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8-3 トオル
怖いなあ、恋をするのって。今までしたことなかった。色んな恐ろしいもんは、この目で見てきたけど、アキちゃんより怖いもんなんて、何もなかった。アキちゃんの愛が、いつまでも続くように、俺は祈るしかない。神や鬼に、祈るしか無い人間どもの切なく怯える気持ちが、俺にもやっと、今わかったわ。
「亨、帰ったらな、お前の絵描いてもええか」
突然誘うみたいに、アキちゃんが訊 ねてきた。
俺は助手席でかすかに震えながら目を開いた。もう、すぐ近くにアキちゃんのマンションが迫ってきていた。あそこに戻ったら、俺はもう終わり。自分で出られる出口はないし、出ようという気も、どこにもないし。アキちゃんに食われる、頭からまるごと、ひとのみに。
「絵って……なんで」
すぐには返事できなくて、俺は意味なく訊いた。理由なんて、ほんまは関係ない。俺は人に自分の絵を描かせたらあかん。そんなことして目立って、何かまずいことになったら、どうすんの。
人はみんな、俺みたいなのを愛したり憎んだりする。人間に殺された仲間も沢山居るで。愛憎の果ての報いとして。だから絵になんか描かれたらあかんのや。みんな自分がそこにいた証拠を、なるべく残さないようにして、身を守っていた。せやし俺も、今までずっと、そうしてきたんや。
「なんでって……ただ、描きたいねん。お前を」
アキちゃんは、たどたどしくそう答えた。
「惚れた相手の絵描くのって、アキちゃんの癖なんか。クリスマス・プレゼントに、姫カットにやろうとした絵って、本人の絵なんやろ」
図星やったんか、アキちゃんはぐっと詰まったみたいやった。恥ずかしいぐらいに、わかりやすい奴や。
「なんか燃えるんか、描くと」
「いや、そういう訳やないと思うけどな」
否定してるのが、明らかに言い訳やった。そうか、アキちゃん、姫カットの絵描いたんか。それはなんというか、妬 けるな。教えてやらんけど、姫カットはな、ほんまはブスらしいで。それで、そんな化けの皮のほうの絵描かれて、むかついたんやで。みんながみんな、嬉しいとは限らへんで。俺かて、どう思うかわからへん。
実は、俺は自分がどんな顔してんのか、ようは知らへんのや。人が見て、綺麗やとおののくような、そういう顔やというのは、経験上知ってるんやけど、でも鏡にもうつらへんし、写真にもうつらへん。自分で自分の顔を見る方法がないねん。
「でも……俺、自信ないねん。アキちゃん、どう考えても面食いやろ」
気づいてなかったんか、アキちゃんは俺に断言されて、愕然 としたらしかった。
自覚ないんか。鈍いやつや。どう考えてもそうやろ、アキちゃんは。あのオカンに、前の女は姫カットやろ。それに俺のことかて、顔が好きやったに違いないんや。せやけど絵に描こうと思て、じっくり見たら、こいつ大して綺麗やないななんて、思うかもしれへんで。それで急に、恋がさめたら、俺はどうしたらええんや。
「なんで自信ないねん。お前、鏡見たことないんか」
アキちゃんは、苦い顔でそう訊 いてきた。マンションの地下ガレージに続くスロープが、黒々と口をあけて、俺を呑もうとしていた。
「見たことない。俺、自分がどんな顔してんのか、よう見たことないねん」
「そうか。ほんなら見せたるわ」
苦笑して言うて、アキちゃんはガレージに車を入れ、薄暗いその地面の下で、車の室内灯をつけた。そしてバックミラーを動かして、俺に自分の顔を見せたつもりのようやった。だけどそこには、もちろん、俺の顔は写ってへんかった。
アキちゃんが、急にそんなことしたのに、俺は肝 が冷えた。アキちゃんが見て、お前鏡に映ってへんやん、気持ち悪いって思ったら、俺はどうしたらええんや。
なんか、そんなことばっかり気にしてる気がするわ。ずっと。
ため息ついてる俺には気がつきもせず、アキちゃんはに後部座席からなけなしの荷物をとって、車をロックすると、俺を連れて、地下から一階のエントランスに繋がる階段を上った。俺は慌てて、アキちゃんと手をつないだ。そうしてへんかったら、おかんの結界に追い出されるかもしれへん。あの人、可愛い顔して、けっこう根性悪そうやったやんか。
せやけど、いつもなら感じていた壁みたいなものを、俺はその時感じなかった。するりと当たり前に、あったかいゼリーの中を抜けるみたいに、俺はいつも壁やったところを通り抜けた。
もう、アキちゃんと手を繋いでる必要はなかったけど、それでも手を離さんといてほしかった。
ああ、良かったよアキちゃん、俺もここに、住んでていいらしい。アキちゃんのおかんが、それを許してくれたらしい。なんでやろ、俺はなんもしてへんのにな。
「ここのエントランスやけどな、亨」
壁にある、数字やら何やらのボタンがついたような操作パネルのほうへ行って、アキちゃんはいつもなら触らないでいいらしいそれに触れた。たぶんそれはインターフォンやった。外から来た客が、中にいる家人を呼ぶための。
だけどアキちゃんがどうやってここの自動ドアを開けてるのか、俺にはわからへんかった。ポケットに鍵を入れてるだけで、部屋のドアは解錠されてるし、玄関の自動ドアもそうなんやろうと、深く考えてなかった。
「顔認証やねん。業者呼んだらええねんけど、正月やし、悪いな。自分でやれへんかな。何かそんなこと、前来たとき言うてたんやけど……」
鍵を使って、操作パネルの下の銀の扉を開いて、アキちゃんはそこにあったモニターを出した。
俺はその光景に、鞭打 たれたような気がした。アキちゃんが、画面にうつってる自分を見てた。そして、そのすぐ隣にいるはずの俺が、ぜんぜんうつってないのを。
アキちゃんはしばらく、そのまま、固まってたみたいやった。
俺は怖くなって、思わず一歩後ずさった。
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