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第5話

「御影くん」  軽く肩を揺すられて、悠は固い診察台の上で薄らと目を開けた。  此処はどこだ…、と見慣れない天井に一瞬身を強張らせた悠の顔を、月村が少し心配そうに覗き込んでくる。その顔を見て全ての経緯を思い出した悠がホッと息を零すと、月村も安心したように僅かに笑みを見せた。 「点滴、終わったよ」  いつの間に眠ってしまっていたのだろう。月村に言われて自分の腕を確認すると、点滴の針は既に抜かれていて、止血用の絆創膏が貼られていた。 「気分悪くなったりはしてない?」 「……大丈夫です」  月村にはそう答えたものの、発情期の所為で酷く喉が渇いていた。カラカラの喉から絞り出した悠の掠れ声に苦笑しながら、月村が『飲み薬』と書かれた紙の袋を差し出してきた。受け取った袋には、手書きで『発情抑制剤 一回二錠 一日一回まで』と書かれている。 「さっき帰りに受け取ってって言ったけど、キミが眠ってる間に薬剤師が届けにきてくれてね。ちゃんと服用する量や回数は守るように」 「ありがとう、ございます……」 「御影くんは一人暮らし?」  悠が小さく頷き返すと、月村は腕の時計に目を遣ってから、再び悠の顔を見下ろした。 「それなら迎えは頼めないか……。もう時間も深夜だし、今日は病院に一泊して帰る?」 「いや……受付でタクシー呼んで貰って帰ります……」  言いながら、幾分マシになってはいても、完全に怠さや火照りは取れていない身体をどうにか起こして、悠は枕元の荷物を引き寄せた。 「住所は隣町みたいだけど、こんな時間に一人で大丈夫なの?」 「……大丈夫っす」  悠の身を案じてくれる月村の厚意は有難かったが、今は一刻も早く自宅まで逃げ帰りたかった。  月村はまだ何か言いたげだったが、既に診察台から下りている頑なな悠をこれ以上引き留めるのは諦めたのか、軽く肩を竦めると、悠が通りやすいように診察室の扉を開けてくれた。 「会計窓口は閉まってるから、受付で会計済ませて」 「わかりました。……いきなり来て、スイマセン。世話になりました」 「気にしなくていいよ。また二週間後に待ってるから。……あんまり、無理しないようにね」  診察室の入り口で見送ってくれた月村に軽く頭を下げ、悠は重い足を引き摺るようにして受付まで辿り着くと、カウンター越しに事務員へ声を掛けた。 「あの……タクシー、呼んで貰っていいっすか」  受付カウンターの奥の壁に掛けられた時計は既に深夜三時近くになっていて、さすがの悠も驚いたが、抑制剤が効いている内に早く帰って、身体に篭った熱をどうにかしたかった。 「わかりました。会計処理が済んだら、すぐに手配させて頂きますね」  受付の事務員の丁寧な応対に思わず安堵の息を吐きながら、悠がバッグから財布を取り出したとき。 「────タクシーなら必要ありません」  突然背後から飛んできた声に、愕然と目を見開いた悠の手から、持っていた財布が鈍い音と共に床へと落ちた。事務員も、悠の背後を見詰めて驚いたように目を瞬かせている。  振り返らずともわかる、耳障りの良い本郷の声に、なんで…、とただ呆然と固まった悠は、振り返ることも、落とした財布を拾うことさえも出来なかった。そんな悠に静かに歩み寄って来た本郷が、「あーあ、何してるの」と呆れたように苦笑しながら長身を屈め、拾った財布を悠の手に戻してくれる。 「すみません、会計は僕が払います」 「え……あの、ご家族の方ですか……? っていうか、えっ、もしかしてピアニストの……!」  本郷を知っているらしい事務員が、更に驚いた顔を僅かに赤らめながらオロオロと動揺する。そんな彼女にニコリと微笑みを送って、本郷は丁寧に頭を下げた。 「『同居人』がお世話になりました」 「い、いえっ! とんでもないです……!」  