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9-1 アキヒコ

 絵は完成した。  俺の自制の甲斐あってか、おかんに約束したとおり、うちの実家の正月が明ける一月半ばの頃やった。  冬期の課題を兼ねて描いていたので、まずは担当ゼミの教授に見せた。  教授は作業棟に現れ、壁一面を埋める巨大サイズの俺の作品を、腕組みして眺めて、ううんと唸った。そして、本間君、これは油絵とちゃうか、と言った。  そうや。油絵です。見りゃわかるやろ。  せやけどな、俺は日本画の先生やでと、教授は困っていた。  そんなことは言われんでも俺も知ってる。せやから、ちゃんと日本画の画風で描いたやろ。なんの文句があんねん。  そういう目で俺が黙っていると、教授は困ったなあという顔で、頭をぼりぼり()いた。いつも着ているトレードマークの、(ひじ)に革の継ぎがあたっている、枯れ草色のタータンチェックのジャケットが地味なような派手なような人で、見るからに野暮くさかった。  まあええわ。いい絵やわと、教授は結論した。しかし日本画の学生が油絵描いてどないすんねん本間君。油絵に転向するんか。  そう言ってくよくよしている教授を、俺は励ました。  そういう訳やないです。別に俺は、画材はなんでもええんです。描きたいもんが描ければ。日本画でもCGでも。その時々のノリです。せやから別に、日本画科でかまへんのです。どこでもええんやし、先生のことは尊敬してますから。それやと何か不満なんですか。  いや、不満やないよと、教授はいかにも気弱そうに言うてた。  不満やないけど、君はほんまに我が儘な子やなあ。この絵で単位くれ言うんか。俺に判子(はんこ)()せ言うんか。日本画の教授に油絵でアタックか。無茶苦茶やで本間君。普通なら単位やれへんで。前代未聞なんやで。せやから他の先生には黙っといてくれ。恥やから。この絵はさっさと、どっかに隠しといてくれと、教授は課題満了の紙ペラに判子を捺しながら、俺に頼んだ。  その予定やった。この絵は大学からは、さっさと消える。  教授が判子捺すにしろ、捺さへんにしろ、この絵はもらい手が決まってた。そいつが一刻も早く絵をよこせという腹やったんで、教授がとっとと出ていくのを待って、絵を搬出しようというんが後ろに控えていた。 「前途洋々やなあ、君は。卒業する前から、絵に買い手がおるんか」  くよくよしている教授は、あんまり絵が売れへんらしい。上手いのに変やなあ。でもまあ分かるわ、教授の絵は、気合いが足りんねん。何かこう、ふにゃっとしてて、何描きたいんかわからんようなやねん。上手いんやけどな。以前俺がそう教えてやったら、教授は三日ぐらい大学を休んだ。今もそのとき、ずる休み明けから戻ってきたばっかりのときみたいな、情けない顔を教授はしてた。くたくたです、みたいな。 「人手に渡すんやったら、写真くらい撮っといたらどうや。自分が描いた絵でも、人に買われていったら、死蔵されることもある。もう二度とお目にかかれん絵かもしれんで」  教授は珍しくこの道の先輩らしいことを言った。  俺はそれに(うなず)いた。そのつもりで、滅多に使わんデジカメも持ってきてた。面白がって買った一眼レフのやつ。亨か面白がって撮った、とても人には見せられんような写真は、もちろん消してきたで。  せやけどこれで俺が撮って、まともに写るんやろか。買った時に喜んで、嵯峨野(さがの)に試し撮りにいったら、竹林に()んでるえらいもんが、みんなピースして写ってて、俺はそれを見なかったことにしたんや。データもその場で消した。心霊写真ていうんか。それとも妖怪写真かな。そんな新分野で有名になりたくないやろ。俺は絵師やで、写真家とちがう。 「亨」  俺が呼ぶと、作業室の薄汚い壁にもたれて携帯のメール打ってた亨が、ふと顔を上げた。今日の亨は、新しく買うた、それでも目立ったとこのない格好をしてた。そやけど、どんな格好してても目立つやつや。こんな陰気な作業棟にいても、亨のところだけ、何やらキラキラした雰囲気やった。 「なんや、アキちゃん」  電話をスリープさせて、ジーンズのヒップポケットに入れ、亨は愛想のいい淡い微笑で、俺のところにやってきた。教授はなんかそれに、ドギマギしたらしかった。なんでドギマギしてんねん、おっさん。まさか亨に気があるんやないかと、俺はむかむかした。帰れ、教授。いてまうぞ。 「絵の写真撮ってくれ、亨。俺やと上手く写らへんから」  一眼レフを渡して頼むと、亨はカメラを見て、きょとんとした。 「なんで。アキちゃん写真上手いやん。玄人(くろうと)ハダシやで」  それは何や。何の写真のことを言うてんのやと、俺は真顔で焦った。  亨はだんだん、写真に写るようになってきてた。何かコツがあるのを、(つか)んだらしい。それでも普段は鏡にもカメラにも写らへんけど、俺がシャッター押すと、亨ひとりでも写真に写る。それを絶対外には出さへん、人には見せへんという約束のうえで、亨は俺に写真を撮ってもいいと言っていた。そんなん言われんでも外には出さへん。恥ずかしいやろ。 「君、写真もやんのか、本間君」  大ショック、みたいな顔で、教授が()いてきた。 「やりませんよ。遊びで撮るだけです。写真くらい誰でも撮るでしょ」  俺が愛想なく言うと、教授は胸を押さえてがっくりとした。 「そうか。ほな良かったわ。写真科まで敵かと思った。やめてな、本間君。教え子の出世も俺の点数のうちなんやし。これまでどんだけ本間を寄越せという教授連中の鬼の攻撃に俺が泣きながら耐えてきたかや。それもこれも将来出世しそうな君の卒業時、担当教授の欄に俺の名前を書くためや」 「アキちゃん、案外おっさんにもモテんねんなあ」  横で話を聞いていた亨が、しみじみという感じで、疲れたみたいにコメントした。なんやそれ。おっさんにもっていうのは。俺が他の何にモテんねん。お前以外の誰にもモテてへんやんか。むしろ全然モテへん男やないか。お前が来てからなお一層やわ。別にそれでええねんけど、でもなんか複雑やで、男としては。

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