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番外編 for you

 ───百グラム足らなかった。  クッキングスケールに表示された数値と、隣に置いたスマホの画面を何度も見比べて、麒麟は絶望感からキッチンの床へ崩れ落ちた。  つい先日、芳に教わったガトーショコラのレシピ。  あまり甘いものは食べない熊谷も、芳と一緒に作ったガトーショコラは好んで食べてくれたので、今夜のデザートに作ってみようと麒麟は密かに目論んでいた。  熊谷が工房に篭っている間に、夕飯と一緒に仕込んでおく予定で、その為に今朝は商店街でトッピング用の生クリームまで買ってきた。  幸い、怜央もぐっすり昼寝中。  この隙に、芳直伝のレシピを見ながらこっそり作り、そして作業を終えた熊谷を、今夜はちょっと小洒落た食卓で労う───という予定だったのだが。  冷蔵庫にある、てっきり未開封だとばかり思っていたバター。けれどそれは、出してみると開封済みで、しかもその残量が思った以上に少なかった。  何度量り直してみても、スケールに載せたバターはレシピより百グラム少ない。 『お菓子作りは分量さえ間違えなかったら大丈夫だよ』  教わったときの芳の声が蘇る。  分量さえ間違えなければ大丈夫。それはつまり、裏を返せば分量を間違えると台無しだということだ。  時刻はもうすぐ六時。  数田美町の夜は早い。居酒屋や定食屋以外の店は、遅くても七時には閉まる。  今から自転車を飛ばして仮に滑り込めたとしても、往復する時間を考えるととても夕飯までに間に合わない。 「詰んだ……」  キッチンで四つん這いになったままガックリと項垂れていると、工房のドアが不意に開いた。 「麒麟!?」  いつもより随分早く工房を出てきた熊谷が、キッチンに這いつくばった麒麟を見て、慌てて駆け寄ってくる。 「どうした、具合悪ぃのか!?」 「違う、大丈夫……。勝吾さん、なんで今日こんな早いの」 「丁度キリの良いとこまで終わったから、早めに切り上げてきたんだが……一体何してたんだ?」  散らかったキッチンカウンターと麒麟を交互に見やって、熊谷が首を傾げる。 「越えられない百グラムの壁に、絶望してたとこ」 「百グラムの壁?」 「……この前、勝吾さんが『美味い』って言ってくれたガトーショコラ、作ろうと思ってたんだ」 「もしかして、その材料が足りなかったのか? だからバターがスケールに載っかってんのか」  なるほど、と笑った熊谷が、慰めるように麒麟の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。 「そんな落ち込むな。材料揃ったら、また作ってくれ」  優しい熊谷はそう言ってくれたけれど、麒麟の心は百グラムどころか、ずっしりと重い。  ガトーショコラを作りたかったのは、単に熊谷が褒めてくれたからというだけじゃない。  勿論、熊谷に喜んで貰いたい気持ちが一番だ。  けれど麒麟は最近、微かな罪悪感と劣等感を抱えていた。  芳は三人の子供を持つ人生の先輩だから、麒麟が敵わないのも無理はない。  ところが先日、御影の家に怜央と二人で遊びに行かせてもらった麒麟は、そこで衝撃を受けた。 「……御影がさ。チョコレートパフェ、作ってくれたんだ」 「チョコレートパフェ?」 「この前遊びに行ったとき。俺と怜央が来てるからかと思ったら、アイツ、おやつは大抵手作りしてんだって。パンケーキにホイップ添えたり、アイスならそうやってパフェにしたり、クッキーとかウエハースのせたり」  麒麟はいつも、買ってきた菓子をそのまま怜央に与えるばかりだ。だから、出されたパフェに目を輝かせる怜央を見たとき、自分が酷く未熟に思えた。  もっとも、拗ねた子供みたいに床に座り込んでいる時点で、実際麒麟はまだまだ未熟者なのだが。  不貞腐れる麒麟の頭に手をのせたまま、熊谷も麒麟と向き合う格好で腰を落とす。 「麒麟」  呼ばれて顔を上げると、思いのほか真剣な表情の熊谷と視線が絡んで、条件反射みたいに鼓動が速くなる。 「お前、俺に言ってくれたこと、忘れたのか?」 「……なんのこと?」 「怜央が腹にいるってわかったときのことだ。あのとき、お前と家族になりたいって言った俺に、お前は応えてくれただろ。それが叶って、今こうして一つ屋根の下で一緒に暮らせて、俺がどれだけ幸せだと思ってる」 「そんなの俺だって───」  同じ、と言いかけて、言葉が途切れた。  熊谷は優しい。麒麟のことを甘やかしてばかりいる。だから麒麟は、貰ってばかりの自分にどこか引け目を感じたりする。  けれどきっと、それが熊谷の望む幸せの形なのだ。  大切な人を失って以来、誰にも注げなかった愛情の行き場を、熊谷はずっと探していたから。  言葉の代わりに、目の前の身体に両手を伸ばせば、逞しい腕がすかさず抱き返してくれる。  ───そっか。俺の役割は、これだった。  まだまだ未熟でも、そんな麒麟にしか担えないものが、ここにはある。 「勝吾さん、俺のこと好きって言って」 「何だいきなり」 「いいから。聞きたい」 「好きに決まってるだろ。負けん気の強いとこも、すぐ不貞腐れるとこも、俺を転がすのが上手いとこもな。……全部引っくるめて、お前が好きだ」  愛を伝えて貰っているのは麒麟の方なのに、熊谷の方が幸せを噛みしめるような声で言う。  与えるだけが愛情じゃない。  求めて、受け入れて、分け合うことも、一つの愛の形だ。 「俺も好き。大好き。愛してる」 「随分と大サービスだな。そろそろ機嫌直ったか?」 「直ったけど、違う気分になったから責任取って」 「こら、怜央が起きる───」  咎める声を、キスで遮る。  足りなかったバターの何倍もの愛を、麒麟の全てで熊谷に伝えたい。  密やかに蕩ける二人の傍らで、スケールの上のバターもとろりと溶けた。

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