今や国際的に有名な本郷がまさか目の前に現れるとは思ってもいなかったのだろう。事務員は会計の間もどこか夢見心地で、うっとりと本郷の姿に見入っていた。「ありがとうございます」と最後まで笑顔を向けていた本郷だったが、悠にはわかった。その本郷の目が、全く笑っていないことが────  悠の代わりに会計を済ませた本郷に腕を掴まれ、連れ出された病院の玄関前には、白い高級車が停まっていた。 「……何で……此処、わかったんだよ……」  本郷がこんな田舎の病院を知っているわけがない。ようやく声を発した悠をチラリと一瞥した後、本郷は助手席のドアを開けた。 「その話は車でするよ。……乗って」 「………」 「無理矢理押し込まれる方が好み?」  感情の読み取れない本郷の淡々とした口調が却って怖ろしくて、悠は促されるまま、黙って助手席に乗り込んだ。  運転席に回った本郷が、静かに車を発進させる。こんなときでも、ハンドルを握る姿がとても様になっている本郷に、つい見入ってしまう自分が憎かった。  折角抑制剤を投与して貰ったのに、よりによって車内の狭い空間で本郷と二人きりになったことで、悠の身体は一気に火照り始める。それを誤魔化すように、ずっと窓の外へ視線を向けていた悠の隣で、本郷が口を開いた。 「俺の事務所に、立花が連絡をくれたんだ」 「立花が……?」  驚きに、悠は思わず本郷の横顔へ視線を移す。  何で立花が…、と思ったところで、そう言えば立花から謎の謝罪メッセージが届いていたことを思い出し、そういうことかと悠は小さく舌打ちした。 「御影が立花と交流があったなんて思わなかったよ。高校時代、親しくしてた印象がなかったから。いつから仲良くなったの?」 「別に……再会したのも割と最近だし、仲良いってほどじゃ……」 「でも、お互い連絡先まで交換し合ってるんだよね」 「それは、立花に交換しようって言われたからで────」 「なら俺が同じこと言ったら、御影は連絡先、教えてくれた?」  出て行ったくせに、と暗に言われているような気がして、悠はぐっと答えに詰まった。  きっと本郷に連絡先を聞かれたら、悠は教えなかっただろう。そんなことをしたら、それこそ本郷の元から離れられなくなるに決まっている。  俯いて無言で唇を噛み締める悠に、本郷は小さく息を吐いてから突然話題を変えた。 「御影、ここの隣町に住んでるんだよね? 家はどこ」  問われてふと顔を上げると、車はいつの間にか悠の住む町へと続く国道に差し掛かっていた。今となってはもう唯一残った悠の逃げ場を、本郷に知られるわけにはいかない。  御影、と答えを促してくる本郷に、悠は小さく首を振った。 「……言わねぇ。一人で帰るから、降ろせよ」 「こんな真夜中に、発情しながら家まで帰るつもり?」 「……お前には、関係ねぇだろ」  敢えて心無い言葉を零した悠の渇ききった喉が、ヒリヒリと痛む。  知らない男に売り飛ばされかけたところを助けて貰って、おまけに有り得ないほど悠に良くしてくれた本郷に、こんな言葉を言いたくないのに……。  これ以上酷い言葉を吐いてしまう前に、頼むから降ろして欲しい。そう願った悠の隣で、本郷は少しの沈黙の後、「わかった」と低く呟いた。  さすがにもう、こんな悠に愛想を尽かしてくれただろうかと、安堵と寂しさに揺れる胸元を抑えた悠の横で、どういうわけか本郷は僅かにアクセルを踏み込んで車の速度を上げた。 「本郷……?」 「家が嫌なら、何処でも構わないでしょ。だったら俺が適当に選ぶよ」  本郷が何を言っているのかわからず呆然とする悠を他所に、車はいつしか悠の住む町へと入り、そしてそのまま駅の裏通りへと差し掛かった。  そこは、安っぽいラブホテルが数軒建ち並ぶ、小さなホテル街だ。その内の一軒に、本郷は躊躇いなく車を滑り込ませた。  何を考えてるんだと悠が驚いている内に、本郷は駐車場に車を停めると、助手席の悠を強引に車から引き摺り出した。