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番外編 春明け

 時々、春の夢を見る。  まだ閉じた蕾の方が目立つ桜並木。その先には、線の細いスーツ姿の背中がある。  熊谷が、かつて密かに想いを寄せていた男。  彼と桜並木を歩いたことなど一度もないし、そもそもプライベートで出かけたことすらない。  なのにいつも春の景色の中に彼が居るのは、熊谷の時間がずっとそこで止まっていたからだ。  かつてはハッキリと見えていたはずの後ろ姿。  だが、今はその輪郭がぼんやりと滲んでいて、春霞に紛れようとしている。  ぼやけた後ろ姿が、ゆっくりと一歩ずつ、桜のアーチを抜けて遠ざかっていく。  数年前の自分なら、必死にその背を追っていた。追わなければならないと思っていた。  けれど、熊谷はジッと佇んだまま、徐々に遠ざかる背中を見詰める。隣から、不意にそっと手が握られた。  首を捻ると、焦げ茶色の瞳が熊谷を見上げて微笑んでいる。  ───そうだ。今の俺には、この手がある。  熊谷よりも華奢で細いけれど、力強い手が「大丈夫」とでも言うように、キュッと熊谷の手を握り込んだ。  そして、逆の手が熊谷の頬へと伸びてくる。  見た目を気にする必要もなくなり、すっかり無精が板についた短い髭の感触を楽しむように撫でた後。その手がスルリと首筋を辿って、胸元まで下りてきた。  厚い筋肉の上を這う手は、そのまま腹筋へ移り、思いの外大胆に、更に下へと伝おうとする。 「おい、ちょっと待て……!」  こんな場所でさすがに何を、と熊谷がギョッと目を瞠ったとき。  ───桜並木の春の風景が一変し、視界には見慣れた天井が広がっていた。  下半身にズッシリとした重みと温もりを感じて、軽く首を起こす。  いつの間にかソファでうたた寝してしまっていたらしい熊谷の上に、麒麟が乗っかっていた。その手は、熊谷のTシャツの裾を今正にたくし上げようとしている。 「あ、ごめん。起こした?」  悪戯がバレた子供みたいに、麒麟がペロリと舌を出す。 「起こした……って、人が寝てる間に何してんだ」 「だって勝吾さん、俺が怜央寝かし付けて戻ってきたら、爆睡してるから」 「なら、声掛けりゃいいだろうが」  呆れたため息と共に麒麟の下から這い出そうとした熊谷の肩が、制するように押し戻された。  体格差もあるので抗うことは容易だが、麒麟の意図がわからず熊谷は目を瞬かせる。そんな熊谷を見下ろす焦げ茶色の瞳が、キラリと光った。 「起こそうとも思ったけど、よく考えたら俺、いっつも熊谷さんに乗っかられるばっかじゃん? だからたまには、俺が乗っかってもいいかなって」  言いながら身を屈めた麒麟の顔が、鼻先に迫ってくる。 「……脱がしていい?」  止まっていた手が、再び熊谷のTシャツの裾を捲る。  目の前には、熊谷の印が刻まれた細い首。  発情期ではなくても、番っているからなのか、麒麟の身体からは熊谷を甘く誘う匂いがする。  熊谷が返事をする前に、麒麟がしっとりと唇を重ねてきた。  ここへ来たばかりの頃は、まだ発情期すら迎えていない少年だったのに、いつの間にこんな蠱惑的な所作を覚えたのか。  若者の成長にはつくづく感心させられる、などとつい年寄りめいたことを考えてしまう自分に苦笑する。 「脱がせるって、ここでする気か?」 「二階だと、怜央が起きる」 「ソファ汚すの、嫌なんじゃねぇのか」  初めて身体を重ねたとき、ソファを汚してしまったことを暫く引き摺っていたのを思い出して揶揄うと、麒麟が少し拗ねたように唇を尖らせた。こういうところは、まだまだあどけなさが残っていて微笑ましい。口に出すと更に機嫌を損ねそうなので、胸に留めておくが。 「俺が上なら、そんなに汚れない気がする」 「お前な……この体勢のままなら、自分で挿れることになるんだぞ」 「勝吾さんが気持ちいいなら、平気」  熊谷の身体からTシャツを剥ぎ取った麒麟の唇が、緩く弧を描いた。そのまま熊谷の上で自らのパーカーも脱ぎ去る仕草に、ざわりと全身が総毛立つような興奮の波が駆け抜ける。  少年だったはずの麒麟は、今やすっかり熊谷を誘う術を心得ている。  もう既に唯一の存在であるはずの身体を掻き抱いて、その首に喰らい付いてしまいたい。熊谷の中の、雄とαと獣の本性が熱く疼き出す。 「後で泣きごと言っても聞かねえぞ」 「いいよ。……だって、いっつも勝吾さん、俺のこと甘やかすじゃん。たまには、俺が本気で無理って泣くくらい、激しくしてよ」  若くて、しなやかで、けれども芯の強い被食者に煽られ、熊谷は捕食者の唸りを上げる。  月村には何度も「枯れている」と嗤われてきたが、麒麟の前では、自身の奥底で燻る本能にいつも抗えない。 「……煽ったからには、どうなっても知らねぇぞ」  片手で覆えそうな後頭部を引き寄せて、噛み付くように唇を合わせる。  何度も味わった愛おしい伴侶の身体を、熊谷は一晩中隅々まで貪り尽くした。    明け方。  夢の中で、熊谷はまた桜並木の下に居た。  まだ半分も咲いていなかったはずの桜は、いつしか満開になっている。  風に乗って舞い散る花弁の向こうに、随分と遠くなった背中が見える。  今はもう、届かない背中を追う必要はない。止まっていた時間は、ゆっくりと、けれど確実に前へ進んでいる。  隣を見ると、桃色に染まった景色に映える濃い茶色の瞳が、熊谷を映してやわらかく揺れている。  互いの存在を確かめるように、しっかりと繋がれた手が、熊谷を幸せな未来へ導いてくれる。  ───やっと、アンタを見送ることが出来る。  ずっと自分が彼を追い続けている気がしていたが、もしかしたら熊谷の方が、彼を引き留めてしまっていたのかも知れない。 「……ありがとう、香芝さん」  何年も告げられずにいた感謝と共に、熊谷は長い春の先へと消えていく背中に、自身もまた静かに背を向けた。  麒麟と共に歩き出す道の先には、新緑の眩しい世界が広がっていた。

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