20 / 26
番外編 リクエストお題『くしゃくしゃに撫でる』
「はー……極楽」
地酒の入った枡を傾け、心地良い息を吐いた麒麟の声に応えるように、湯面が静かに揺れる。
「オッサンくせぇ呟きだな、おい」
隣で呆れたように言う熊谷の声も上機嫌だ。その手には、お揃いの枡酒。
場所は九州某所の温泉宿。部屋に備え付けられた露天風呂で、麒麟は熊谷と贅沢な時間を満喫していた。
麒麟たちが住む町から遠く離れたこの温泉へ来ることが出来たのは、商店街の福引きで、麒麟が一等の温泉旅館ペア宿泊券を、見事に引き当てたからだ。
小さな田舎町の商店街だから、福引きの景品なんて良くても米くらいだろうなんて思っていたけれど、驚くほど豪華だった一等を、しかも自分が引くことになるとは。
場所が九州ということもあり、まだ幼い怜央を連れて行くのはどうだろうかと悩んだのだが、その場に居合わせた芳が、「うちで怜央預かってあげるから、二人でゆっくりしてきたら?」と申し出てくれた。
芳の元なら医者の月村も居るし、何かあっても安心出来る。そこで麒麟と熊谷は、芳の言葉に有難く甘えることにしたのだった。
「温泉旅行ってだけでもビックリなのに、露天風呂付きの部屋とか、凄すぎない?」
「それを引き当てたお前が、何より凄ぇと思うぞ」
熊谷に褒められて、アルコールでいつもより浮ついた気持ちが更に上向きになる。
「俺、温泉って初めてなんだよね」
「そうなのか?」
「うん。旅行だって、学校の修学旅行くらいしか経験無いし」
母と二人だった頃は旅行に出かけるほど生活にゆとりは無かったし、義父と暮らすようになってからは、何度か夏休みに旅行の話が出たが、麒麟の方からそれとなく断っていた。あの義父と、旅行に行く気になんかなれるはずがない。
「なら、この旅行はお前へのご褒美なのかも知れねぇな。俺にとっても有難ぇが」
「こんな良い宿、滅多に泊まれるモンじゃないよね」
「そういう意味じゃねぇよ」
裸の肩を揺らして、熊谷が苦笑する。
「お前と二人きりで旅行なんて、当分行けねぇだろうと思ってたからな。こんな機会でもなきゃ、怜央預けてまで出掛けたりしなかっただろ」
そう言われて初めて、これが熊谷との初旅行だということに気がついた。
時折、熊谷の仕事の関係で隣県や都内に出掛けたことはあったけれど、いずれも用件のみの日帰りコースで、ゆっくり観光する時間はなかった。
怜央が生まれてからは、買い物も極力近場で済ませるようになったし、最後に他県へ出たのはいつだったかも、すぐには思い出せないくらいだ。
───そうか。これ、旅行なんだ。
熊谷とはいつも一緒に過ごしているのに、知らない場所というだけで、一気に二人の時間が特別なものに思えてくる。
考えてみれば、熊谷と出会って数ヶ月で怜央を身篭ったので、二人きりの時間を満喫出来た期間はとても短い。
毎日見ているはずなのに、暖色の照明と月明かりに照らされた熊谷の逞しい胸板に、トクンと心臓が小さく跳ねる。酒の所為もあるのか、いつも以上に顔が火照って熱い。
そんな麒麟の様子には気づいていないのか、熊谷は檜の浴槽の縁へ凭れかかって、家では飲めない地酒を堪能している。
気を引きたくて身を寄せようとしたとき。
二人の間に、ひらりとピンク色の花びらが舞い降りてきた。露天風呂の脇に植えられた、小さな桜の木から落ちてきたものだ。
例年ならもう葉桜になっている時期だが、今年は寒い日が続いた所為か、丁度いい具合に花が咲き誇っている。
風が吹く度に、ヒラヒラと桜の雨が湯面に降り注ぐ。その様を見上げて、熊谷が僅かに目を細めた。
「こんな風に桜が見られる日が来るなんざ、思ってもみなかったな」
熊谷の瞳は、桜を通してもっと遠くを見ているようだった。熊谷の中に残る、決して消えない春の記憶───。
切ないような、寂しいような、悔しいような。
形容し難い想いが腹の奥から込み上げてきて、麒麟は持っていた枡を放り出すと、大きな身体を思いきり抱き締めた。
「麒麟? どうした、急に?」
咄嗟に麒麟の背を抱き止めながら、熊谷が目を瞬かせる。
「あのさ。忘れてなんて言わないし、忘れる必要だってないけど、今勝吾さんと居るのは俺だってことは、ちゃんと覚えてて」
年の差が埋まることはないし、熊谷みたいに逞しくもないけれど、この先ずっと寄り添うから。だからどうか、二人で居るのにそんな寂しい顔をしないで欲しい。
「目の前の俺のこと、もっと見てよ」
濡れた熊谷の髪に両手を梳き入れて、くしゃくしゃと撫でる。されるがままになっていた熊谷が、フッと口角を上げて笑った。
「なんだ、妬いてんのか?」
「妬いてない」
「なら酔ってんのか」
「酔ってない」
「嘘つけ。結構飲んだだろ」
ここまで紅いぞ、と少し固い指が火照った耳朶を悪戯に摘む。そのまま後頭部を引き寄せられて、互いの距離が一気に縮まった。
「お前には、つい甘えちまうな。……悪かった」
「もっと甘えていいよ。今日は俺、勝吾さんだけのモンだから」
酒の勢いを借りて熊谷の手を取り、指先へ扇情的なキスを送る。目の前の黒い瞳が、真っ直ぐに麒麟だけを捉えてギラリと獰猛に光った。
この獣の欲を満たせるのは、麒麟しか居ない。
密かな優越感と独占欲、そして思う存分貪られたい被虐心に、全身がゾクリと震える。
花びらに彩られていく湯の中で、二人もまた薄紅色に染まっていった。
ともだちにシェアしよう!