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番外編 二人の時間

「うん、胎児の発育状態も特に問題なさそうだね」  蝉の声もすっかり聞こえなくなり、半袖では肌寒くなり始めた、とある秋の日。麒麟は健診の為、月村病院を訪れていた。  既に妊娠五ヶ月に入った麒麟の胎内をエコーで確認している月村が、モニターを眺めながら頷く。  麒麟の妊娠が判明したのはもうすぐ四ヶ月になろうかという頃だったので、それから既にひと月。  初めてエコー映像を見せて貰ったときにも、既に麒麟の腹の中に宿った命は、小さいながらもちゃんと人の姿をしていて感動したけれど、ほんのひと月で胎児は益々人らしい体つきに成長していた。 「凄い……これ、ホントに俺の腹の中ですか?」  思わず食い入るように見詰めるモニター画面の中で、胎児が手足を動かしている様子もハッキリ見てとれる。時折大きく胎児が足を動かすと、内蔵がピクッと動くような感覚を身体の中から感じて「あ、蹴った」と呟く麒麟に、月村が苦笑する。 「僕に聞かなくても、もうちゃんと、胎動も感じてるでしょ?」 「時々感じてたんですけど、普段は腹の中なんか見えないから、これが胎動ってわからなくて……」 「エコーで見る限りでは元気に育ってるから、これからどんどん強くなるよ。今日は、熊谷は?」 「ここまで送ってくれた後、一旦家に戻りました。『終わったら連絡しろ』って」  熊谷のガラス細工の人気はSNSなどを通してじわじわと高まっていて、最近の熊谷はほぼ休みなく毎日工房に篭って作品作りに励んでいる。この日も熊谷は麒麟を車で病院に送ってくれた後、すぐに工房を兼ねた自宅へとんぼ返りした。  時には夜遅くまで作業している日も増えているので、麒麟は熊谷の身体が素直に心配だったが、そんな麒麟に熊谷は「子供が生まれたら少しでもそっちに時間割きてぇからな」と笑っていた。 「最近、随分忙しいみたいだね。産後は絶対親バカになりそうだし、当分は居酒屋で熊谷を潰して遊べなくなるかと思うと寂しいよ」  冗談めかして笑いながら、月村が「熊谷にお土産」と、今確認したばかりのエコー画像をプリントした用紙を手渡してくれた。  機械を片付けてデスクの前に移動した月村の向かいに、麒麟も服を整えて腰を下ろす。 「この前の健診のときの採血結果も、特に問題無かったよ。正直、君は『前科』があるからちょっと心配だったんだけどね」  以前、違法スレスレの抑制剤を服用していたことをチクリと責められて、麒麟はうっ…と椅子の上で小さくなる。少し意地悪な月村に揶揄われているのだとわかっていても、麒麟自身もその過ちは激しく後悔しているだけに、何も返す言葉がなかった。  麒麟の身体だけならともかく、胎児にも何か悪影響があったらどうしようと内心不安もあっただけに、今日の検査結果には麒麟も心の底から安堵した。  思惑通りの麒麟の反応に満足したのか、月村がフッと口元を緩めてカルテを記入する。 「まあ、今のところ母体も胎児も元気そうで安心したよ」 『母体』、という言葉に、改めて自分が親になるのだということを実感する。けれど、『母親』という言葉に麒麟はまだ馴染めなかった。  Ωである以上、男の自分も子を孕む可能性があるとわかっていたはずなのに、比率で言えば圧倒的に女性の母親が多い世の中で、自分もその母親の中の一人になるのだと思うと、ムズムズというかソワソワというか、何となく落ち着かない気持ちになる。  麒麟の中で順調に育ってくれている熊谷との子供には、早く会いたくて堪らないのに。  生まれる頃には、麒麟もちゃんと一人の母親になれているんだろうか。  そんな麒麟の微かな不安を打ち消すように、小さな足が腹を内側から蹴ってくる。身体を通して、麒麟の心まで感じ取ってくれているように思えて、早くも小さなその存在が愛おしくて堪らなくなる。 「……不安なのに楽しみで仕方ないって、変な感じ」  そっと腹に手を宛がった麒麟の呟きを聞いて、月村がカルテから顔を上げる。 「初めての妊娠や出産って、そういうものだよ。身体も大きく変化するし、そこにメンタルも左右されたりする。