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番外編 森のアルファさんとオメガさん

「すいませーん」  夕飯の買い出しの為、商店街にある真山(まやま)鶏肉店を訪れた麒麟がショーケース越しに声を掛けると、店の奥で作業していた真山夫妻が、揃ってこちらを振り返った。 「あら、麒麟くん。いらっしゃい」  作業の手を止めて、妻の圭子が店先に出てきてくれる。 「今日は一人? 熊谷くんは一緒じゃないの?」 「はい。もう安定期入ってるし、体調良いときは適度に散歩も必要かなと思って」 「じゃあお腹の子は順調なのね。良かったわ、楽しみねぇ」  まるで自分の孫が生まれるかのように、圭子は目尻を下げた。  麒麟は、現在妊娠六ヶ月に入ったばかり。妊娠経過は至って良好で、感じる胎動も日に日に強くなっていた。  この数田美町は小さな町なので、麒麟の妊娠はあっという間に町中に広がり、こうして顔を合わせる度に皆が麒麟の身を案じながらも、新しい命の誕生を心待ちにしてくれている。  Ωの自分が、周囲から期待してもらえたり、喜んでもらえる日が来るなんて思ってもみなかったから、少しばかり擽ったい。けれど、麒麟の中に宿る命が皆に望まれて生まれてくることは、この上ない幸せだ。 「唐揚げ用のモモ肉、300グラムください」 「今夜は唐揚げ?」 「お前さんとこの旦那はよく食うだろう。それに母親になるなら、自分もしっかり食わんとな」  店の奧で鶏を捌いていた真山が、ふと手を止めて口を挟んだ。クスリと笑った圭子が、秤の上にモモ肉を更に追加する。目盛りは、350グラムを超えていた。 「おまけしとくわね。しっかり食べて、体力つけて頂戴」 「え、こんなに?」 「だって元気な子を産んでもらわなきゃ」 「すいません、ありがとうございます」  店主の真山にも届くように少し声を張って礼を言うと、次から次へと鶏を捌く手を動かす真山から「おう」と短い返事が返ってきた。 「なんか、今日随分忙しそうですね」  会計の合間、麒麟はひっきりなしに手を動かす真山の背中を見つめていた。  真山だけでなく、今日の商店街は何だかどの店も、いつもより慌ただしそうに見える。  商店街を行き交う客の姿は相変わらずまばらなのにどうしてだろうと思っていると、圭子が「今日は特別なのよ」と教えてくれた。 「麒麟くんは、明日のお祭りには行かないの?」 「祭り……?」 「あら、知らない? 明日は、神社で年に一度の豊穣祭があるのよ。神社の周りに屋台が並ぶんだけど、この商店街からもいくつか出店するから、みんなその準備に忙しいの。いつもは寂しい町だけど、お祭りのときだけは毎年賑わうのよ。うちも自慢の焼き鳥を出すから、良かったら熊谷くんと一緒に食べに来てね」  にこやかな笑顔と共に、注文より随分多い鶏肉が入った袋を、圭子がケース越しに手渡してくれる。  改めて真山夫妻に礼を告げて、麒麟は商店街を後にした。  ───祭りなんかあるんだ。  神社の存在はこの町に来たときから知っているけれど、いつも無人で、田んぼに囲まれてポツンと建っている印象しかなかった。  帰り道に何となく神社の方を見てみると、行きには気付かなかったが、神社の石段では数人の男性が集まって、提灯を取り付ける作業をしていた。 「……熊谷さん、一緒に行けるかな」  自宅へ続く脇道へ逸れながら、ポツリと独り言ちる。  前回の健診以降、二人きりの時間はもう後僅かだからと、熊谷は週に二日ほど、麒麟とゆっくり過ごす時間を作ってくれるようになった。  熊谷は、現在受注にもある程度制限をかけているようだったが、それでも注文が無くなったわけじゃない。