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抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい8
そんなことを考えた矢先だった。目の前に座っている伯爵が、頬をニヤニヤさせた。
口元を歪める下品な笑い方に眉をひそめた瞬間、僅かだったが鼻先に何かが香る。豪邸と表現できるこの屋敷には似つかわしくない、とても質素で地味な――。
「これは、野菊の香り?」
勿論、隣の部屋同様に、この部屋にも草花は置かれていない。それなのにベニーが最初に指摘した、野菊の匂いがすることに胸騒ぎがした。
「へぇ、多少は流れてくるものなんだな。隣り合っているから、それはしょうがないか」
「アーサー卿、貴方いったい……」
がたんっ!
伯爵の魂胆に底知れぬ何かを感じ、怯えて震える僕の呟きは、隣から聞こえた大きな音にかき消された。
「ベニー!?」
異変を察知して腰を上げた僕の腕を、伯爵が咄嗟に掴んで引き留める。
「行かないほうがいい。大丈夫、彼はただ眠ってるだけだから」
「ベニーに何をしたんですかっ?」
悲鳴に似た怒号が、無機質に室内に響いた。そんな僕の怒りも何のその、マイペースを貫くように伯爵は柔らかい笑みを浮かべる。
「執事殿には睡眠効果のある香の作用で、大人しく眠ってもらっただけさ。この後おこなわれる大事なコトの、邪魔をされないようにね」
ところどころアクセントを置いた伯爵のセリフに、全身から血の気が引く。
それでもこの状況を脱しなければと、無意識に掴まれている腕を振り解くべく、必死にもがいてみた。だがそれ以上の力で握り締められて、強引に動きを止められた。
「この手を放してくださいっ、嫌だ‼︎」
「男爵の腕を解放したら、このまま逃げる気なんだろう? そうなると置いてきぼりにされた執事殿が、どうなってもかまわないというんだね?」
「それは――」
「自分さえ助かればいい。男爵はそういう、卑怯な人間だったということなんだな」
伯爵の言い放ったセリフで、抵抗する腕の力が自然と失われてしまった。
『私に何かが起こって、どうしてもお助けできない場合は、お願いですからどうか見捨てて、ローランド様おひとりで逃げてください。いいですね』
舞踏会の会場でキツく言われたことが、頭の中を駆け巡る。伯爵から手を放された今なら、扉に向かって逃げることが可能だった。
(アーサー卿に卑怯者呼ばわりされようが、ベニーとの約束を守るのが最優先事項だ。何としてでも逃げなくては――)
このまま背中を向けたら、伯爵に襲われる気がした。足を引っかけるものがないか背後を気にしながら後退りしつつ、確実に扉に向かう。
そんな僕を捕まえることなく、伯爵は胸の前に腕を組んで、悠然と眺めていた。
「男爵、俺は君にだけ優しいが、他の奴にはそんな情けをかけないからな」
「…………」
「君がこのまま出て行ったら、さきほど逢った用心棒が控える部屋に、執事殿を連行する」
それは、ちょうどドアノブに触れたときに告げられた。てのひらに感じるドアノブがなぜだか冷たくて、まるで氷を掴んでいるみたいだった。
「用心棒三人がかりで、執事殿をどうするか……。日頃のうっ憤を晴らすのにサンドバッグにされるか、あるいは性的欲求を満たすために弄ばれてしまうのか。どっちにしろ、ボロ雑巾のように扱われるのは目に見える」
「そんなの、あんまりだ……」
「これをとめることができるのは男爵、君しかいないんだよ」
ドアノブを動かして扉を開けて、廊下に飛び出る。そのまま真っ直ぐ走って、突き当りを右に曲がり、すぐさま左に曲がって正面玄関を目指せばいい。
頭の中で次の行動が指示されているというのに、扉の前に立ち竦んだまま、動くことができなかった。ドアノブを掴む手ですら、ぴくりとも動かせない。
「ベニー……」
「心の優しい男爵の気持ち、俺は分かっているよ。さぁこの手を取りたまえ」
伯爵はそこから動くことなく、僕に向かって右腕を差し出した。
「……嫌です」
蚊の鳴くような弱々しい声だったが、はっきりと拒否したというのに、伯爵は差し出した手を下ろさなかった。
「来週あたり、国王陛下から男爵宛に手紙が来るはずだ。内容は土地のことについて。俺が君を推薦したら、首を縦に振って了承してくれたよ」
「そんなこと……」
「頼んでいないと言いたいだろうが、君が断れないように恩を売った。理由は分かるね?」
僕は問いかけに答えず、縦にも横にも見える感じで首を振った。恩を勝手に売った伯爵に苛立っても、文句のひとつすら言えない状況に追い込まれていた。
自分とベニーが助かる方法を必死になって考えてみたものの、どうあがいても覆せない展開ばかりが頭の中を支配する。
「力があるものが、この世を支配する。俺たちの関係もまさにそれさ。しかも俺に目をかけられただけで、領地が広がったんだ。先祖代々アジャ家を守ってきた先代たちも、さぞかし喜ぶことだろう」
(自分の躰と引き換えに領地を広げたことを知って、誰が喜ぶというのか――)
「俺の傍にいるだけで、男爵の力が増していくのは確実だ。まずは手はじめに、執事殿を守ることからはじめたらどうだい?」
「ま、もる?」
「ああ。身近にいる者を守れないヤツは、権力を得ることに必死になって、手元が疎かになる。誰も守れない、無能な人間に成り下がる」
もっともらしいことを告げられたせいで、ドアノブにかかっていた手がするりと外れた。
「優しい男爵が力の使い方を学べば、民たちが今よりもたくさん、喜ぶことが増えるんじゃないだろうか。俺は純粋に、その手伝いがしたいと思ってる」
「民たちが喜ぶ、こと……」
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