だけど、妊娠中しか味わえない感覚もあるから、それは素直にΩの特権だと思って噛み締めればいいと思うよ」 「Ωの特権……」  熊谷と番うまで、Ωに生まれて良かったなんて思ったことは無かった。むしろ悪いことしかないと思っていたくらいだ。  けれど男である麒麟が好きな熊谷との子供を授かることは、Ωでなければ叶わなかった。  麒麟の中には無かった発想だが、確かにこれは、麒麟がΩに生まれたからこそ得られた特権なのかも知れない。 「因みに僕には子供が三人居るんだけど────」 「ええっ!?」  サラリと告げられた衝撃の告白に、月村が言い終わるのも待たず、ガタンと椅子を鳴らして思わず麒麟は立ち上がる。  月村には既に番っているパートナーが居ることは聞いていたけれど、その間に三人も子どもが居たなんて初耳だ。何より、いつも麒麟や熊谷を揶揄っては愉しんでいる月村が子育てしている姿が全く想像出来ない。……いや、でも時には麒麟たちの保護者みたいに諭してくれたりするところは、言われてみれば月村の父親としての顔なのだろうか。  勢いよく立ち上がったままの麒麟を「お腹の子がビックリするよ」と窘めて、月村が苦笑する。 「うちは下が双子だったからね。君たちはまだ一人目だけど、それでも産まれた後は想像以上に賑やかで忙しい毎日になるだろうから、今の内に思う存分、熊谷との時間を満喫しておくことをオススメするよ」  咄嗟に、工房で忙しなく手を動かす熊谷の姿を思い浮かべる。  最近は熊谷を少しでもサポート出来るように、麒麟も工房で商品の梱包や発送作業などを手伝っている。忙しいなりに二人で過ごす時間が当たり前になっていたが、子どもが産まれたら、きっと麒麟も今のように熊谷を手伝う余裕は無くなるだろう。  熊谷も出来る限り子どもの為に時間を割きたいと言ってくれていたけれど、それでも今は熊谷のガラス細工で生計を立てている以上、工房を閉めるわけにはいかない。 「熊谷のことだから、産後の事を考えて今正に仕事に打ち込んでるんだろうけど、むしろ今しかゆっくり出来ないよって、君から伝えてやって」  全てを見透かしたような目で、月村が微笑む。  ……そうか。熊谷との当たり前の時間は、二人から三人になるんだ。  熊谷がどんな顔で子供に接するのか、想像するだけでも楽しみで早く見てみたいと思うけれど、二人きりの時間は後もう数ヶ月だけ。  そう言えば最近はいつも、日中は二人で工房に篭って時折雑談を交えながら作業。夜も熊谷の作業が遅くまで続くことが多いので麒麟が夕飯を作り、お互いその日の疲れを労って終わる毎日だった。  ゆっくり、と言える時間を最後に過ごしたのは、いつだっただろう────  無性に熊谷の温もりが恋しくなって、麒麟は一度キュッと引き結んだ唇を、躊躇いがちに開いた。 「月村先生、あの…────」  その日、作業を終えた熊谷が工房からリビングへ戻ってきたのは、夜十時近くなってからだった。 「お疲れ様」  先に入浴と夕飯を済ませていた麒麟は、キッチンで自分の使った食器を洗いながら声を掛ける。 「おう」と答えた熊谷の額には、汗の粒が幾つも浮いている。涼しくなってきたこの時期でも、ずっとバーナーの前で作業をしていた熊谷は、伝い落ちてくる汗をTシャツの肩口で雑に拭ってから、そのシャツを脱ぎ去った。  同じ男なのに、麒麟とは違って厚い筋肉に覆われた熊谷の身体は、すっかり見慣れているはずなのに何度見てもドキリとする。 「暑ぃから、先にこのままシャワー浴びてくる」 「あ、うん。その間に晩飯、用意しとく」 「疲れてたら先寝に上がれよ。俺の分くらい、自分で用意するから」  一度麒麟の傍へやって来て、控えめに髪へと口づけてから、熊谷はそのまま浴室へと直行してしまう。  熊谷が麒麟の身を気遣ってくれているのは充分わかるけれど、たまには熊谷にだってゆっくりして欲しい。朝早くから夜遅くまで、毎日ガラス細工制作に打ち込んでいる熊谷に比べたら、些細なことしか手伝えない麒麟の疲労なんて、殆ど無いに等しいのだから。  食器を洗い終え、熊谷の分の夕飯を温めたりしている内に、シャワーだけで入浴を済ませたらしい熊谷が濡れた頭にタオルを被り、半裸でリビングへ戻ってきた。 「熊谷さん、ビールは?」  問い掛けながら冷蔵庫から缶ビールを取り出す。