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3-2 アキヒコ

 いや、言うた。確かに、学校の作業室では言うたけど、それは誰も聞いてへんかったからやんか。勘弁してくれと、俺は亨に頼み込む視線を向けたが、亨はなにか、呆然と暗い顔をしているだけで、しょんぼり項垂れていた。 「なんかさあ。アキちゃんは話がころころ変わらへん? ほんまはどうなん。俺のこと、好きなんか」  亨は泣きそうな顔をしていたが、俺もそれは同じやった。ある意味泣きそうやった。向かいの席のお婆ちゃんが、補聴器の具合を直しているのが見えたからや。そんな聞く気まんまんにならんでも。鞍馬山の鬼か天狗か、あんたは。 「なに食いたいねん……」  むかむかしながら、俺は話をそらした。亨は明らかにむっとした顔をした。それでも訊かれたことには、ちゃんと答えた。 「カレー」 「カレー? あほかカレーなんか家で食え」  俺が賛成しないのを見て、亨はますます眉間に皺を寄せる険しい不満顔になった。 「食いたいねん、デパートのカレー。俺、食ったことないねん。あれは家族で行くところやで。俺には家族がおらへんのや。そやからアキちゃんと行きたいねん。いっしょに暮らすんやったら、俺ら家族やろ?」  哀れっぽいキレ方で、亨はぶつぶつ言った。俺はそれにショックを受けた。そういや俺も、家族でデパートのカレーなんか食ったことない。おかんはカレーが嫌いやってん。それにあの人は、デパートなんか行ったことあらへん。買い物するときは、デパートの外商部の人が品物持って家に来るんやもん。着物でも宝石でも、俺の誕生日にやるプレステでも、何でもかんでもや。 「か、家族……か?」  俺は思わず絞り出すような声だった。  確かに亨には、下宿にずっと居ってええと言うたけど、別に結婚したわけやないんやで。精々、踏み込んだところで、同棲やろ。それって家族なんか。恋人は家族か。というか、亨は俺の、恋人なんか。そういうことになるんか。そんなアホな。頭が割れそう。  そんな俺を見て、返事を待っている亨は、保健所で処分を待つ犬猫みたいな目つきやった。 「……家族やないんや」  何も言わない俺を諦めたんか、恨みがましい声で、亨が呟いた。亨がふっと顔を背け、向かいの席のお婆ちゃんが、むっと顔をしかめた。俺はそれに、なぜか慌てた。 「いや、ちょっと待ってくれ。分かった、カレーでいいよ。カレー食いに行こう。高島屋の萬養軒(まんようけん)のカレーが美味いで。お前もきっと好きや。いかにもな大食堂とは違うけど、どうせなら美味いほうがええやろ」 「うん……アキちゃんが、そこが好きなら、そこでええよ」  亨は何となくもじもじしながら、そう答えた。頼むから可愛い返事せんでくれ。お婆ちゃん、めっちゃ頷いてはるやんか。たかが飯はカレーって決めたぐらいのことで、めでたしめでたし、みたいな、そんな空気作らんといてくれ。 「降りるぞ、亨。出町(でまち)で電車乗り換えやから」  終点の駅に滑り込んでいく車体の揺れも構わず、俺は一刻も早くこの車両から出たい気持ちで、扉の前へ行った。亨はこころもち、よろめきながら付いてきた。 「なんで。いっぺん家帰って車で行くんやと思ってた」 「酒飲みたいんやろ。飲んだら帰り、誰が運転するねん」  それに車を停める手間を考えたら、河原町界隈では電車のほうがラクや。そういう話を俺がしていると、亨はずいぶん感心したような顔だった。 「酒飲んだら、車運転したらあかんのや」 「知らんのかお前は。そんなん常識やろ。どういう奴なんや……」  俺が罵ると、亨は気恥ずかしそうに苦笑していた。いったいどこの(ぼん)かと、俺は怪しんだ。  けたたましい車輪の軋みをたてて、電車は終着駅に着き、俺らは外へ出た。ふらりとした足取りで、亨は車両を振り返り、元来た道を戻るその列車の行き先表示が、のらくらと『鞍馬』に変更されていく車体の中に、まだ座ったままでいるお婆ちゃんに手を振っていた。お婆ちゃんはにこやかに手を振り返したが、下車する気配はなかった。 「大丈夫か、あの婆さん。ここが終着なんやで」  ボケてんのちゃうかと、俺はちょっと心配になって、亨に呟いた。 「さあ。このまま鞍馬に帰るんとちゃうか」  きちんと白足袋をはいて、黒いビロードの外套をまとったお婆ちゃんの着物の裾模様は、うっすらと雪をかぶった紅葉の残る冬枯れの(かえで)や、常緑の松やった。それは振り返って眺めた鞍馬の山々を写し取ったような、美しい意匠や。  そんな山を見て、俺は思った。この山には昔から、天狗さんがいてはるんやでと、おかんが言うてた。貴船に鮎食いに連れてってもろた時に。山には古い古い神社もあり、霊験あらたかだと。  この山の天狗は、カラスやったはずや。ちょうど、あのお婆ちゃんが着ている外套のように、真っ黒い翼の。 「アキちゃんはさ、あのお婆ちゃんが見えるんや」  にこにこして、亨はそう訊いてきた。

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