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最終話

「ちょ……ちょっと待った、本郷……!」  マンションに帰り着くなり、寝室へ直行させられた悠は、キングサイズのベッドに横たえられて思わず声を上げた。  先日のホテルでの行為を悔いているらしい本郷から、「仲直りしよう」と誘われるまま、悠はここまで連れて来られたのだが、正直まだ心の準備が出来ていない。  やんわりと本郷の身体を押し返す悠に覆い被さった本郷が、少し困ったような顔で見下ろしてくる。 「……俺とこういうことするのは、やっぱり嫌?」 「嫌ならとっくにぶん殴ってるっつの。そうじゃなくて……」  言い淀む悠を見つめる本郷の眼差しが、真剣な色になった。 「まだ何か不安があるなら、ちゃんと言って。この前、ホテルで震えてる御影を見たとき、自分が酷いことしてるってわかってるのに、内心凄く怖かったんだ」 「怖い……?」  本郷ほどの男が、一体何を怖がることがあるのかと思わず呆けた顔で見上げる悠に、本郷が苦笑する。 「そりゃ怖いよ。好きな相手に拒まれるのは。……あの時はゴメンね?」 「アレは、そもそも俺がお前のこと怒らせたからだろ」 「でも、あの後物凄く後悔したんだ。御影の嫌がることは、もうしたくないから」  まるで壊れ物にでも触れるように、本郷の掌がそっと悠の頬に宛がわれる。本郷が悠を本当に大切に想ってくれていることが、掌や優しい双眸から痛いほど伝わってきて、息苦しいほど胸が詰まった。  これまでずっと、撮影でもまともな扱いを受けてこなかった悠には、こんなとき、どうして良いのかわからない。  悠が本郷にどれだけ救われたか、それを少しでも伝えるにはどうしたら良いだろうと悩んだ挙句、悠は本郷の項に腕を回すと、自ら首を伸ばしてほんの一瞬、触れるだけの口づけを贈った。  なかなか素直になれない悠の不器用で精一杯の愛情表現に、本郷が驚いたように目を瞠る。 「御影……」 「……俺、これまで発情期以外に、その……こういうこと、したことねぇんだよ」 「えっ、まさか御影、撮影って発情期に撮ってたの!?」 「ンなワケあるかよ! 発情期ってのはお前とのことだろうが!」 「だけどそれって、高校のときの話だよね? 答えによっては嫉妬でおかしくなりそうだからあんまり考えたくなかったけど、御影、発情期はどうやって乗り越えてたの?」 「…………一人で」  さすがに毎回、本郷との行為を思い出しながら自分を慰めていたとは言えず、顔を背けてボソリと答えた悠を、ギュウッと本郷の長い腕が突然強く抱き締めてきた。 「……ゴメン、御影。そんなこと言われたら、益々我慢出来ない」  本郷の唇が、悠の耳朶へと触れてくる。 「────御影の全部、俺にくれる?」  チュ、と音を立てて耳朶へ口づけながら甘い声で問い掛けられて、全身が震えるほど強く、ドクンと心臓が脈打った。  本郷からこんな風に迫られて、拒める人間なんて居るんだろうか。その本郷から求められているのが自分なのだという現実が、まだどこか信じられない。  悠の両手をシーツに縫い留めた本郷の顔がゆっくりと近づいてきて、悠は返事の代わりに静かに目を閉じた。吐息だけで本郷が笑う気配がして、しっとりと唇が重なり合う。  また発情期が来たのかと思うくらい、心臓の音が騒がしい。大事な相手を目の前にすると、キス一つでこうも胸が騒ぐのかと悠は初めて知った。  何度か角度を変えて口づけを繰り返した後、一旦唇を浮かせた本郷の指が、悠の眼鏡のフレームを摘む。 「御影、目悪かったの?」 「いや、そうじゃねぇけど……」 「ああ……もしかして、顔バレ防止? ────それなら、作品も全部差し止めたし、もう必要ないよね」  言いながら本郷があっさり悠の眼鏡を奪い取って、ヘッドボードへ遠ざけた。 「御影はそのままの方がいいよ。俺、御影の目、好きだから」 「……目付き悪いとしか、言われたことねぇけど」 「そこがいいんだよ」  悠の前髪を払って、露わになった額にキスを落としてから、本郷の唇がそのまま鼻筋を通って唇へと戻ってくる。  舌先で促すように唇を舐められて、悠はおずおずと薄く口を開いた。隙間から滑り込んできた本郷の舌に、今回は悠も応えるように自分から舌を絡めた。  同時に悠の服を脱がせにかかる本郷の手も、悠自ら手伝って裸になる。そうすることで、言葉で上手く言えなくても、本郷のことを悠も受け入れたいのだと伝えたかった。 「御影、ホントに痩せたね」 「貧相だろ」 「さっきは不謹慎ながら嬉しいって言ったけど、もう絶対、一人にしないから」  ごめんね、と囁くように言いながら、裸の薄い胸を優しく撫で上げられて、鼻の奥が少しツンとなる。  最初は肌の感触を味わうように触れていた本郷の手の動きが次第に熱を煽るそれになり、時折胸の先端を指先で引っ掻かれて、ピクリと悠の眉が寄る。片側を指で愛撫しながら、もう一方の尖りを本郷の唇に甘く吸われて、悠は思わず漏れそうになる声を、唇を噛み締めることでどうにか飲み込んだ。それを察したのか、長い指が噛み締めた悠の唇を解すように軽く撫でる。 