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7-6 アキヒコ

 そうやな。俺はナヨい男やで。おかんに甘やかされて育った坊々(ぼんぼん)で、何かいうたら、すぐ逃げる。そういう、根性無しのアホやで。  せやけど、もう、それがみんな、おかんのせいやて言うてもいいような年やないやろ。俺はもう、大人なんやで。マザコンの(ぼん)はもう、卒業せなあかん。 「おかん。別れた時、サーベル男は何歳やった」  俺は何となく、おかんの答えを予感しつつ()いた。ものごとには不思議な符合がある。運命的な。俺はそれを昔から知ってた。見えへんようになったつもりの、諸々(もろもろ)の怪しいものも、ほんまは心のどこかで見えていた。おかんが言う、俺に力を授けたという天地(あめつち)は、ほんまはずっと俺を許しはしてへんかった。  明け方に見る夢の中で、ふっと街ですれ違う影のない誰かの微笑の、誘うような何かで、俺に知らせつづけてた。お前は普通の人間やない。普通の人間みたいには、生きていかれへん。覚悟を決めろ。吉と出るか凶と出るか、それはわからへん。それでも逃げ場はないんやで、と。 「二十一やったわ、アキちゃん」  教えてくれたおかんに、そうか、やっぱりなと俺は答えた。  せやけど俺の一生は、その男の続きやない。ほかのやつが途中まで描いた絵の、続きを描くために生まれてきたんやないんや。俺には俺の、描きたい絵がある。それを描くんやなかったら、生きてる意味はないねん。  俺がそう言い渡すと、おかんは、はぁ、と寂しそうにため息ついて、とうとう、お父さんのお墓を作ってさしあげんとあかんなあ。鞍馬山のどこかがええやろか、それとも、うちの庭に立派な石で、作ってあげるのがええやろかと言うた。 「好きにしたらええわ、おかん。俺は知らん。そんな、おかんを(はら)ませて、すぐ死ぬような、無責任な男のことなんて」 「あらまあ、アキちゃん。そんな薄情な。そういうあんたは、責任取れるて言うんか。自分が何者なんかもわからんまま、相手がどこのどなたともよう知らんと、一丁前の悪さしてるくせに」  からかうように、おかんはくすくす笑って言った。  しかし俺を馬鹿にしてるわけではなかった。  おかんは今でも、俺が可愛い可愛いて、仕方ないという顔をしてた。俺にはそれが、恥ずかしかった。小六まで俺は、大人になったらおかんと結婚するんやて、普通に信じてた。それが変やと気づいてからは、信じてることを他人に言うのをやめた。  それが現実には無理なことやと()に落ちたんは、たぶん今さっきや。おかんが()れてんのは、あのサーベル男で、薄情にもそいつは、外つ国(とつくに)海神(わだつみ)と浮気してしもうて、もうこの家には戻らへんのやって。可哀想なおかんは、それでも信じて待っている。いつかそいつが、帰ってくると。  そんなら俺は別にどうでもええやん。家におらんでも。本間暁彦でも。秋津暁彦でも。どっちでもええんやないか。関係あらへん。おかんにとって俺は、昔撮った写真みたいなもんや。いつか消える面影の、その身代わりとして、年ごとに似てくるだけの、可愛い可愛い坊々(ぼんぼん)なんや。  そやけど亨は、俺がめちゃめちゃ好きなんやって。他の誰でもない、俺が好きなんやで。そういうやつが、どこのどなたでも、俺には関係ないわ。関係ない。だってあいつがおらんようになったら、俺はまた、ひとりぼっちやないか。 「亨と帰るわ、おかん。悪いな、家のことみんな押しつけて、なんの役にも立たへん、ぼんくら息子で」 「そないな嫌なこと言うたらあかんえ。あんたは出来もよろしいし、見栄えかてよろしおす。なにより親孝行やで。ちゃんとうちが頼んだ絵を描いてくれてるんやろ。あんたがどないな絵を描く男か、うちにも見せておくれやす」  にこやかに言うて、おかんは心持ち、俺に頭をさげた。 「そうやな、おかん。記念すべき一枚目や。手抜きはせえへん」  俺は素直に(うなず)いて、足の(しび)れんうちにと思って、立ち上がった。実家を出てから、すっかり(なま)けて、正座のしかたも忘れたわ。それも忘れたふりしてるだけなんやろけど、とにかく忘れた。俺は現代人なんやで。旧家の坊々(ぼんぼん)暮らしには、ほんまにもう飽き飽きしたわ。俺は俺らしい、自分なりの一生を生きたいんや。それがどんな生涯なのかも、今は全然、わからんなりにな。 「電話すんのも、二週間に一回くらいにしよか、おかん」 「そうどすなあ、寂しいけど、アキちゃんももう大人なんやもんなあ。うちも我慢します。でも何かあったら、いつでも何でも相談してええんやで。あんたの面倒みるのだけが、うちの生き甲斐なんやから」  おかんは、それだけは言っとかなあかんというような、べったり甘い口調やった。  ああ、ほんまにな、これがあかんのやって。おかんの悪い癖や。これが俺をマザコンにするんや。振り切って出ていくのも一苦労やで。亨といい、おかんといい。あまりにも俺に甘すぎるんや。 「絵が仕上がったら、電話するわ。ほな帰るしな、なんかあったら電話してくれ」  つい、いつもの口調で別れを告げて、俺はそれは何か変やろと気づいた。俺はこの家を出てくんとちがうんか。  でも、もう言うてもうたもんは、今さら仕方ない。  そして座敷を出ようとして、床に落ちてるアルバムが、ふと気になった。そこで時の波に洗われて、消え失せかけてたサーベル男のことが。 「おかん、あのな、この写真やけど、借りていってもええか。パソコンで取り込んで、撮った時みたいに戻したやつを、焼き増ししといたるわ」 「そんなことできるん? しくじって、消えてしもうたりしまへんか」 「せえへんよ。そんな難しい事やないねん」  出町柳(でまちやなぎ)のマンションに帰れば、スキャナもあるし、画像処理のソフトもあるで。そう言おうとしたけど、おかんは文明の利器(りき)にはまったく(うと)い。携帯電話もまともに使われへん。デジカメだって、もしかしたら存在自体知らへん。俺に昔、誕生日プレゼントでプレステ買うてくれた時も、デパートの外商のすすめるまま買っただけで、アキちゃんこれレコードか言うてた。そんなおかんが俺は可愛い。それはもうどうしようもない。 「大丈夫やから、おかん。俺に任せといたらええねん。できたら速達で送るし、待っといて」 「ほな、そうしよか。アキちゃんがそう言うんやったら……」  それでも心配そうにしているおかんから、古いアルバムをふんだくって、俺は(ふすま)をがらりと開けた。そしたらそこにはまだ、めそめそしている顔のない美少女がちんまりと座って待っていて、俺はのけぞりかけた。

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