に揺さぶられ、麒麟は突かれるたびに甘い声を上げた。
正直なところ、発情期以外にするセックスは、麒麟にとってはまだまだ苦痛の方が強かった。けれど、行為の最中に熊谷が麒麟を見詰める熱っぽい瞳や、与えられる刺激の一つ一つを感じることが出来た。
それに何より、熊谷に求められているのだということをハッキリと自覚出来ることには、発情期の快感を上回る悦びがあった。
次第に激しくなる熊谷の律動に、麒麟は最後はただ身を任せることしか出来なかったけれど、初めてちゃんと、心も身体も、熊谷と一つになれた気がして、麒麟は止めどなく悦びの涙を流した。
◆◆◆◆◆
────四ヶ月後、九月初旬。
「おいおい……また増えてんじゃねぇか」
増築した二階に設けた新しい寝室で、デスクの上のノートパソコンを弄っていた熊谷が、不意に困惑した顔になった。
熊谷の小屋の増築工事は、町の山下工務店が快く引き受けてくれ、更に麒麟や亮太に加えて何人もの町民たちも工事を手伝ってくれたお陰で、思った以上に早く完成した。二階建てになったことで、今では『小屋』ではなく、最早立派な『家』になっている。
二階には寝室の他にもう一つ、部屋が設けられたが、後々工房に入りきらなくなった作品の倉庫にでもするつもりなのか、今は空っぽのまま使われていない。
熊谷の家は山手にある為、まだ残暑の厳しいこの時期でも窓を開けていれば十分涼しいのだが、寝室は大人の事情で窓を開けっぱなしに出来ない為、エアコンもバッチリ設置されていた。
まだ新しい木々の香りがする寝室のベッドでゴロゴロとしていた麒麟は、「どうかした?」とベッドから降りて熊谷のデスクに近づく。
けれど、麒麟が傍に行った途端、熊谷はパタンとノートパソコンを閉じて画面を隠してしまった。
「……なに? 俺が見ない方がいいもの?」
「いや……別に見られてマズイってわけじゃねぇんだが……」
罰が悪そうに視線を泳がせる熊谷の肩に、麒麟は身を屈めて甘えるように顎を乗せる。
「熊谷さんが絶対嫌だって言うなら見ないけど……気になる」
「……お前、最近俺の転がし方上手くなってきたな」
観念したように息を吐いた熊谷が、麒麟の腰を抱き寄せて自身の膝に乗せ、閉じていたノートパソコンを再び開いた。
画面に広がっていたのは、何やら可愛らしいデザインのWebサイトだ。
どうしてこれを見られるのを渋っていたのだろうと画面を見詰めた麒麟は、一番上に丸太のデザインフォントで書かれたサイトタイトルに気付いて思わず目を見開いた。
「……『森のくまさん工房』……?」
タイトルロゴの周りや、ページのあちこちには、見覚えのある動植物のガラス細工の画像が散りばめられている。そしてページの隅には、『制作者:森のくま』の文字。
「このサイト……もしかして……」
膝の上で熊谷を振り返った麒麟に、熊谷は項を掻きながら「俺のサイトだよ」と自棄気味に呟いた。
「もっ……森のくま……っ」
熊谷が隠したがった理由がわかって必死で笑いを堪えようとする麒麟に、熊谷が「だから嫌だったんだ」とげんなりした顔をする。
「しょうがねぇだろ。身バレしねぇような名前っつーと、これくらいしか思いつかなかったんだよ」
「で、でも、これってお客さんは熊谷さんのこと、『森のくまさん』って呼んでるんだよね、多分」
「……バレなきゃいいんだ」
「どうしよう……可愛い……」
不貞腐れたように顔を背ける熊谷を、堪らず麒麟はギュッと抱き締める。いつもは麒麟のことを一番に考えて、守ってくれる頼もしい熊谷だが、時々微笑ましい一面を見せることを知っている麒麟としては、案外その名前は熊谷に似合っているような気がした。それに、本物の『森のくまさん』を抱き締められるのは麒麟だけなのだというちょっとした優越感も嬉しい。
「ん……? でも、一体なにが増えてんの?」
「……コレだよ」
熊谷が、左手で麒麟の腰を抱いたまま、右手でマウスカーソルを動かして、サイト上の一枚の画像を示した。
