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番外編 天使の居る日々

「ただいま」  新しいアルバムのレコーディングを終えて帰宅した本郷が玄関ドアを開けると、室内はシンと静まり返っていた。  時刻はもうすぐ夜十時。  さすがにこの時間なら、真っ先に駆けてきて出迎えてくれる息子はもう眠っているだろうけれど、今日はパートナーからの返事すらない。  リビングへ向かう途中、横目に覗いたキッチンには、きちんと本郷の分の夕飯の準備がなされていて、後は温めて盛り付けるだけ、という状態だ。あとひと手間、というところで放置されているということは……と、本郷は微かに笑って、静かに寝室へ続くドアを開けた。  案の定、ベッドの中では息子の奏が熟睡している。そしてその傍らで、ベッドに突っ伏すようにして、悠が静かに寝息を立てていた。腕の下には、開いたままの絵本。  微笑ましいその光景を、しっかりと自身のスマートフォンで撮影してから、本郷は足音を殺して悠の傍へ歩み寄った。  同じ学校に居た頃や、再会したばかりの頃からは想像も出来ないほど、無防備な寝顔。  この部屋で一緒に住むようになった当初、悠はどんなに本郷の帰宅が遅くても、決して先に眠ることはしなかった。そして朝は、必ず本郷よりも先に起きる。  ここは本郷の部屋だというのに、悠はまるで、本郷が必ず自分の元へ戻ってくることを確かめているように思えた。  悠を散々不安にさせて、臆病にしてしまったのは本郷だ。 「生まれつきだ」なんて、悠はいつも素っ気なく言うけれど、彼の心をより一層頑なに閉ざさせてしまったのは本郷だと、何度も繰り返した過ちから嫌というほど自覚している。  だからこそ、そんな悠が完全に心を許してくれるようになるには充分な時間が必要だろうと思っていたので、本郷も極力悠の気持ちを優先させるように心掛けてきた。自分に出来ることは、もう二度と悠が独りにならないよう、その手を握り続けることだと思ったから───。  番になってからも、奏が生まれるまでの間にまた一度、宿った命を失ってしまったとき。悠は本郷に隠れて、毎晩夜中にこっそり寝室を抜け出しては嗚咽を零していた。  本当はその背を抱いて「大丈夫」と言いたかったが、失う辛さを二度も味わった悠に、軽々しい言葉など掛けられるはずもなく、せめて本郷は気付いていないフリをしながら、離れた場所で共に涙を流した。  長いすれ違いの末、ようやく結ばれたというのに、本郷と悠の生活は決して順風満帆ではなかった。  最後の命に望みを託したときも、お互い口には出さなかったけれど、またそれを失ってしまったら自分たちはどうなるのか……本郷も恐かったが、悠はきっとその何倍もの恐怖や不安と闘っていたに違いない。  ずっと神頼みなんてしたことはなかったが、あのときばかりは、本郷も見えない何かに祈り続けることしか出来なかった。  そしてそれが届いたのかどうなのか。  本郷には計り知れない悠の涙の末、無事に生まれてきてくれた奏は、本郷と悠にとって正に『救い』だった。  ぐずる奏に困らされても。  奏のイタズラに振り回されても。  ヤンチャな奏にヒヤヒヤさせられても。  例えどんなときでも、悠の奏を見詰める瞳はいつも優しかった。  初めて本郷との命を身籠った高校時代からずっと、悠はこんな日が来ることを夢見ていたのだろうと、本郷は思った。  最初はぎこちなかったものの、悠が本郷の傍で共に過ごしてくれるようになって、気付けばもう五年。  二人だった頃は必ず起きて本郷の帰りを待っていた悠も、今では時々、こうして奏を寝かしつけながら自分も眠ってしまうようになった。  勿論、「おかえり」と出迎えて貰えるのは嬉しい。けれど、帰宅して悠と奏の寝顔を見ると、その日の疲れなんて一瞬で吹き飛んでしまう。  穏やかな悠の寝顔には、彼の今の胸中が表れているような気がして、本郷もまた愛おしくて堪らなくなるのだ。  