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番外編 I wanna always give you all of my love
『奏、もう寝た?』
スマホのスピーカーから聞こえてきた声に、悠はチラリと洗面所の方を覗いた。洗面台の前で、いつも以上に張り切って歯を磨く奏の姿に、ふっと口許が弛む。
「今、歯磨いてる。でも相当興奮してるから、今日はなかなか寝付かねぇかも」
『そうやってソワソワしてくれるのも、いつまでかなあ』
電話の向こうで笑う本郷は、現在ツアーの真っ最中で、今は大阪に居る。
この時期、本郷が家に居ないのは特に珍しいことじゃない。
仕事柄、クリスマスに合わせてコンサートやツアーが入るのはほぼ毎年のことだ。
奏が生まれる前は、半ば強引に悠も同行させられていたが、さすがに今はそうもいかない。
だからせめて短い時間でも自宅に帰れるよう、ここ数年は東京公演の日をクリスマスイブに合わせてくれていたのだが、今年は会場や諸々の都合から、それが叶わなかった。明日、二十五日の公演に備えて、本郷は今日の夕方、大阪へと発った。悠と奏の二人だけで過ごすクリスマスイブは、今年が初めてだ。
『プレゼント、奏にはバレてない?』
「お前の秘蔵品が入ってる、鍵付きのクローゼットに隠してるから見つかってねぇよ」
『ほら、俺のコレクションも役に立つでしょ』
「いっそこの機会に処分してやろうかと思ったけどな」
『クリスマスイブにお宝処分はやめて!? 奏、歯磨き終わった?』
「ん、ちょい待って」
丁度洗面所から戻ってきた奏を手招きして、その耳許へスマホを宛がう。
「とーさん?」
スピーカーから聞こえた本郷の声に、奏の顔がパッと輝いた。悠と違って、素直に感情を表現出来る奏が少し羨ましい。
まだちょっと拙い言葉遣いで本郷といくつか言葉を交わした奏が、「おやすみ」と言った後、寝室へと駆けていった。いつも悠が傍に居ないと寝付けないのに、一人で先に寝室へ行くなんて珍しい。
「奏となに話したんだよ」
『ん? 早く寝たお利口さんのところから、サンタさんは来てくれるんだよって言っておいた』
「だから急いで寝に行ったのか。……まあ、しばらくしたら呼びにくるだろうけど」
『悠の傍が、よっぽど安心するんだよ』
「……なあ。クリスマスプレゼント、ホントにあれで良かったのか?」
奏からのサンタへのリクエストは、幼い頃の本郷と同じトイピアノ……ではなく、ままごとキッチンだった。
ピアノはいつも本郷に触らせてもらっているので、それよりも「危ないから」と普段触れないコンロで、悠と同じように料理がしたいらしい。
『奏が欲しいって言ったんだから、いいんじゃない?』
「けど、車とか電車とか、もっと男っぽいモンの方が良かったって、後悔するんじゃねぇかと思って」
『それはないと思うけどな。奏は、いつも俺たちの為に美味しいご飯作ってくれる悠に、素直に憧れてるんだと思うから』
「……相変わらずこっ恥ずかしいこと平気で言うよな、お前」
そんな言葉しか返せない自分は、奏みたいに素直に「嬉しい」を表現することが出来ない。
悠は自分に出来ることをやっているだけで、多くの人をピアノの音一つで魅了する本郷の方がよっぽど凄い。そんな本郷がくれる言葉の一つ一つが、悠にとってはかけがえのない宝物なのに。
『悠。俺が居なくて、寂しい?』
不意に真剣な声で問われて、胸がギュッと掴まれたように苦しくなる。
外に食事にでも出ているのか、スピーカーの向こうからは微かな喧騒が聞こえてくる。一人きりのリビングが、いつも以上に広く、静かに思えた。
本郷が仕事に出掛けているとき、奏と二人で過ごすのはいつものことだ。なのに今日は、ここに本郷の存在がないことが、何だかとても物足りない。
「……仕事なんだから、仕方ねぇだろ」
『そこは「寂しい」って言って欲しいなあ。……ごめんね、悠』