岩の上に座ったクマの頬に、小柄なキリンが首を伸ばしてキスしているガラス細工だ。
「これ……熊谷さんの作品だよね? いつ作ったの?」
見覚えのない作品に、麒麟は画像を見詰めたまま首を傾げる。
「昨日だ。実は昨日コレを作った後、サイトのデザインちょっと弄ってな。コレは別に売り物にする予定はなくて、単に作品例として載せただけだったんだが、どうもSNSでこの画像が拡散されたらしくて、今朝から『買いたい』ってメールが届きまくってんだよ。俺としちゃ、単にお前のこと考えて作っただけだったんだが、『肉食動物に草食動物がキスしてるところにメッセージ性を感じる』とか言われてるらしくてな……」
「え……じゃあこのクマとキリンって、ホントは熊谷さんと俺ってこと?」
「まあ、そうなるな。そもそも、お前に出会うまで、キリンって殆ど作ったことなかったんだよ。首も手足も長くて、すぐにポッキリ折れちまう気がしてな。けど、随分と芯の強い『キリン』も居るってわかって、作りたくなったんだ」
言いながら、熊谷が今ではもうごく薄く噛み痕が残っている程度になった麒麟の項を撫でる。
「しかしまあ、うっかり画像載せちまったお陰で、予想以上に反響がデカくて、正直戸惑ってる。この作品もそうなんだが、こっちの作品も結構問い合わせがきてるんだ」
そう言って熊谷が示したのは、以前麒麟が工房で見つけた、キリンマトリョーシカだった。
「あ、これ……俺も前に工房で見て気になってた。何でこれ作ろうと思ったの?」
「これは、お前が初めて発情期迎えたとき、お前が入院してる間毎日一個作ってたんだ。願掛けってわけじゃねぇが、なるべく早くお前が発情期抜けてラクになれるようにと思ってな。だから、これはさすがに売らねぇ」
あの小さなキリンたちにそんな想いが込められていたことを初めて知って、麒麟は再びギュウ、と熊谷の首に抱きついた。もしかしたら、このキリン効果であのとき麒麟も発情期を無事に乗り越えられたのかも知れない。
「問題はSNSで出回っちまった作品の方なんだが……お前的に、売り物にされて嫌じゃねぇか?」
「え、なんで俺?」
「いや……一応、俺が勝手にお前をイメージして作ったモンだからな」
「俺は、別に嫌じゃないよ。熊谷さんが俺を想って作ってくれたっていうだけでも素直に嬉しいし、その作品で癒されてくれる人が居るなら、もっと嬉しい。『森のくまさん』の作品は、ずっとそうやって沢山の人を癒してきたんじゃないの」
「……お前は本当に、ベッドの上では可愛いくせに包容力もある、最高のパートナーだな」
「……べッドの上は余計」
じとっと熊谷を睨んだ後、どちらからともなく唇を合わせる。
「商品にするとなると、暫くは制作で忙しくなるぞ」
「俺、梱包とか、出来ることは手伝うよ」
「相変わらず頼もしいぜ」
口端を持ち上げた熊谷が麒麟の服の裾に手をかけて、そこでふと動きを止めた。
「……熊谷さん?」
麒麟を見詰めたまま固まった熊谷を怪訝に思って、麒麟は首を傾げる。
「……今、何月だ」
「九月だけど……?」
「お前、最後に発情期が来たのは?」
「え……」
問われて、麒麟もそこで思わず絶句した。
増築工事でバタバタしていたのもあるし、何より発情期でなくとも時折熊谷とは身体を重ねるようになっていたので、すっかり忘れていたが、麒麟が最後に発情期を迎えたのは五月の初旬。────気付けば既に、四ヶ月が経過していた。
診察室で麒麟から話を聞いた月村は、カルテの上にペンを投げ出して額を押さえた。
「あのさあ……確か君、最初の発情期から二回目の発情期まで、ひと月半しかなかったって言ってたよね?」
そのこめかみが怒りと呆れで引き攣っているのが見て取れて、麒麟は椅子の上で縮こまったまま「はい……」と小声で答える。
「あれっきり来ないから気になってたけど、君くらいの年齢なら一過性の発情期の乱れも有り得るし、順調に発情期が来てるのかなと思ってたら、もう四ヶ月来てないってどういうことかな? ひと月半の次が四ヶ月って、おかしいと思わなかったの?」
