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番外編 ワンライお題『香りの記憶』

 Ωの放つフェロモンは、αにとって非常に蠱惑的な香りなのだという。  けれど、自身がΩである悠には、自分の匂いなんてまるでわからない。  むしろ悠は、αの放つ香りこそ、Ωにとっては特別なのではないかと思っている。  学生時代。  初めて発情期を迎えた悠の身体を包んでいた、仄かに甘い香り。αの───本郷の匂い。  匂いというより、空気、という方が近いような気もするし、本郷の甘ったるい声と相まって、そう感じたのかも知れない。  ただ、甘くて、優しくて、頭の芯がぼうっと痺れるような本郷の匂いは、何年経っても悠の記憶から消えることはなかった。  暗い闇の中を彷徨いながら、ずっと縋り付いていた記憶。  まるで目の前に本郷が居るのではないかと錯覚するくらい、鮮明に蘇る匂いを辿りながら、何度も知らない男と身体を重ねた。  日に日に汚れていく自分と、いつまでも色褪せない本郷の姿。  あの日確かに触れ合ったはずの身体は、もう指先すら届かない。届いたところで、汚れきったこの手は、あの綺麗な男まで汚してしまう。  授かった命も守れなかった。  育ての親をも裏切った。  それなのに、記憶に残った匂いを忘れることが出来ないまま、死んだように生きている自分は何なのだろうと思った。  ほんの数年前の記憶が、悠遠の彼方に遠ざかっていく。  あの甘い匂いの元へ、悠は辿り着けない───。 「……か、悠!」  強く肩を揺すられて、反射的に目を開けた。  すぐ傍で心配そうにこちらを見詰めている本郷の頬へ、無意識に手を伸ばす。触れても汚れないことにホッとする。  同じように悠の頬へ伸びてきた本郷の指先から濡れた感触がして、そこでやっと、それが自分の涙だと気がついた。  本郷と共に暮らすようになって、もうすぐ半年。  二人の生活に漸く馴染んできたものの、悠は時折こうして過去の夢にうなされる。本当はまだずっと闇の中に居て、目の前の本郷こそ夢なのではないかと思ってしまうくらいに。  だから、触れた指先に感じる確かな温もりに、悠は目覚めるたびに安堵するのだ。 「起こしてゴメン。随分うなされてたから」  起こしてしまったのはきっと悠の方なのに、本郷は長い指で悠の目許を拭ってから、宥めるようにそこへキスをくれた。  フワリと、甘くて優しい本郷の匂いが悠を包み込む。初めて触れ合ったあの日から変わらない、本郷自身の香り。  ずっと求め続けていたのに、手を伸ばす勇気がなかった悠を捕らえてくれた本郷。  思い出でしかなかった香りが、今はいつも悠の傍にある。 「……ちょっと、変な夢見た」 「そっか」  下手な嘘で誤魔化す悠に、本郷はそれだけ言って微笑む。そして悠の身体を抱き寄せて、「大丈夫だよ」と囁いた。  たったそれだけの短いやり取りで、心がスッと解けていく。  本郷の胸元へ顔を寄せると匂いが少し強くなって、長い間恋しかったことを思い知る。 「俺にとっては、やっぱお前の匂いが特別だけどな」 「匂い?」 「何でもねぇ。……おやすみ」  起こしてしまったお詫びに、掠めるように本郷の唇へ口付けて、素早く布団に潜り込む。「おやすみ」と答える声が嬉しそうに弾んでいることに、また少し泣きたくなった。  失くしたものも、汚れた過去も、元には戻せない。  けれど、本郷の匂いに守られている今なら、こんな自分でも、もう一度羽ばたくことが出来る気がした。  また道を見失いそうになったとしても、必ず捕らえてくれる腕があるから。

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