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番外編 2020

 この豪奢なタワーマンションの一室で迎える年越しも、今年で何度目だろう。  初めての年は、まだ戸惑いの方が多かった。  本郷が買ってきてくれた、老舗デパートの豪勢なおせちと、高価なシャンパン。  施設で食べていた味を必死に思い出しながら、悠が作った雑煮は、味が薄くてお世辞にも「美味い」とは言えなかった。  それでも、本郷は喜んで平らげてくれたのだが。  二度目の年越しは、特に何もしなかった。  正確に言えば、「何も出来なかった」。  二人目の命を失って、Ωとしての自分の存在価値もいよいよわからなくなって。  正月どころか、クリスマスも祝う気持ちにはなれなかった。  年が明けた瞬間、ソファで悠にくっついていた本郷が言った。 「今年もよろしくね、悠」  揺らがない居場所を与えてくれたそのひと言に、どれだけ救われただろう。  三度目の年越しで、初めて悠の世界に、眩しい太陽が昇った気がした。  本郷と、それから奏と。  高校時代、本郷と別れたあの日から、ずっと心の奥で願い続けていた幸せが、確かにそこにあった。  無事に生まれてきてくれた奏にも、そして悠を産んでくれた、顔も名前も知らない両親にも、心から感謝した。  家族三人で年を越すのも、今年で三回目。  雑煮作りにもすっかり慣れて、今年はおせち作りにも初挑戦した。  重箱に詰める作業をせっせと手伝ってくれた奏は、カウントダウンを待てず、ベッドで寝息を立てている。  ネズミ耳フードの付いたパジャマ。ギュッと抱き締めているのは、買ったばかりのネズミのぬいぐるみ。どちらも来年の干支に因んだもので、最近の奏のお気に入りだ。  今年こそは年越しの瞬間まで起きていたいと意気込んでいたが、さすがにまだまだ睡魔には抗えないらしい。 「朝起きたら、不貞腐れるだろうな」  乱れた毛布を掛け直してやりながら、穏やかな寝顔を見下ろして苦笑する。  本郷はよく、悠のことを「天使だ」と言う。  二人で暮らし始めた頃は、正直「またコイツはおかしなことを……」と呆れていた。  けれど、奏が生まれた今は、本郷の気持ちが悠にもわかった気がする。  子ども特有のふっくらした頬と、小さな手。何か美味いものを食べる夢でも見ているのか、時折もぐもぐと動く口。  本郷によく似た、少しだけ癖のある髪も、何もかもが愛おしい。  形容するならまさしく『天使』だと思ってしまうのだから、悠も相当な親馬鹿だ。  いつまででも見ていられる奏の寝顔を眺めていると、遠慮がちに寝室のドアが開いて、リビングから本郷が顔を覗かせた。 「なかなか戻って来ないと思ったら、添い寝してる。俺のことは寝かしつけてくれないのになあ」 「いつから寝かしつけが必要な歳になったんだよ。何ならお前の場合は、俺が『寝ろ』っつっても『夜はこれからでしょ』とか何とか言って、おとなしく寝た試しねぇだろ」  奏を起こさないよう、足音を殺してベッドまでやってきた本郷が、背後から甘えるように抱きついてくる。 「確かに、俺たち二人の夜はこれからだよね」  悠の耳許で、甘く囁く声。  フワリと、他の誰でもない、本郷だけの優しい匂いがする。 「あ、もうすぐ日付変わるよ」  枕元のデジタル時計を見ると、新年までもう残り五分だ。  本郷は、さも今気づいたような口振りだったけれど、寝室に入ってきたときからわかっていたような気がする。  例年どおり、一緒に新年を迎えられるように。 「この一年も、沢山幸せにしてくれてありがとう」  悠の頸に唇を寄せて、噛み締めるように本郷が言う。  寝室の窓から見える、都会のネオン。  冬の澄んだ空気の中で煌めく光の数々は、まるで星が散らばった海みたいだ。  二人で暮らし始めたばかりの頃は、この景色になかなか馴染めず、どこか後ろめたさすら覚えていた。  こんな綺麗な景色の中に、汚れた自分は溶け込めないと、目を背けてばかりだった。  少しずつ少しずつ、絡まった毛糸をほどくように、頑なな悠の心を、本郷が解きほぐしてくれて。  触れるもの、見えるもの、聴こえる音───それを感じる、悠自身。その全てがかけがえのないものなんだと、本郷が悠に教えてくれた。  溢れるくらいの幸せを貰っているのは、悠の方だ。 「こっちこそ」なんて、そんな言葉では到底伝えきれないけれど、相応しい言葉が浮かばない。  返答に悩みながら本郷の身体へ背中を預けている内に、あっという間にその瞬間がやってきてしまった。 「明けましておめでとう、悠」 「えっ、もう五分経ったのかよ!? 早くねぇ?」  慌てて時計に目をやると、確かに『0』が四つ並んでいる。  結局ひと言も返せないまま、新年を迎えてしまった。我ながら、こういうところは全く進歩していない。 「……おめでとう」  自身の不甲斐なさに落ち込みながらボソリと返すと、背後で本郷が微かに笑う気配がした。  ギュッと、悠を抱き締める力が強くなる。 「俺は、不器用で優しい悠が大好きだよ」 「……自覚してんだから、あんまり不器用不器用って言うな」 「あ、珍しい。素直に拗ねてくれてる。これは幸先良いなあ」 「『拗ねてくれてる』ってなんだよ。お前の喜ぶポイント、やっぱ時々わからねぇ」  思わず本郷につられて笑ってしまった悠の頬に、優しく唇が触れた。 「今年もよろしくね、悠」  まったく同じ挨拶を、悠は毎年、本郷の腕の中で聞いている。  まだ手探りだった年も、辛かった年も、奏が加わった年も……。  共に悩んで、共に泣いて、共に喜んで。  二人だから、ここまで来られた。迷いそうになっても、決して離さずにいてくれた、本郷の手があったから。  本郷が与えてくれたこの場所を、これから先も、ずっと守っていたい。  来年も、再来年も、十年後もそのまた未来でも。  上手く言葉に出来ないだけで、悠にだって、本郷に伝えたい想いは山ほどある。  届けられるまで、まだまだ時間はかかるだろうから、せめて今は感謝だけでも伝えたい。 「……ありがとな、一哉」  深夜になっても消えることのない、ビルの明かりの星屑の中。  悠が送った口づけは、やがて新年の甘い幕開けになった。

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