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9-4 アキヒコ

 たぶん嫌みなんやろ。おかんが俺に嫌み言うなんて、うっかり涙出てきそうやわ。  それでも、おかんは亨を気に入ったようやった。何くれとなく世話焼いてやり、着るもん買うてやったりしていた。時々嵐山の家に呼びつけて、なんやかんや教えてるらしい。いびってるだけかもしれへんけど。 「そろそろ搬出しますわ。よろしいな、本間先生」  そう言って了承を求める画商西森は、なんでか俺を一人前の絵描きとして扱ってくれていた。まだ学生の身の上やのに、分不相応な気がして、俺はそれに恐縮していた。なんかこう、敵に塩を送られる気分や。そりゃあまあ、まだ敵やと決まったわけやないんやけど。俺の邪推かもしれへん。だいたい亨かて、知り合い全部がそういう相手ってことはないやろ。 「亨くん、この後、どないするんや。木屋町で湯豆腐でも食わしたろか。それとも南座の吉兆がええか」  搬送業者に絵の梱包をさせながら、西森は気安く亨を誘った。亨は一応、その提案を受けるかどうか検討したらしかった。検討すんな。即答で断れ。 「うーん、せっかくやけどな、西森さん。俺はこれからアキちゃんと大阪行くんや。デートやで」 「なんやそれ。ラブラブなんか」  画商西森は、残酷なほどよく通る声で、驚いたように言った。めちゃめちゃ響いてるんやけど、やめてくれへんか、おっさん。 「そうやで。ラブラブや」  恥ずかしいみたいに、もじもじして、亨は臆面もなく答えていた。俺はなんとなく気が遠くなっていた。 「しゃあないな。ほんなら順番待ちしよか。亨くんのことやし、どうせすぐ飽きるんやろ」 「待ってもええけど、千年後くらいにもういっぺん()きにきて。そん時にラブラブやのうなってたら、考えてもええわ」  亨はにやにやして、そう言うた。 「それは生きてられへんなあ」  西森さんは、わっはっはと豪快に笑った。話はそれで、終わりらしかった。  そして西森さんはきゅうに画商の顔に戻り、俺のところに名刺を持ってきた。今まで亨を介して話が進んだので、俺は西森さんの名刺はもろうてなかった。 「今後も何か描けましたら、ご一報ください。飛んできますよって」  名刺に書かれた住所は、花街(かがい)祇園(ぎおん)のど真ん中やった。 「なんやったら、亨くんの絵をいっぱい描いたらどうやろ。絶対ばかすか売れまっせ」 「俺は人物は描きません」  むっとして、俺は答えた。画商はいかにもおもろいというように、げらげら笑った。 「そないですか。そら大したもんや。女衒(ぜげん)やないという訳で。お見それしました大先生。人が無理なら、鬼でも蛇でも、なんでもよろしおす。何か描けましたら、よそへ行かずに、まずうちへ」  わざとらしく頭を下げて、画商は引き上げていった。  まったく。むかつくおっさんや。ほんまにむかつく。めちゃめちゃむかつくわ。 「なんやねん、あのおっさん。むかつく」  いくら言っても気が済まず、俺は口に出して亨に文句を言った。亨は面白そうに苦笑していた。 「ええ人やで。美味い店いっぱい知ってるしな。高級料亭から屋台まで、どこでも連れてってくれはるで」 「飯さえ食えれば誰でもええんか、お前は」  ぷんぷんしてきて、俺はその腹立ちを隠しもせず亨をなじった。亨はちょっと照れたように、鼻を()いていた。 「誰でもええわけないよ。今はアキちゃんだけや」  そう言われて俺は、たいへん満足したが、そこで今さら我に返って気づいた。みんな見てるやんということに。  狐みたいな(つら)の秋尾さんは、うっふっふと笑っていたし、教授は真っ青な顔をしていた。やばいで。ちょっと待ってくれ。俺のまともなイメージが完膚無きまでに粉砕されていく。  きっとそのうち、学内でも悪い噂が立ちはじめるんや。本間は学年いちの美少女を振って、ものすご顔の綺麗なツレを選んだ。それがもとで、美少女は学校やめたって。というか、その噂はすでにもう流れていた。  前の女はなんでか、クリスマス前にもう退学届けを出していた。そんな相談、いっぺんもされたことなかった。  結局彼女にとって、俺はその程度の相手やったということか。そう思うと悲しいけど、でももう過去のことやった。ほんの一月前のことやのに、薄情なまでに遠い過去に思えた。  思い出せと言われても、彼女と暮らした半年ばかりのことは、思い返してみると、ごくわずかの時間やった。本当に一緒に住んでいたわけではなく、考えてみると、彼女は時々泊まりにくるだけの人物やった。  大学では俺はほとんどの時間を絵を描いて過ごしていたし、思えば彼女と接点があったんは、その合間の時間だけや。お互いが何を考えて、何に悩んでいたのか、よう知らんままやった。  それでも、思い出せと、刑事は俺に言うた。

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