9 / 43

3-3 アキヒコ

「えっ。なんやそれ。お前にも見えてたやないか。俺を担ごうとすんな」  薄気味悪うなって、俺はちょうど手を繋ごうとしてきた亨の指を、ぴしゃりと払った。  巫覡(ふげき)の類やなんて、こんな時代におかしいわと、俺は内心必死で毒づいていた。皆のおとんはサラリーマンやで。そうやなかったら職人さんとか、公務員とか、お医者さんとか、農家とか、そういうのが普通なんやで。  おとんが誰やか分からへんというだけでも微妙やのに、おかんは時たま、アキちゃんのお父はんは鞍馬山の天狗さんなんやでと言うてた。せやからアキちゃんが鞍馬山の学校に通うんやったら安心やわ。きっと天狗さんが守ってくれはる。  おかんは美人やし舞いも上手やけど、可哀想に、ちょっと頭が変なんや。どうせ若くて綺麗な盛りに、悪い男にだまされて、貴船か鞍馬の避暑宿ででも、俺を(はら)まされたんやろ。そんな話を面白可笑(おか)しい言うてるだけなんや。  鞍馬山に天狗さんなんか、いるわけないやん。カラスはただの、カラスやで。  渋々の早足で駅を出て、京阪電車の出町柳駅へ降りていく俺に、亨は踊るような足取りでついてきた。山を下りると、街にはありきたりの人々の雑踏が心地よい当たり前さで縦横に行き交うていた。  亨と俺は、その中の一組として、人混みにまぎれ、街を彷徨った。  約束どおりにデパートでカレーを食い、亨が行きたいと言うたボーリング場で、五ゲームも投げさせられ、亨の下手くそさに舌を巻いた。それから鴨川の見えるバーで、晩飯も兼ねて酒を飲んだ。  酌の上手い亨にじゃんじゃん飲まされ、気がつくと大酒を飲まされていた。その途中で、俺はぼんやりと気がついていた。川の見える店で、酒を飲みたいと言われた時点で、それが罠やと察知しなかった己の鈍さに。  とにかくまた、べろんべろんに酔うた。割り当てられた川の見える席は、赤いビロード張りのソファがあるだけの、店内に背を向けた二人きりの感のある閉鎖空間で、まるで見えない何かで閉ざされているようやった。  気持ちよう酔うたらしい亨は、嬉しげに手を握ってきたが、俺がそれを振り払うのに必要な理性は、赤いワインの酒瓶に入っていた悪魔が奪っていった後やった。  テーブルの上に、血のしみたようなコルク栓が何個並んだか。亨が唇を舐め、ワインの匂いのする息で、俺、アキちゃんと川原に座ってみたいねんと言うて、窓から見下ろせる暗い石畳の川原の、点々と並ぶ寄り添った二つずつの人影を俺に眺めさせた。  いっぺんやってみたかってん。相方がおるやつはええなあって、いつも羨ましいて。俺らも晴れて比翼の鳥やろ。あったかい店のソファには飽きたし、そろそろあそこに座って、寒いな言うて暖め合おうよ。  耳元で呪文のように囁いている亨の声に、俺はいややと答えたはずが、気がつくと結局、亨と川辺に座らされていた。  辺りには不思議と人払いしたように、誰もいなくなっていた。夜やというのに、濡れ羽色の黒い鳥が、辺りを歩き回っていたようや。  寒風の中でキスをすると、酔った亨の唇も舌も、燃えるような熱さやった。それがあまりに心地ようて、休む間もなく数え切れへんほど沢山のキスをした。  それ以上のことは、もちろん無理や。人が見てるほうが燃えると亨は言うたが、そんなもん燃えるわけがなかった。燃えへん、少なくとも俺は全然燃えへん。そういうことは隠れてやりたい。せやし早く家に帰ろうと、俺は言うたらしい。らしいというのは、もちろん、そのへんから記憶がないということや。  亨、俺はお前が好きや、めちゃめちゃ好きや、そやからどこにも行かんといてくれと、俺は必死で頼んでたらしい。しかしそれは亨が適当についた嘘やないかと俺は思う。だけど、うっすら憶えてることもある。それを聞いた亨が、嬉しげに、それでも切なげに顔をしかめ、辺りにいたカラスたちが快哉するような鳴き声を、うるさくあげていたのを、頭のすみで憶えている。  俺と亨は大急ぎで終電に飛び乗り、大急ぎで家まで帰り、そして大急ぎで服を脱いで、朝まで裸で抱き合うて眠った。確かに燃えるようやった。人がいようがいまいが、亨と抱き合うと、いつも燃えるようや。  それが案外長くなる、亨と俺の同棲生活の始まりの頃の話や。  俺はまだ、心に鍵をかけていたんかもしれへんけど、その錠前に合う鍵をくれと、亨が頼んでくるんを、ずうっと待っていた。

ともだちにシェアしよう!