7 / 43
3-1 アキヒコ
亨が作業部屋から出て行くんを見て、俺は何となく、わなわな来てた。何か良う分からん衝動が感じられて、今すぐ描きたいような気がした。創作意欲っていうんやろか。子供の頃から時々そういうことがある。
何かきゅうにピンと来て、公園の砂場に壮大な砂の城を作ったり、一晩寝ないで絵を描いていたりや。餓鬼のころでも、画学生になった今でも、それは全然変わらへん。
おかんはそんな俺を子供の頃からよう知っていて、高校で進路を決めるとき、美大に行きたいんやけどと相談すると、ほなそうしたら、それがええよアキちゃんと、あっさり許した。絵描きになって将来どうするつもりやとか、そういう事は一切訊 かへんかった。そんな必要なかったからかもしれへん。
うちの家業は、何と言えばええんか。占い師。拝み屋。巫覡 の類やと、おかんは俺に説明していた。
でも別に、宗教関係ってわけやない。お客はいるけど、信者はいてへんからや。何かもっと原始的で、正体のわからんようなモンらしい。血筋なんえと、おかんはそれに、あっさり納得しているみたいやった。
お客のほとんどは、祖先の代から付き合いがあるとか、人の紹介でやってくる偉くて金持ちのおっさんや、じいさんで、時にはそれの女版もいた。表向きは、舞踊家の母に、舞いを依頼しにきているという事になっていた。
おかんは綺麗に装って、頼まれたどこかに出かけていき、優雅にひとさし舞うてやる。そうすると場の空気が変わり、悪い憑きモンが落ちて、物事がええ方向へ行くようになるらしい。
そんな事で飯が食えるというんが、俺には本当に不思議やった。
うちには父親はいてへん。血の繋がった家族は母親だけや。誰が俺の父親なんかとおかんに訊 ねたら、おかんはおっとりと笑い、誰やか分からへんのと、けろりとして言うた。それで俺はもしかして、娼家の子なんやないかと、正直悩んだ時期もある。
でももうそれも、どうでもええことや。そんな身の上のやつは、世の中にごまんと居る。
生まれてくればこっちのもんで、普通に生活していく上では、何の不自由もなかった。おかんは愛情深かったし、うちは裕福やったからや。むしろ俺は、恵まれた境遇なんやろう。
不都合といえば、時々やってきた客に、いやあ暁彦君も大きくなったなと親しげに頭を撫でられたり、小遣いを押しつけられたりして、毎度顔ぶれの違うそのおっさんたちに、お前が俺のおとんかと、キレそうになる問題があるだけやった。
おかんは俺が、その家業を継ぐと思うてるらしい。継ぐような家業なんか、俺にはさっぱり分からへん。でも、おかんがそのつもりでいるのを、無視はしてへんかった。
そやから今回も、おかんが電話で頼んできた絵を、おとなしく描いている。なんや、どっかのおっさんが、俺の絵がいい言うて、新しく作るナントカ会館に飾ってくれはるらしい。
そんな有り難い税金対策の御殿用に、俺はいったい何を描けばええんやと訊ねると、おかんは神妙な声で、嫌々描いたらあかんえ、と、忠告した。そして、依頼者は古代の日本の風景画を所望やと伝えた。
それでこの川辺の景色を描いたわけやが。
これって俺は古代の日本のつもりやけど、ぱっと見には、ただの川の絵やないか。絶対何か足りない。古代です的な何かを描き足したほうがいい。何やねん、古代っぽいものって。高床式倉庫か。竪穴式住居か、それは。
どの考えもアホみたいで、しっくり来えへんかったが、それでも何かメインになるものを待ち受けている背景のような絵やと思えた。
それが確信に変わったのは、さっきこのキャンバスの前に立っている亨を見た時やった。
俺は普段は人間を描かへん。風景とか静物ばっかりや。そやから考えもしてへんかったけど、この絵には誰か立ってるほうがいい。この岸辺で暮らしていた誰か。
何を根拠にそう思うんか、我ながら謎やった。こんな絵を描こうという衝動には、いつでも理屈はない。絵の前に立っている亨を見て、この光景を描こうと思った。
ただ亨を描きたいだけかもしれへんかった。どことなく憂いを帯びた寂しげな微笑で、俺を見つめている。切なそうに。愛しそうに。そんな表情を浮かべた、絵のように綺麗な、あいつの顔を。
