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9-7 アキヒコ 【完結】

 ぷしゅう、がらがらと音を立てて、小豆(あずき)色の車体の扉がいっせいに閉じた。走り出したら梅田まで、半時ばかりのはずやった。なんてことない。旅行ってほどでもない。ちょっとそこまでや。  それでも俺は緊張した。梅田行きの特急は、桂川(かつらがわ)を越え、京都側での最後の停車駅、長岡天神(ながおかてんじん)を出たら、次はもう高槻(たかつき)まで止まらへん。そこはもう大阪やった。  実家のある嵐山にも、桂川は滔々(とうとう)と流れてる。渡月橋のかかる、いかにも京都の川や。  しかしそれが下っていく先には大阪がある。桂川はいずれ大阪の大河川(だいかせん)、淀川と合流する。そして最終的には大阪湾に注ぐ。  そんな基本的な地理情報は、もちろん俺でも知ってるんやけど、それを自分の目で確かめたことはなかった。二十一年間、いっぺんもない。行こうとしても、俺が乗ってると、電車が止まったりして、他にも迷惑がかって、えらいことやったし、俺は修学旅行にも行ったことがない。別に京都で良かったし、面倒くさかってん。  せやけど、ほんまにそうやったか。ほんまは行きたかったんやないかという気がした。  お前がおるから電車止まるわと、人に言われんのが怖かっただけや。そんなはずないと思える出来事も、人の噂になれば、まことしやかやった。本間おるから新幹線止まるわ、本間来るから雨降るわ。なんかそういう呪縛のようなもんが常にあって、しかもそれが事実やった。せやから面倒くせえし俺抜きでやってくれと、遠慮したんだか何だか、参加しないでいるうちに、気づくとひとりぼっちだった。  それが心地いいと思ったことはない。面倒くせえし仕方ないから一人でいただけや。  亨が俺を絶対に大阪まで連れて行くというんで、心強かった。おかんがマンションに張ってるという結界を突破できんかったお前に、そんなことできるんかという論理的な考え方は、この際捨てなあかん。手を繋いで入れば通れたという、その理屈を信じている亨の言うことを、俺も信じなあかん。  世の中、気の持ちようや。そうやなかったら、一生京都から出られへんのやで。亨が行きたいと言う大阪にも、神戸にも、もっと遠くにも、一緒に行ってやられへん。それは俺にも、寂しいと思えた。お前とあっちこっち行ってみたいな。それがどんな遠くでも、二人で行けば似たようなもんやろ。大阪でも、ローマでも。  走り出した電車の座席は、足元から温風を吐き出していた。なんかもう、それに眠り薬でも入ってんのかというような心地よい眠気が襲ってきた。亨は疲れたんか、ふわあと欠伸して、なんや眠なってきたわアキちゃんと、俺の手を握り、肩にもたれてきた。  やめろ亨、向かいの席の人、見てはるやないかと、青くなって向かいを見て、俺はびくっとした。  黒いビロードの外套を着た、にこにこ顔のお婆ちゃんが、そこに座っていた。しかも二人。そっくり似たような顔で。そっくり同じ、冬枯れの裾模様(すそもよう)の着物着て。にこにこ、ちんまりと並んで座ってた。  あんたら双子なんか。誰やねん、もう片方。比叡山(ひえいざん)か。お友達か。実はうようよいるんか。梅田行くんか。なんで行くねん。どうせ俺らをウォッチしにきたに決まってるんや。  亨はもう、すうすう寝息を立てていた。  お婆ちゃん達は蜜柑(みかん)を出してきて、仲良うそれを()き始め、なんでか一房(ひとふさ)、俺にもくれた。食っていいんか謎やったけど、受け取ってもうたんで、仕方なく俺はそれを食った。甘かった。  ぐうすか寝ている亨を肩にもたれさせたまま、俺は桂川を渡り、京都を出た。なにも起きんかった。亨は眠ったままでも、ぎゅっと俺の手を掴んでいた。その温かさと、シートの温風と、がたんがたんと鳴る心地よい車輪の音とで、俺もいつの間にか眠っていた。心地よい、深い眠りやった。  梅田と駅名を告げる声で、俺はがばっと起きた。気がつくと、車両には俺と亨しか残ってへん。お婆ちゃん達もいてへんかった。車両の中は、すっからかんやった。ここが終着駅やからや。  車両清掃をするから、全員降りろというアナウンスが流れていた。 「亨、起きろ。降りなあかんのとちゃうんか」  俺があせって揺り起こすと、亨は(うめ)いて、眠そうに起きた。 「なんやねん、アキちゃん、俺がせっかく気持ちよう寝てんのに……」  目を(こす)りながら、亨は車窓から外を見て、いくつも並んだホームを流れていく大勢の人の群れと、その合間の線路に何台も停まっている、小豆(あず)色の列車を眺めた。 「……うわっ、梅田やん、アキちゃん。降りなあかんよ」  俺がさっき教えてやったことを、亨は今気づいたみたいに大声で言うて、繋いだ俺の手を引き、足早に車両からホームに降りた。それを待っていたみたいな素早さで、ぷしゅうと空気ポンプの音を響かせて、全ての扉が閉じた。  梅田は大きな駅やった。高い天井から、でかい広告が、いくつもぶら下がっていた。新春の初売りを告げる、景気のええ真っ赤なポスターやった。 