それに気付いた熊谷が、すぐさま麒麟の手から缶を引き取った。 「サンキュ。つぅか、飯の支度も後は俺がやるから、お前は休んでろ」  その場で早速缶の中身を飲み干し、さり気なく熊谷はそのままキッチンカウンターの前に立つ。  缶を渡すほんの一瞬、意図せず熊谷の手が麒麟の指に触れた。  まだガラス細工に手を出し始めた頃、何度も繰り返し負ったという火傷の痕が残った、少し硬くて、でも職人らしい熊谷の手が、麒麟はとても好きだった。その手に触れるのも、触れられるのも。  麒麟の妊娠が判明するまでは、発情期なんて関係なく麒麟に触れてくれていた熊谷の手は、最近では麒麟の腹以外に触れることがない。  今日も健診を終えた麒麟を迎えに来て、二人で自宅に戻ってきた後、熊谷は「順調だった」という麒麟の報告を受けて、愛おしそうに麒麟の腹を撫でてくれた。勿論、それだけでも熊谷の愛情はその手の温もりから伝わってくるし、麒麟のことも子供のことも、熊谷が大事に想ってくれているのは素直に嬉しい。  けれど、甘やかされればされるほど、熊谷が遠ざかってしまうような気がする。  熊谷が忙しくて疲れているときは、麒麟だって甘えられたい。熊谷の大きな手で、甘えて貰いたい。  麒麟が熊谷一人を甘やかすことが出来るのは、今しかないのに────  そんなことを思ってしまう自分は、母親失格だろうか。でも…、と麒麟は軽く唇を噛む。 「……熊谷さん」  麒麟が用意したおかずを温めるべく、レンジに入れた熊谷の裸の背に、麒麟は遠慮がちに額を押し当てた。「どうした?」と少し驚いた声を上げて、熊谷が肩越しに振り返る。その顔が見られず、麒麟は目の前の広い背中に額を押し付けたまま口を開いた。 「……あのさ……今日、月村先生に聞いたんだけど。俺、もう安定期入ってるし、経過も順調だから、その……無理のない範囲なら、してもイイって」  何を、とまではさすがに言えなかったが、麒麟の意図を察したらしい熊谷が小さく息を呑むのが、背中越しに伝わってきた。 「お前……それ、自分から聞いたのか?」  レンジのスタートボタンを押すのを諦めた熊谷が、ゆっくりと身体ごと麒麟を振り返る。問い掛けてくる声は、驚いているようにも、困惑しているようにも聞こえた。 「熊谷さんが、俺の身体気遣ってくれてるのはちゃんとわかってる。けど……子ども産まれたら、絶対暫くは余裕なんか無いだろうし、二人でゆっくりしたり、出来ないじゃん。……俺、熊谷さんが思ってるより頑丈だから、たまには俺にも甘えてよ」 「麒麟……」 「……触りたいって思ってるの、俺だけ?」  漸く顔を上げた麒麟の身体が、熊谷の逞しい腕にグッと強く抱き寄せられる。  久し振りの力強さと、麒麟を包み込む熊谷の匂い。ただそれだけで、胸が詰まって泣きそうになった。 「ったくお前は……最近ただでさえ余裕ねぇから、なるべく触らねぇようにしてたのに」 「だって熊谷さん、黙ってたらずっと触ってくれそうにないから」 「……俺もすっかり、お前には敵わなくなっちまってるなあ」  観念したように苦笑した熊谷が、前髪越し、麒麟の額に口付ける。まだ遠慮がちな熊谷が焦れったくて、麒麟は自ら首を伸ばして唇を重ねた。 「絶対、無理すんじゃねぇぞ。何かあったらすぐ言えよ」  寝室のベッドの上。着ていたTシャツを自ら脱ぎ去った麒麟の腹にそっと掌を宛がって、熊谷が念を押す。 「うん、約束する」  そこに自分の掌を重ねて、麒麟は深く頷いた。  それを合図に、どちらからともなく唇を合わせる。徐々に角度を深めて口付け合いながら、熊谷が麒麟の身体を慎重にベッドへ押し倒す。相変わらず見た目に反して控えめなんだよな、と麒麟は重ねたままの唇を思わず綻ばせた。  暫く触れ合っていなかった身体は、キス一つでも昂ぶっていく。発情期でなくとも、麒麟の身体は今や熊谷にすっかり反応するようになっていた。  一旦離れた熊谷の唇が、麒麟の首筋を伝い、鎖骨から徐々に胸の先端へ下りていく。 「ん……っ」  胸の尖りを甘く吸われると、麒麟の背が緩く撓った。いつもより控えめな刺激が却ってもどかしい。思わず「もっと」と口にしてしまいそうになるのを、麒麟は必死に堪えた。 「あんまりじっくり時間かけてやれねぇけど、大丈夫か?」  