既に予約は数ヶ月待ちの状態だが、それでも熊谷の作るガラス細工を待ってくれている人が、数多く居る。  望んでくれる人に、一人でも多く、作品を届けたいのは熊谷も麒麟も同じだ。熊谷の作るガラス細工で癒される人が居ることは、麒麟にとっても嬉しい。  けれどその分、制作に打ち込んでいるときの熊谷は本当に忙しそうなので、その身体のことを思うと、休めるときには少しでも休んで欲しいとも思う。 「ただいま」  帰り着いた自宅の玄関を開けると、熊谷が丁度バーナーの火を止めたところだった。 「おお、早かったな」 「そう? のんびり歩いてたから、一時間半はかかってるけど」  麒麟の返答を聞いて壁の時計を見上げた熊谷が「もうこんな時間か」と額を拭った。  てっきり顧客からの注文品を作っていたのかと思いきや、熊谷が持つピンセットに抓まれているのは、小さなキリンだ。  冷ましたそれを、熊谷は壁際の棚にちょこんと置いた。そこには、麒麟が初めて発情期を迎えたときに熊谷が作ってくれた、徐々に小さくなっていくキリンのマトリョーシカが並んでいる。  その隣には小指の先くらいのキリンと、それより一回り大きい、たった今熊谷が置いたキリンが二頭、仲良く並んでいた。言うなれば、今度のは逆マトリョーシカだ。 「今の、商品じゃなかったんだ」 「ちょっと息抜きに作ってた」 「今度のは段々大きくなんの? ……あ、もしかして」  答えの代わりに、熊谷が少し膨らみ始めた麒麟の腹を撫でた。 「まあ、元気にデカくなるようにな」 「……ありがと。熊谷さんの願掛け効くから、きっと元気に育つよ」  キリンみたいに首を伸ばして、熊谷の唇へ感謝と労いのキスを贈る。 「商店街の真山さんとこでも、元気な子産んでっておまけしてもらった」 「そりゃ有難ぇな」 「あのさ。真山さんから、明日、神社で祭りがあるって聞いたんだけど……」  躊躇いがちに切り出すと、熊谷は「そういやそんな時期か」と思い出したように呟いた。 「……もう、あれから四年か」  大小様々なキリンが並んだ棚を見詰めて、熊谷が懐かしむように目を細める。その棚は、熊谷がガラス細工を始めた当初の作品や、思い入れの強い作品が並んでいる、彼のお気に入りコレクション棚だ。  その棚の一番上には、まだ駆け出しの頃に作ったという、今より随分いびつな形の動物や植物がいくつも並んでいる。  その中にたった一つ、麒麟にはどうしても異色に見える作品があった。  バースデーケーキの上に乗っかっていそうな、二頭身のクマのガラス細工。初めて見たときから、何となくそのクマだけが、熊谷の作品とは雰囲気が違うような気がしていた。 「四年前の祭りで、何かあったの?」 「ああ、いや……俺がガラス細工始めたきっかけが、そこだったからな」 「え? 祭りがきっかけ?」  意外な答えに目を瞬かせる麒麟の前で、熊谷は棚から異色のクマのガラス細工を手に取った。 「コイツが俺っぽいって、祭りの屋台で買ってもらったんだよ」 「それ、やっぱり熊谷さんの作品じゃなかったんだ」 「なんだ、気付いてたのか?」 「それだけ、熊谷さんぽくない感じがして。慣れてない頃の作品だからかなって思ってたんだけど」 「お前は俺のことよく見てるな。芳さん曰く、俺は『ガラスっぽい』んだとさ」 「芳さん……?」  聞き慣れない名前に首を傾げる。 「お前は、まだ会ったことなかったか。毎年田植えのときは炊き出しに来てくれるんだが、今年は子供が熱出してて不参加だったからな。───月村のパートナーだよ」 「月村先生の? ……そっか。熊谷さんは月村先生と仲良いから、先生のパートナーのことも知ってるんだよね」  月村にパートナーが居ることは初対面のときに聞いていたし、前回の健診で、二人の間に三人も子供が居るということも知った。