普段の本郷からは想像できない、荒っぽいその手付きに、悠は初めて本郷のただならぬ怒りに気付く。  そんなに怒るくらいなら、悠の手なんて早く離してくれればいいだろうと思うのに、本郷は選んだ部屋まで無言で悠を引っ張っていき、靴を脱ぐのもそこそこに、悠の身体をベッドに乱暴に押し倒した。  抗う間もなく圧し掛かって来た本郷に、噛み付くように唇を塞がれて、悠は身を竦ませて目を瞠る。 「……ッ!」  無理矢理舌で唇を抉じ開けられて、口腔深くまで本郷の舌に犯されると、悠の身体は薬で抑えていた欲求が放出されたように、一気に熱を帯び始めた。  何とか本郷を止めなくてはと思っても、口づけの合間にTシャツを捲し上げられると、どうしてもいつかの本郷との行為を思い出してしまって、悠の下肢が鈍く疼く。 「……っ、本、ご……止め……ッ」 「止めろって、こっちはそうは言ってないけど?」  服の上から、既に熱を帯びている下肢を撫で上げられて、悠はビクッと背を震わせる。 「帰って来たら御影が居なくなってたとき。立花が御影の連絡先を知ってることを聞かされたとき。俺がどんな気分だったか、わかる?」  相変わらず感情を殺した声音で問い掛けながら、本郷が容易く悠の身体から衣服を剥ぎ取っていく。 「……俺はいつも、御影のことになると、我を忘れそうになるんだよ」  首筋から裸の胸元へ、本郷の唇が伝い下りてきて、頭では必死に拒んでいるのに、悠の身体は期待に疼く一方だった。初めて発情期を迎えたあの日、本郷との行為で感じた快感を、身体は確かに覚えていて、悠の意思に反して勝手にその熱を求めようとする。  ……このまま流されてしまったら、またあのときと同じことになる。そうなったら、今度こそ悠は、本郷から離れられなくなってしまう。 「っ、い……やだ……止めろ……!」 (頼むから止めてくれ……!)  祈るように思う内にいつの間にか小刻みに震えていたらしい悠に気付いた本郷が、自嘲めいた笑いを零して動きを止めた。 「……そんなに、俺が嫌なの」 (嫌じゃないから、苦しいんだ……)  いっそ本郷のことが嫌いだったなら、発情期だからともっと簡単に割り切れたのに。  それでも、そんな胸の内を素直に言えない悠は、一度強く唇を噛み締めてから、震える声を零した。 「…………嫌だ」  胸の奥で、何かが壊れる音がする。  それと同時に、悠を見下ろす本郷の瞳が、冷たい色になった。  一旦悠の上から身を引いた本郷が、自身の前を寛げ、裸の悠を無理矢理引き起こして本郷の下肢へと導いた。 「なっ……!」  初めてちゃんと目の当たりにする本郷の雄に慄いて、咄嗟に逃げようとする悠の髪を、逃がさないとばかりに本郷が握り込んで引き戻す。 「────だったら、御影がイカせてよ」 「え……?」  普段ピアノの前に座っている本郷からは想像も出来ない要求に、悠は信じられない思いでその顔を見上げる。 「カメラの前で、何度もしてたでしょ」  悠を見下ろす冷えた瞳に、悠は本郷の本気の怒りを買ってしまったことを悟った。自分からそれを煽るような物言いで本郷を拒んだはずなのに、初めて見る本郷の表情に、悠はただ息を呑むことしか出来なかった。 「知らない男のは咥えられるのに、俺にはそれも無理?」 「………っ」  いつもの本郷なら、きっとこんな発言はしない。それを言わせてしまったのは、悠自身なのだ。  躊躇いがちに本郷の性器に震える手を添え、それでもなかなか口に含めずにいる悠に焦れたのか、本郷が悠の後頭部を強引に引き寄せた。 「んぅ……っ!」  拒む間もなく本郷の性器が咥内に挿り込んできて、苦しさに悠は喉の奥で呻く。  撮影では何度も経験したが、まさか本郷に口淫を強いられるなんて、思いもしなかった。  お互いの気持ちが噛み合わないまま、こんなことはしたくないと思っているのに、咥え込んだ本郷の先端が上顎を擦る度、発情した悠の下肢が熱くなっていく。 「へぇ……咥えてるだけでも感じるんだ?」 