そっとベッドの縁に腰掛けて悠の寝顔を堪能していると、気配に気づいたのか、悠が「ん……?」と小さく声を漏らして薄らと目を開けた。 「あ、ゴメン。起こしちゃった?」  奏が起きないよう、声のトーンを抑えて謝ると、悠は慌てた様子でガバッと身を起こした。 「やっべ、また寝てた……今何時? てか、帰ってたなら起こせよ」  開きっぱなしの絵本を閉じてヘッドボードへ仕舞い、悠がまだ少し重いらしい瞼を擦りながら立ち上がる。  こっそり撮影したことがバレないよう、さり気なくスマートフォンをポケットに押し込んで、本郷は悠と共にリビングへ引き返した。 「ついさっき帰ってきたところだから大丈夫だよ。悠、疲れてるだろうからもっと寝ててもいいのに」 「お前、放っとくと飯食うのも忘れて眺めてるだろ」  呆れ気味に言いながら、悠はそのままキッチンに立って本郷の食事の支度に取り掛かった。  鋭いなあ、と苦笑しつつ、本郷は何をするでもなく悠の傍らに立って、鍋を火にかける姿を眺める。  悠は、この部屋へ来たときから、家のことはとにかく何でも引き受けてくれている。  施設で育ち、自身の身の回りのことは全て自分で、という習慣がきちんと身についているからだろう。  一方の本郷は、幼い頃から両親が音楽活動で多忙だったこともあり、家には常に家政婦が居て、身の回りの世話は何でもしてくれていた。成長すれば今度は本郷自身が多忙になり、やはり家の事は人任せにしてしまっていたので、こうして悠が本郷の世話をしてくれることも、日々の喜びの一つになっていた。  覗き込んだ鍋の中では、本郷が好きな肉じゃがが、良い具合で煮込まれている。  と言っても、別に昔から好物だったわけではない。元々本郷は食に対して無頓着なので、これといった好物というのは特になかった。  肉じゃがが好きになったのは、悠が初めて、本郷に作ってくれた料理だからだ。 「あれ、珍しい。肉じゃがって随分久し振りだよね?」  本郷は毎日でも構わないくらい大好物な悠の肉じゃがだが、玉ねぎとニンジンが苦手な奏が嫌がるという理由で、最近ではめっきり食卓に上がる頻度が減ってしまっていた。 「今日、奏がカナちゃん家で晩飯ご馳走になって来たんだよ」 「カナちゃんって、下の階の大橋さん家の子だっけ?」 「そう。お前も顔合わせたら礼言っといて」 「……てことは、コレってもしかして、俺の為に作ってくれたの?」  問い掛けると、悠が決まり悪そうに顔を伏せた。 「……まあ、最近作ってなかったから」  時間も忘れて見入ってしまいそうな和やかな寝顔とは裏腹に、相変わらずちょっと捻くれた物言い。けれど悠のそんな言葉が、本音を知られたくない単なる照れ隠しなのだということを、本郷はもう知っている。  俯いたお陰で露わになった悠の項には、生涯の伴侶である証が刻まれている。  初めて肉じゃがを作ってくれたあの日には、無かった傷痕。  あのときは、肉じゃがだけを残してまるでシンデレラみたいに本郷の元から立ち去ってしまった悠を思い出し、懐かしさに笑みが零れた。  残していったのがガラスの靴ではなく肉じゃが、というのが、不器用にすれ違ってきた自分たちには似合いな気がした。きっと他の誰が作った肉じゃがも、本郷の口には合わない。  人生の片割れであることを示す項の傷痕へ、本郷は長身を屈めて甘く歯を立てた。 「───っ、何だよ急に?」  ビク、と肩を跳ねさせた悠が、驚いた顔を向けてくる。 「ちょっと懐かしくなって。また悠が逃げて行かないように」 「逃げるって……何年前の話だよ。もうとっくに番ってんだし、奏も居んのにそんなことするわけねぇだろ」 「もうちょっと、俺が喜ぶ言い方して?」  コンロの前に立つ悠の身体を、甘えるように抱き込んで強請ると、ぐっと一瞬言葉に詰まった悠が、あからさまに顔を顰めた。反応に困ったとき、いつも見せる表情だ。 「……俺の居場所なんか、ここしか無ぇよ」  ぶっきらぼうに零された殺し文句に、堪らず抱き締める腕にギュッと力を込める。 「可愛い。