けれどやっぱり麒麟には、月村のプライベートが全く想像出来ない。勿論、そんな月村のパートナーだという人に関しても同じだ。  その人が、まさか熊谷がガラス細工を始めるきっかけをくれたなんて。  熊谷からは、この町に来る前のことも話してもらったし、聞けば何でも答えてはくれるけれど、まだまだ自分は熊谷に関して知らないことがあるのだと思い知らされた。 「……月村先生のパートナーって、どんな人?」  麒麟が訊ねると、熊谷は「そうだなぁ」と無精髭の生えた顎を擦った。 「一言で言うなら、ぶっ飛んだ人だ。いい意味でな」 「ぶっ飛んだ人……?」  いつも白衣姿でクールなイメージの月村の隣に居るのが、ぶっ飛んだ人?  思い浮かべてみようとするが、麒麟の乏しい想像力では全く追いつかない。  ビビッドカラーの奇抜なデザインの服を纏い、「?」マークの顔をした陽気な人物が、麒麟の頭の中で笑いながらビヨンビヨンと飛び跳ねている。……いや、さすがにこんな人選ばないって。  眉間に皺を寄せて首を捻る麒麟の髪を、熊谷が笑いながらくしゃりと掻き混ぜた。 「月村の相手が務まるのは、あの人くらいしか居ねぇよ。まあ明日の祭りで、芳さんにも会えると思うぞ」 「え? 熊谷さん、祭り一緒に行ってくれるの? 忙しそうだし、何なら亮太誘ってみようかと思ってたんだけど……」  麒麟の言葉を遮るように、熊谷の大きな拳が、麒麟の額をコツンと小突いた。 「寂しいこと言うなよ。お前と二人きりで行ける祭りは、今年しかねぇんだからな」  大きな身体で、少し拗ねた顔をする熊谷に、愛おしさで胸がギュッとなる。 「……そうだった。ごめん」  自分よりずっと年上のパートナーを、麒麟は強く抱き締めた。  初めて熊谷と出掛ける祭りも楽しみだけれど、そこでまた、麒麟の知らない熊谷を見つけたいと思った。  見慣れない光景に、麒麟は一瞬、別の町にやってきたのかと錯覚しそうになった。  外灯も少なく、夜になると静かな闇に包まれる田畑の中に、神社はいつもひっそりと佇んでいる。  なのにこの日はどうだろう。  古びた石段に並ぶ提灯を中心に、周辺にズラリと並ぶ屋台の灯りに包まれて、神社一帯が明るく輝いている。今日だけは、神社がこの町のシンボルみたいになっていた。  おまけに、いつもならこの時間帯に出歩いている人間はほとんど居ないのに、屋台の前には多くの人が行き交っていて、日頃聞くことのないざわめきが響いている。 「すご……ここ、ホントに数田美町……?」  正直、この町の祭りなら精々商店街から数軒の屋台が並ぶ程度のものかと思っていたが、神社前の通りには五百メートルほどにわたって様々な屋台がズラリと軒を連ねている。 「俺も初めて来たときは、同じこと思ったな。屋台も客も、今日だけは隣町から出て来てたりするらしい」 「こんな本格的だとは思わなかった」  東京に居た頃は祭りになんて特に興味もなかったのに、目の前に並ぶ屋台を見ていると、胸がソワソワと浮足立ってくるのがわかる。  大好きな人と、大好きな町の祭りに来られたからなんだろうか。麒麟の気持ちに同調するように、内側から腹を蹴る動きが激しくなった。 「寒くねぇか?」 「大丈夫だけど、さっきから超蹴ってる。賑やかなの、聞こえてんのかな」 「自分にも何か食わせろって暴れてんのかも知れねぇぞ」 「じゃあ後で真山さんとこの焼き鳥食ってやろ」  そうやって笑い合いながら屋台を眺めて歩いていたとき。 「勝ちゃーん!」  突然背後から、聞き慣れない声が飛んできた。  熊谷と揃って振り返ると、小さな女の子と手を繋ぎ、更にもう一方の腕にはもっと小さな子供を抱いた人物が、こちらへ向かって歩み寄ってくるところだった。  