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2-1 トオル
アキちゃんはぷんぷん怒りながら、描きかけの絵があるていう作業棟 に行った。
そうやって去る前に、前もって用意してたらしい真新しい財布を、俺に握らせた。そして、コーヒー買ってこい亨と、命令するみたいに俺に言うた。どうも、アキちゃんは恥ずかしいみたいやった。
俺が小銭程度も現金を持ってないのを知って、アキちゃんはそれやと不便やろうと思ったらしい。それで俺のためにお小遣いを用意してくれたんやって。
そう言う割には、財布はけっこう分厚かった。
これって、あれか。アキちゃんと寝た代金かと、俺はちょっとは本気のつもりで冗談を言うたら、アキちゃんは怒ってた。そんなんやない、立て替えてもろた飲み代を返しただけやといって。そんな話、どこでもするなと叱られたので、一応、ごめんて言うといた。
アキちゃんは、俺を好きなんが恥ずかしいらしい。それは時々、俺をぐったりとさせた。
恥ずかしいて思う理由がいろいろあるのは分かるけど、そんなに恥なことやろか。
女やったらかまへんのかなと、悲しゅう思うこともあるけど、どうせそれも言い訳なんや。アキちゃんは、相手が女なら女で、他の何かが恥ずかしい奴に違いない。
何してやっても変わらへんのや。
そんなことを愚痴愚痴思いながら、言いつけられたとおり、駅前まで戻って、最近あちこちでよく見かけるようになったコーヒー屋さんで、言われたとおりの種類のホットのグランデを買うた。
ほんで、ついでに買うたアイスを舐 めながら、俺はだらだらと美大の敷地に戻った。
もう冬休みのはずやのに、そこには沢山の学生が居った。みんな何かを創りに来ているようやった。
休みに親元にも帰らんと、悪い奴らやと俺は思った。アキちゃんは京都の子らしいけど、通りかかる他の学生たちからは、時には遠い土地の血が匂うたからや。
唐突 に語るには、あまりに唐突 な話なんやけど、俺は人間やない。アキちゃんはもちろん、それを知らん。
俺が男やていうくらいで、びびってるような子や。そんな話したらドン引きやすまへん。出ていけ言われるかもしれへん。そうなったら、どないしょうと思って、まだ打ち明ける勇気が湧いてけえへん。
言わなくてもええんとちゃうかという気もする。黙ってればバレへんのちゃうか。ただちょっと変なやつとして、今後もずっと俺と一緒に暮らしてくれるかもしれへん。
そうやったらええのにと思うけど、アキちゃんの身が心配やった。
俺はどうも、取り憑いた相手の精気を吸う類のモンらしいからや。そして、それと引き替えに、何かを与えるようにできているらしい。勝運とか、才能とか、幸運とか、そういうのや。
俺にそういう運を生み出す力があるわけやのうて、誰かから吸うたもんを集めて、別の誰かにまとめてくれてやってるっぽい。俺自身も、人様から吸い上げた精気で命を繋いでいるらしく、誰からも吸わへんのでは苦しいてたまらん時もある。
俺は自分の正体が実際のところ何なのか、ようわからへん。とにかく、気がついたらこの世に居って、それからずっと生きている。
子供やったこともあるけど、だいたい若いままで、よくよく思い出してみると、女やったこともあるんとちゃうやろか。でももうそれは記憶の彼方で、どうやって性転換したのか、いまいち思い出せへん。
なんでそんな肝心のことを忘れてもうたんか、この一週間では特にがくっと来てるんやけど、でも忘れたもんは仕方ない。なんかの拍子 に思い出せるかもしれへん。
そんなことより、アキちゃんが枯れたらどないしょうって事のほうやった。
なんか今朝も、疲れてたみたいやし。ちょっと俺、やりすぎやろか。そやけどアキちゃんが好きすぎて、やめられへんねん。ずっと抱き合うてたい。そうするとムラムラしてきて、毎度毎度オチはおんなじやな、みたいな。それやとまずいか、相手は生身なんやから。