「御影……声、我慢しないで」 「ん、ぁ……ッ」  そのまま本郷の指が悠の咥内へ挿り込んできて、綺麗な指に歯を立てることも出来ず、悠は口を開かざるを得なかった。自身の口から漏れる甘い声に、カッと頬が熱くなる。撮影では、快楽なんてなくても平気で声が出せたのに、自然と零れる喘ぎがこうも恥ずかしいなんて思わなかった。  発情期でもないのに、本郷に胸を弄られただけでも悠の下肢は確かに熱を帯びていて、中心が緩く勃ち上がっていた。自分の卑しさを隠したくて軽く身を捩る悠に気付いたのか、本郷の手が、胸から腹を伝って下肢へと下りてくる。そのまま触れられるだけかと思いきや、悠の根本へ指を添えた本郷は、躊躇いなく悠の性器を咥内へと含んだ。 「あッ……! 待っ……、本郷……っ!」  本郷の熱い咥内に迎えられ、急速に昂ぶる熱を持て余して悠は咄嗟に本郷の髪を緩く握り込む。だがそれでも本郷は悠を解放してくれず、丹念に舌を這わせて確実に悠を追い上げていく。撮影で何度も受けたはずの刺激なのに、相手が本郷だというだけで、悠の下肢はあっという間にぐずぐずに蕩けてしまいそうだった。  本郷の咥内でたちまち固さを増す悠に、浅ましいと呆れられていないだろうかと悠が熱に濡れた瞳を向けると、視線の先でやっと悠を咥内から解放した本郷が、悠の両腿を裏側からそっと持ち上げた。本郷の目の前に後孔を晒す格好に、ギョッとする悠の目の前で、本郷は見せつけるように悠の孔の縁をぐるりと舌先で辿った。 「────ッ!」  何の躊躇もなく、有り得ない箇所へ舌を這わせる本郷に、悠はビクンと大きく背を撓らせた。 「ッ、バカ……、お前、何考えて……っ」  堪らず本郷の頭を押し返そうとするが、本郷の舌の先が僅かに悠の体内に挿り込んできて、言葉は途中で喘ぎに変わった。  有り得ない。  世の女性たちを魅了してやまない本郷が……。  だがその倒錯的な行為が悠の快感を更に煽っているのも事実で、悠自身でさえ発情期以外は濡れることがないと思っていた後孔の奥から、じわりと粘液が染み出してくる。 「ここ、ちゃんと濡れるんだ」  溢れてきた悠の体液を舐め取って、本郷がどこか安心したように笑みを浮かべた。 「も……そこまで、しなくてイイ……っ」  握り込んだ本郷の髪を緩く引っ張って悠は弱々しく首を振ったが、 「ダーメ。御影の全部が欲しいって言ったでしょ」  悠の訴えを一蹴した本郷は、尚も悠の脚の間に顔を埋めたまま、濡れた後孔へゆっくりと指を沈ませてきた。 「んん……っ!」  悠の中を丹念に解すように、本郷が次第に指の数を増やしていく。本郷の長い指は容易く悠の奥まで届いて、堪らない刺激に悠の踵がシーツを蹴る。  充分に悠の中を掻き回してからようやくズルリと本郷の指が引き抜かれ、悠はハ…と浅い息を吐く。そんな悠の腰が、本郷の両手に掴まれて引き寄せられると、反射的に身体が震えた。 「……まだ怖い?」  濡れた悠の入り口に、熱い先端を押し当てて、本郷が宥めるように悠の頬や額へキスを落とす。 「…………怖ぇよ。……ヤったら絶対、俺はお前のこと、もっと好きになる」  本郷の熱を求めて自身の後孔がヒクつくのを感じながら、悠は震える声で本郷を見上げた。そんな悠の手を強く握り込んで、本郷が悠の好きな笑みを浮かべた。 「────だったら尚更、離してあげない」  直後、本郷が悠の最奥まで挿り込んできて、身体の中も外も、全てが本郷に満たされる悦びに、悠は一筋涙を零した。 「……悠」  ゆっくりと悠の身体を揺さぶりながら、初めて下の名を呼ばれ、悠の身体が先に反応して腹の中の本郷を締め付ける。 「ッ、悠……名前呼ばれると、弱いの?」 「あっ、お前……わざと、だろ……ッ」  何度も耳許で「悠」と名を呼びながら揺さぶられて、発情期の朦朧としたものとは違う、初めて味わう快感に、悠は本郷の手をギュッと握り返した。呼ばれる分だけ、本郷に求められているのだという実感が湧いてきて、悠の胸が怖いくらいの幸せでいっぱいになる。  本能に駆られた行為ではなく、互いに想い合った上での行為がこれほど心を満たしてくれるのだということを、本郷が初めて教えてくれた。 「あっ、あ……そこ……ッ」  気持ちイイ、という声は最早啼き声にしかならなかった。突き上げられる度に堪えきれない声を零す悠を見下ろして、本郷が劣情を湛えた瞳を細めてフッと笑った。 「……良かった。悠、ちゃんと気持ちいい顔、してる」  え?、と聞き返す前に、本郷の突き上げが激しくなって、悠はそのまま本郷と共に、快楽の海に溺れたのだった。 「あー……やっぱり行きたくない」  翌朝。  悠が作った朝食をとって身支度を整えた本郷が、スーツケースを脇に置いたまま、食器を洗う悠の背後から抱きついてきた。  悠の肩口に額を押し付けて駄々っ子のように「行きたくない」と繰り返す本郷を、悠は呆れた顔で肩越しに振り返る。 「いつまで駄々捏ねてんだよ。お前のツアー楽しみに、チケット買ってくれてるファンが待ってんだろ」  昨日の行為の後、ベッドの中で実は本郷がツアーを目前に控えていることを聞かされて、悠は驚きに目を丸くした。  