「大したことなかったやろ、京都出るの」  まだ俺の手を繋いだまま、亨がちょっと得意そうに俺に()いた。 「大したことなかったな……でも、天狗(てんぐ)おったで。天狗(てんぐ)っちゅうか、前に叡電(えいでん)で会うた、あの婆さんやけどな。二人に増殖してたで」  いつの間に、どこで降りたんか分からんお婆ちゃん達の姿を探すともなく探して、俺はだだっ広い梅田駅のホームを見渡した。そこは、知っている京都の街とは、どことなく空気が違った。港の突堤(とってい)みたいに、いくつもホームが突き刺さっている端にある改札口に、ものすごい早足で人々が殺到(さっとう)していた。なんでみんな、そんなに急いでるんや。 「婆さん? 俺、寝てて知らんかったわ。とにかく行こか、ここに突っ立ってたら邪魔やし。ぼけっとしてたら()られんで、アキちゃん。ここは大阪なんやから。めちゃめちゃ速う歩かんと」  楽しそうにそう言うて、亨は俺の手を引き、改札口を目指して、めちゃめちゃ速う歩いた。  どこへ行くんやろうかと、俺は何となく戸惑いながら付いていった。行き先を決めてない。大阪に行くって決めただけで、ちゃんと着くのか自信なかった。せやから、そっから先は決めてへんかった。 「どこ行くんや、亨」 「そんなん歩きながら適当に決めたらええねん、アキちゃん。寿司食う? それとも、やっぱり先に街見よか?」  腹は減ってた。  せやけど、すぐそこに、まだ見たこともない巨大な街への入り口があると知っていて、のんびり駅構内で寿司を食おうという気は、俺には全然しなかった。  亨にはそれが分かるのか、にやにや苦笑して、俺の手を改札があるほうに引いた。 「寿司美味いのに。しゃあないなあ、お上りさんは。行こか」  そして、何台あるねんという、横並びの改札機を通り抜けて、俺と亨は縦横無尽の人混みを()い、階下へ降りるという、エスカレーターのところまで行った。下りだけで六基もあった。なんでそんなにエスカレーターあんねんと謎に思い、それに乗ってから、俺はその理由を悟った。  階下に見下ろせるのは、広場のような開けた大空間やった。そこには、さっきの人混みがまだ序の口やったと思える、うようよとした人混みが(うごめ)いていた。それが川の流れのように、滔々(とうとう)とそれぞれの方向へと流れ去っていく。その全てが人間なんやということが、ぱっと見に驚きに感じられた。  こんな世界が世の中にはあるんやなあ。俺、初めて見たわ。 「なんか祭りでもあんのか」  深く考えず、俺は一段前に立っている亨に(たず)ねた。京都の街にこんなふうに人があふれるのは、祭りのある日だけのことや。祇園祭や、桜、紅葉に押し寄せる人の群れで、ほんの一日、二日、異界の蓋が開いたかのように街があふれかえる。  眼下に近づく人の群れは、俺にはそういうもののように見えたんや。  うっすらと微笑んだ横顔を見せて、亨は嬉しそうに、同じ人混みを見おろしていた。 「そうやなあ。毎日が、祭りみたいなもんやなあ、この街は」  振り返って、俺を見上げ、亨はにっこりとした。綺麗な顔やった。 「どこ行こうか、アキちゃん。この街は楽しいことばっかりやで。俺がどこでも、つれてってやるわ。手えつないで、迷子にならんように」  そう言うて、亨は俺の手を(つか)んだ。  そのままエスカレーターが尽きて、俺と亨は階下の床に降り立った。  ここ、何階やねんと、俺は混乱して(たず)ねた。  ここは地上やでと、亨は教えてきた。さっきのホームが三階で、ここは地上や。地下は三階まである。地上は三十二階までかな。よう知らんけど、とにかく京都タワーなんかメやないで。どこ行く、ビルの上にある観覧車乗ろか。それとも、地下のいちばん深いとこまで、もぐってみよか。  どこ行こか、アキちゃんと、亨が呼びかける声が、なんとなく、うっとりと響いた。  あんまり広すぎて、どこから行ったらいいか、わからへん。  どこ行こか、亨。  綺麗に微笑んでいる亨の、のんびりと付き合うてくれてる顔を見て、俺はなんとなく幸せな気分やった。  お前と行かなあかんところが、いっぱいあって良かったな。どこへ行っても、俺には初めて見る場所や。せやから、どこでもええよ。まずはお前の好きなところから、連れて行ってみてくれ。  そう頼むと、亨はにっこりとして、俺の手を引き、歩きはじめた。さらに地下に潜るつもりみたいやった。  その道がどこへ続いてるのか、俺にはわからへん。  それでも、亨の連れて行くところへ一緒に行くのに、不安はなかった。  一体これから、どうなるんやろ。明日は一体、どんな日なんやろ。それは全然分からなくても、ひとつだけ確かなことがあった。  どこへ行っても、何が起こっても、その時たぶん、俺は亨と一緒にいるやろ。それだけ分かれば、幸せでいるには充分やった。  お前もそれで幸せなんかと、俺が亨に言葉でなく()くと、亨は俺を見つめて、うっとりと微笑んだ。それはまるで、それで俺も幸せやと、答えてくれてるみたいやった。 ――――

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