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お宅訪問

すべての予定が狂った。私はコーヒーまみれになったライトホワイトのコットンシャツを着替えると、キッチンでのんびりと洗い物をしていた彼女を連れ、愛車であるアウディのA1をかっ飛ばし、都内某所にあるバカ兄貴のマンションへと向かった。 最先端の防犯セキュリティーが施されたマンションのエントランスで、指紋認証と虹彩認証、さらには6ケタの暗証番号を入力し、ようやくロビーのドアが開いたところを、私は彼女の腕を引き、エレベーターまで駆けていく。エレベーターのボタンを半ば狂ったようにプッシュし、降りてきた箱に乗り込んでからも10階のボタンを高速連打していれば、「ケンシロウみたいだね」と彼女は能天気に笑っていた。うん、可愛い。 バカ兄貴の部屋は、10階西の角にある。軽く突き指している左手の人差し指でインターホンを鳴らせば、中からドタバタと足音が聞こえてきた。ドアが開かれる。 ドアの間隙からひょこっと出てきた大山 紗月(さつき)くんは、おろおろとした表情で「ちーちゃあん……」と情けない声をあげた。 紗月くんは、バカ兄貴のカレシだ。実質、内縁の夫と言ってもいいのかも知れない。バカ兄貴とは、かれこれ7年ほど一緒にいるのだから。 透明感のある美形で、ぱっと見た感じはとても34歳とは思えないくらいに若々しく、ハリのある白い肌は生娘のようで、何とも羨ましいが、垂れ下がったまなじりからふわりと漂う大人の色気に、レズビアンの私でさえどきっとしてしまう。バカ兄貴と出会う前は、凋落したとある資産家の愛人だったというのも、頷ける。 「紗月くん、一体どういうことなの?」 玄関にあげてもらい、訊ねれば、血液が巡っていないのかと思うほどに青白い顔の彼は、両腕で自らを抱いて、ふるふるとかぶりを振る。 「ごめんね、ちーちゃん……俺が悪いの」 「ん?」 「俺が、あんなことしちゃったから……」 それだけではよく分からないが、ここで彼から事情を聞くよりも、バカ兄貴の状況を確認する方が先だ。 と、思っていたその時だ。 「うわあああああああああああああっ!」 「うひゃっ!」 リビングから突然、耳をつんざくような野太い悲鳴が聞こえてきて、私は驚き、身を竦め、腰に刀を携えているわけでもないのに、鯉口を切る体勢をとった。 「なっ……なにっ、この声!?」 「すごーい、二時間ドラマで崖から突き落とされた被害者の断末魔みたーい」 動揺する私をよそに、彼女――吉村 美和は面白そうに笑っている。カッパーベージュをベースとした長い茶髪をシニヨンにし、ゆるりと垂らしたサイドの髪は美和が肩を揺する度に、ふわりふわりと揺れていた。うん、可愛い……じゃない。それどころじゃない。 紗月くんが慌てふためく。 「ああっ、ごめん……! ひとりにしちゃってるから、多分寂しがってて……!」 「は?」 「と、とにかく、戻らないと……!」 そう言って、紗月くんは急いでリビングへと向かう。何が何やら分からないまま、私たちもその後を追って部屋に入った。 ……飛び込んできた光景に、私は固まった。身体も思考も何もかも。 革張りのソファーの上で、こてんと倒れたままでも作動し続ける犬型ロボットのような動きで、手足をじたばたとさせ、さらには断末魔のごとく声をあげているのは、私のバカ兄貴こと金森 和仁(かずと)だった。 「わああああああああん! ママァーーーーッ!! どこにも行かないでぇっ! ふええええええええん!」 「……美和、私、倒れてもいい?」 「駄目だよぉ、ほら、踏ん張って?」 「ふえええん……」 思わず、情けない声が漏れた。

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