おやすみ、ではなく、謝罪の言葉を最後に本郷との通話が切れる。
それと同時に、ガチャリと寝室のドアが開いて、ぐすぐすと鼻を鳴らした奏が顔を覗かせた。
「……かーさん。ねむれない」
サンタさんこない、と泣きじゃくる奏を宥めながら、一緒に寝室へ向かう。
奏が最近気に入っているクリスマスの絵本を読んでやっていると、ベッドの中から奏がジッと悠の顔を見詰めてきた。
「……どうしたんだよ? 他の絵本にするか?」
「ううん。かーさん、さみしくない?」
「え?」
「かなでにはかーさんいるけど、かなでがねたら、かーさんひとりになる。とーさんいなくて、ねむれる?」
絵本を持つ手を、小さな手にキュッと握られて言葉に詰まる。
悠の気持ちに敏感なところは、本郷そっくりだ。
どうして自分も、奏みたいに素直になれないんだろう。
クリスマスイブくらい、「寂しい」と本音を零せば良かった。そうしたら、折角の聖夜に「ごめんね」なんて言わせずに済んだのに。
「……眠れねぇかもな。今日は、このまま一緒に寝るか」
「かなでのこと、ぎゅっぎゅしていいよ」
そう言いながら、隣に寝転がった悠に、奏が自分から抱きついてきた。小さな身体を抱き締めて、本郷の血が流れる愛おしい温もりを堪能する。
「ほら、父さんと早く寝る約束したんだろ」
「うん。かーさん、おやすみ」
「おやすみ」
……そういえば、さっき「おやすみ」も言えなかった。
今では当たり前みたいに傍に居てくれる本郷に、悠はいつも甘えてばかりだ。
帰って来たら、せめて夕飯は本郷の好きなものを作ってやろうと思いながら、悠は腕の中で寝息を立て始めた奏に頬を寄せて目を閉じた。
───ガチャ。
静かな室内に、突如響いた開錠音。
ハッと反射的に目を覚ました悠は、よく眠っている奏を起こさないようにソロリとベッドを抜け出した。
奏につられて、いつの間にかすっかり寝入ってしまっていたらしい。時刻は真夜中の十二時を回ったところだ。
有り得ない、という思いと、まさか、という期待が入り混じる中、静かに寝室のドアを開ける。
きっとあちこちの家庭では、サンタがプレゼントを配り始めている時間帯だろう。
そんな深夜の玄関に立っていたのは、今は大阪に居るはずの本郷だった。
「お前……なんで……」
まさかサンタみたいに空でも飛んできたのか、それともまだ自分は夢でも見ているのか。
呆然と立ち尽くす悠の前までやって来た本郷が、「寝癖」と悠の髪を摘んで笑う。耳朶を掠めたその指先は氷みたいに冷たくて、鼻先も仄かに紅い。この寒い中、確かに本郷がここへ帰ってきたことがわかって、目の奧がツンと痛んだ。
「サンタは夜中に来るものでしょ」
「……さっき電話してたのに、どうやって来たんだよ」
「実は電話したとき、新幹線乗る直前だったんだよね。どうにか終電間に合いそうだったから、帰ってきちゃった」
「明日の夕方には公演あんだろ?」
「うん。だから始発で帰らなきゃいけないんだけど、リハとかミーティングとか、必要なことは全部片づけてきたから、ちょっとワガママ聞いてもらった」
こんな時間に帰ってきて、更に始発で戻るなんて、もうあと五時間くらいしかない。
「公演前にそんな無茶してどうすんだよ。もし何かあったら───」
「だって、俺が寂しかったから。クリスマスイブくらい、やっぱり一緒に過ごしたい。怒られると思ったから、一応ちゃんと謝ったでしょ」
あの「ごめんね」は、そういうことだったのか。
だとしたら、怒られるべきなのは本郷ではなくて悠の方だ。駄目だとわかっていながら、本郷のワガママを、誰より喜んでしまっているのだから。
───俺だって寂しかった。
クリスマスイブだけじゃなく、いつだって本郷が傍に居ないと落ち着かない。
奏でも言える言葉すら口に出来ない、意気地のない悠だから、本郷がいつも代わりに伝えてくれる。
