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番外編 年越し小ネタ

 広いリビングダイニングに、雑煮用の野菜を刻む音が響く。  大晦日のこの日も、本郷は年明けに控えたリサイタルの打ち合わせに出掛けている。  壁際で蒸気を上げる加湿器の稼働音。それから、少し耳を澄ませば聞こえる時計の秒針の音。  これまでは、部屋に響く音を聞くのがあまり好きではなかった。  この広すぎる部屋にポツンと取り残されたようで、酷く寂しい気持ちになるから。  けれど、今はそこにもう一つ、新たな音が加わっている。  加湿器が立てる音よりずっと小さい、生まれてまだ数ヶ月の奏の寝息。  ソファの傍に置かれたベビーベッドで眠る奏は、大人に比べると不規則な寝息を立て、時折僅かに身じろいでいる。  小さな身体が動くたびに、ドキリとして手を止め、目を覚ましていないことにホッとして、再び手を動かす。  まだ寝返りも出来ないのに、口が塞がっていないかとか、変わった様子はないかとか、些細なことが逐一気になって、気が休まらない。けれどその緊張感は、悠にとっては何より有難くもあった。  去年の大晦日は、奏の妊娠がわかったばかりだった。  命を二度失い、『最後』と誓った三度目の妊娠。  素直に弱音を零すことは出来なかったが、悠の胸には不安しかなかった。もしも最後の望みが消えてしまったら、Ωである自分の存在意義をどうやって見出せば良いのかがわからなかった。  本郷は変わらず傍に居てくれるだろうが、その未来を奪ってしまう気がして、怖くて怖くて堪らなかった。  だから今、本郷との間に授かった新たな命がこの部屋に在ることが嬉しい。奏の身をいちいち案じることが出来るのが、とても嬉しい。  切り終えた野菜を鍋に放り込んだところで、玄関のドアが開く音がした。 「ただいま、悠」  静けさから奏が眠っていることを察したのか、帰宅した本郷が出迎えた悠に声を潜めて微笑む。本郷の「ただいま」も、悠の心が解れる瞬間だ。 「予約してたおせち、引き取ってきたよ」  本郷が、提げていた大きな紙袋を差し出してくる。奏にまだ手が掛かるので、今年のおせちは本郷の提案で店売りのものにした。 「サンキュ……ってこれデパートのヤツじゃねぇか。お前の好きなとこに任せるっつったけど、絶対高いヤツだろ」 「俺は悠が毎年作ってくれるのに似たヤツを選んだだけだよ」 「そんな豪華なの作った覚えねぇよ」 「そう? 俺には充分豪華だけどな。それに、仮に高くてもお正月くらい贅沢したっていいでしょ。悠はただでさえ普段は無欲なんだから」  脱いだコートを椅子の背に引っ掛けて、本郷がコンロの上の鍋を覗き込む。 「もしかして、雑煮作ってくれてる?」 「まあ、せめて雑煮くらいは」 「うちの親は忙しくて雑煮なんか作らない人だったから、悠の作ってくれる雑煮、優しい味がして好きだよ」  耳触りの良い声でサラリと告げられて、じわりと顔や耳が熱くなる。本郷はいつも、さり気なく悠の居場所を与えてくれる。 「……別に、普通の雑煮だろ」  零れ出た素っ気ない言葉を悔やむ前に、突然ふにゃふにゃとまだ半分寝惚けたような奏の泣き声が割り込んできた。「奏なりの出迎えかな」なんて言いながらベビーベッドに歩み寄った本郷が、もうすっかり慣れた手つきで奏を抱き上げて戻ってくる。 「おはよう、奏。ただいま」  本郷にあやされて、奏がピタリと泣き止んだ。目に涙を溜めたまま、大きな欠伸を漏らす奏に、本郷が愛おしそうに頬を擦り寄せる。  何年も前から、ずっと密かに夢見ていた光景が、今は悠の目の前にある。  本郷の未来を奪ってしまわなくて良かった。  本郷をこれ以上泣かせずに済んで良かった。  本郷の傍に居られて、本当に良かった。  気づいたときには奏の代わりに悠の目尻から涙が伝い落ちて、慌てて顔を伏せる。 「悠?」  奏を抱いたまま向けられる本郷の視線から逃れるように背を向けて、雑に目許を拭う。 「……何でもねぇよ。玉ねぎ、目に沁みた」 「雑煮には玉ねぎ入ってないよ」  苦笑する本郷が、長い腕一本でしっかり奏を抱えながら、もう一方の手で悠の肩を抱き寄せた。 「今年も沢山ありがとう、悠。来年もよろしく。奏も早く、悠の雑煮食べられるようになるといいね」 「入れ忘れただけで、玉ねぎの所為だからな……!」  全て見抜かれていることを知りながらも、強引に言い張って鼻を啜る悠の髪に、本郷の唇が触れる。  来年も再来年も、この先何年も。  ずっと傍に居られますように───。  胸の内で願いながら、悠は結局本郷と奏に寄り添われて、赤い目のまま新年を迎えた。

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