そう言えばリハがどうのと言っていたし、悠とこんなことをしている場合かと説教したのだが、肝心の本郷は「ツアーは絶対成功させるから大丈夫」と自信ありげに笑っていた。  今日の朝には最初の公演地である東北へ出発するということで、本郷の身支度は整っているようだったが、どうやら心の支度は整っていないらしい。 「やっぱり連れて行きたいなあ」  背中からギュウギュウと名残惜しそうに悠を抱き締める本郷に、こんな姿を見られるのも自分の特権なんだろうかと、悠は密かに笑った。 「いきなり俺がついて行けるワケねぇだろ。それに俺も、お前が行ってる間にアパート解約しなきゃならねぇんだから」 「今回のツアーはちょっとバタバタだから連れて行けないけど、次からは絶対連れてくからね」 「ハイハイ。それより、もうすぐ迎え来るんだろ?」  確か七時には出発すると本郷は言っていたはずだが、悠が食器の泡を流しながら時計に目を遣ると、もう七時まで残り十分を切っている。同じように時刻を確かめた本郷が、「あー、もう!」と悠を抱く腕に力を籠める。 「おい、苦しいっつーの」 「……悠、今度こそ、絶対黙って居なくなったりしないって、約束して」 「それ、昨日も約束しただろ。大体、今回は連絡先だってちゃんと教えただろーが」 「俺、ちゃんと首輪も用意してるからね」 「……お前が言うと冗談に聞こえねぇんだけど」  キュ、と蛇口のレバーを下ろして水を止めた悠は、濡れた手を拭いてから、本郷の腕の中で身を捩って改めて本郷の顔を見上げた。 「勿論本気だよ? 悠が拘束されてる作品見る度に腸が煮え繰り返りそうだったけど、俺に拘束させてくれるなら大歓迎」 「お前って、見た目に反して意外と残念だよな、色々」  悠の肩に擦り付けたことで乱れた本郷の前髪を直してやりながら、悠は溜息を吐く。そんな悠にズイ、と顔を寄せて、本郷が少し意地の悪い笑みを浮かべた。 「幻滅した?」  悠の答えを完全に見越した様子で問い掛けてくるのが悔しい。  顰め面で黙り込んだ悠を宥めるようにキスしてくる本郷の唇を、悠は細やかな反抗代わりに甘く噛み返してやった。  そこから深いキスに移行しかけたところで、広いリビングにインターホンが鳴り響く。時刻は、七時ピッタリだった。 「……優秀すぎるマネージャーも、場合によっては困りものだなあ」  惜しむように一度悠の唇を啄んでから、本郷がゆっくりと身体を離す。遠ざかった熱が、確かに少し寂しい。  玄関まで見送りについてきた悠を、本郷が靴を履きながらふと思い出したように振り返った。 「そうだ。この前取材受けた雑誌、編集部から届いてソファの前のテーブルに置いてあるから、俺のインタビュー、良かったら読んでみて」 「……? 何かあんのかよ?」 「読めばわかるよ。……それじゃ、行ってくるね」  少し寂しそうにも見える笑顔を向けて、流れるように悠に口づけてから、本郷が玄関を出ていく。扉が閉まる直前、悠は裸足のまま廊下へ飛び出した。 「本郷!」  エレベーターの方へ数歩進んだところで、本郷が驚いた顔で振り返る。  悠には、本郷のように甘い言葉も、愛に溢れた行動も、なかなか贈れない。だから精一杯の悠の想いを、言葉に乗せて本郷にぶつけた。 「帰って来るとき、連絡しろよ。……お前の食いたいモン、作っとくから」  一瞬目を瞬かせた本郷が、心底幸せそうに顔を綻ばせて「わかった」と頷く。悠に居場所を与えてくれた本郷が、悠の存在に幸せを感じてくれる悦びを胸の奥で噛み締めながら、悠は本郷が乗り込んだエレベーターが下りていくのを廊下で見送った。  本郷を見送って戻ってきたリビングは、一人で過ごすにはやはり広すぎて少し寂しかったが、以前と違うのは、本郷と連絡先も交換しているし、この部屋の合鍵も受け取っていることだ。  施設に居た頃、施設長は悠を含め、同じ施設で過ごす子どもたち全てを我が子のように可愛がってくれていたが、年齢が上がるにつれ、悠はやはり「いつかは出ていかなければならない場所」という思いが拭えなかった。  だが、本郷は悠に「二度と出て行かないで」と、昨日の行為の最中、何度も悠に言ってくれた。それこそ、悠が自分の口で「出て行かない」と言うまで解放してくれなかったほどに。  本郷は自分でも執着心が強いと言っていたが、昨日行為の後にシャワーを浴びたとき、一瞬何かの病気かと思ってしまったほど、悠の身体の隅から隅まで本郷が残した鬱血痕が散らばっていて驚いた。  世間が抱いているであろう本郷のイメージとは程遠い、悠だけが知る本郷の姿をこの先も見ることが出来るのだと思うと、胸の奥を擽られているような、何とも言えない気分になった。  幸せ過ぎて怖い、というのはよく聞くが、悠も正に今そんな気分で、もしかすると出掛けるのを渋っていた本郷も、同じような気持ちだったんだろうか。  そう思いながら、悠は本郷が出掛けに言っていた雑誌を探してソファへ向かったが、わざわざ探すまでもなく、ローテーブルの上には一冊の音楽雑誌がポツンと置かれていた。  ソファに座ってパラパラと捲ると、本郷の写真はすぐに見つかった。