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番外編 インフィニティ・カラット

「……やっぱ、シーツは外に干してぇな……」  洗い立てのシーツを物干しに引っ掛けながら、悠はガラスの向こうに広がる高い青空を見上げてポツリと零した。  悠が本郷のマンションで共に暮らすようになって三ヶ月。  元々本郷が一人で住んでいたこの高級タワーマンションでの生活にも漸く少しは慣れてきた悠だったが、それでも今日みたいによく晴れた日は、やはり洗濯物は外に干したくなってしまう。  この部屋にはベランダ代わりの広いサンルームが備え付けられていて、冬場の今でも日当たりは良好だし、乾きが悪いわけではないのだが、高層階ならではの洗濯事情に、庶民派の悠はなかなか馴染めない。  とはいえ、悠が初めてこの部屋に来た日まで、本郷は洗濯機すらまともに使ったことがなかったらしい。自分の洗濯物はいつも業者が部屋まで取りに来てくれていたらしく、全てクリーニング任せだったようで、当然このサンルームも、悠が来るまで全く使ったことがないと本郷は言っていた。そういう意味では、サンルームも含め、この部屋の各スペースや家電は、漸く本来の役割を取り戻したと言えるのかも知れない。  今では居候させて貰っている悠が炊事・洗濯・掃除など、家事の全ては引き受けているが、改めて本郷はピアノと悠以外に全く執着がないのだと、同居するようになって思い知った。  料理こそ、本郷は悠の作ったものを食べたがったが、「悠はゆっくりしてていいよ」と洗濯や掃除は当たり前のように他人任せにしようとしたので、悠は慌てて「俺がやる」と申し出た。こんな広い部屋で、本郷が仕事に出ている間ひたすら寛いでいるなんて、余りにも居心地が悪すぎる。  施設に居た頃、ほぼ最年長に近かった悠は毎日のようにスタッフを手伝って食事の用意や施設内の掃除をしていたが、それがこんな形で役に立つとは思わなかった。おまけに、ただ当たり前のことをしているだけなのに、家事をする悠を見て本郷はいつも幸せそうな顔をするのだから、何とも擽ったい。  そんな本郷だから、悠が「外に洗濯物を干したい」なんて言おうものなら、あっさり「引っ越そう」と言い出しかねないので、さすがに本人の前では口に出せない。  こんなにも本郷から想われる日が来るなんて、数ヶ月前までは思いもしなかったし、そんな日常に馴染めば馴染むほど、同時に酷く不安にもなる。  悠はΩでありながら、この先子供を産むことは出来ないかも知れない。本郷は気にしないと言ってくれたが、メディアでも引っ張りだこな世界的ピアニスト・本郷一哉の隣に居るのが本当に悠で良いのだろうかと、ついついネガティブな自分が顔を出す。 (アイツが聞いたら、また怒るんだろうな……)  決して悠の手を離そうとしない本郷の顔を思い浮かべて、悠は苦笑する。  どんなに悠が不安になろうとも、きっと本郷は悠を離してはくれないし、悠だってもう離れられない。  たった一度の本郷との温もりにすがっていた頃とは違って、悠の身体はもうとっくに本郷の熱を覚え込んでしまっている。  愛されるって怖い、なんていうのは、贅沢な悩みなんだろうか。  サンルームに降り注いでくる眩しい日射しに軽く目を眇めながら、悠は替えのシーツを敷きに寝室へ向かった。  ホテルかと言いたくなるほど、何枚もストックされているシーツをクローゼットから一枚取り出して、大きなベッドの上に広げる。今ではこの作業にもすっかり慣れたが、最初はキングサイズのベッドメイキングに悠は悪戦苦闘した。  大の男が二人で寝ても余裕があるこの広いベッドに、本郷はどんな思いで一人、眠っていたのだろう。  今では毎晩、暑苦しいくらいに悠を抱え込んで眠っている本郷を思い出す。そんな姿をいつも間近で見ていて、離れられるわけがない。  ピン、とシーツを殆ど皺のない状態に仕上げ、達成感から小さく息を吐いて身を起こしたとき。  くらり、と視界が揺らいで、悠は思わず再びその場にしゃがみ込んだ。  同時にじわじわと身体が火照り初めて、心臓の音が一つ、また一つと脈打つたびに大きくなっていく。  もう何度も味わっている発情期だというのは、感覚ですぐにわかった。  ────ヤバイ。抑制剤…、と自分の鞄へ無意識に手を伸ばしかけてハッとなる。本郷とは発情期を待たずにもう何度も身体を重ねているので、結局抑制剤を買いそびれていたことを思い出した。 