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2-2 トオル

 話を聞く限り、アキちゃんはあの女の子のことを、恨んでるっぽい。描いてやった絵を、いらないと言われて。  まだ二十歳(はたち)そこらの女の子なんやし、絵なんかより、鞄とか、指輪とか、そういう実のあるモンが欲しかったんやろうか。金回りのいい恋人からもらう、クリスマス・プレゼントなんやし。  でもきっと、アキちゃんは、彼女が好きやったから、絵を描いてやったんやで。買おうと思えばアキちゃんには何でも買えたやろうけど、そういうんやない贈り物を、好きな子にもろて欲しかったんや。  若い女にはそういう男の純情は、わからへんかったらしいで。  それに未だに傷ついてるアキちゃんは可愛いけど、ぼんぼんやな。酔っぱらって、女に振られたって話してたけど、たぶん、振ったのはアキちゃんのほうなんやん。自分の真心を無視した女を、許せへんかったんやろ。  そやけど彼女が悔やんで戻ってきて、ごめんねって言うたら、許そうって気になるやろか。  そう思って眺めたアキちゃんは、苦い顔してコーヒーを飲んでいた。 「お前はどう思う。この絵」  まだ辛そうな顔をして、アキちゃんは首を巡らして描きかけらしい大きな絵を俺に示した。 「綺麗な絵やん。見てて気持ちいい。この川原に、俺も行ってみたい」  絵の具だらけで、ホコリに(すす)けてもいる小汚い壁にかけられた絵は、油絵のように見えた。アキちゃんが描いた筆跡の見える近さに寄って、俺は絵を眺めた。  筆遣いを見ると、けっこう細かい。こんなでっかい絵を描くのに、何日くらいかかるんやろ。朝から晩まで毎日描いて、それでも仕上がらへんようなもんを、よく飽きずに描いてると思うわ。そうまでして描きたいもんが、この世にはあるんか。 「何か足りないような気がするんや。それが何かわからへん」  むすっとして言う、アキちゃんの口調は、()ねた子供のようやった。  それが可笑(おか)しいなって、俺はにやにや振り向いた。アキちゃんは、時々可愛い。 「難しいもんなんやな、絵を描くのも。でもこれ、油絵やろ。アキちゃんは、日本画の学生やったんとちゃうの」 「俺はなんでもええねん。絵が描ければ」  考えるのを(あきら)めたのか、アキちゃんは嫌気がさしたみたいに、自分の絵から顔をそむけた。 「これって、鴨川?」  のんびりと春霞のたなびくような、優しい稜線(りょうせん)の山々が背景に描かれていた。 「いいや。どこでもないねん。ふっと思い浮かんだ景色を描いただけなんや」 「でも俺、ここを知ってるような気がするわ。なんでやろ。すごく昔に見たことあるような……」  郷愁を呼び覚ますような絵やった。その中に入りたいと、思えるような。  アキちゃんはこの絵を、誰かにくれてやるつもりらしい。(もら)えるやつは、ついてるな。いつもこの絵を眺めていられる。  この絵はアキちゃんに、なんとなく似ている。優しく懐かしいけど、凛として寒いような、早春の日の気配や。 「俺、もし出てくなら、この絵が欲しいな。俺にくれへん?」  何や良う分からへん強い物欲が湧いてきて、それに動揺しながら、俺は頼んでいた。 「こんなでかい絵、どないして持っていくんや」  アキちゃんは険しい顔で、そう(とが)めた。 「それにお前、これをどこに飾るつもりや。そんなでかい壁がお前んちにはあるんか」  悔しそうに、アキちゃんは()いてきた。今まで俺の素性めいたことは、全然訊かへんかった。(ほの)めかしもせえへんかったのに。 「この絵は元々、引き取り手がいる。お前にはやれへん」 「そうか。残念や」  心からの本音で、俺は悔しかった。飾る壁なんかないけど、とにかく欲しかったんや。  俺はこの絵が欲しい。アキちゃんの代わりに。本当を言えば、アキちゃんが欲しい。でもそれが無理なら、代わりに絵でもいい。何にもなしやと、つらいし。 「絵、欲しいんやったら、別のを描いてやってもええけど、すぐには無理や。最低でも何日かはかかる。お前はいつ出ていくつもりなんや。今朝は、もうしばらく居るって、言うてたくせに。はっきり決めてくれ、お前はどうするつもりなんか」  急に早口になって、アキちゃんは押し殺した怒鳴るような声で言った。俺はそれに、なんだかびくりとした。 「わからへん。だって、どうしたらええの。アキちゃんがどうして欲しいか、俺にはわからへんよ。俺はずっといたいけど、アキちゃんに迷惑かけるつもりはないねん。だって……」  だって、なんやろ。言うてて自分でもわからへんようになってきた。ちょっと必死すぎ。  なにを急に、必死になってるんやろ、俺は。  扉の外の廊下に、まだあの女の子がいるんか、それが怖あて怯えてるみたい。あの子が戻ってきて、自分が邪魔者になる、その瞬間が怖い。  アキちゃんはあの子のことが、本当に好きやったんやろうか。今、俺を好きなのよりも、ずっと好きやったんか。  そうや、考えてみればまだ、初めて会ってから、たったの一週間しか経ってない。どこへも行ってない。部屋で抱き合ってただけで。  陽の光のあるとこで会うと、アキちゃんは(まぶ)しかった。近寄りがたいぐらい。  アキちゃんが、俺を好きなんて、そんなことあるやろか。あの最初の夜だって、俺はあの女の子の代わりやったんちゃうの。  アキちゃんは彼女と別れた寂しさで、一発やれる相手なら誰でもよかったんや。男でもええかと思うくらいに寂しかったし、ぐでんぐでんに酔ってたんや。何をしたか憶えてないって、正直に言うてた。  他の誰より、俺が欲しい、一晩付き合えば、金でも命でも何でもくれてやるというやつは、今までいくらでもおったけど、お前でええかというやつは、アキちゃんが初めてや。  それが悔しくて、意地になってるだけかもしれへん。絶対に籠絡(ろうらく)してやるみたいな、そんな気分が。  そやけど、寂しい言うて俺を抱くアキちゃんの、本当に寂しそうな様子が、俺にはぐっときたんや。  俺も寂しい。ただ一緒にいるためだけに、俺を求めてくれる誰かが欲しい。見返りを求めるんでもなく、ただ手を繋いでくれるような相手が。  俺が何者なのか全然知らへんのに、俺が欲しいというアキちゃんが、好きでたまらへん。 「ずっと居たいなら、居ればええやん」  アキちゃんは悔しそうな、吐き捨てる口調やった。でもこれは、一応その、愛の告白っちゅうやつか。  先回りして言われたその話に、俺は脳天を直撃されて、呆然としてた。アキちゃんはやっぱり、俺が好きなんや。  ほな、それって、両思いなんや。だって俺はアキちゃんが好きで、向こうもこっちが好きなんやもん。  そんな当たり前の話を、ゆっくり噛みしめて、俺は震えてきた。寒いのでもなく、怖いんでもなくて、ただ、嬉しい気がして。 「居ていいの。俺、居ていいなら、ずっと居たい。アキちゃんのとこに。あの女が戻ってきたら、断ってくれるんか」 「もう断った」  アキちゃんはきっぱりと、そう言った。

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