雑誌名こそ悠は知らないものだったが、巻頭にほぼ近いページに載っているのは、なかなか凄いことなんじゃないんだろうか。  アンティーク調の部屋に置かれたピアノに寄り添うように立ち、何かに思いを馳せるように宙を見つめる本郷の横顔が、見開きで大きく掲載されている。その端正な横顔は、さっきまで「行きたくない」と子供のように駄々を捏ねていた男と同一人物だとは思えない。写真だけ見ていると、悠が今見ているのはファッション雑誌だったか?、と思えてくるほどだ。  写真と共に、本郷のインタビューは四ページに渡って掲載されていた。  見出しには、 『記念すべき十枚目のアルバムリリース! 本郷一哉、アルバムツアーへ向けて始動』  という文字が躍っている。  そう言えば、以前駅で見かけたポスターはアルバムの宣伝ポスターのようだったが、もしかしてアレが十枚目のアルバムのものだったんだろうか。あの頃は本郷とこんな仲になるなんて想像もしていなかったので、じっくり見ずに通り過ぎてしまったが、インタビューの出だしを見て、悠は早速それを悔やむことになった。  ───本郷さんの記念すべき十枚目のソロアルバム『悠久』、完成おめでとうございます。今回のアルバムでは初めて全曲、ご自身で作曲をされたんですよね? 『ありがとうございます。十枚目のアルバムが出せたら、そのときは収録楽曲は全て自作したいとずっと思っていました。今回のアルバムは、僕にとってはとても思い入れが強いものなので。』  ───それは、やはり十枚目という節目だからでしょうか?  『それもありますが、全ての楽曲を自分で手掛けたこともあって、僕の思いの全てを詰め込んだ一枚になっているんです。』  ───作曲、という点では、以前からTVドラマやゲーム、アーティストへの楽曲提供などもされていますよね? 『作曲には以前からずっと興味があって、これまでのアルバムでも、何曲かは自分で作らせてもらったりしていたんです。ドラマやゲームなんかの、いつもの自分とは少し違う路線の音楽制作に携わらせて頂いたことも、僕にとっては凄く良い刺激になりました。他の方に楽曲を提供させて頂くときも、なるべく「本郷一哉っぽくない」と言ってもらえることを常に考えながら曲作りをしています。そのお陰で、今回のアルバム制作にあたってはそれらの経験が上手く活きて、曲の幅は広がったんじゃないかと思っているので、普段はピアノアルバムなんて聴かない、という方にも、耳を傾けて貰えると嬉しいですね。』  ───『悠久』というアルバムタイトルには、どんな思い入れが? 『十枚目のアルバムは、絶対にこのタイトルにしようというのは、随分前から決めていました。「悠久」という言葉には「はてしなく長く続く」という意味がありますが、人生の中で、嬉しい時間や楽しい時間ほど、あっという間に過ぎ去ってしまいますよね。だからこそ、聴いて頂いた方全てのそんな時間が一分、一秒でも長く続いて欲しいという思いを込めました。』  ───ただ、楽曲の中には『LOST CHILD』や『暁闇』など、一見ネガティブとも取れるタイトルの楽曲が含まれていますが。 『幸せな時間がずっと続いて欲しいというのは誰もが願うことだと思うんですが、何かを楽しい、嬉しいと感じるのは、その逆の悲しい、辛い事柄があるからだと思うんです。実は、「悠久」というのは僕自身の望みでもあって、ネガティブを越えていつかそこに辿り着きたい、という強い思いがあるんです。』  ───なるほど、最後の楽曲が『I Wish...』となっているのはそういう理由からでしょうか。今月からは、アルバム『悠久』を携えてのツアーも始まりますね。 『全国七都市十公演というのは、僕の単独ツアーとしては過去最多の公演数なんですが、個人的に思い入れの強いアルバムを携えて各地を回れることはとても光栄に思っています。僕の思いの結集である「悠久」が、一人でも多くの方の心に響けばと願っています。』  インタビューを最後まで読み終えても、悠は暫く誌面から目が離せなかった。  本郷のアルバム『悠久』が悠のことを意味しているのは、文字を見てすぐにわかった。  悠の名前の入ったアルバムを、記念になる十枚目にしようと本郷がずっと考えてくれていたこと。そのアルバムに、悠への想いを詰め込んでくれたこと。  ポスターを見掛けたあの日、このタイトルに気付かず素通りしてしまった自分が恨めしい。  悠は、本郷の望む「悠久」の時間を、少しでも満たせているだろうか。  無性に本郷が恋しくなって、涙が出そうになったとき。ダイニングテーブルに置きっぱなしだった悠の携帯が鳴った。 『本郷:今、空港に着いたよ。今日から三日間悠断ち辛すぎ……』  まるで悠の心中を見抜いたようなタイミングのメッセージ着信に、悠はスマホの画面を見つめる目を細めた。 『御影:今までもっと会わねぇ時間あっただろーが。……それに、ネガティブがあるから、その先に幸せがあるんだろ』 『本郷:あ、もしかして、雑誌見てくれた?』 