「す、すみません……家の工事したりしてたのもあって、俺も熊谷さんもうっかりしてて……」
「一つ確認したいんだけど……君たち、ちゃんと避妊してた?」
「えっ……」
眼鏡のフレームを押し上げながら鋭い眼差しを向けられて、麒麟は言葉に詰まった。
ヒニン、ってなんだっけ…、と一瞬頭の中が真っ白になる。
麒麟の反応を見た月村が、深い溜息と共に天井を仰いだ。
「……麒麟くん、ちょっと尿検査させて。それから待合に居る熊男も引っ張って来て」
抑揚のない声で言われて、麒麟は逆らえるはずもなく、月村に指示された通りに尿検査を受け、その検査結果を聞く際に熊谷と共に再び診察室のドアを叩いた。
検査結果の用紙を片手に、満面の笑顔で二人を出迎えた月村が、静かに口を開く。
「熊谷……取り敢えず、五百発殴ってもいいかな?」
「いいわけねぇだろ! いきなり何だ!」
「そりゃ殴りたくもなるよ。取り敢えず二人とも、そこに座りなさい」
並べられた椅子に、麒麟は熊谷と一旦顔を見合わせた後、素直に腰を下ろした。
「まず単刀直入に言うよ。────妊娠、おめでとうございます。それももうすぐ、安定期に入るくらいだよ」
「は?」
「え?」
ポカンと揃って聞き返す熊谷と麒麟の頭を、月村が丸めたカルテでポコポコと立て続けに叩いた。
……妊娠? もしかして、俺が……?
信じられない気持ちで呆然としたままの麒麟に、月村がジロリと熊谷を睨んだ。
「そりゃ、発情期迎えたΩが避妊もしないでセックスすれば、妊娠する可能性は大いにあるよ。熊谷、君本当に何も考えずに避妊しなかったの?」
「………」
問われた熊谷が、視線を下げて押し黙った。
そんな熊谷を見た月村が、こめかみを押さえて溜息を落とす。
「君はそこまで馬鹿じゃないと思うから、全く考えなかったわけじゃないだろ。だけど、実際に妊娠して産むのは麒麟くんの方なんだよ。彼の同意を得ないまま避妊しなかったんだとしたら、それは君のエゴだ」
月村の鋭い言葉に、熊谷の顔が曇る。
正直なところ、麒麟はこれまで自分がΩであることは自覚していても、自分が妊娠するなんて、考えてもみなかった。Ωである以上、女でも男でも妊娠する可能性はあるし、だからこそΩはよく『子を産む為の道具』のように扱われたりすることだって、知識として知っていたはずなのに。
だとしたら、今回の件は熊谷だけが責められるべきことなんだろうか。
それに何より、今本当に麒麟の体内に熊谷と紡いだ命があるのだとしたら、それは責められたリ、悔やんだりすることなんだろうか。
「取り敢えず、麒麟くんはもう妊娠中期に入ってる。後数週で中絶のリミットも迎えるから、それまでに────」
「ま、待ってください……!」
淡々と話す月村に、麒麟は思わず椅子から立ち上がった。
「中絶なんかしたくない……。それって、俺の腹の中に居る子供を殺すってことだろ!? そんなこと、絶対したくない……!」
「麒麟……」
「だけど、子供を産むっていうのは、そう簡単なことじゃないよ。君たちの場合、産まれる子供はαの可能性もあるけど、Ωの可能性だってある。まあこの町で産むならΩであってもそれほど問題はないかも知れないけど、それでもいずれやってくる発情期の苦しさは、君が一番よくわかってるだろう? 我が子にその思いを背負わせる覚悟はあるの?」
麒麟と同じΩだった母も、麒麟を身籠ったとき、悔やんだり、悩んだりしたんだろうか。
一人で麒麟を産み、自分の好きな花の名前を与えてくれ、いつも笑顔で接してくれた母を思い出すと、とてもそうは思えなかった。
母のお陰で、強く居られた。母のお陰で、Ωであることを悲観せずに居られた。母のお陰で、熊谷に巡り合えた────
「……俺の母は、俺と同じΩでした。だけど、俺は母を尊敬してるし、今の俺があるのは母のお陰だと思ってます。だから……俺は、産みたい」