「マジかよ……っ」  浅い息を零して、悠は目の前のシーツに爪を立てる。折角綺麗に伸ばしたそこに、歪な皺が寄った。 (……アイツ、今日何時に帰ってくるんだっけ……)  ぐらぐらと揺れる頭で、今朝見送った際の本郷とのやり取りを必死に思い返す。 『遅くても夕方までには戻れると思うから』  出掛けに聞いた本郷の声を思い出すだけで、悠の身体がその熱を求めて疼く。 「夕方って……まだ、昼前だっつの……」  ほんの数ヶ月前までは、発情期が来ても自己処理でどうにか乗り越えられたのに、悠のΩとしての本能が、本郷を強く欲している。  前回の発情期では、悠が本郷を怒らせたこともあって、結局身体は重ねなかった。けれどお互いに求め合うようになった今、発情したこの状態で本郷と身体を重ねたら、自分はどうなってしまうのだろう。  もう既に本郷でないと駄目なのに、まだこれ以上本郷に溺れてしまうのが、どうしようもなく怖い。 「本郷……っ」  助けを乞うように此処には居ないその名を呼んで、悠はシーツを掻き毟った。 「……っ、は……ぁ……ッ」  悠自身の手の中で震えた先端から散った精を、頭上から降り注ぐ冷たいシャワーが洗い流していく。  バスルームに篭って、一体どのくらい経っただろう。  少しでも身体の火照りを冷ましたくてもうずっと冷水を浴び続けているが、身体の奥で燻る熱は一向に鎮まってはくれない。────それはそうだ。だってこの部屋には、至るところに本郷の匂いが溢れている。  シャワーの水に冷やされた手足の感覚はもう殆ど無くなっているのに、下肢だけがいつまで経っても異様に熱い。  辛うじて残っている理性は必死で欲求を抑えようとしているのに、悠の身体と本能はちゃんとわかっている。この熱を鎮めることが出来る、たった一人の存在を────  シャワーの水音に混ざって、ガチャリと玄関の鍵が開く音が聞こえた。  どうしようマズイ、と思う反面、悠の深い場所で燻り続けていた炎が、待ち侘びたように一気に燃え上がる。  悠がバスルームから逃げ出すよりも、発情期のフェロモンに気付いたらしい本郷が駆け込んでくる方が早かった。 「悠……!?」  ドアを開けると同時に叫んだ本郷を、浴槽にしがみついたまま、重い頭をもたげて見上げる。  どうしていつも本郷は、悠が途方に暮れかけたタイミングで助けてくれるのだろうと、今更ながらぼんやりと思う。学生時代、初めて発情期を迎えたときもそうだった。 「ちょ……、真冬に何してるの!」  ヒヤリとした浴室内の空気に整った眉を寄せた本郷が、濡れるのも構わず服のまま飛び込んできてシャワーを止める。  ……馬鹿はお前だ。俺みたいな面倒なヤツの為に、お前はいつだってなりふり構わない。  すっかり冷え切った悠の身体をバスローブで包んだ本郷の大きな手に腕を掴まれ、そのまま強引に寝室まで連れて行かれる。  ────また、溺れる。捕らえられる。  悠が最後の足掻きを口にする前に、ベッドに悠の身体ごと倒れ込んだ本郷が、唇へ喰らい付いてきた。  滑り込んできた舌に容赦なく咥内を蹂躙され、あっという間に冷えた身体が熱を取り戻していく。ああ、これが欲しかったんだ…と、頭より先に身体で悠は思い知った。 「……どうして、連絡くれなかったの」  口付けの合間、熱っぽい吐息と共に本郷が少し拗ねたような口調で問い掛けてくる。 「どうしてって……お前、仕事────っ、あ……!」  既に何度か達しているのに全く芯を失っていない剥き出しの性器へ意地悪く指を絡められて、反論が途切れた。トロリと先端から零れた滴が、本郷の長い指を濡らす。 「言ってくれたら飛んで帰って来たよ。ホント、いつまで経っても頑固で怖がりなんだから」  仕事の邪魔なんて出来るか、と言ってやりたかったが、そんな悠の返答すら本郷はお見通しなのか、口を開く前に呆気なく身体をひっくり返された。  四つん這いになった悠の背中に覆い被さってきた本郷に、裸の胸を弄られて、ビクリと喉が反る。そんな悠の頤をやんわりと捕らえて、本郷が悠の耳朶へ甘く歯を立てた。 「……俺がどれだけこの日を待ってたか、わかる?」 「え……?」  肩越しに思わず振り返った悠のすっかり蕩けた後孔へ、本郷が衣服越しに自身の熱をグッと押し付けてくる。  初めて発情期を迎えた高校時代のあの日、音楽準備室で交わしたやり取りを思い出す。あの時は未知の感覚や行為に対する不安と動揺の方が強かったが、今思えばあのときも本郷は、まるで悠の発情を待っていたみたいだった。  