『御影:相変わらず見た目詐欺すぎだった』 『本郷:ひどい(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)』 『御影:顔文字うぜぇ』 『本郷:ホントひどい(笑) ツアーの最終公演は東京なんだけど、招待したら、聴きに来てくれる?』 『御影:……丁度、行きてぇって言おうと思ってた。お前の「悠久」、聴きたい』 『本郷:(´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)』 『御影:だからそれやめろw』 『本郷:リアルで感動して泣きそう。……俺がこのツアーは絶対成功させるって言った理由、わかってくれた?』 『御影:……わかった。だから、気ぃ付けて帰って来いよ』 『本郷:♡♡♡♡♡♡♡♡』  雑誌の誌面を飾っていた見目麗しいピアニストからのものとは思えないメッセージの数々に、悠は思わず口元を綻ばせる。  きっと本郷は、公演の度に観客の目を引きつけながら、その耳までも魅了していくのだろう。本郷の悠への想いの強さは、悠が誰より一番よく知っている。  だからこそ、悠も早く一人のオーディエンスとして、本郷の演奏に触れたいと心から思った。本郷が曲に込めてくれた悠への想いを、一音たりとも、逃さず受け止めたかった。本郷と、はてしなく長く続く、幸せな時間を共にする為に────   ◆◆◆◆◆  ────悠が本郷と暮らすようになって、二年の月日が流れた。  本郷はピアニストとして今尚躍進していて、相変わらず地方や時には海外へも飛び回る日々で、いつだったか本郷が宣言した通り、悠も半ば強制的に同行させられるようになっていた。  そんな悠の項には、もう二度と迷子にならないように、今では本郷の『首輪』がしっかりとつけられている。  同棲を始めて最初に迎えた発情期の際、本郷が「やっと用意していた首輪の出番だ」と、待ち侘びたように一生外れることのない『首輪』を悠の首に遺し、悠は「痛ぇ」と散々悪態を吐きながら嬉しさに涙を零した。  本郷はその時、悠の過去も考慮してか、きちんと避妊してくれたが、二度目の発情期からは悠の方からそれを拒んだ。  月村から受けた不育症の説明で示された可能性に、かけてみたかったのだ。  高校時代と同じく、体調を崩して受診した病院で、悠の二度目の妊娠が判明し、その後悠が二度目の流産を経験したのは、妊娠十三週目だった。  二度目は悠の意識もあり、胎児を取り出す処置を受けている間中、本郷は悠の手を握りながら悠以上に泣いてくれた。悠自身も辛かったが、何よりも、本郷を哀しませることが悠には辛くて堪らなかった。  悠の体調が落ち着いた頃。二人で気分転換に温泉旅行へ出掛けた先で、偶然小さな子供連れの一家と食事の席が隣になり、どうしても二人ともその子供に自然と目が行った。その後、旅館の部屋で本郷と話し合い、あともう一度だけ、挑戦しようと決めた。  次が駄目なら諦める────悠と本郷が、恐らく最も重い決断を下した日だった。  それから暫くして、悠の三度目の妊娠が判明した。  この命が育たなければ、本郷との間にもう命は宿さない。悠と本郷にとって、最後の希望だった。  初めて流産した十一週が過ぎ、二度目の流産を味わった十三週も過ぎたが、悠にはただ祈ることしか出来ない。  そんな悠と、それから悠の中に宿った命を励ますように、本郷は二人の為に一つの曲を作り、毎日毎日聴かせてくれた。ピアノなのに何処かオルゴールの音色のような優しいその曲は、気を抜くと折れてしまいそうだった悠の心へそっと寄り添って支えてくれた。  ────そうして今日、悠と本郷の祈りに応えるようにここまで育ってくれた命が、いよいよ誕生する日を迎えようとしていた。  悠は二度目の妊娠時から、月村の病院で産むことを希望していた。  事情を知っている月村も快く引き受けてくれ、悠は予定通り手術室に入り、いよいよオペが始まろうとしていた。  今日まで、胎児は幸いにも問題なく順調に育ってくれた。だが手術にあたり、それに伴うリスクの説明を月村から受け、同意書にサインをするとき、悠の手は震えてまともにペンも握れなかった。  同意書に書かれている内容は、あくまでも万が一のケースなのだと何度自分に言い聞かせても、「百パーセント安全な出産はない」という月村の言葉が頭から離れなかった。  そんなとき、本郷が悠の手ごと一緒にペンを握り、サインを手伝ってくれた。 「何があっても、俺が一緒に背負うから」  本郷のその言葉に背中を押され、今は手術室には悠の緊張を解す為、悠が希望した本郷のアルバム『悠久』が静かに流れている。下半身のみの麻酔の為、本郷も悠の枕元に座ってずっと手を握ってくれている。  手術室に月村を始めスタッフが揃って、予定時刻にオペは開始された。  麻酔が打たれ、徐々に下半身の感覚がなくなっていく。その為体内に本当に胎児が居るのかどうかも段々とわからなくなってきて、悠は上手く力の入らない手で必死に本郷の手を握った。  もうこれ以上、本郷を泣かせたくない。優しい本郷を傷つけたくない。  胸元から下は、カーテンのような布が掛けられているので、今自分の身体がどうなっているのかもわからない。  