そう思いながら、道順を教えられていた作業棟なる建物に行くと、ものすご古い、おどろおどろしいような所やった。いくつか憑いてますみたいなオーラがむんむん出ていた。アキちゃんは、こんなとこで一日絵描いてて、よう平気やなと、俺は感心した。
ねっとりと沈み込むように暗い廊下に、先にアキちゃんが通った跡やろう、一条の明るい筋道がまだ残されていた。それに気づくと、一刻も早く会いたい気がしてきて、俺は二段とばしで階段を駆け上がった。連日、アキちゃんとやりまくる極楽生活で、体調はものすご良かった。うっかり空でも飛べるくらいに。
まだ熱いコーヒーを早く届けてやろうと、俺は辿 り着いた四階の廊下を足早に行った。アキちゃんはカフェイン中毒らしい。家でもいつも豆から挽 いたコーヒーをたっぷり淹 れて飲んでいる。俺はどっちかいうたら紅茶のほうが好きやけど、アキちゃんが好きならコーヒーでええわ。
うっふっふ、健気 やろと、機嫌良くそう思ってにやにやしてから、俺は遅まきに気づいた。廊下の向こうで、アキちゃんが絵を描いているという部屋を、じっと睨 んでいる女の子がいることを。
その子がけっこう可愛かったんで、俺はぞくっとした。ただの人間を、怖いと思ったのは、これが初めてやろか。
女の子は思い詰めたような未練の顔をして、暗く見つめていた。もしかしてそれが、アキちゃんをクリスマス・イブに振ったという、あほな子ではないかという確信めいた予感がして、俺は思わず立ち止まっていた。
後悔して、よりを戻しに来たんやろうか。こんな可愛い子やと、思てなかった。
女の子は雪みたいに白い肌に、今時珍しい、お姫様っぽいストレートの黒髪をしていて、それを内巻きにゆるくカールさせていた。大きな黒い瞳に、長い睫毛がお人形さんみたいで、着物を着たら似合いそうやと思った。
これがアキちゃんの好みの女ってことなんやろか。
今から、この子が部屋に来て、やっぱり好きて言うたら、アキちゃんはどないするんやろ。俺に出ていってくれって、頼むんか。そないなったら、それで、仕方ない、アキちゃんの自由やもん。そやけど俺は悲しい。
コーヒー冷めるわと、ぼんやり思て、俺はそれを、ちゃんと届けることにした。黙って消えるべきかもしれへんけど、それはちょっと、痛すぎたんや。
扉を開くと、ぷうんと臭い油の匂いがして、ものすご大きなキャンバスの前に、アキちゃんが首をかしげて突っ立っていた。絵は川の絵やった。川原に草が茂っていて、水は滔々 と流れている。ゆったりとして綺麗な絵やった。温かいような何かが、あふれ出て来るような。
扉が開くのに気づいたんか、アキちゃんはふと気づいたという仕草で、こっちを振り向いた。
「なんや、亨か」
誰やと思ったんやろう。アキちゃんは照れたように、そう言うた。
「アキちゃん、コーヒー買うてきたで」
「俺の分だけ買うたんか。自分の分は?」
「俺はもうアイス買うて食うたもん」
そばまで行って、プラスチックの蓋 のついた紙のカップを手渡すと、アキちゃんは呆れたような顔をした。
「この寒いのに、ようアイスなんか歩き食いするな」
「だって食いたかってんもん」
でも確かに寒かった。アキちゃんの手を握りたい衝動にかられ、俺はそれを我慢した。寒いから、抱いてって頼んだら、ここでも抱いてくれるやろか。
無理かな。無理やろうなあ。だけど手ぐらい、繋いでくれるかな。
「アキちゃん、外の廊下に、洋服着た日本人形みたいな女の子がいたで。この部屋のドアを、じっと見てた」
俺がそれを教えると、アキちゃんはぎくっとしたように、顔をしかめた。
「あれって、アキちゃんの、元カノなんちゃうの」
笑って訊 ねると、アキちゃんはますます難しい顔をして、絵に向き直った。
手、繋いで欲しいと、心で呼びかけてみたけど、アキちゃんは繋いでくれへんかった。いつもそうやねん。アキちゃんは自分からはそんなことせえへん。
「俺、やっぱり、居ったらあかんかな。アキちゃんのとこに。戻ってきたいんとちがうかな、あの子」
「もう鍵 変えたし、戻られへん」
アキちゃんは怒ったように、そう答えた。
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