真っ直ぐに月村を見据えて告げた麒麟に、「そう」と静かに答えて、月村はカルテにペンを走らせた。
「産むのは君だから、君がそう言うんなら、僕は医者として、その気持ちに向き合うよ」
「……よろしくお願いします」
「あと、妊娠がわかったからには、それなりに日常生活にも気を付けること。定期的にちゃんと検診にも来るように」
「わかりました」
ありがとうございました、と月村に深く頭を下げて、麒麟と熊谷が診察室を出て行った後、月村はペンを持つ手を止めてフッと眼鏡の奥の目を細めた。
「……一人前に親の顔しちゃって。大した子だよ、まったく」
「麒麟……」
病院の駐車場に向かう途中、何かを言いかけた熊谷を、麒麟は振り返りざま「ストップ」と手を翳して制止した。
「謝罪とか、そういうのだったら聞かないから」
「……なら、言い訳だけさせてくれ。月村の言う通り、避妊しなきゃ、発情期のお前が妊娠する可能性があるのはわかってた。お前はまだ若いし、本当なら、お前が自分からそういうことを考えるようになるまでは、俺がちゃんと気を付けるべきだったんだ。……けど、お前が来てから俺の家は一気に賑やかになった。お前と笑ったり、ふざけたり、怒ったり心配すんのさえ、幸せだと思った。そんなお前と番って、このまま家族として暮らしていけたらって思っちまった。……けど、実際に子供を産むとなったら、身体に負担がかかるのはお前の方なんだ。それもわかってたのに俺は────」
「熊谷さん」
苦々しい顔で拳を握り締める熊谷に耐え兼ねて、麒麟はその言葉を遮った。
幸せだと思っているのは麒麟だって同じなのに、熊谷だけがそう思っていたみたいに言わないで欲しい。大好きな熊谷から、「家族として暮らしたい」なんて言ってもらえて、嬉しくないわけがない。
「あのさ。熊谷さんも月村先生も、まるで俺が妊娠したことが過ちだった、みたいに言うけど……俺は妊娠って聞いたとき、正直嬉しかったよ。そりゃ勿論、わからないことだらけで不安もあるし、今も全然実感湧かないけど、でも熊谷さんとの子供なんだって思ったら、純粋に嬉しかった」
何とはなしに自身の腹に手を当ててみたが、それでもやっぱりまだ半分信じられない。
けれど月村が言うのだから、麒麟の中には確かに今、一つの命が宿っているのだ。この命を育てることこそ、Ωである自分にしか、出来ないことなんじゃないかと麒麟は思う。
「……男のΩの場合、女と違って手術でしか出産出来ねぇって、昔月村から聞いたことがある。身体の構造上、負担も男の方が大きいらしい。それでも、そう思えるか?」
「それって、俺が自分の中で生きてる命を消すよりも辛いこと?」
麒麟の問いに、熊谷が目を瞠る。
麒麟は母の事が、そして恐らく熊谷は香芝のことが頭を過ぎったはずだ。
母の苦労を見てきたし、麒麟自身もΩだからこそ、月村が言うように子供を産むというのは決して簡単なことではないとは思う。けれど、大事な相手との間に宿った命を共に育てていけるのだとしたら、その幸せだけで、困難なんていくらでも乗り越えられる気がする。
熊谷が、縋るように麒麟の背を掻き抱いた。
「……産みたいって、思ってくれるか」
顔は見えなかったけれど、何となく熊谷が泣いているような気がして、麒麟は広い背中にそっと腕を回した。
「産むよ。……今気付いたけど、二階に一つ部屋余らせてるの、もしかしてこういうこと想定してたから? だとしたら、嬉しい」
麒麟を抱く腕の力がグッと強くなって、麒麟は茜色に染まっていく空を見上げながら、熊谷の背を静かに撫で続けた。
それから日を追うごとに忙しくなった『森のくまさん工房』で、クマとキリンの間にちょこんとコグマが座ったガラス細工がまたしても人気になるのは、まだもう少し先のお話────
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