悠よりもずっと若くに怜央を産んだ立花も、こんな不安を味わったんだろうかと、止まらない震えを必死に堪えていると、 「時間!」  不意に月村の声が手術室に響いた。  何の?、と思った、次の瞬間。  ────流れていた本郷のピアノの音を掻き消すほど大きな産声が、手術室に響き渡った。 「………っ」  思わず本郷と見つめ合い、お互い呆然とする。 「午前九時二十一分。おめでとう、男の子だよ」  そう告げた月村の声さえ聞こえ辛いほど、ギャアギャアと泣き声を上げる赤ん坊をスタッフに託して、月村は術後の処置にかかりながら「凄く元気だ」と笑った。  手術室の端で、測定や必要な処置を施されている様子が、悠の位置からも何とか確認出来た。  大声で泣いて、小さな手足を懸命に動かしている姿が、確かにそこにある。 (……動いてる。生きてる……) 「……俺と、お前の子……?」  まだ半分夢を見ているような気分で、まるで高校時代の本郷と同じような言葉を呟いた悠の手を、本郷が両手で包み込むように握ってきた。  本郷に視線を移すと、その顔はこれまでで一番、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、悠は思わず笑ってしまった。 「……ひっでぇ顔」 「知ってるよ。でもそんなことどうでもいい。悠……今日までずっと、不安で怖くて仕方なかったよね。────頑張ってくれてありがとう。今、最高に幸せだよ」  握った悠の指へと口づけて、本郷がぐしゃぐしゃの顔のまま泣き笑う。そんな本郷の言葉が、やっと悠の涙も引き出してくれた。 「……俺だって、幸せに決まってんだろ……っ」  どのみち泣かせてしまったが、こんなにも幸せな涙は、きっと他にはない。  互いにボロボロと零れ落ちる涙にも構わず額を寄せ合っていると、大きなガーゼに包まれた赤ん坊が女性スタッフに抱えられてきた。 「御影くんはちょっとまだ抱けないから、本郷くん、代わりに抱いて、御影くんに赤ちゃんの顔見せてあげて」  月村に言われて、本郷が「えっ」と躊躇いがちに立ち上がる。 「……ホントは、真っ先に悠に抱かせてあげたかったけどな」 「しょうがねぇだろ、俺動けねぇんだから。……顔、見せて」  恐る恐るといった様子で生まれたばかりの我が子を腕に抱いた本郷が、女性スタッフが見守る中、そっと悠の顔の横で身を屈めてその顔を見せてくれた。  悠の隣にやってきた息子は、泣き疲れたのか、今は泣き止んでジッと悠の顔を見つめている。 「手、動かせるなら握ってあげて大丈夫だよ」  月村に促されて悠がそろりと人差し指を添えると、本郷に似たのか、赤ん坊の割には大きな手がきゅっと悠の指を握り返してきた。  その仕草に思わず本郷と声を揃えて「可愛い……」と呟いた二人に、処置を終えた月村が微笑ましそうに目を細めた。 「御影くんの処置も終わり。ちょっとこのまま経過観察するから、もし体調に変化があったりしたら、すぐに言って。……無事に生まれて、本当に良かった」   よく頑張ったね、と月村に労われて、悠は目の前の小さな手を握りながらまた涙を零した。  「……お前が一番、頑張ったよな」  決して居心地の良くない悠の体内で、懸命に育ってくれた愛おしい命。  その手で育ててはもらえなかったが、悠もこうして誰かに産んでもらえたお陰で本郷と出会うことができて、そしてその本郷との間に、新たな命を授かることが出来た。  奇跡の連鎖の末に生まれた我が子の手をそっと握る悠の指先を、小さな手が一生懸命に握り返してくれた。  翌日。  術後の傷の痛みはあったが、どうにか歩けるようになった悠は、漸くほんの少しだけ、息子を抱かせて貰うことが出来た。  身体が疲れていた所為か、見た目より重く感じたが、それは確かな命の重みでもあって、悠はスタッフから声を掛けられるまで、傷の痛みも忘れて我が子の顔を見つめ続けた。  町民の数が少ないということもあって、運よく与えてもらえた個室に戻り、悠がベッドでウトウトと微睡んでいると、新生児室に寄っていたのか、一旦着替えなどの荷物を取りに自宅に戻っていた本郷が、目尻の下がりきった顔で病室に入って来た。 「……お前、今ファンに絶対見せられねぇような顔してるぞ」 「いや~、だってもうホントに可愛くてさあ……。寝てるだけでも可愛いって何なんだろう。何かさ、天使は天使を産むんだなって思ったよね」 「……ちょっと後半何言ってるかわかんねぇ」  悠のベッドサイドに腰を下ろす、既に親馬鹿全開の本郷を、悠は呆れた顔で見つめる。そんな悠に、撮影してきたばかりの息子の写真を、本郷は嬉しそうに何枚も見せてくれた。そのどれもが寝顔だったが、本郷の言うように、ただ寝ているだけの同じような写真なのに、眺めているだけで気づけば口元が弛んでいるのだから不思議だ。  散々我が子の寝顔を堪能した後、「そう言えば」と本郷が何かを思い出したように顔を上げた。 「悠、あの子の名前、どうする? 何か候補浮かんだ?」  本郷に問われて、悠はベッドに横になったまま「んー……」と眉根を寄せて唸る。  