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抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい5

 挑発をかけてくる、伯爵のセリフに惑わされないようにしなければと、手にしたクラスをぎゅっと握りしめて、なんとか耐えた。そんな僕に、振り返りながらアイコンタクトをするベニー。  その真意が分からず首を傾げたら、魅惑的に瞳を細めて微笑む。目を瞬かせてベニーを見つめると、ウインクしてから前を向いた。 (ベニー本人は、まったくそのつもりはないんだろうけど、仕草がいちいち色っぽくて心臓に悪い……)  僕が身に着けている服をベニーが纏って、この舞踏会に男爵という地位で出席していれば、こんな壁際にいることなく、皆と対等にやり取りして、華やかな場をさらに盛り上げたことだろう。  陰気な僕とは違い、漂う気品や身のこなしなど、見習いたいものがベニーにはある。  だが彼はただの執事――僕の立場でものを見たときと彼の立場では、間違いなく考え方が違ってくるだろう。 「執事殿、そこを退いてくれ。これでは男爵と、まともに話ができないじゃないか」 「見てのとおり、ローランド様はお話するつもりはありません。お引き取りください」  さきほどよりも怒気を強めて、今にも食ってかかりそうになっているベニーの背中を、空いてる手で宥めるように触れてから、すっと隣に並んだ。 「ローランド様?」 「アーサー卿、取り乱してしまい、大変失礼いたしました。それで、話とは何でしょうか?」 「ローランド様が無理をなさって、話を聞く必要はございません。焦らなくてもそのうち、身の丈にあった話が舞い込んでくるはずです」 「ベニー、ただ話に耳を傾けるだけだ。今すぐ、どうこうなるわけでもない」  自分に言い聞かせるように告げる。  ベニーの助けを借りてこの場を何とかしても、やり手の伯爵の今後の行動を考えたら、違う方法でアクセスされる恐れがあることが予測できる。  それなら今この場で対処すれば、後々面倒くさいことにならずに済むかもしれない。 「ああ、聡明な男爵で助かる。頭の固い執事殿には、ぜひとも柔軟な対応をしてもらいたいものだね」 「ベニーのその点については、屋敷に帰り次第対処しましょう。それでわざわざこの場で切り出すようなお話とは、いったい何でしょうか?」 (アーサー卿の話が、簡単にあしらえるものだといいが――) 「ゼンデン子爵の残された土地について、国王様にご相談を受けている最中でね」 「ゼンデン子爵は、父がかかった流行り病と同じ病気で、少し前に亡くなられたばかりでしたよね?」  ベニーに目配せすると、小さく頷いた。  亡くなられたゼンデン子爵は、30代前半の若さだった。奥様との間には子どもはおらず、父と同じ病に倒れたのがきっかけで、彼の経歴を知ることになった。 「ああ。このたびの税金の徴収を上手くやってのけた実績をもとに、男爵を国王様に推薦しようと思ってる。男爵が住んでいる場所と少々離れてはいるが、通えない距離ではないだろう?」 「僕を推薦!?」 「詳しい話は、パーティーが終わってからにしようか。最後まで楽しんでくれたまえ」  そう言うと伯爵は目の高さまでグラスを掲げてから、素早く身を翻してしまった。 「大変遺憾でございます。伯爵に先手を打たれましたね」  皆の輪の中に戻っていく背中を見送っていると、忌々しさを表すような低い声で、ベニーが呟いた。 「それって、どういうことだ?」 「ローランド様が男爵になられて、はじめて出席した舞踏会ですが、顔を売るにしてもアーサー伯爵以外は、後々接点をもてばいいと考えておりました」 「僕の身の安全を最優先に考慮した、当初の打ち合わせはそうだったな」 「ですから目立たぬように、この大勢の出席者をかいくぐって途中で退席しても、まったく問題はなかったのですがーー」 「パーティが終わってから話し合いをすることで、アーサー卿は僕らの足を止めたということか」  これまでのやりとりに疲弊したのもあり、持っているシャンパンを飲む気にはなれなかった。