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番外編 ~悠久~

「ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド。……そう、上手いね、奏」  本郷に手を添えて貰いながら、ピアノを弾いている奏が、褒められて誇らしげな笑顔を浮かべた。 「かーさん、きいてた!?」  キッチンで夕飯の支度をする悠の方へ、キラキラと輝く瞳が向けられる。 「聞いてた。その調子なら、一人で弾けるようになるのも、もうすぐだな」  悠の返事を聞いて更にやる気に火がついたのか、奏は「とーさん、もういっかい!」と本郷にせがむ。 「悠に褒められると弱いのは、俺に似たのかな」  苦笑しながらも、満更でもなさそうな様子で本郷は再び奏の小さな手を取って、ゆっくりと鍵盤をなぞっていく。  奏がここ最近、ずっと練習している曲は『きらきら星』。  本郷みたいにピアノ一筋、ということはないが、本郷がオフで家に居るとき、奏は決まってピアノを教わりたがった。 「ピアノを弾くことは、音楽を『奏でる』とも言うんだよ。奏の名前と同じ」  本郷にそう教わってから、鍵盤を弾くのが楽しくて仕方がないらしい。  まだたどたどしいものの、三歳の奏は本郷のリードがあれば、既に『きらきら星』を通して弾けるくらいには上達している。 「じゃあ、ちょっと他の曲もやってみよっか。どうせなら、二人で弾く曲。連弾、って言うんだ」 「れんだん?」  キョトンと首を傾げる奏の手を、本郷が鍵盤の上に乗せる。 「この音から順番に、六回鳴らして一音ずつ下げていって。父さんはそれに合わせるから」  まだどこか不思議そうな顔をしながら、奏が言われた通りにゆっくり鍵盤を叩く。それに合わせるようにして本郷が鍵盤を弾くと、見事に音が重なって一つの曲になった。 「すごい!」  なんで!?、と奏が感動と興奮に目を輝かせる。  同時に悠も、思わず人参の皮を剥く手を止めた。  二人の音が綺麗に重なったことに驚いたわけじゃない。二人が奏でた曲に、聞き覚えがあったからだ。 「……それ、なんて曲」  ポツ、と呟くように問いかけた悠に、ピアノの音が途切れる。 「『チョップスティックス』だよ。俺も小さい頃、親に教わったんだ」 「有名なのか?」 「子供向けの連弾定番曲ではあるから、ピアノを習ったことがあれば、知ってる人は多いと思うけど……この曲がどうかした?」  今度は本郷が、緩く首を傾げる。  曲名を聞いてもピンと来ないし、施設育ちの悠はピアノを習った経験なんかない。  でも間違いなく、その曲を自分は聞いたことがある。  ───あれは確か、悠が今の奏くらいだった頃だ。  悠は、昔から口下手だった。  思っていることを素直に口に出来ず、寂しいと泣く子供にも、オモチャを譲れと怒る子供にもなれなかった。  施設の中で、年の近い子供たちとも打ち解けられず、大抵一人で遊んでばかりだった。  そんな悠を気遣ってか、施設長は時折、買い出しに連れていってくれた。  その日は、ひと月後に控えたクリスマス用にツリーを新調するからと、悠は施設長と二人で大型玩具量販店へ訪れていた。  施設にあるのは使い古されたオモチャが殆どだが、広い店内にズラリと並ぶ真新しいオモチャの山は、悠には眩しすぎるくらいだった。  少し店内を見ても良いと言われた悠が、物珍しげに棚を見上げて歩いていたとき。店内の賑やかなBGMに混ざって、どこからかピアノの音が聞こえてきた。 「………?」  どうしてこんな場所でピアノの音がするのだろう。  不思議に思って音のする方へ向かうと、壁際に置かれた電子ピアノの前に一人の少年が立っていた。  歳は悠と同じか、少し上くらいだろうか。  