万が一のことを考えて、悠たちは子供の性別も事前には聞かなかったし、名前も無事に生まれてくるまで考えないようにしていた。  なので昨日から初めて子供の名前をちゃんと考え始めたのだが、何せ悠自身も自分の本当の名前は知らないので、イマイチ良い名前が浮かばずにいた。 「ずっとお前のピアノ聴かせてたし、どうせなら音楽に関係ある名前がイイとは思ってんだけどな……」 「それならさ……演奏の奏って書いて、『(かなで)』って、どうかな」 「奏……。ああ、音も綺麗だし、イイんじゃねぇ? お前に似て音楽好きになりそうだし」  悠が言うと、本郷は荷物の中から手帳を取り出して、奏という字を少し大きく書いて見せた。 「勿論、音楽に関係ある名前って俺も嬉しいんだけど、もう一つ、『奏』っていう漢字には、『三人』って字が入ってるでしょ。……俺たち、本当は三人の命を授かってるから、三人分、元気に育って欲しいと思って」 「………」  本郷が丸く囲んだ『奏』という字の上半分に確かに『三人』の文字を見つけて悠はハッとなる。  本郷が愛する音楽と、それから先に旅立ってしまった二人の命も含まれた名前。  この先二人が名を呼ぶたびに、悠も本郷も、確かに過去に授かった命のことも常に覚えていられる。 「……絶対元気に育つだろ、その名前。俺みたいに、口の悪いピアニストになるかもな」 「それはそれで、ギャップ萌え層にウケるんじゃないかな」 『奏』の文字を見つめながら優しく微笑む本郷の横顔を眺めて、悠はポツリと呟く。 「幸せだな……こんなイイ名前貰えて」  それを聞いた本郷が、閉じた手帳でポス、と悠の額を軽く叩く。 「幸せなのは、俺たちもでしょ。……授かった命も三人だし、俺たち家族も三人。この先ずっと、三人で幸せになるんだよ」  はてしなく長く続く幸せなんて、本郷と暮らすようになるまでは考えもしなかったし、そんなものを願うだけ無駄だとさえ、悠は思っていた。  けれどどんなときも悠を支え、時には共に哀しんでくれる本郷となら、どんなことも幸せだと思えるような気がした。  これから先は三人で過ごしていく幸せな日々が悠久に続くことを願いながら、悠と本郷は静かに口づけを交わす。   そんな二人の願いを込めて、悠と本郷の息子は『奏』と名付けられた。  次の日には、ずっとこれまで悠を気にかけてくれていた立花が見舞いに来てくれ、廊下の窓ガラス越しに新生児室で眠る奏の姿を見るなり、ひたすら「可愛い!」と感動の声を上げていた。  立花に再会していなければ、悠が月村の病院を訪れることなどなかっただろうし、だとしたらこうして子供を授かることすら、一生出来なかったかも知れない。  改めて、ずっと一人だと思っていた自分は、気付けば多くの支えをもらってここまで歩いて来られたのだということを実感する。  捨てられた悠を我が子同然に育ててくれた施設長のように。  幸せな家庭を築きながらも、いつも悠を気にしてくれていた立花のように。  快く悠の相談に乗ってくれ、奏の誕生を喜んでくれた月村のように。  そして、悠を暗闇から救い出してくれた本郷のように。  奏には、そんな優しい人間に育って欲しいと、悠は密かに願うのだった。      ◆◆◆◆◆  ────十ヶ月後 「……ただいま」  悠が、奏が昼寝している可能性を考慮して外出先からそろりと帰宅すると、リビングにはでたらめなピアノの音が響き渡っていた。見るまでもなく、それが奏の演奏だとわかる。 「おかえり、悠」  奏を膝に乗せてピアノの前に座っていた本郷が振り返り、それに続いて奏が本郷の膝の上で「あい!」と両手をブンブン振った。最近になって奏が覚えた、「おかえり」の挨拶だ。 「奏、すっかりピアノ気に入ってんな」 「楽しんでくれてるなら、俺としては最高に嬉しいよ」  ようやく伝い歩きが出来るようになった奏は、本郷が毎日弾いているピアノに興味津々で、最近では本郷も毎日奏にピアノを触らせてやるようになっていた。 「奏、『ド』はここだよ」 「おー!」 「凄い……! 聞いた、悠!? 奏が今『ド』って言った! もう一回、ここが『ド』」 「おー! おー!」 「……どうしよう、ウチの子天才だ……」  感動で泣きそうな声を零して、本郷が愛おしげに奏の身体を抱き上げる。  本郷の親馬鹿っぷりは相変わらずで、帰りに寄って来たスーパーの袋をキッチンカウンターに下ろして、悠は思わず苦笑する。一万歩くらい譲って『ド』に聞こえなくもない、というのは、口には出さないことにした。  奏の成長は産後も至って順調で、日に日にスクスクと元気に育ってくれている。今では、本当に三人分のエネルギーを蓄えて生まれてきたのではと思うほど小さな怪獣と化していて、日々悠と本郷を奮闘させてくれていた。 「施設長、元気だった?」  買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込む悠へ、奏をラグの上に下ろしてやりながら本郷が問い掛けてくる。  本郷と同棲を始めて間もない頃、悠は施設長に宛てて手紙を送った。  