長い黒髪を少し高めの位置でラフに纏めたその相手は、細身な上に中性的な顔立ちで、一見女性のように見えたけれど、近くまで来てやっと自分と同じ男性のΩだとわかった。  ───男のΩ……?  この町で、自分以外のΩには会ったことがない。ということは……。  もしかして、と麒麟が口を開くより先に、彼が麒麟の顔を見て「あーっ!!」と目を輝かせながら叫び声を上げた。  周囲の人が一瞬何事かと視線を向けてくるのも気にせず、彼はズイッと麒麟の目の前にやってくると、切れ長の細い目を更に細めて人懐っこい笑みを浮かべた。 「キミ、勝ちゃんとこの『麒麟くん』でしょ!?」 「し、勝ちゃん……?」 「やっと会えた~! 落ち着くまで待ってって英ちゃんから止められてたから我慢してたけど、ずっと会いたかったんだよ」 「英ちゃん……?」  妙にフレンドリーに話しかけられているが、耳馴染みのない呼び名が次々出てきて訳がわからない。  対応に困る麒麟の横で、熊谷が宥めるように男性の肩を叩いた。 「芳さん、それくらいにしてやってくれ。固まってるぞ」  えー、と不満げに口を尖らせる男性の顔を改めて見つめながら、熊谷の言葉を反芻する。  麒麟と同じΩで、子供が居る『芳さん』。 「……もしかして、この人が月村先生の……?」 「初めまして、芳だよ。いつもうちの英ちゃんがお世話してまーす」  初対面とは思えないノリで、芳が悪戯っぽく片目を閉じる。 「うちの英ちゃん」と言われて、それがやっと月村のことを言っていたのだとわかった。ということは、「勝ちゃん」は熊谷のことなんだろう。  ……この人が、月村先生の……。  今度は自分の言葉を頭の中で繰り返しながら、呆然と芳の顔を見る。  別に奇抜な格好をしているわけでも、意味もなく飛び跳ねているわけでもないけれど、率直な感想を一言で言うなら「意外」だった。  いつも冷静な月村と、目の前でニコニコしている芳は、全く正反対のタイプに見える。しかもあの月村が「英ちゃん」なんて呼ばれ方をしていることに驚いた。 「麒麟くんだから、キリちゃん? リンちゃん? どっちだろ」 「別に無理に略す必要ねぇだろう」 「だってなんか他人行儀じゃん。よし、じゃあ誰も呼んでなさそうなキリちゃんにしよう。よろしくね、キリちゃん」 「えっ、キリちゃんって俺……!?」  芳に顔を覗き込まれて、ハッと我に返る。  ……何なんだろう、この人は。  この町の人たちは基本的に皆友好的だけれど、芳はその中でも群を抜いている。  そもそも『麒麟』という名前は昔から揶揄われるばかりだったので、逆に愛称で呼ばれたことなんてない。なのに初めて会った途端、「キリちゃん」なんていう背中がムズムズするような呼び名を付けられてしまった。  こんな風にいきなりグイグイ踏み込まれることはあまり好きではなかったはずなのに、芳に対しては何故か嫌悪感は湧かなかった。彼の人柄なんだろうか。  不思議な人だな、とぼんやり見つめる麒麟の前に、芳が手を繋いだ少女を促した。芳と同じくらい長い髪を、綺麗に編み込んでもらっている。 「ほら、花芳(かほ)も勝ちゃんとキリちゃんに挨拶しよ」 「……こんばんは」  気恥ずかしそうに、か細い声で言いながらチラリと麒麟たちを上目遣いで見上げて、花芳と呼ばれた少女はすぐに芳の背後に引っ込んでしまった。 「ごめんね、なんか最近人見知りするようになっちゃって。ちなみにこっちは次男の(つかさ)です、キリちゃん初めまして~」  まだ話せないのか、芳が抱きかかえた子供の手を握って軽く振って見せた。 「そっちは司の方か。相変わらずどっちかわからねぇ。(あきら)は一緒じゃねぇのか?」 「出てくるときまだ寝てて、起きたら英ちゃんが連れてくるって」 「花芳も大きくなったな。この髪、芳さんが編んでやってんのか?」 「そうだよ。