「んん……ッ」  勃ち上がって先端から蜜を零す悠の雄を覗き込むようにして、本郷が揶揄うような声を落とす。発情期とはいえ、Ω性の卑しさが嫌になって、悠は恥じらうように首を振る。  こうなったらせめて本郷に早く達してもらって、それで解放してもらおうと、悠は必死に舌と唇で本郷を愛撫した。咥えた質量が徐々に増してきて苦しい。  眉根を寄せて懸命に絶頂を促す悠を見下ろす本郷が、ふと哀しげな表情を浮かべた。 「……悔しいなあ。御影の初めては、全部俺が貰うつもりだったのに」  呟くように零された言葉が上手く聞き取れず、問い返そうと視線を持ち上げた先で、本郷が小さく息を詰め、悠の髪が強く握り込まれた。その直後、喉の奥に、熱い飛沫が叩きつけられる。  撮影で精液を飲まされるのは死ぬほど苦手だったのに、このとき何故か嫌悪はなく、気付けば悠は放たれた精を躊躇いなく飲み込んでいた。本郷が、悠に向けてくれた欲望だからだろうか。  ようやく解放された口で浅い息を繰り返す悠が、安堵の息を吐いたのも束の間。伸びてきた本郷の腕が悠の身体を後ろから抱え込んで来て、長い指が悠の雄に絡んだ。 「な……おい、駄目だって…────ッ!」  悠の制止も聞き入れられず、そのまま本郷の指に扱かれて、悠の先端からパタパタと白濁が散ってベッドを汚す。 「ぁ……っ」  余韻に震える悠の性器を擦る手は、悠が達しても止まらず、それどころか達したばかりの先端を親指の腹で抉るように擦られて、悠は強すぎる刺激に身悶えた。 「あぁ……っ! やめ……っ、何で……!?」 「だって、発情期ならこんなのじゃ足りないでしょ。挿れられるのは嫌みたいだからね」 「あっ、駄目だ……って……! また、イク……ッ」  本郷を満足させればそれで終わると思っていたのに、ただでさえ熱を持て余している身体を本郷に触られて、感じないわけがない。  そのまま立て続けに3度イカされ、更に本郷の口でも吐精させられて、もう出ないと悲鳴交じりに訴えても本郷は許してくれず、結局悠が気を失うまで、本郷は悠を解放してはくれなかった。  下半身の異様な怠さで悠が目を覚ますと、そこにはもう本郷の姿はなかった。  代わりに、枕元には一万円札が十枚も置かれていて、ワケもなく乾いた嗤いが込み上げてきた。 「……何だよコレ」  そもそも有り得ない高額で悠を助け出してくれたのに、まだ尚金を払われる意味がわからない。悠の身体には一銭の価値もないし、これが本郷からの最後の置手紙なのかと思うと、虚しさばかりが込み上げてきて、悠は枕に拳を叩きつけた。 「……こんな金、要らねぇよ……!」  本郷と同じクラスになんて、ならなければ良かった。  本郷の温もりなんて、知らなければ良かった。  本郷を、嫌いになれれば良かった────  あれだけ本郷を怒らせて、失望もさせた。きっともう今度こそ、本郷は悠に愛想を尽かしただろう。  そう思った瞬間、ベッドサイドに置かれていた悠のバッグの中で着信音が鳴って、反射的に悠の肩が跳ねた。  本郷には結局連絡先を伝えていないのだから、本郷からの連絡ではないとわかっていてもドキリとしてしまう自分の未練がましさにうんざりしながら、悠はバッグを手繰り寄せてスマホを取り出した。 『立花:御影、本郷とちゃんと合流出来た?』  立花から届いたメッセージに、悠は自嘲気味に口元を歪める。 『御影:「ゴメン」って、本郷のことだったのかよ、お節介』 『立花:……ゴメン。でも、どうしても放っとけなかったんだ』 『御影:心配して貰って悪ぃけど、本郷とはもう別れたし、これっきり会うこともねぇよ』  悠がそう返信した直後、立花から通話着信がきた。 『これっきり会わないって、どういうことだよ!?』  応答ボタンを押すと、悠が声を発する前に、スピーカーの向こうから立花の驚きとも怒りとも取れる声が響いてきた。 「どうもこうも……別に、そのままの意味だよ」 『何で!? 