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番外編 ワンライお題『見惚れる背中』

『日常』というのは不思議だ。  キッチンに立っているとき、悠は時々そんなことをふと考える。  食事の支度をしている悠からは、リビングの中央でピアノを弾く本郷の背中が見える。  野菜を切る音、肉が焼ける音、煮物がくつくつと煮立つ音。  それらの音に、本郷の奏でるピアノの音が重なって、一つの穏やかな音楽になる。  この時間が、今の悠の『日常』だ。  あたたかくて、平穏で、少し擽ったくなるような優しい時間。  そして同時に思い出す。  学生時代にも、こうして本郷の背中を眺めたことが、何度もあったことを。  授業中に顔を上げれば、斜め前に本郷の背中があって、見つめていると必ず気付かれて振り向かれる。その度に、悠は誤魔化すように慌てて視線を背けていた。  あの頃は、それが悠の『日常』だった。  学校が終われば施設に帰って、年下の子供達の面倒を見ながら、スタッフを手伝って夕飯の用意をする。  食事を作っているところは今と変わらないのに、あの頃と今とでは、『日常』の空気がまるで違う。  本郷もそうだ。  昔は悠の視線に気付けば必ず振り返って微笑みかけてきたのに、今はキッチンから眺める悠を振り返ったりはしない。  本郷のことだから、悠の視線は間違いなく背中で感じているはずだ。けれど、本郷はピアノを弾く手を止めることはしない。  それはきっと、本郷もわかっているからだ。  本郷のピアノを聴きながら、二人で食べる食事の用意をすることが、今の悠にはとても幸せだということが。  不意に振り向かれると、きっと悠はまた素直じゃない言葉を返してしまう。  そんな悠がずっと聴いていられるように、本郷は気付かないフリを続けてくれている。  二人の間に流れる時間が擽ったくて優しいのは、本郷のそんな気遣いのお陰だ。  十年近く経った今も、本郷の背中を眺めているなんて思いもしなかった。同じ背中を、あの頃とはまるで違う、幸せな気持ちで眺めていられる毎日。  コンロの火を止めて、悠は本郷の元へ向かう。  ピアノの椅子の端っこへ、本郷に背を向ける格好で静かに腰を下ろすと、ピアノを弾く本郷が微かに笑う気配がした。  口に出すと、「飯出来た」とつい素っ気なくなってしまうので、最近ではこれが食事の合図になっている。  そこには、「でももう少し本郷のピアノを聴いていたい」という悠の我儘も含んでいるのだが、それは単に照れ臭いので言っていない。  けれど察しの良い本郷は、きっと全部見抜いているのだろう。傍に座る悠に、毎度必ず優しい音色を届けてくれる。 「……それ、新曲? 聴いたことねぇ気がする」 「うん。今ふっと思い浮かんだ曲。タイトルは『悠』」 「お前、即興で浮かんだ曲のタイトルいっつもそれだろ」 「今度『悠』ばっかり集めたアルバム作ろうかな」 「お前が言うと洒落にならねぇんだよな……」  軽く触れ合った背中から、本郷の笑いが伝わってくる。  ただ眺めることしか出来なかった背中が、もう二度と届かないと思っていた背中が、今は触れられる距離にある。  何でもないやり取りに、何でもない時間。  そんな『日常』が、泣きたくなるほど、悠には愛おしい。

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