服も靴も自分で選びたがるし、髪型も手ぇ抜くと怒られるし、女心って超難しい」 「……女の子って、そんな感じなんだ」  身を屈める熊谷から逃げるように、芳の脚にしがみつく花芳の姿を見て、ふとそんな呟きが漏れた。  麒麟の中で育っている我が子が女の子だったなら、数年後にはこんな光景が自分たちの間でも当たり前になるんだろうかと思ったのだ。  そんな麒麟を見て、芳が「そうか!」と思い出したように声を上げた。 「キリちゃん、オメデタなんだよね? お腹、触ってもいい?」 「えっ、あ……大丈夫です」 「勝ちゃん、ちょっと司お願い」  隣の熊谷に抱いていた司を託して、芳は麒麟の正面にしゃがみ込むと、両手でそっと包むように腹へと触れてきた。上着の上からなのに、芳の手の温もりがじわりと伝わってくる気がする。  蹴ってる、と笑って、芳は愛おしむように麒麟の腹を撫でた。 「英ちゃんが守ってくれるから、元気に産まれてくるよ。そしたら、いっぱい遊ぼうね」  自分の子供に向けるみたいに、芳が優しく語りかける。その表情を見て、麒麟は芳の距離感を不快に思わなかった理由が、何となくわかったような気がした。  ───大事に、してくれてるんだ。  熊谷のことも、初めて会う麒麟のことも、それからこの先産まれてくる、麒麟たちの子供のことも。  危なっかしいと度々叱られるけれど、それでもいつも麒麟の身体を気にかけてくれる月村と同じだ。  だから、月村は芳に惹かれたんだろうか、なんてぼんやり考えていると、突然隣で甲高い泣き声が上がった。熊谷に抱かれた司が、必死にあやすその顔を見て大泣きしている。 「おい、なにも人の顔見て泣くことねぇだろ」  熊谷は困惑顔で、宥めるように司の背を撫でたり軽く体を揺すったりしているが、泣き声は大きくなる一方だ。 「どしたの、司。勝ちゃんのこと知ってるじゃん」  苦笑しながら芳が立ち上がったとき。 「いきなり熊に抱えられたら、大抵の子供は泣くよ」  祭りの喧騒に混ざって、よく知る落ち着いた声が届いた。声のした方を振り返ったところで、今度は麒麟が、熊にでも出くわしたように愕然とすることになった。 「つっ、月村先生!?」  白衣の代わりに薄手のコートを羽織った私服姿の月村が、司と同じ顔をした子供を抱いて立っている。  いつも白衣を纏って、冷静沈着で、時々厳しかったり意地悪だったりして、本心もプライベートもいまいち読めないミステリアスな月村が。 「……先生が……休日のお父さんみたいになってる……!」 「なにその例え。ていうか、僕が子持ちだってこと、前に話したよね?」 「だって、見ると聞くとじゃ大違いっていうか……!」  動揺する麒麟と、それに呆れる月村の間で、芳が声を上げて爆笑している。 「アハハ! キリちゃんの反応、生まれたばっかの花芳抱いてる英ちゃんを初めて見たときの、英里義姉さんと同じだ!」 「芳さん、笑ってないで司を熊から助けてやって。大体どうして熊谷が抱いてるの」 「あ、ごめんごめん。ちょっとキリちゃんとスキンシップしてた」  芳の腕に戻った途端、司の泣き声がピタリと止んだ。そのままギュウっとその肩にしがみつく姿を見て、母親って凄いなと感心してしまう。  一方、離した直後に泣き止まれた熊谷は複雑そうだ。 「よっぽど熊が怖かったみたいだね」 「うるせぇ。熊で悪かったな」 「まあ、司はお母さん子だから僕でも泣くんだけど」 「なら熊は関係ねぇだろ!」 「安心しなよ。あと半年もしたら、君たちだってこうなるんだから」  いつものように熊谷を揶揄った月村が、麒麟と熊谷を交互に見遣った。そんな月村の隣に並んだ芳が、懐かしそうに微笑む。 「思い出すなー。