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9-3 アキヒコ

 おっさんは、いかにも仕立てのいい、黒の三つ(ぞろ)いを着こなして、短めに刈った七三の髪を、(つや)めに仕上げていた。堅気(かたぎ)とも、玄人(くろうと)ともつかんような、怪しい熟年の男やった。  おっさんは飽きもせず、部屋のすみから俺の絵を眺めていた。いや、たぶん、俺の絵をやのうて、絵の中の亨をや。 「西森(にしもり)さん、絵はどうやって持っていくんや」  写真撮るのに飽きたんか、亨は部屋の真ん中に立ってカメラを構えたまま、後ろのほうにいた画商のおっさんを少し振り返って(たず)ねた。 「専門の業者がおるよ、亨くん。部屋の外で待っとるわ。早うしてくれんかな、先方もお待ちなんで」  ()かすわりには、ゆったりとした低い美声で、おっさんは言うた。(ふところ)の深そうな人やった。たぶん、こんなシチュエーションでなく出会えば、訳なく尊敬できるような人柄の人や。けど俺はもちろん素直にはそう思えへんかった。こいつも亨となんかあんのかと思えて。 「そんな()かんでも。今にも死にそうなんか、藤堂さんは」 「いいや。そういう訳やない。一時、危なかったらしいけどな、それで観念して手術したからやろ、持ち前の根性汚なさで、総力をあげての療養生活や」  わっはっはっと豪快に笑い、画商は軽口をきいた。 「この絵があったら、また違うやろ。アキちゃんの絵には、なんかそういう力があるで。癒し系」  納得したような顔で、亨は天然かみたいな事を言った。相手がこの絵を欲しいのは、笑ってるお前が描いてあるからやろ。その絵見て蘇ってくるとしたら、それはお前への執念やで。俺は正直、胸糞悪いわ。  せやけど、どこの誰とも知れん恋敵とはいえ、人ひとりの命のことやし、死ねばええわとは思えんな。俺の絵一枚で人が助かるんやったら、それはそれで、絵描きとしては光栄なことなんやないやろか。 「藤堂さんも案外、不死鳥のように返り咲いてくるかもしれへん。あの人、ネチっこいからなぁ」  何かを思い出しているような口調で、亨はしみじみ言った。  ほんまにもうお前はどんだけ無神経やねん。このシチュエーションで、よくもそんなこと堂々と言うわ。うっすら想像させられた事の、あまりの痛さに(しび)れて、俺はうな垂れ、自分の(うなじ)を揉んだ。 「いくら払ろたん、藤堂さん」  にやにやして、亨は西森という、画商のおっさんに(たず)ねた。それは臆面もない問い方やった。 「クライアントの秘密や、それは」  教えなかったおっさんに、亨は皮肉たっぷりに顔を歪めた。そして、部屋の反対側にいる別の男のほうを、ふりかえった。 「いくらもろたん、秋尾(あきお)さん」  急に話を向けられて、ぼけっと傍観していた丸メガネの男は、なんやて、という顔で笑うた。  その男は、ナントカ会館の爺さんの秘書で、絵の争奪劇の顛末(てんまつ)を見届けに来ている。ひょろっと背の高い中年の男で、亨は何度かやってきたこの男のことを、狐やと言うてた。狐みたいやで、あの人は、と。  言われてみると確かに、にこにこ愛想のいいメガネの奥の糸目が、なんとなく狐っぽい人や。でも彼が薄茶のスーツの中に尻尾を隠してんのかどうか、詮索するのは失礼なんやないか。人にはそれぞれ都合があるんやし。 「それは教えられへんよ、クライアントの秘密や」  秋尾さんは、にこにこ機転をきかせてそう答え、画商西森と、軽い会釈(えしゃく)を交わした。 「なんやねんケチやな。油揚げ買うてきたろか。そしたら喋るか」  亨が本気みたいな口調で茶化すと、秋尾さんは、面白そうにくつくつと笑った。  ナントカ会館の爺さんは、横からかっさらわれるのは面子(めんつ)が立たんといって嫌い、秋津からいったん買い取った俺の絵を、さらに藤堂さんなる死にかけ男に転売してやることにした。画商西森が直談判に行き、クライアントの心情を切々と訴えたらしい。それに爺さんは武士の情けをかけた。そういうことらしい。  絵を買い取った客が、他のやつにそれを売るというなら、俺には手も足も出なかった。画家なんて虚しい商売や。亨の絵なんか描くんやなかった。こいつが俺の目の前で、右へ左へ売り買いされんのを、指をくわえて見てる羽目になるとは。  そやけど、絵の出来映えは上々やった。おかんも喜んでた。俺にはそれが一番嬉しかった。  おかんは絵を見て、アキちゃんあんたはこの子がほんまに好きなんやねえと、納得したように言うた。俺はなんも答えへんかったけど、答える必要もなかった。それは絵に描いてあるやろ。  俺は亨が好きや。好き。  言葉ではうまく言い表せない、その単純なことが、絵に描くと一目瞭然やった。  何日もかけて絵の具まみれで仕上げた絵の中で、亨は愛しげに俺を見つめていた。その微笑みを、俺はいつも愛しく眺めた。やがてその絵が人手に渡ることは知っていたけど、それで手を抜いたりはせえへんかった。今この時の自分の思いの(たけ)を、一枚の絵にして残したかったんや。  そやけど初心(うぶ)な絵やと、ナントカ会館の爺さんは評したらしい。実物見んと写真でやで。失礼な話や。それで一度として俺の絵を手元に置くこともせんと、右から左に転がして、なにがしかの大枚は懐に収めた。根性汚い爺さんや。  それでも、その因業爺(いんごうじじい)の寛大さのお陰で、あちこち丸く収まったわけや。爺は俺に改めてもう一枚絵を描けと発注してきた。それはもう描くしかなかった。こっちの我が儘きいてもろてんから。  今度もまた古代の日本なんかと思ったら、次は舞妓の絵を描けという。ふざけんなと思った。俺は人物は描かへん言うとるやろ。風景か静物しか描かへんねん。あとは動物とかな。それに舞妓さんなんか、まじまじ見たこともないわ。  俺がそう文句を言うたら、おかんはけらけら笑い、ほんなら祇園にお座敷遊びしに行ったよろし。あんたは、ええとこの(ぼん)なんやし、それにもう大人なんどすやろ、と言うた。

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