昨日、本郷そっちに行ったんじゃないのか?』 「来たけど、だからもう別れたって」  立花に答えながら、今此処に本郷がもう居ない事実が胸に刺さる。 『……本郷、俺と連絡がついたとき、必死だったよ。御影のこと、ホントに心配してたんだと思う』  いつも穏やかな本郷があれほど怒りを滲ませていたのだから、きっと立花の言う通り、本郷は居なくなった悠の身を案じてくれていたのだろうと悠自身もそう思う。だがその想いを敢えて踏みにじったのは、悠自身だ。  沈黙が流れる中、スピーカー越しに、遠くから怜央らしき子供の声が聞こえた。  結局悠は、本郷の想いも、立花の厚意も、全てこの手で潰してしまった。 「……俺と本郷は、端から釣り合わねぇんだよ。それにお前も、折角いい家庭築いてんだから、いい加減俺なんかに関わるの止めとけよ」  最初から一人なら、一人になる辛さも味わわなくて済むのだと、自虐めいた笑みを浮かべて告げた悠だったが、立花はそんな悠の心中を見抜いているようだった。 『……止めないよ。御影が寂しそうだと、怜央も元気じゃなくなる』 「……は? 何で怜央が関係あるんだよ」 『御影のことが好きだからだよ。初めて会ったときから、ずっと「また会いたい」って言ってる。……俺もさ、こっちに出てきたばっかりの頃は、周りの人の厚意とか、素直に受け止められなかった。だけど、世の中には見返りとかそんなこと関係なく、優しくしてくれる相手も居るんだよ。だから俺も、御影が何て言おうと、関わるの止めたりしない』  「……お人好し。早く子守り戻れよ、バカ」  それ以上話していると涙が溢れてきそうで、悠はそれだけ言うと一方的に通話を切った。  枕元に置き去られた札の束を横目に見ながら、本郷も悠の過去や、Ωであることなんて全く無関係に接してくれていたことを思い出す。  本郷も、立花も、施設長も……自分はどれだけ、大事な相手を踏みにじって生きていくのだろう。  悠は怠い身体を起こすと、バッグの中から煙草とライターを取り出した。  口に咥えた煙草に火を点けようとするが、ライターを持つ手が震えて全く火が点けられない。   撮影の後はいつも煙草で打ち消さずにはいられなかったのに、本郷の味だけはどうしても消すことが出来ず、悠は咥えていた煙草を箱と一緒にぐしゃりと握り潰してゴミ箱へ投げ捨てた。  自分で逃げて来たはずなのに。本郷と離れることを自ら選んだはずなのに。  それなのにどうして、こんなに胸が痛くて苦しくて堪らないのだろう────  ゴミ箱の中で醜く潰れた煙草の箱は、今の悠の心そのものだった。     ◆◆◆◆◆  本郷とホテルで別れて以降、悠は何をするでもなく、無気力な日々を部屋で過ごしていた。  時折食糧を求めてコンビニへ出向きはしたが、大して食欲も湧かず、元々痩せ気味だった身体はハッキリ骨が浮くほど貧相になっていた。  正直、アパートから目と鼻の先にあるコンビニに行くのも疲れるほど身体も弱っていたが、今日は月村の元へ先日の検査結果を聞きに行く日だった。実は前日まで悠はすっかり忘れてしまっていたのだが、昨夜立花から『明日、月村先生のトコ行くんだって? 帰りにウチ来る?』とメッセージが来て思い出したのだ。  感染症の検査が陽性だろうが、今更悠にはどうでも良いことだと思ったが、予約も入れて貰っているし、検査を依頼したのも悠自身なので、さすがに月村の元へ行かないワケにはいかない。ただ、立花からの誘いは、申し訳ないが風邪気味だからと嘘を吐いて断った。  怠い身体を何とか起こして、悠はノロノロと身支度をする。もう必要ないかとも思ったが、顔色が悪いのを少しでも誤魔化す為に眼鏡を掛けて、悠は電車に揺られて隣町の月村病院へ向かった。  受付で診察券を提示すると、悠は何故か事務員から『相談室』と書かれた部屋に通された。  中に入ると、そこはドラマの重病の告知シーンなどで見かける部屋と、よく似た造りの部屋だった。  