英ちゃんと勝ちゃんと三人で祭りに来たときは、俺のお腹に花芳が居たんだよね」 「……それって、もしかして熊谷さんがクマのガラス細工貰ったっていう……?」  昨日熊谷が見せてくれたガラス細工を思い出して問い掛けた麒麟に、芳が「そうそう」と頷いた。 「もうあのガラス細工の屋台、二年前から無くなっちゃったんだけどね」 「この町には熊の職人が居るから、撤退したんじゃないの」 「あ、そうか。勝ちゃんも屋台出せば?」 「そんな余裕ねぇよ」  苦笑交じりに熊谷が肩を竦める。  ───ここが、熊谷のガラス細工が始まった場所。  麒麟がまだ知らない、熊谷が居た場所。 「……俺も、もっと早くここに来たかった」  まだ十九の自分から見ると、目の前の熊谷たちが随分遠くに感じて、無意識に本音が零れた。  熊谷と月村と芳、三人の視線が一斉に集まって、真っ先に芳が噴き出す。 「かっっっっわいい!! キリちゃん、超可愛い! 抱き締めたい!」 「それは熊谷に任せておけばいいから落ち着いて」  本当に司ごと麒麟に抱きつきそうになった芳を月村が制して、代わりに熊谷が大きな掌をポンと麒麟の頭に載せた。 「俺らはこれからだろうが」 「そうだよ、キリちゃん。思い出って、どんどん増やしていけるものだからさ。それに、俺たちは勝ちゃんがガラス細工始めるきっかけにはなったかも知れないけど、勝ちゃん、キリちゃんに会うまで、ガラス細工作ってても今みたいに楽しくなかったでしょ」  芳に問われて、熊谷が決まり悪そうに視線を泳がせながら項を擦る。困ったときの、熊谷の癖。  出会ったばかりの頃、作品を作り続けることを熊谷は「贖罪」だと言っていた。 「ガラス細工にハマっても、勝ちゃんはずっと何かを埋めるみたいに、必死で夢中になってる感じだった。そんな勝ちゃんを幸せにしたのは、キリちゃんなんだよ。だから俺、ずっとキリちゃんに会いたかったんだよね」 「何かにつけて押し掛けようとしてたから、取り敢えず麒麟くんが安定期に入るまでは僕が止めてたんだよ」 「芳さんと月村には、何話されるかわからねぇから俺も複雑なんだがな……」  苦い顔をする熊谷を横目で見て、芳がニヤリと口端を持ち上げる。 「キリちゃん、勝ちゃんが作業してて暇なときはうちに遊びにおいでよ。ゆーっくり喋りたいしさ」 「え、いいんですか?」  窺うように月村の顔を見る。 「僕は当直のとき以外は夜まで居ないし、芳さんはこの通り常に喋ってたい人だから、麒麟くんが犠牲になってくれるなら歓迎だよ」 「ちょっと英ちゃん、犠牲って酷くない?」 「喋る内容はともかく、芳さんからは料理も習えるぞ」 「あ、なになに? キリちゃん、料理好きな子?」  芳に顔を覗き込まれて、今度は麒麟が視線を泳がせる羽目になった。  出産後にも備えて料理は日々練習してはいるものの、熊谷の方が元々料理上手なこともあって、麒麟の腕はなかなか上がらない。  麒麟が四苦八苦して作る料理も、熊谷は三分の一くらいの時間で作ってしまう。 「嫌いじゃないんですけど……得意ではないです」 「だったら、俺で良ければいくらでも教えたげるよ」 「俺の料理も、芳さん仕込みだからな」 「え、そうなの!?」  熊谷と芳を交互に見遣って目を瞠る麒麟に、芳は何でもないことのように「そうだよー」と笑って頷いた。  熊谷にガラス細工のきっかけを与えて、料理も得意で、三人も子供を育てていて。飄々として見えるけれど、芳はさすが月村のパートナーだ。 「ガラスっぽい」と熊谷に言ったという芳の気持ちも、麒麟にはよくわかる。  特に出会った頃の熊谷は、見かけに寄らずずっと胸に深い傷を隠していた。今でも事あるごとに麒麟を優先して甘やかしてくれる熊谷の心は、もしかすると麒麟よりずっと繊細なのではと思う。 「おかーさん」  これまで大人しく芳に寄り添っていた花芳が、クイ、と繋いだ手を引っ張った。 