黒いダッフルコートを着た少年は、楽しそうに鍵盤の上へ両手を滑らせている。そこでやっと、悠はピアノの音の主が彼であることに気がついた。  施設では時々スタッフがピアノを弾いてくれて、それに合わせて皆で歌を歌ったりする。中にはそれを真似てでたらめにピアノを弾く子供も居るが、目の前の少年が奏でる音は、そんな真似事なんかじゃない。  悠は初めて聞く曲だったけれど、楽しげに演奏する彼の心を表したような音色だと思った。  ───おとなじゃなくても、ひけるのか。  スタッフよりも慣れた様子でピアノを弾く、自分とそう歳も離れていない相手を、悠は棚の陰からジッと見詰めていた。  ピアノの音も、それを奏でる彼自身も、所狭しと並ぶ無数のオモチャより、ずっと綺麗で魅力的だと思った。  一体どのくらい、その音に聞き入っていただろう。 「悠!」と呼ぶ施設長の声に、ハッと我に返った悠は、名残惜しい思いでその場を離れた。  曲の名前も、彼の名前も、何一つわからないけれど、またここに来たら聞けるだろうか。  けれどそれから何度その量販店を訪れても、彼のピアノを聞くことは叶わなかった。  名前も知らない、彼の弾いていた曲だけが、ずっと頭の中に残っていた。 「───悠?」  気がつくと、さっきまでピアノの椅子に座っていたはずの本郷の顔がすぐ傍にあって、悠は慌ててピーラーを持つ手を動かす。 「どうかしたの」 「いや、何でも……」  中途半端に、返事が途切れる。  今でも記憶に残っている曲。  もう一度聞きたいと、幼い頃ずっと思い続けて、いつしか諦めてしまった音色。  それが今、再び目の前から流れてくるなんて。  本郷は定番曲だと言っていたし、あの少年だって、あれだけ上手く演奏していたくらいだから、きっとピアノを習っていたのだろう。  いくら何でも、そんな偶然がさすがにあるとは思えない。  頭ではそう思っているのに、あの日見た少年の姿が、いつも幸せそうにピアノを弾く本郷の姿に重なる。  その瞬間、勝手に涙が頬を伝って、パタリとシンクに滴り落ちた。 「悠?」 「かーさん、どしたの? どっかいたい?」  咄嗟に手の甲で目許を拭う悠の元へ、奏も駆け寄ってくる。  何かを察したらしい本郷が、さり気なく悠の頭を抱き寄せて、泣き顔を隠してくれた。 「……悪い。何でもねぇから……」 「うん。奏、母さん目にゴミ入ったって。洗面所からタオル取ってきてあげて」  はーい、と答える声に続いて、小さな足音が遠ざかる。 「……俺、お前のピアノ聞けて良かった」 「そっか……ありがとう、悠」  本郷が、そっと髪へ口付けをくれる。そこへ、洗面所からタオルを持って奏が戻ってきた。サンキュ、と受け取ったタオルで、溢れてくる涙を拭う。  例えそんなはずはなくても、幼い頃から聞きたかったのは、きっと本郷のピアノだ。  だって悠は今、こんなにも綺麗で眩しい世界に居る。  タオルで顔を拭くフリをして、悠は愛しい胸元へ軽く額を擦り寄せた。    ◆◆◆◆ 「悠!探したのよ!」  聞こえてきた声に、ピアノを弾く手が思わず止まった。  振り向くと、慌てた様子で走り去る小さな背中が見えた。  ───もしかして、きいてた?  だったらもっと近くに来てくれれば良かったのに。  何となく残念な気持ちになったところで、背後から足音が近づいてきた。 「そろそろ行くわよ、一哉」  両親が、ラッピングされた荷物を抱えて手招きする。 「はーい」  もう一度振り返ったけれど、さっきの背中はもう見えなくなっていた。 「……こんどは、ちゃんときいてね」  呟いた願いの届く先は、長い時間の向こう側───。

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