もう何年も前から、本郷は悠を求めてくれていた。あの頃はそれに気付くことが出来ずに、随分と長い間すれ違ってしまったが、あの日と大きく違うのは、今は悠の身体も心も、確かに本郷を求めていることだ。  一刻も早く身体の奧まで本郷で満たされたいのに、その悦びを知るのが怖い。怖くて堪らないのに、本郷でしか満たされないのだとこの身に知らしめて欲しい。 「……本郷……っ」  助けて、と声にならない懇願を込めて、震える声を絞り出す。悠の耳許でハ…、と熱い呼気を落とした本郷が、耐え兼ねたように一気に悠の奧まで挿り込んできた。 「ああ…─────っ!」  目が眩みそうな快感の波が脳天から駆け抜けて、悲鳴を上げた悠の項に、焼けるような痛みが走った。一瞬何が起きたのかわからず、閉じた瞼の裏で光がチカチカと明滅する。  少しして、悠の項に一生消えない番の証を刻んだ本郷が、満足げに笑う気配がした。 「やっと、首輪の出番がきた。……死ぬまで離してあげないから、覚悟して」  自分の残した傷痕に舌を這わせて、本郷が甘く囁く。  もう本郷から逃れることが出来なくなった悠の身体が、唯一の相手に突き上げられ、歓喜に震える。喘ぎを堪える余裕なんか、まるで無かった。  こんな快感は知らない。  こんな自分は知らない。  こんな悦びは知らない。  こんな幸せなんか、知らない──── 「あっ……ぅ、あ……ッ」  深く突かれるたびに、悠の先端から何度も白濁が散る。次第に出るものが無くなっても、悠は立て続けに絶頂を迎えてビクビクと全身を跳ねさせた。  まだ絶頂の余韻に震える悠の足首を掴んだ本郷が、いつもより荒っぽい手付きで、繋がったままの悠の身体を仰向けにする。内壁が捻じられる快感に一際高い声を上げた悠の視界で、本郷が眉間に深い皺を刻んでいる。普段の本郷とは違って獰猛な色を湛えたその表情に、悠の背がゾクリと慄いた。  恐怖や不安からじゃない。いつもは焦れったいほど優しく悠に触れてくる本郷に、こんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、嬉しくて堪らなかった。 「っ、悠ゴメン……今日、多分優しく出来ない」 「……シーツ、洗ったばっか、だったのに……っ」  素直じゃない悠の口からは捻くれた言葉がつい零れてしまうけれど、いっそ何も考えられないくらい、無茶苦茶にして欲しい。本郷になら、壊されたって構わない。不安な気持ちごと、ドロドロに溶かされてしまいたい。 「首……っ、痛ぇし……!」  言葉と裏腹に、一生分の本郷の愛を刻まれた喜びから一筋涙を零した悠の手を、本郷の手が包むように強く握り込んできた。 「もっと、俺のことしか考えられなくなってよ、悠……」  荒々しく悠の身体を揺さぶりながら、本郷がどこか強請るような口調で呟く。  学生時代、初めて身体を重ねたあの日から、悠には本郷しか居ないのに。  こうして本郷に求めて貰えることが、嬉しくて仕方がないのに。  世間に見せる顔は、いつだって隙の無い男前なくせに。  なのに悠の前では甘えたような言葉を漏らす本郷も、もしかしたら悠と同じように不安だったりするんだろうかと思うと、愛おしさで胸が苦しくなった。  愛されるのが怖いんじゃない。────愛しているからこそ、怖いんだ。 「ぁっ……俺はとっくに、お前のことしか、考えてねぇよ……っ」  悠の言葉に小さく息を詰めた本郷が、飢えきった獣のように悠のあちこちへ噛み付いてくる。  常にステージ上では端正な顔で、繊細な音色を奏でている本郷の、悠しか知らない姿。  本郷が悠を満たしてくれる分、同じだけ本郷の心を満たせる存在でありたい。本郷の全てを受け止めてやりたい。  臆病な悠は、きっとこの先何度も不安になるだろう。けれどそれでも、こうして本郷が求めてくれるなら、悠は全身で応えたいと心の底から思った。  やっとお互い唯一の存在になれた二人は、悠の声と体力が枯れ果てるまで、真新しいシーツの上でぐずぐずに蕩け合った。   ◆◆◆◆◆ 「……かーさん、ソレいたい?」  ダイニングテーブルで悠がおやつに焼いてやったパンケーキを頬張っていた奏が、ふと悠の顔を見上げて問い掛けてきた。  向かいに座って片肘をつきながらその様子を眺めていた悠は、「ソレ?」と目を瞬かせる。 「くび。ケガしてるの、なおってない」  そこで漸く、奏の視線が悠の首筋に注がれていることに気が付いて、ああ…、と悠は苦笑した。 