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7-2 アキヒコ
「いや、なんともない。それより俺、おかんに話があるねん。今年は悪いけど、四日には出町 に戻ろうと思うんや。大学戻って、例の絵を仕上げたいねん」
味噌汁を飲みかけてたおかんは、思考停止、みたいな顔をした。
嘘ついた訳やないのに、俺は後ろめたかった。絵を描きたいんが先か、亨を抱きたいんが先か、分からへんかった。どっちにしろ俺は今、亨に夢中らしい。色恋にかまけて、この家の人間としての仕事を、放り出そうとしてる。おかんはそれを見抜くかもしれへん。きっと見抜くやろう。
今度はお客さん扱いでは済まず、二度と敷居をまたぐなと、言われるんかもしれへん。お前なんかうちの子やないて。
数は減っても、まだまだ年始客は来るやろし、その面々に、跡取り息子はどこいったんやと訊 かれ、おかんは情けなくて、むしゃくしゃするんやないやろか。なんでお前は、家を継げんのかと。
「例の絵って、うちが頼んだ、大崎 先生にさしあげる絵のことやろか」
おかんは、きょとんとしたまま訊 いてきた。
俺は頷いた。おかんはそれに、にっこりした。
「ほんなら、ちゃんと描いてるんやねえ。偉いわあ、アキちゃん。おきばりやす」
機嫌良う言うて、おかんは赤漆の汁椀をあげた。それは、おかんが子供の頃からこの家で使っていたという椀で、底には黒い漆で、トヨちゃんと描いてある。
それが、おかんの名前や。秋津登与 。秋津というのは蜻蛉 の別名で、そやからうちの家紋が蜻蛉 やねん。
日本は蜻蛉 の国なんえ、アキちゃんと、昔おかんが教えてくれた。秋津島 いうんえ。うちらの家は、大げさに言うたら、この国を守るためにあるのえ、と。
天地 は、アキちゃんにも、そのための力を授けてくれてはる。あんたがその気になったら、秋津の姓を名乗ってもええんや。それがどうしても嫌やったら、本間暁彦のままでおり。血筋やからいうたかて、嫌々やらなあかんような、そんな時代やないんやから。みんなも秋津の家のことなんて、もう忘れてしもたんやないやろか。そんならそれで、忘れといてもろたら、よろし。あんたがそれで幸せになれるんやったら、お母さん、それでかまへんえ。
おかんはそう言うて笑い、俺をいつも甘やかして好き勝手にさせていたが、それでも人に頼まれれば、豊作のために舞ってやり、何やら難しげな顔で現れた政治家のおっさんが選挙で勝てるようにも、出し惜しみなく舞ってやっていた。
そんなおかんのことを、人はお屋敷の登与様と崇 めていた。おかんは芋 の煮えたもご存じないお姫 さんやけど、それはおかんがほんまのお姫 さんやったからやないやろか。俺にはそんな気がする。
せやけど秋津の家も登与ちゃんの代で終わりなんやろかと、誰かが嘆いていたのを夜中に聞いたことがある。子供の頃やったろうか。子供部屋の梁 の上から、時には欄間 の猿が、それを喋ってたような。
俺には子供の頃から、友達には見えんもんが見える時があって、それが怖かった。小学校の教室の、空いているはずの席に、誰やか名前の知れんやつが座っているのが見えたり、飼育小屋の池の亀が、夕方から雨じゃ、はよお帰りと教えてきたりした。
そんなやつは、頭が変なんや。そんなやつ、他にはおらへんかった。そない気づくと、俺は自分の中に籠 もるようになり、人が見てへんもんを、何とか自分も見んようにしようとした。そないするうちに、ほんまに見えんようになってきて、俺は安心したが、結局それは、俺が一生、本間暁彦として生きていくということやった。
おかんの子やない、秋津の子ではない、ただの普通の男として。
別にええよ、俺はそれで。だって、そのほうが、まともやねんから。
そう居直っていたけど、おかんががっかりしていることは、肌で感じた。この家が、がっかりしていることも。お屋敷の暁彦様は、どうもぼんくららしいでと、辺り一帯の家の連中が噂しているのも、耳に届いた。それは実在してる生身の人間の話す声やったからや。
なんで、やつらは、俺が人には見えんもんを見るから言うて、化けもん扱いしておきながら、それが見えんようになったというて、馬鹿にするんやろうか。どないしたらええんか、俺にはわからへん。どうせえいうんや。俺は寂しい。
そんなような話を、おかんにはしたことはない。せやのに、亨には話した気がする。最初の夜に、出会 うたホテルのバーカウンターで、めちゃめちゃに酔っぱろうて。こいつはそれを、にこにこ聞いていた。それで俺と朝まで一緒にいてくれてん。俺はそういう亨を、おかんより好きやったらあかんやろうか。
「大崎先生がな、アキちゃんの絵を見てくれはって、力があるて言うてはったえ。うちの舞いによう似てるて。それで、うち、嬉しなってしもて。ご贔屓 にて、言うてしもてん。そしたら先生が、どれ一枚描いてもらおう言わはってなあ。まさか、すんまへん、できまへんとはよう言われへんえ。それで怖々 、アキちゃんに頼んだんえ」
おかんはうきうきと話し、それから漬け物を口に入れて、かりかり噛んだ。その話に、俺は呆れた。
「なにが怖々 やねん、おかん。ものすごい強制的やったで」
いきなり電話してきて、描け言うたんやないか。あんたもそろそろ大人やし、親の脛 囓 っとらんと、家のために働いてもええころや、って。
「あと、どのくらいで仕上がるんや。大崎先生も楽しみにしてくれてはるえ」
おかんは全然聞いてなかった。俺は苦笑した。
「わからへんけど、うちの松が取れる頃には何とかなるかな」
それも亨しだいというか、俺の自制心しだいやけど。だってこいつが我慢するわけあらへん。振り捨てて大学行けるかどうかや。家でなんて、とてもやないけど描いてられへん。
「そうどすか、いやあ、楽しみやわあ、アキちゃんの絵。どんなんやろか」
おかんは嬉しそうに言い、食事に戻ったが、俺はやっと、我に返っていた。
そうや。人にやる絵なんやった。おかんもそれを見る。そんなもんに亨を描いて、変やと思われへんやろか。
それはもちろん変やったが、とにかく描きたいもんは、どうしようもない。他のもんとして、あの絵を仕上げるんは、嘘やと思えたし、たぶん俺にはもう無理やった。今は他に描きたいもんがない。
なんで、そないなこと、もっと早うに悩まへんかったんやろ。おかしいわ、俺。どうかしてる。
「アキちゃん、食べたらちょっと、うちの部屋へおいでやす。うちも話がありますさかい」
「なんや。見合いの話やったら、俺は嫌やで」
俺に見合いさせんのは、いつものおかんの発作やけど、会って断るだけでも、今はあかんで。
先回りして断った俺の話に、黙々と飯を食っていた亨が、げほげほとむせていた。
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