電話口でほんのちょっとでも素直になれていたら、本郷にここまで無理をさせずに済んだかも知れないのに。
冷えきった身体で抱き締めてくる本郷の背を、せめて強く抱き返す。自分の体温も気持ちも全部、この腕から本郷に伝えたい。
「悠、あったかい」
「お前が冷てぇんだろ。風邪ひいたらどうすんだよ」
「風邪くらい、悠に会えないことと比べたら、どうってことないから」
サラリと言ってのけた本郷が、コツ、と額を合わせてくる。
「俺は悠の為なら何だって出来るよ。俺がステージの上でへばってるとこ、見たことある?」
「……ない」
「いつだって俺は悠を想って弾いてるから、悠が居てくれたら、どこまででもやれる」
迷いのない真っ直ぐな本郷の言葉が、悠の胸を幸せという柔らかな光で満たしてくれる。
目の前の冷たい唇を、悠はキスでそっと温めた。
そのまま暫く二人で温もりを分け合ったあと、悠は本郷と二人でベッドサイドに奏へのクリスマスプレゼントを用意した。遠く離れた場所からプレゼントを置きに来てくれるなんて、正しくサンタクロースだ。いつか奏がサンタの正体に気付いたら、本郷は本物のサンタクロースだと話してやりたい。
「お前も、ちょっと身体休めろよ。もうあと数時間で戻らなきゃいけねぇんだろ」
「大人のクリスマスイブはこれからなのに?」
「ツアー終わるまで我慢しろよ……!」
声を潜めたまま怒鳴る悠の腕を引っ張って、本郷がベッドに横になる。
包んでくれる本郷の腕があって、隣にはすやすやと眠る奏の姿。いつも通りの夜の光景が、今夜はとても特別なものに思えた。
───いや、今夜だけじゃねぇか。
すっかり馴染んでしまっていたけれど、大切な相手が傍に居ることは、いつだって特別なことだ。
「悠のクリスマスプレゼント、ホントに前言ってた圧力鍋だけでいいの?」
奏が目を覚まさないよう、耳許で本郷が囁くように問い掛けてくる。
「だけって、あれ結構いい値段すんだぞ。大体俺は別にいいっつってんのに、お前が無理矢理言わせたんじゃねぇか」
本郷は、ひと月以上前から悠にも「クリスマスプレゼントは何がいい?」と聞いてくれていた。
悠は特に欲しいものなんて思い浮かばなかったのだが、そんな悠に焦れたらしい本郷は、ある夜の最中に「欲しい物言ってくれるまでイカせない」という強行手段に出た。
散々焦らされて既に思考も半分蕩けていた悠が、辛うじて思いついたのが圧力鍋だった。
「悠らしいけど、俺としてはもっと貪欲になって欲しいなあ」
「だから、一生分のクリスマスでも充分な値段だっつの」
「いや、一生分はないでしょ。どこまで無欲なの、悠……そういうとこが天使なんだけど」
「お前だって、クリスマスは肉じゃがが欲しいとしか言わねぇだろ」
「俺はそれでいいんだよ」
悠の髪に唇を押し当てて、本郷が満足げに微笑む。すっかり温まった唇が、そのまま鼻筋を通って悠の唇へ下りてきた。
「メリークリスマス、悠」
「……メリークリスマス」
言い慣れない言葉を、ボソリと呟くように返す。それを聞いた本郷が、吐息だけで笑って目を閉じた。
聞こえてくる呼吸が、あっという間に規則正しい寝息に変わる。
ツアー中はただでさえ各地を転々とするのに、忙しい合間を縫って帰ってくるなんて、疲れないはずがない。
愛想のない悠の顔を見る為に、わざわざ飛んできてくれる本郷。そんな本郷に、悠だってこれ以上望むものなんか何もない。何も要らないから、どうかこの先も、ずっと隣に居て欲しい。
本郷の隣に居られることが、何よりも幸せだから。
目の前の穏やかな寝顔を見詰める視界が、熱い感情と共にじわりと滲む。
本郷が先に眠ってくれて良かった。
「……愛してる」
小さな呟きと一緒に、眦から溢れた滴が零れ落ちる。それを拭う時間すら惜しくて、悠は空が白み始めるまで、愛おしい寝顔を見詰め続けた。
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