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8-2 トオル
「お前が俺みたいのを好きになる理由が、よう分からへんねん。お前はいったい俺の何がよくて、付き合ってるんや。気持ちいいから、それだけか」
苦笑して言うアキちゃんの口調がずいぶん嫌みで、俺は困った。わざとやないんやろうけど、なんか非難がましいで。何があかんの、ふたりで気持ちいいことして、幸せんなって。それがなんで、まずいんや。俺は幸せやけどな、アキちゃんと抱き合うてると。
「嫌やったら、我慢するけど。でも、そんなに長くは保 たへんと思うわ。アキちゃんかて、保 たへんかったやん。禁欲。一晩しか」
俺も嫌みを言ってやった。それにアキちゃんは、ますます苦笑の顔になった。
「そうやな」
握って絡めた俺の指を撫でて、アキちゃんは何となく、愛おしそうに続けた。
「なんでやろ。俺は元々、そんなにやりたいほうやなかったで。我慢してたんかな、お前と会うまで」
「我慢、せんといて。俺と居るときは」
そう頼むと、アキちゃんは何を思ってんのか、ふっと吹き出して、しばらく、小さく笑い声をたてていた。
「それはな、ヤバいで、亨。ちょっとは我慢せんとな」
「なんでや。何がやばいねん。例えば何を我慢してんねん」
俺が詰問 すると、アキちゃんは困ったという笑い方やった。そのまま何も答えへんかったけど、降りつのる氷の粒が、ざあっとうるさいほどの激しさになった。道を歩いていた人影は、すっかりどこかの軒先や、建物の中に逃げ込んでいた。こんなもんが降ってたら、出歩こうなんて思わへんやろ。それがまるで、アキちゃんの仕業 のような気がして、俺には面白かった。
「さっきから、信号で止まるたびに、お前にキスしよかなって思うんやけど、どうも気合いが足りへんねん。人目が気になって」
「でももう、誰も歩いてへんで、アキちゃん。みんな雹 に、追い払われてしもたわ」
「そうやな」
アキちゃんは、照れくさそうに同意した。そして、何も言わなかった。そやけど、俺には分かった。
ほな、次の信号で止まったら、ちょっと我慢すんのを、やめてみようかな。
そんなふうな事を囁 いてくる、アキちゃんの心が。
せやのに、そういう時に限って、信号というのは青なんや。不思議なもんやで。まさか、おかんの、いや、お母様の差し金か。あの人はいったい、どこらへんまでカバーしてんのか。出町柳のマンションに結界を張れるんやから、まさかうちに帰っても、逃げられへんのか。
けどそれは、俺の思い過ごしやったんか、ぴかぴか黄色く光っていた信号が、やっと赤になって、アキちゃんにブレーキを踏ませた。転がる小さな氷で滑る道の上で、車は慎重に減速して、すうっと緩やかに止まった。サイドブレーキを引いて、それからアキちゃんは、俺のほうを向いた。
期待しまくりで待っている顔に、ちょっと苦笑されたみたいやった。それでもアキちゃんは、結局気合いを見せた。たぶん周りに誰も、見てるような顔がなかったからやろう。それとも見てても、してくれたんか。
隣に寄せた俺の顔の、顎 を掴んできて、アキちゃんは触れるだけかと思ったら、しっかり舌入れるキスをした。
それは、えらいことやった。ざらざらいう雹 の音に包まれて、密室のような気もする街のド真ん中で、アキちゃんは俺に相当に深いキスをした。なんでアキちゃんは、俺をそんなに好きになったんや。
嬉しいけど、ちょっと怖い。怖いけど、すごく嬉しい。
このままずっと、信号赤やったらええのに。
信号壊れてて、夜までずっと、このまま立ち往生 やねん。そしたらアキちゃんずっと、俺にキスしててくれるかな。
そんなことを、朦朧 として思ったけど、結局そんなはずはない。うるせえクラクションの音がして、それがアキちゃんを我に返らせた。
またハンドルを握って、アキちゃんはちょっと反省した顔つきで、濡れた唇を無造作に手で拭 った。その仕草が、なんかやらしくて、俺はうっとりアキちゃんを眺めた。
えらいことになったなと、俺はぼんやり思った。
なんでやろ。俺はこいつにベタ惚れや。ほんまに好きでたまらへん。たぶん冗談やのうて、何かそういう力を持ってるんやろう、アキちゃんの一族は。あの家に群れてた、有象無象 を見たら、どうもそういう気がする。
俺もその中のひとりとして、アキちゃんの手駒 になるんか。オカンが飼うてた、あの顔のない女みたいに。ずっとあの家に繋がれて、下僕よろしく使役されんのか。それでええのか俺は。
アキちゃんがもし、俺に飽きて、他のがええわってことになっても、その時、逃がしてはもらわれへんやろ。もしもその時にもまだ、俺が今と同じか、もしかするとそれ以上に、アキちゃんが好きなら。逃げようもないやろ。自分の意志では。
そうなったら、惨 めやで。戻るんやったら、今のうちやで。
俺は一応ちょっと、自分に最後の警告を与えてやった。それに自分がどういう反応をするかと思って。
そやのに結局、俺は、信号がもういっぺん赤になればええのにと、そのことのほうが気になってた。
あかんわ、それは。考えるだけ、無駄。もう、アキちゃんを信じて、身を任せるしかあらへんわ。それでもし、ひどいめにおうても、その時泣いたらええやん。
濡れた唇を、指で拭って、俺はそのまま、まだ熱く戦慄 くようなそこに、目を閉じて触れていた。
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