本人に許可を、もらったほうがええかと、俺はちょっと悩んだ。でもあいつはたぶん、かまへんと言うやろ。そんな気楽な想像で自分を押し切り、俺は絵筆をとった。
すでにほとんど描きあげてあるキャンバスの上に、下書き用の色で、実物大よりも大きな亨の輪郭線を一気に描いた。まだこの時点で、誰の顔かは分からんやろうけど、俺にはそこに描き上がった亨の色の薄い顔が、静かに微笑んで居るのが、頭の中でもう見えていた。
そやけど、それを実際に描くには何日もかかる。資料も探さなあかん。今の亨のまんまの格好で描くと、古代の絵にならへん。それらしい格好させへんと。
それで図書館に行き、幾つか資料をあたって、持っていった紙に下絵をいくつか描いてきた。あとは亨の顔のスケッチをとらせてもらうだけやった。
携帯に電話をかけると、亨はまだ大学にいた。
門の所で待ってるという亨と合流して、絵の話を切り出そうとしたら、亨はそれより先に、アキちゃん腹減ったと嘆いた。まだ夕方だったが、俺は昼飯食うの忘れてた。亨は俺を待ってたんか、付き合うて昼飯抜きやったらしい。
「なあ、街行って、なんか食べよ。たまには外で食べてもええやん」
行こうようアキちゃんと、べったり強請る口調で、亨は誘っていた。いつも出町のマンションに閉じこめられてて、こいつも退屈なんやろ。俺と一緒でないと、出たが最後、もう部屋には戻れへんのやし、せっかく出かけられたこの機会に、あちこち行きたいみたいやった。
亨とどこか行くなんて、俺にはなぜか、見当もついてへんかった。どこへ行ったらええんやろ。とりあえず飯やなと、叡電のちっぽけな座席の上で、亨と並んで頭の中の地図を検索していて、俺は何や妙な気分やった。
これは、いわゆる、デートか。
変やないか、それは。
なんで俺がこいつと手繋いで街歩かなあかんねん。
亨はまだ、手を繋げとは言ってきてへんかったが、ものすご繋いで欲しそうやった。少し離れて座っている亨が、それを我慢してるのが、むんむん感じられた。俺はそれに、どぎまぎした。まるで好きな女の子と偶然隣に座ってもうた中学生男子みたいやった。
中途半端な時間の電車は、ガラ空きやのに、なんでか俺らの向かいの席にだけ、ちっこいお婆ちゃんが腰掛けていて、こっちをガン見してはったんで、なんか余計に緊張した。もし亨が手を繋ぐとか、なにかそれ以上の血迷ったことをしてきて、このお婆ちゃんがショックで死んだらどうしようかって、そんなことまで脳裏をよぎった。
「あのな、アキちゃん。俺、デパートの上で飯食ってみたいねん。それからな、ちょっと遊んで、夜んなったら酒飲んで、最後は鴨川の川原に行きたい」
嬉しそうな上ずった声で、亨は計画を提案してきた。デパートの食堂街で飯を食いたいと、こいつは言うてるらしい。何でそんなところで食いたいのか謎めいていた。それに、最後は川原って、こいつはやっぱりデートのつもりなんやと、俺は聞きながら恥ずかしかった。
夜の鴨川の川原は、カップル縦列駐車なんやで。計ったみたいに等間隔をあけて、四条から三条まで、ずらり点々といちゃつくカップルが夜陰 にまぎれて座っている。それで川を渡った対岸の、南座の並びの川端通りをちょっと行くと、さあどうぞみたいな佇 まいでラブホテルが建ち並ぶ界隈に出る。そういう世界観の場所なんや。
亨はそれを知ってて言うてるんやろう。そやけど、そんなん、ありえへん話や。だって、いくら暗い言うても、川原は四条大橋から丸見えなんやで。そこを電車に乗りにいく帰宅客が、右へ左へ行ったり来たりしてるんや。そんなとこで座って話すだけでも十分恥ずかしいけど、あまつさえ、いちゃつこうなんていう連中は、正常と思われへん。頭に何か湧いてるんやで。
「いやや。俺は。飯と遊びと、酒まではいいけど、川原はいやや」
人に、というか、向かいのお婆ちゃんに聞かれないように、俺は小声で鋭く拒否した。亨はそれに、しかめっつらになった。
「なんでや。俺のこと好きや言うたやん」
「言うてない!」
思わず否定してから、俺は頭を抱えた。
ともだちにシェアしよう!