黙って飛び出してしまったこと、ずっと連絡出来ずにいたことへの謝罪と、自分は元気で居ることをその中で伝えると、数日してすぐに返事が返ってきた。  届いた返事には、懐かしい施設長の文字で、『いつでも顔を見せに来て頂戴ね』と書かれていて、悠は奏が生まれた後、本郷と共に三人で施設を訪れた。  出迎えてくれた施設長は悠が居た頃に比べると随分髪が白っぽくなってはいたが、生まれて間もない奏を見て、まるで孫が生まれたようだと泣いて喜んでくれた。同時に、「出産祝いよ」と施設長が悠に渡してくれたのは、悠が施設を出て行ったあの日、置いて行った僅かばかりのバイト代だった。  悠が「施設の為に使って欲しい」と言っても施設長は「子供からそんなものは受け取れない」と頑として受け取ってくれず、それならばと、本郷がオフの日は、時折ボランティアとして施設を手伝わせて欲しいと申し出た。  この施設で、施設長が育ててくれた上に高校への進学を勧めてくれたから、悠は本郷に出会えて、今こんなにも幸せな人生を過ごせている。だからこそ、自分に出来る何かで、少しでも恩を返したかった。  それには本郷も快く賛同してくれ、そうして今日も、オフで家に居る本郷に奏を任せて、悠は施設を手伝ってきたのだった。 「元気にしてた。いつの間にか施設長が本郷のファンになってて、CD全部コンプしてたことにビビったけど」 「そうなの? 言ってくれたらこっちから贈ったのに」 「何なら今度サインしてやって。本郷の顔見てたら若返るんだってよ。お前、マジでファンの年齢層広いよな」 「最近ぐっと年齢層が上に広がった気がするんだけど、多分奏の存在が大きいんだと思うよ」  ラグの上に座って、積み木を重ねては一人で拍手している奏を、愛情溢れる眼差しで眺めながら、本郷が微笑む。  本郷は、奏が生まれた後、自らパートナーとの間に子供を授かったということを事務所を通して世間に公表した。本郷曰く、「この手の話はすっぱ抜かれる前に自分から発表した方が、後々騒がれずに済むんだよ」とのことで、悠や奏の情報などは徹底して伏せる姿勢を貫いていた。  だが、我が子が可愛くて仕方がなく、自ら育児を楽しんでいるということはTVや雑誌のインタビューなどで散々語っている為、世間では「あの整った容姿で、ピアニストとしても活動しながら、育児にも積極的なんて素晴らしい!」と更に女性からの株は跳ね上がったらしい。 「ところで悠」  全ての食材を仕舞い終えて冷蔵庫の扉を閉めた悠の身体を、壁ドンならぬ冷蔵庫ドン状態で追い詰めた本郷が、いつも悠を甘く虐めるときの笑みを浮かべて見下ろしてきた。 「……何だよ?」 「いつになったら、俺のこと名前で呼んでくれるの?」 「………っ」  逃がさないとばかりに両腕で悠の身体を挟み込んで、本郷が意地の悪い顔で返事を促してきて、悠はぐっと声を詰まらせる。  奏の手前、いつまでも苗字で呼ぶのも不自然だとはわかっているのだが、行為の最中に強引に呼ばされることはあっても、悠はなかなか自分から『一哉』とは呼べずに居た。 「そろそろ呼び方考えないと、奏がそれで覚えちゃうでしょ」 「わ、わかってるけど、なかなかクセ抜けねぇんだよ」 「じゃあ、今練習で呼んでみてよ」 「えっ……」   ほら早く、と本郷がニヤニヤと笑いながら促してくる。 「か……かず────」  バシャッ!!  あと一歩のところで、不意に何かが零れる音が割り込んできて、悠と本郷は揃って音のした方へ顔を向ける。  いつの間に積み木に飽きていたのか、ダイニングテーブルに置きっぱなしだったグラスの中のミネラルウォーターを頭から被った奏が、ずぶ濡れのまま呆然とした顔でテーブルにしがみついていた。 「ちょっ、何やってんだ奏! つか本郷、飲みかけで置いとくなっていつも言ってんだろ!」  目の前の本郷を突き飛ばし、慌てて洗面所から取って来たタオルでずぶ濡れの奏を拭いてやりながら、悠は本郷に向けて怒鳴る。  折角の機会を文字通り水に流された上、悠に叱られてシュンと項垂れる本郷とは対照的に、奏は何が嬉しいのか、キャッキャと楽しげな声を上げながら、リビング中を這い回る。 「コラ、ちゃんと拭かねぇと、風邪ひくぞ!」  悠がタオルを広げて追いかける奏を、本郷がヒョイと慣れた様子で抱き上げた。 「はい、奏ゲットー」  そのまま高く一度持ち上げられて大喜びする奏を本郷が抱え直して、悠が濡れたその髪を再び拭きにかかる。 「服も着替えさせねぇと」 「全く、奏はなかなかのやり手だよね」  奏の濡れた服を脱がせる悠を見下ろして、本郷が苦笑交じりに溜息を零す。  悠としては、内心奏に救われてホッとしていたが、残念そうな本郷が少し可愛くも気の毒でもあって、悠はタオルで奏の目元を覆うと素早く本郷の唇へ口づけた。 「……さっきの続きは、奏が寝てからな」  一瞬驚いたように目を瞬かせた本郷が、一転して幸せそうな笑みを浮かべる。 「幸せだなあ……」  しみじみと零された本郷の呟きは、再び奏が暴れ始めた賑やかなリビングに、あたたかく溶けていった────

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