「痛くねぇよ。コレはケガじゃねぇから、大丈夫」 「ケガじゃないの?」  ホイップクリームを口の端につけた奏が、フォーク片手にきょとんと首を傾げる。前々から、風呂に入るたびに奏が何か言いたそうに悠を見ていることがあったが、これが気になってたのかと悠はやっと合点がいった。幼い奏なりに心配してくれていたのだとわかって、悠は思わず目を細める。 「……コレは、『とーさん』が俺をお前のかーさんに選んでくれた印」  悠の言葉が理解出来なかったのか、うーん?、と暫く考え込んでいた奏が、少しして「わかった!」と顔を輝かせた。 「それ、『けっこんゆびわ』!?」 「………っ」  予想外の言葉がまだ2歳の息子の口から飛び出して、ズルッと悠の肘がテーブルを滑る。 「お前……どこでそんな言葉覚えてきたんだよ」 「カナちゃんが言ってた! カナちゃんのかーさんも、とーさんとなかよくなって、いっしょにすむときに、『けっこんゆびわ』もらったって!」  カナちゃん、とは同じマンションに住む同い年の女の子で、時々近所の公園で顔を合わせるので、奏もその度一緒に遊んでいる友達の一人だ。名前が似ているというのがきっかけで、今では互いの自宅を行き来するくらいには仲良くなっている。  女子ってこんな歳からもうマセてんだな、と悠は胸の内で呟く。 「あれ? でもゆびわって、ゆびにするヤツ……? とーさんもかーさんも、ゆびわしてる……」 「どっちかっつーと、結婚指輪はこっちだな」  奏が産まれた後、本郷が贈ってくれた薬指のペアリングを悠が指差すと、奏はまたしても首を捻り始めた。頭の上に、クエスチョンマークが飛び交っているのが目に見えるようで、思わず悠の口許が弛む。  無事に生まれてくれるかさえわからなかった奏も、気付けばもうすぐ三歳。かつての不安が嘘のように、奏は日々元気に育ってくれている。  本郷との間に授かることが出来た命が、スクスクと育っていく様子を見守ることが出来る幸せは、言葉に出来ないほど尊い。どんな高価な結婚指輪だって敵わないくらいの幸せを悠に与えてくれたのが、本郷なのだということを、どうしたら奏にも伝えられるだろう。 「お前が大きくなって、大事だって思う相手に出会ったら、わかるんじゃねぇかな」 「とーさんとかーさんより、だいじなひと、できるの?」 「……それ、とーさんの前で言うなよ。絶対泣くから」  噂をすれば何とやらで、タイミング良く玄関ドアが開く音と共に「ただいま」という本郷の声がした。 「とーさん!」  反射的に叫んだ奏が、ピョンと椅子から飛び降りて、フォークを手にしたまま玄関へ駆けていく。 「あっ、コラ! フォーク持ったまま走んな、危ねぇだろ!」  慌てて後を追うと、本郷が既に慣れた様子で奏を抱き上げ、その手からフォークを取り上げていた。 「あ、奏なんか美味しい物食べてるな」  奏の頬についたクリームを拭ってやりながら、本郷が笑う。そんな本郷の手から荷物とフォークを受け取って「おかえり」と告げると、奏を椅子に戻した本郷が「俺の分は?」と笑みを向けてきた。 「え、お前も食うのかよ」 「奏に比べて俺には塩対応過ぎない!?」  敢えて素っ気なく答えた悠に、本郷が大袈裟に嘆く。こういう子供みたいな本郷の姿を見るのも、今ではすっかり悠の密かな楽しみになっている。  本当はとっくに下ごしらえは済んでいる本郷の分のパンケーキを焼く為、キッチンに向かいかけた悠の腕を、本郷が不意に引き寄せた。  なに、と問うより先に、振り向いた悠の唇へ本郷が素早く口付けた。 「な……っ、おま……!」  奏の前で何やってんだ、と目で訴える悠に、本郷が「摘まみ食い」と悪戯に片目を閉じる。  チラリと視線を向けると、パンケーキを口に運びかけていた奏がこちらを見詰めてキラキラと目を輝かせていた。 「とーさん! 『ちゅー』して、かーさんとなかよくなったの!?」 「ぶっ!」  またしても奏の口から出た衝撃の単語に、思わず噴き出す悠の隣で、さすがの本郷も一瞬目をしばたたく。 「……お前、そんな言葉まで……」 「奏……父さんが母さんと仲良くなったのは、ちゅーだけじゃないよ」 「お前も余計なこと言うんじゃねぇよ、馬鹿!」  家族が揃った三時のおやつタイムは、一気に賑やかになる。  二人から三人になった部屋には、今日も変わらない、幸せな喧騒が溢れていた。

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