合格」 「合格ってなんだ! つか危ねぇから離れろよ、もう!」  つい今しがた噛み付いた項まで紅く染めた悠に強引に押し退けられて、ニヤつく口許を必死に誤魔化しながら、おとなしくダイニングテーブルへ退散する。料理を待つ間、スマートフォンでスケジュールを確認していた本郷は、今日の日付を見てふとレコーディングの合間にスタッフと交わしたやり取りを思い出した。 「そういえば、今日って悠と奏の日だって知ってた?」 「は……? どういう日だよ、ソレ」  怪訝そうな顔をしながら、悠が本郷の前に夕飯を並べてくれる。 「10月4日って、天使の日なんだって。つまり、悠と奏の日でしょ」 「……お前、やっぱり相変わらず残念だな」  本郷の向かいに腰を下ろして、悠が心底呆れたと言いたげに溜息を落とした。そんな悠の反応もすっかり慣れたものなので、気にせず「いただきます」と箸を取る。  そんな本郷を眺めながら、悠は頬杖をついて静かに口を開いた。 「……奏はともかく、どっちかっつーと俺よりお前じゃねぇの」 「え?」 「俺よりお前の方が天使っぽいだろ。中身はともかく、見た目はすげぇ小綺麗だし。ピアノ弾いてるときなんか、たまに人間離れして見える」  ポツポツと零される言葉に、本郷は持ったばかりの箸をカチャリとテーブルへ戻した。  いつも本郷への物言いは素っ気ないけれど、悠は他の誰よりも本郷をよく見て、理解してくれている。本郷の好みも、どんな言葉や行動で本郷が喜ぶのかも、ちゃんと心得てくれている。  愛されることに関しては本当に不器用なのに、人を愛することはとても上手いということに、悠本人は全く気付いていない。  ───やっぱり天使は悠だよ、と胸の中で呟いて、本郷はテーブル越しに身を乗り出すと、無防備なパートナーの唇を奪った。不意を突かれた悠が、目を瞬かせた後、慌てた様子で手の甲を口許へ宛がった。 「っ、お前、飯の途中だろ!」 「悠ごめん。ちょっとムラムラしちゃったから、夕飯後にしてもいい?」  いい?、と聞いておきながら、返事を待たずに席を立ち、改めて悠の唇を塞ぎにかかる。椅子に座ったままの悠が、弱々しい抵抗を示して本郷の服の胸元を掴んできた。 「馬鹿、飯くらいちゃんと食えよ……っ!」 「食べるよ。悠のこと食べてからね」 「それ、絶対食わねぇだろ! せめて飯済ませてからにしろって……一哉!」  滅多に呼ばれることがない名前を口にされて、思わず一瞬動きが止まる。  奏の手前、いつまでも苗字で呼ぶのはどうかと指摘して以来、悠は本郷のことを「お前」と呼ぶばかりになってしまった。名前を呼んでくれるのは、行為の最中に本郷が半ば強引に強請ったときくらいだ。もっとも、その理由もやはり羞恥心によるものだとわかっているので、本郷は可愛いなと微笑ましく思っているのだけれど。 「いつも呼びたがらないのに、こういうときだけ『待て』代わりに呼ぶのって狡くない?」 「うるせぇ。……大体、ただえさえ一人だと適当にしか食わねぇクセに、身体壊したらどうすんだよ」 「……そういうところが天使なんだよ、悠」  反論されないよう、悠の唇を自身のそれで塞いで、素早く舌を滑り込ませる。  自分に襲い掛かっている相手の身を真っ先に案じてくれる、どこまでも健気なパートナーを、愛おしく思わずに居られるだろうか。  深く口付ける傍ら、癖の無い髪を緩く握り込むと、そこでとうとう悠も観念したらしい。 「……この、変態ピアニスト」  憎まれ口と共に、悠の腕が本郷の項に甘く絡みつく。  かつてはいくら本郷が捕らえようとしても、ずっと払い除けられていた腕が、今は本郷を求めて伸ばされている。その幸せに胸が満たされていくのを感じながら、本郷は悠の背を強く抱き返した。  温かい肉じゃがの匂いに包まれる中、ソファへ場所を移した二人は、もう二度と離れないと誓うように、互いの存在を強く激しく確かめ合った。

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