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8-1 トオル
アキちゃん、なあアキちゃん、と、助手席からずっと話しかけてたけど、アキちゃんは運転に必死なんか、険しい顔して、ぜんぜん構ってくれへんかった。
それでも俺が寂しいなって、ギア操作してるアキちゃんの手を握ると、それを払いのけはされへんかった。それどころか、手を入れ替えて、俺に握らせ、上から手を包んでくれたりしたんで、そりゃあもう、俺はデレデレした。
いややなあ、アキちゃんがこんなことする男やったやなんて。知らんかったわ俺。車ん中って、なんとはなしに二人っきりの密室感があるからやろか。アキちゃん、ずっとこの甘々モードのまんまでいてくれへんかな。
なんか喋 ってくれへんと、逆にモヤモヤするなあ。いい感じすぎて。指を絡 めたままギアチェンジで強く握られたりすると、なんかこう、萌えてきます。みたいなな。
「お前さっきから何をにやにやしてんねん」
気持ちわるそうに助手席の俺を横目で見て、アキちゃんは突然言うた。嵐山を出て、四条 界隈に戻り、なんとなく、おかんの縄張りを脱出したような心地のするあたりでのことやった。
「ええ。何をって。何か幸せやなあと思って。帰ったら何しよか」
つまりその、ベッドの中でっていう意味なんやで。だけどアキちゃんは真顔できっぱりと答えた。
「掃除やろ」
えっ、と、俺は答えた。掃除って、掃除か。
「大掃除するんか。あれ、もうええわって言うてたやん」
「あの時はな。けどな、俺は部屋が散らかってんのは、大嫌いやねん。綺麗にしとかんと、ろくでもないもんが寄ってくるで。病気とかな」
病気なんかせえへんやろ、アキちゃんは。そんだけ力が漲 ってたら、悪いもんなんか寄りつかれへんやろ。歩く消毒薬みたいなもんやで、アキちゃんは。そう思ったけど、俺は反論せえへんかった。せっかく手を握ってもらってんのに、ご機嫌そこねて放り出されたら損やもん。
「分かったよ。分かったけどな、ふたりで居るときは、そんなんせんとこ。アキちゃんが留守の間に、俺がやっといたるから。せっかく一緒に居られるときは、せいぜい仲良くしてよ」
「仲良くって何や。まさか、あれのことか。お前はそればっかりやな。一体どないなってんねん、お前の体は」
怒った口調やったけど、アキちゃんは照れてるだけみたいやった。その証拠に、握った俺の手を離しはしなかった。
「お前に、うちの鍵 、やらんとあかんな。俺と一緒やなかったら出入りできないんやと、不自由やろ」
「鍵 くれんの」
びっくりして、俺は聞き返した。アキちゃんは恥ずかしいんか、信号待ちしてる道路の先を睨 んでるだけで、俺のほうを見いへんかった。
「いらんのやったら、やらへんで」
すねたような言い様が可愛くなって、俺はくすくす笑った。
「いらんことない。欲しいなあ」
大事にするわ。でも、それをほんまに鍵 として、使うことがあるやろかと、俺は心配やった。おかんは結界を解いてくれたんやろか。なんや随分 、ひどい扱いされたけど、それでもアキちゃんのおかんは、自分のことを俺にお母様と呼べと言うてはった。あれはその、そういうことなんとちゃうか。俺がアキちゃんと一緒に住んでもかまへんという、お許しというか。まあその何や、親公認みたいな。
うっふっふっ、と、またデレデレしそうになって、俺は何とか耐えた。アキちゃんにアホやと思われる。すでに十分思われてるかもしれへんけど。
「腹減ったなあ。街で何か食べて帰る?」
昼時やったから、俺はアキちゃんを誘った。このまま家に帰ってもええけど、アキちゃんと出歩く機会はそうそうない。せっかくやしと思って、誘ってみたけど、アキちゃんは首を横に振った。
「帰ろう。とにかく。俺は帰りたい」
「なんで。アキちゃん、デートしてくれへんのやなあ。川原で懲 りたんか」
ちぇっと思って、俺はぶうぶう言ってやった。
「そうや。懲 りたわ。人の見てるとこですんのは恥ずかしい。だから早 よ帰りたいねん」
俺の手を握ったまま、アキちゃんはそう言うた。俺はデレデレを通り越して、なんや、ぽかんとした。
アキちゃん。どうしたん。一体、おかんと何話したん。
「亨。あのな、お前は俺のこと好きか。それは、他の誰かの代わりにか。もしそうやったら、今のうちに言うといてくれ。後になってから、実はそうでしたなんて言われてもな、俺はもう我慢でけへんから」
人出の多い街を走る車のフロントガラスを、何かがこつんと打った。霰 か、雹 みたいやった。小さい氷の粒が、空から落ちてきて、こつこつとガラスを打ち鳴らしはじめた。何か荒れ狂うような強い力が、この街の上空に集まっているのを、俺は感じた。
「誰かの代わりやないよ。俺はアキちゃんが好きなんやで。なんでそんなこと訊 くんや」
まだ妬 いてんのかと、俺は心配になって、アキちゃんの横顔を見た。ぱらぱらと落ちてくる氷の粒と、その向こうの景色を、アキちゃんは睨 んでいた。
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