窓辺に置きっ放しになっているベニーのグラスの隣に、そっと並べる。  窓ガラスに映る自分の顔は、生気のない朱髪の蝋人形みたいで、売りに出されても誰も手に取らない粗悪品に見えた。微笑んでみたところで、三流品が二流に上がる程度だろう。 「僕みたいな片田舎の男爵に手を出そうとする、アーサー卿の趣味がさっぱり理解できない」 「そのことはさておき、お耳に入れていただきたい情報がございます」 「何か面白い噂話を入手したのか?」  眺めていた窓から振り返り、ベニーに向かって自嘲的に微笑した。  笑いかけた僕の顔を赤茶色の瞳が捉えるものの、愛想笑いを浮かべることなく、硬い表情のまま返事をする。 「さきほどゼンデン子爵のお話を、伯爵自ら口にしておりましたが――」 「もしかして、アーサー卿とゼンデン子爵がデキていたとか?」 「いいえ。ゼンデン子爵の奥様と伯爵が、最近まで姦通していたという事実があったらしいです。いつからおふたりが付き合っていたなど、詳しいことはまだ分かっておりません」 「姦通ってお前、その言い方……」  僕は慌てて人差し指を口元に当てたというのに、ベニーはしれっとした態度を崩さない。仕えている主人に手を出そうとしている相手だから、毛嫌いするのは当然なのかもしれないけれど。 「ベニー、口は禍の元になる。ここは公の場だ。気をつけないと、僕が悪く言われることにつながるんだぞ」 「申し訳ございません、以後気をつけます」  姿勢を正して深く頭を下げた白金髪を見ながら、ベニーによってもたらされた情報をもとに、頭の中で整理してみる。 「ローランド様、きな臭いと思いませんか?」 「きな臭さを通り越して、悪臭が漂ってる」 「ゼンデン子爵が亡くなられた原因も、もしかして……」  人の笑い声に掻き消えそうなベニーの言葉を聞いて、小さく頷きながら考えついたことを口にしてみる。 「父と同じ病に倒れたという事実を知ったら、僕が気にかけるのを見越した、アーサー卿のお考えかもしれない。人のグラスに薬を仕込むお方だ、死因すら操るだろう。逃げても逃げなくても、結局罠にかかってしまう運命だったんだな」 「伯爵に持ちかけられた土地のお話は、どうするおつもりなんですか?」 「荷が重いと言ってお断りしたいところだけど、用意周到なアーサー卿の魔の手をかいくぐれる気がしない」  瞼を伏せながらため息をつくと、両肩にあたたかな手が置かれた。 「私がローランド様をお守りいたします」 「ベニー……」 「行き倒れていた私を救ってくださった、奥様とのお約束なのです。必ずお守りいたしましょう」  慈愛を含んだまなざしで僕を見つめるベニーの右手をとり、両手で包み込んだ。 「頼りない男爵の僕を、ここまで支えてくれてありがとう。立場上、抗うことは難しいかもしれないが、ぎりぎりまでお前に頼ることにする」 「私がローランド様の、身代わりになれたらいいのに」 「そんなことはさせない。僕が使い物にならなくなったとき、ベニーにはしっかり働いてもらわなきゃいけないんだからな」  ベニーの右手を包み込んだ手の上に、反対の手が重ねられた。 「考えるお時間はまだございます。作戦会議をいたしませんか?」 (いつも何かあるたびに、こうしてピンチを救ってくれる彼に、感謝してもしきれない。だからこそ、身代わりなんてもってのほかだ) 「僕には迷案すら浮かばないが、何かいい手がありそうなのか?」  こうして残された時間を使って、舞踏会の会場の隅で熱心に議論し合った。それは解決策にはならないものだったけれど、土地の話をどうお断りするかを重点的に打ち合わせした。  そしてパーティーがお開きになるほんの少し前に、伯爵の執事が目の前に現れた。意気込んだ僕らを、屋敷の奥にある別室に案内したのだった。

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