部屋の中央にテーブルがあり、それを挟むようにパイプ椅子が並んでいる。壁にはレントゲン写真などを見る為の発光するディスプレイ機器が備え付けられていて、窓際にはパーティションやホワイトボードも並べられていた。  どうして診察室ではないのだろうと、事務員に言われるままパイプ椅子に腰掛けて、悠は俄かに不安になる。  まさか、検査結果が思いの外悪かったのだろうか。来るまでは結果なんてどうでもいいと投げやりになっていたのに、いざその可能性を前にすると、どうしても嫌な動悸がした。  そうして悠が不安と緊張を持て余すこと十分。少し慌てた様子で部屋にやってきた月村は、悠の顔を見るなり思いきり眉を顰めた。 「お待たせ……って、どうしたの、その顔。具合でも悪い?」  テーブルを挟んで悠の向かい側に腰を下ろしながら、月村が悠の顔を覗き込むようにほんの少し身を乗り出してくる。その視線から逃れるように思わず少し顔を背けながら、悠は「何でもないっす」と短く答えた。  さすがに医者の目は誤魔化せるはずもなく、月村が呆れた様子で溜息を零す。 「何でもないって感じには見えないけどね。……体調、辛かったらちゃんと言うんだよ」  小さく頷いた悠の前に、月村は何枚かの紙を広げた。全ての紙には、「-」の記号がズラリと並んでいる。 「取り敢えず、性感染症の検査結果は全て陰性だったよ」  月村の言葉に、悠の口からホッと息が漏れた。 「……けど、それなら何で今日は診察室じゃないんすか……?」  悠が問うと、検査結果の用紙を束ねて悠の方へそっと滑らせた月村が、椅子に深く座り直して悠に向き直った。 「いきなりこんな部屋に通されたら不安になるよね。……感染症は問題なかったけど、今日はキミが気にしてた不育症について、ちょっとゆっくり話しておきたかったんだ」  不育症、と言われて、どうしても本郷の顔を思い浮かべてしまい、悠の顔が曇る。  その話も、今となってはもう意味がない……。 「検査の結果、確かにキミは不育症の可能性があるかも知れない」 「………」  二度目の診断に、まるで『不良品』の烙印を押されたような気がした。  暗い顔で黙り込む悠を見て、月村はテーブルの上に白紙の紙を二枚並べた。その内の一枚に天気マークの太陽を描き、もう一枚には傘を描き込む月村に、一体何だと悠は軽く目を瞬かせる。 「不育症は体質だから仕方ないって前に少し話したけど、だからと言って、絶対に出産が不可能というわけじゃない。────例えばここに、二組の布団がある」  言いながら、月村がイラストを描き込んだ二枚の紙を指差す。 「一組は、晴れた日に干したばかりのフカフカの布団。もう一組は、長雨でずっと干せずにいるちょっと固い布団。寝心地は当然フカフカの布団の方が良いだろうけど、だからって雨続きで布団が干せないと、眠れなくなる?」 「……別に、雨なら仕方ないんで普通に眠れます」 「そう。つまり、フカフカだろうが固かろうが、眠ろうと思えばどっちの布団でも眠れる。そして雨で干せないのは、別に誰の所為でもない。不育症も、それと同じなんだよ。胎児が育つ環境は少し悪いけど、そんな中でも育つ子は育つし、不育症自体も誰の所為でもないんだ」  月村の例えはとても分かり易い上に、不育症を前向きに解説するもので、もっと早く月村に出会えていたら、悠の人生にももう少し希望はあっただろうかと、悠は口惜しさに唇を噛んだ。 「そもそも、不育症云々は関係なく、百パーセント安全な出産というのはないからね。全ての命が元気に生まれて来てくれることを願う気持ちは親も、僕たち医者も同じだ。でも、特に妊娠初期は十人に一、二人の確率で流産する可能性があると言われているし、中期以降も、予測できない事態である日突然流産してしまうケースはあるんだよ。……因みに、御影くんが流産したのは何週目?」 「……十一週目です」 「胎児心拍は確認できた?」 