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抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい4
僕が持っているグラスの横に、ベニーが持っているグラスを隣り合わせた。
「執事として、ローランド・クリシュナ・アジャ様に誠心誠意お仕えすることを、私は生業としております。お屋敷で提供されているお飲み物と明らかに色の違うものや、通常よりも炭酸が抜けたものであるのを気づいているからこそ、このまま見過ごせませんでした。大切にお仕えしているローランド様に、そのようなものを口にしてほしくはないのでございます」
色の違いには気がついていたけれど、炭酸の泡まで目がいかなかった。よく見ると並んだグラスの中身は、まったく別なものにしか見えない。
「男爵、大変失敬した。照明の加減で、色が違って見えたと思ったものだから」
「謝らないでください。僕も同じ考えでしたので、あえて指摘しませんでした」
「ローランド様は、グラスに口をつけられたでしょうか?」
伯爵との会話を割って入るかたちで、ベニーに訊ねられた。これ以上伯爵の顔を潰さないように気を遣った、彼の配慮だろう。
「乾杯のあと、一口だけ飲んだ。口に入れた瞬間に渋みを感じたので、それ以上は口にできなかった」
僕のセリフを聞き終えないうちに、ベニーは持っていたグラスを目線まで上げて中身を確認後、口に含んだ。
目をつぶって飲んだものを味わうと、ふたたびグラスに口をつけて中身をすべて飲み干す。僕と同じように一口だけ飲むと思っていたので、目の前の行為に驚きを隠せなかった。
「いやはや、君の執事は大胆だな。酒に毒が仕込まれていたら、どうするつもりなんだ」
「ベニー、大丈夫なのか?」
「ええ、ご心配には及びません。仕事の傍ら、毒味役を仰せつかっているので、耐性をつけております」
にっこりと微笑んだベニーの顔色はいつもどおりで、ぐらついたりというリアクションもまったくない。
どうにも心配で見つめ続けると、僕の視線を避けるように伯爵の顔に視線を移しながら、顎に手を当てた。
「もしかしたらアーサー伯爵を狙って、このグラスが渡されたのかもしれませんね。妙な眠気を感じます。ローランド様は大丈夫でしょうか?」
「問題ない。ちょっとだけ胸がドキドキする程度だ、アルコールの作用だろう。僕はお酒に弱いから」
「胸がドキドキ……ですか」
穏やかだった口調が一転、ベニーは唸るように呟く。伯爵を見つめるまなざしがあからさまに変わり、睨み潰そうとでもしているかのように、忌ま忌ましげな表情になった。
「執事殿、何か言いたげな顔をしているな。遠慮なく言ってくれてかまわない」
ベニーとは対照的な伯爵の穏やかな顔に、変な感じを覚える。話し相手にこんな嫌悪感を示されたりしたら、普通なら平常ではいられないはず。
(アーサー卿のことだ、いろんな経験を積んでいるからこその、余裕の表れなのかもしれない――)
ベニーは空になったシャンパングラスを窓辺に置き、伯爵にしっかりと向き合った。顔の厳しさが多少抜けたものの、内に秘めた怒りが目に出ていた。
「国王様のお気に入りの貴族として、アーサー伯爵をよく思わない方もこの中にいらっしゃるとは思います。他にも恋愛関連で恨んでいる方が、多くいらっしゃると思いますけど」
「否定はしない。仕事や恋愛において成功している者は、恨みつらみを買ってしまうからね」
「表向きは、狙われたことにしてもいいです。ですがローランド様に手を出すのは、おやめいただきたい」
ずばりと言いきったベニーに、伯爵はぷっと吹き出した。
「何が、おかしいのでございましょう?」
「男爵の美貌を前にして、手を出すななんて無理なお願いだな」
品定めするような粘っこい伯爵の視線に嫌気がさし、思わずベニーの後ろに隠れてしまった。
「ローランド様は見てのとおり、繊細なお方なんです。人の心と躰を弄んでは捨てていく、アーサー伯爵とのお付き合いは、性に合わないと断言いたします」
「まだ付き合ってもいないのに、こうも反対されると、余計に燃えるものになってしまうというのにね。しかも男爵の初心なところが、俺の心をくすぐってくれる」
「貴方が最初からローランド様を狙って、何か特殊な薬を入れたグラスをご用意していたことくらい、把握しておりました。仲のいいご友人方に、豪語しているらしいですね『今度の相手は、朱髪の男爵だ』と」
アーサー卿のお屋敷に到着してから、ベニーとはあえて別行動をとっていた。自身の世情に疎さを何とかするため、彼に王国内で囁かれる噂話や時勢について、いろんなことを探ってもらうためだったが、その中に今回のことが運よく混じっていたらしい。
「どこの誰がそんなことを語ったのかは知らんが、男爵とは仕事についての相談があって、個人的な付き合いをしたいと思っているだけさ。そこに恋愛が絡むかどうかは、男爵次第ではないか?」
僕に向かって手を伸ばしてきた伯爵に、ベニーは一歩前に出て盾になった。目の前にある大きな背中が、とても頼もしく見える。
「ローランド様は男爵を継がれたばかりで、恋愛に興じる余裕などございません」
「だからこそ俺がすべてを、手取り足取り教えてやるつもりだ」
「その必要はございません」
「男爵、君はこのままでいいのだろうか。市街地から離れた小さな場所に縛られたまま、保守的に余生を過ごす気かい?」
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