「わたあめ、ほしい」  小さな手が指差す先で、屋台の軒先に吊り下げられた、アニメキャラや特撮ヒーローがプリントされた綿あめの袋が揺れている。 「いいけど、花芳綿あめ好きだっけ? 去年口ベタベタになったって泣いてなかった?」 「花芳が欲しいのはプリティーマジックの袋じゃないの」  サラリと口を挟んだ月村の言葉に、花芳が黙ってコクリと頷いた。 「英、少し歩く?」  綿あめの袋に釘付けになっている花芳につられるように、腕の中でじたばたし始めた英を月村が地面に下ろす。  自然に娘の好きなアニメの名前を口にして、まだ危なっかしい足取りで歩く息子を見守っている月村は、優しい父親の顔をしていた。 「……なんか、ちょっと安心した」  月村一家の姿を眺めながらポツリと呟いた麒麟を、熊谷が「安心?」と隣から見下ろしてくる。 「なんていうか、月村先生もあんな顔するんだなーって」 「アイツがただのドSな医者じゃねぇのは、芳さんのお陰だろうな」 「芳さんに声掛けられたときは、正直ちょっとビックリしたけど、今はあの二人、凄くお似合いだなって思う」 「だから言っただろ。月村の相手が務まるのは、芳さんくらいだって」  一見両極端に見える月村と芳。  けれど、少し意地悪な月村と、それに笑顔で応じる芳は、揃っているとまるでパズルみたいにかっちりと組み合って見えた。  自分たちも、こんなカップルに……こんな家族になりたい。 「……俺は?」 「ん?」 「俺も、熊谷さんにあんな顔して欲しい。俺、ちゃんと熊谷さんの一番になれてる?」  虚をつかれたように目を瞬かせた熊谷が、フッと笑みを浮かべて麒麟の項に手を添えた。熊谷との繋がりが刻まれた場所。  そのまま軽く抱き寄せられて、熊谷の唇が耳許で囁いた。 「俺が今思ったこと、言ってやろうか。───早く帰って、身体に教えてやりてぇ」  耳に直接吹き込まれたバリトンに、思わず背中がゾクリと震える。 「……っ、俺、真面目に聞いたのに」 「俺だって真面目に答えてるぞ」 「……焼き鳥食べたら、帰ろ」 「焼き鳥は食うのか」 「だって真山さんにお礼したいし、折角だから何か、食べさせてやりたい」  小さい身体で暴れながらその存在を主張し続けている我が子に、そっと服の上から手を添える。  後数ヶ月後には、さっきの司のように、泣き止まない子供に翻弄される熊谷が見られるんだろうか。  子供をあやす熊谷の姿は、何だか未来を見ているようだった。泣かれる熊谷が少し気の毒なような、でも楽しみなような。 「あれ、勝ちゃんたちもう帰るの?」  こっそり歩き出そうとした背中に、芳の声が引き留める。更にそんな芳の首根っこを、月村が軽く掴んで制した。 「芳さん、そろそろ馬に蹴られるよ。熊にも新婚生活くらい満喫させてあげないと」 「熊は余計だって言ってんだろ!」 「まだ喋り足りないのにー。キリちゃん、今度ゆっくり遊びにきてね。俺の英ちゃんの惚気聞いてくれる相手が欲しいから!」 「芳さん、家帰ったら点滴しようか」  怖いくらいの笑顔を浮かべた月村に、芳が引き摺られるようにして連行されていく。  初めての妊娠で不安もあるけれど、芳という明るくて頼もしい先輩にも出会えた。  麒麟の知らない熊谷の一面は、きっとまだまだあるだろう。でも熊谷の過去は、やっぱり熊谷の口から直接聞きたい。芳が言っていたように、熊谷との時間はまだまだこれから、ゆっくり紡いで重ねていけばいい。  だからせめて、芳の前では自分も負けないくらい熊谷の惚気を語ってやろうと心に決めて、麒麟は大きくて愛おしい手をギュッと握り締めた。

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