「妊娠十週目って言われたときに……」  頷くも、途中で語尾を濁した悠に、月村は「そうか」と眼鏡のフレームを押し上げた。 「それは辛かったね」  決して零すまいと、悠がずっと心の奥に閉じ込めていた言葉を月村が静かに口にする。その瞬間、胸の奥から熱い何かが込み上げてきて、悠は必死で唇を噛み締めて堪えた。  その言葉に頷いたら、悠の心がバラバラに砕けてしまいそうな気がした。 「御影くん、家族は?」 「……居ません。俺、生まれてすぐ捨てられて、ずっと施設で育ってきたから、この名前も施設長が付けてくれたし、本当の名前も親の顔も知らない」 「妊娠や流産のことは、誰かに相談した?」 「妊娠したことは相手に話したけど、ちょっと色々あって……。流産のことは、誰にも話してないっす……」  俯きがちに答える悠を見て、月村は小さく溜息を零した。 「一人でずっと抱え込んでたの? ……もしかして、キミがAV業界に居たっていうのは、その辺が関係してるのかな」 「だって……親にも捨てられて、子供も産めないかも知れないΩの俺なんかに、何の価値もない……!」 「────それは違うよ」  絞り出すように叫んだ悠の方へ、月村は真剣な顔で身を乗り出した。 「キミが自分自身を否定してしまったら、旅立ってしまったキミの子はきっと浮かばれない。だってキミは、その子を産んで、育てていくつもりだったんだろう?」 「何で、そんなこと……」  わかるんだ、と言いかけた悠に、月村は少し眉を下げて「わかるよ」と微笑んだ。 「軽々しく中絶したりするような人間は、そもそも不育症なんて気にしたりしない。だけどキミは、自分の感染症のリスクよりも、そのことを真っ先に僕に相談してきた。キミは、自分で思ってるような無価値な人間じゃない。まだ十七歳で妊娠して不安もあったはずなのに、たった一人で、自分の子を産んで育てようとした。残念ながら短い期間だったけど、その間、確かにキミはその子の『親』だったんだよ」 「……っ」  その瞬間、エコー画像で見た、確かに脈打つ小さな心臓を思い出して、堪えきれなくなった悠の目から涙が零れた。悠の中に宿った小さな命を失ってから初めて流した涙は、堰を切ったようにボロボロと溢れ出して止まってくれない。眼鏡のレンズが、あっという間に涙でいっぱいになって、前が見えなくなった。  どうして、差し伸べられた本郷の手を拒んでしまったのだろう。  どうして、素直に全てを打ち明けられなかったのだろう。  大事なものを、どうしていつも、失ってしまうのだろう。  とうとう耐え切れずに、悠が眼鏡をテーブルに投げ出して嗚咽を漏らしそうになったとき。  ズ…、と鼻を啜る音が部屋の隅から聞こえて、悠は思わず涙に濡れた顔を上げる。────パーティションの奥から耐え兼ねたように飛び出してきた本郷が、綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃにして、駆け寄ってきた勢いのまま悠を強く抱き締めた。  一体何が起こったのかわからず、驚きの余り一瞬涙も止まってしまった悠の身体を、本郷は長身を屈めて痛い程強く抱き締めてくる。 「本、郷……?」  返事の代わりに、肩に本郷の熱い涙を感じて、止まっていた悠の涙も再び零れ出した。  何で、どうして、とワケがわからないまま嗚咽を漏らす悠に、月村が「黙っててゴメンね」と苦笑交じりに言いながら席を立つ。 「本当は御影くんの了承を得るべきだったんだけど、そこの彼と、それから弁護士のパートナーが居るお人好しのΩが、『責任は全部自分たちが取る』って言い張るものだから。……ということで、後はゆっくり二人で話して。一人で抱えられる荷物には限界があるから、時には一緒に持って貰うことも大切だよ」  そう言い残して月村が部屋を去り、室内には暫く二人分の嗚咽が響いていた。  目の前に本郷が居ることが未だに信じられないし、何より世間の女性を虜にしている本郷が、見た目も気にせず涙を流していることにも驚いた。 