その目に劣情を滲ませながらも、熊谷は麒麟の身を案じて、真剣な声で問い掛けてくる。大丈夫も何も、スウェットの上から触れられた下肢はとっくに熱を帯びていて、麒麟は気恥ずかしさに軽く顔を背けて頷き返した。  ウエストに手を掛けた熊谷を手伝うようにして腰を浮かせ、麒麟の下肢から下着ごとスウェットが取り払われる。室内の空気に晒されてヒヤリとした下肢が、既に前も後ろも熊谷を欲して濡れているのが自分でもわかる。誤魔化すように膝を立てると、熊谷に呆気なく足首を掴まれて暴かれた。 「……慣らす必要ねぇか」  もう濡れてる、と意地悪く揶揄う熊谷の指が浅く麒麟の中に挿り込んできて、ビクリと腰が跳ねる。 「や……っ、いちいち、言わなくてイイ、から……っ」  身体中が熊谷の熱を欲していることくらい、麒麟が一番よくわかっている。  入り口を解すように、浅い箇所を熊谷の指が何度も行き来する。駄目だとわかっているのに、もっと深い場所まで来て欲しくて、麒麟はシーツに爪を立てて欲求を押し殺した。  そんな麒麟を見下ろして、ふと熊谷が手を止めて苦笑する。 「だから、触りたくなかったんだ」 「え……?」  視線を上げた先で、熊谷は何かを堪えるように眉根を寄せた。 「そんな顔見たら、箍外れそうになるだろうが」  グ…、と不意に二本の指で後孔が拡げられ、熊谷の太い先端が押し当てられる。咄嗟に息を呑んだ麒麟の中に、熊谷がじわじわと挿り込んできて、散々待ち侘びた熱に麒麟は声にならない悲鳴を上げた。 「…────ッ!」  いつもなら覆い被さってくる熊谷が、麒麟の両脇に手を突いて身体を支えている。それが、麒麟に負担を掛けない為だということは、少ししてから気が付いた。  普段の半分ほどの深さまで来たところで、熊谷の動きがピタリと止まる。  ────いやだ、もっと……。  より深くまで咥え込もうと無意識に浮かせた麒麟の腰を、熊谷が「こら」と片手で掴んで制する。 「あっ、ゃ……奧、欲し……っ」  もどかしさに身悶える麒麟の両手を抑えつけるようにして、熊谷が熱い息を落とした。 「馬鹿言え……俺だって、必死で堪えてんだ」  飢えた獣のようにその目をギラつかせながら、熊谷はそれとは対照的な動きでゆっくりと浅い箇所を突き上げる。  最奥まで満たされる感覚を身体が覚えているだけに、麒麟の本能が物足りないと強請っていたけれど、ギリ…と音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めて衝動を抑えている熊谷の表情に、胸が詰まって苦しくなった。  その名の通り、見た目は熊みたいに厳ついのに、熊谷はいつだって優しい。そんな熊谷だから、麒麟は彼を好きになった。  ……そうだった。いつも麒麟を溶けそうなほど甘やかしてくれる熊谷に、麒麟も甘えて貰いたいんだった。 「……勝吾さん……っ」 「………ッ!」  目の前の太い首に縋りつき、初めてその名を呼んだ直後。耳許で熊谷が息を詰めると同時に、麒麟の中で熱が爆ぜるのがわかった。 「───…っ、くそ……お前、今のは卑怯だろ……っ」  麒麟と額を突き合わせて、熊谷が悔しげな声を漏らす。一方、初めて自分より先に熊谷が達してくれたことに、麒麟は「やった」と力無く笑った。  その後、いつもと違う箇所を何度も攻められて麒麟は散々啼かされる羽目になったけれど、最後まで熊谷に強く握られていた手から溢れる幸福感に、麒麟の胸はどこまでも満たされていった。 「本当に大丈夫か?」  Tシャツの上から麒麟の腹へそうっと触れた熊谷が、まだ外からは微かにしかわからない胎動を感じてホッと安堵の息を吐く。────この一連の流れが、かれこれもう五回繰り返されている。  行為の後、熊谷は「身体冷やすな」と手早く後処理をした上に、服まで着せてくれた。結局最終的には、やっぱり麒麟が甘やかされてしまっている。  麒麟の身体と胎児を交互に延々気遣っている熊谷に、麒麟はふと月村の言葉を思い出して小さく噴き出した。 「……何だよ?」 「いや……月村先生ってやっぱり熊谷さんのこと、よくわかってるなあと思って」 「どういう意味だ? ……アイツ、また何か変なこと言ったんじゃねぇだろうな」  過去に月村から酒の席での失態を暴露されたことをまだ根に持っているらしい熊谷が、露骨に嫌そうな顔になる。 「大丈夫、そういう話じゃないから。……熊谷さんは親バカになりそうだって、月村先生が」 「親が子供の心配して何が悪ぃんだ。そういうアイツも、普段はサディストな癖して、携帯の待ち受けは自分の子供の写真だからな」 「え、そうなの!? ……月村先生がお父さんしてるとこって、やっぱ想像出来ない……」  読めないなあ…、といつも隙を見せない月村の不敵な笑みを思い浮かべながら、麒麟は苦笑する。そんな麒麟の腹をずっと撫で続けていた熊谷が、不意にその手を止めて、「……悪かった」と呟いた。 「……え?」  何が?、と首を傾げる麒麟の身体を、熊谷が腕の中に抱き込む。 「もっと早く、お前との時間取ってやれば良かったと思ってな」 「ああ……俺はむしろ、充分過ぎるくらい大事にして貰ってるよ。だけど、熊谷さん最近ずっと忙しそうだったし、俺も少しは何か返せたらなって思って────って、しまった!」  言葉の途中で思わず半分身を起こした麒麟を、熊谷が何事かと目を瞬かせながら見上げてくる。 「熊谷さん、晩飯まだなのすっかり忘れてた……ゴメン……」  壁の時計はもう十二時になろうとしている。  何かを返すどころか、疲れているところにまた甘やかして貰っている挙げ句、夕飯まで奪ってしまっていたことに気付いて麒麟はサアッと青褪める。  それを見て笑った熊谷が、再び麒麟の身体を抱き戻した。 「空腹なら我慢出来るが、お前は我慢出来ねぇからな」 「……その言葉は嬉しいけど、今日の揚げ出し豆腐、ちょっと自信作だった……」 「なら後で食う」  言いながら、熊谷は一向に麒麟を腕の中から放そうとしない。まるで子供がお気に入りのぬいぐるみを手放したがらないような、そんな雰囲気の熊谷が珍しくて、麒麟は一体どうしたのだろうと思いつつ、熊谷の背中を抱き返す。そうして暫く互いの温もりを堪能していた熊谷が、ボソリと零した。 「……お前を独占出来るのも、もうあと数ヶ月だからな」 「独占……?」 「だってそうだろ。幾らお前を手伝うって言っても俺は仕事がある以上、お前の方が子供と接する時間は多くなるし、子供ってのは母親にベッタリなモンだからな」 「え……それって、ちょっとしたヤキモチってこと?」 「……もちろん、子供が産まれんのは楽しみなんだぞ? けどまあ、先々お前の取り合いになりそうな気がしないでもない」  ギュ、と麒麟を抱く腕に力を込めて、熊谷が少し拗ねたような口調で言う。  そんなことを言いながら、いざ子供が産まれたら絶対今の麒麟みたいに、ベタベタに甘やかすに決まっている。熊谷は、そういう男だ。  育児に奮闘する熊谷を早く見てみたいけれど、もう少し二人きりの時間も満喫したい。贅沢な悩みだな、と熊谷に出会う前の自分からは想像も出来ない環境に、思わず目を細めた。 「そう言えば今日、病院で熊谷さんの迎え待ってるときに月村先生から言われたんだけど、もうそろそろ子供の性別、わかるんだって。事前に知りたいかどうか、次の健診までに決めておいてって言ってたけど、どうする?」  熊谷は、返答に悩んで暫し「うーん……」と唸りながら考え込んでいた。 「……知りてぇ気もするが、産まれるまでの楽しみに取っときたい気もするな」 「わかる。でも俺、もしも子供が女の子だったら、女らしく育てる自信全然無いんだけど……」 「確かに、お前に似たらすぐに口も手も出る女になるだろうな」  冗談めかして笑う熊谷を、どういう意味、とジロリと睨む。 「けどまあ、元気に産まれてくれりゃ、どっちでもイイんじゃねぇか? 聞いたところで、既に性別は決まってんだしな」 「……うん。じゃあ、月村先生には出産日まで内緒にしててってお願いしとく」 「今はもうちょっと、俺とお前の時間を満喫させて貰おうぜ」  麒麟の顔のあちこちへ送られる熊谷からのキスを受け止めながら、麒麟は両手をそっと腹へと添えた。  ────産まれてきたら絶対幸せにするから、もうちょっとだけ、この人俺に独り占めさせて。  しょうがないな、とでも言うように、腹の中から小さな足が、麒麟の手をポコンと蹴り飛ばした。

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