「……何で、そんな辛いこと、ずっと一人で抱えてたの」  床に膝をついた本郷が、悠の身体に回していた腕を解くと、涙も拭かないまま、悠の濡れた頬をそっと両手で包み込んだ。 「必死に育てようとしてくれてた子を『殺した』なんて、一番言いたくない言葉を御影に言わせた自分が許せない。俺は何回、過ちを繰り返したら気が済むのかな……」  長くて綺麗な親指でそっと悠の目尻を拭いながら、本郷がまた一筋涙を零した。涙でぐしゃぐしゃでも、本郷の顔は相変わらず男前なのが狡い。 「……ちゃんと話さなかったのは、俺の方だろ。大体、何でお前が此処に居るんだよ。……この前、もう俺には愛想尽かしたんじゃ────」 「何年もかけてやっと探し出したのに、そんなことあるわけないでしょ!?」  少し怒ったような顔の本郷に、グイ、と両手で挟んだ顔を引き寄せられて、悠は思わず前のめりになった。そのまま額同士を合わせて愛おしむように摺り寄せる本郷に、益々悠は混乱する。 「じゃあ、あの金一体何だったんだよ……? 起きたらお前は居ねぇし、大金だけ置いてあるし……」 「あの日は夕方からツアーのリハがあったから、どうしてもそれまでに都内に戻らなきゃいけなかったんだ。あのお金は、御影が自宅教えてくれないから、交通費として置いておいたんだよ?」 「交通費!? あそこ、俺ん家の近所だぞ。徒歩でも充分帰れるわ。……あんな大金置いてかれたら、もうあれっきりだと思うだろ」 「正直、御影があんまり頑固だから俺もちょっと不貞腐れてたし、あの日から毎日リハ続きだったから、全然御影に連絡取れなかったもんね。……御影、凄く痩せたけど、もしかして俺の所為? ……だとしたら、ゴメン、ちょっと嬉しい」  涙の残る顔のまま、鼻先が触れ合う距離で本郷が目尻を下げて微笑む。色々言ってやりたいことはあるのに、本郷の柔らかい笑みを見るとそれだけで胸が詰まって、悠は何も言えなかった。  そんな悠の瞳を、本郷がすぐ傍から覗き込んでくる。 「御影……お願いだから、もうこれ以上一人で全部背負い込まないで、俺にも半分背負わせて」 「……お前、自分がどれだけ有名かわかってんのかよ。俺なんか、お前の汚点にしか────」 「ほら、またそうやって『俺なんか』って言う。俺が今ピアニストとして活動出来てるのは、御影の存在があったからなんだよ。御影の為に必死だったから、ここまで上って来られた。……それに、御影の中に宿ってた命の半分は、俺のものでしょ」 「……ッ……」  何年もお互い散々迷って空回って、そうしてようやく今、二人の間に確かに宿った命が報われた気がして、悠の目からまた大粒の涙が零れ落ちた。  もう一度、悠を腕の中に抱き込んで静かに背を撫でてくれる本郷の温もりを感じながら、悠は立花の言葉を思い出していた。  汚点だらけで何もない悠を、こんなにも想って、一緒に泣いてくれる本郷。でもだからこそ──── 「……産んで、やりたかった……っ」  やっと告げることが出来た悠の本音に、本郷が小さく頷いた。 「……うん、ありがとう。でも俺は、子供が産めるから御影を好きになったわけじゃないよ。それに、消えてしまった命は取り戻せないけど、俺と御影の中では、ずっと生きてる。だから御影────」  本郷が、少し腕を緩めて悠と視線を絡める。 「俺の所に、帰ってきてくれる?」  身勝手に逃げ出した悠を、本郷が再び温かい光の下へ誘ってくれる。眩しすぎるその場所は、悠にはまだ少し怖くもあったが、本郷が手を引いてくれるなら、歩いて行ける気がした。 「…………お前のピアノ、また聴きたい」 「それ、最高の告白だよ、御影」  不器用な返事と共に、おずおずと本郷の背中へ腕を回した悠の背を、本郷は満面の笑みで抱き締めてくれた。

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