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不良昔話

兄貴とは呼んでいるが、実際、私たちは血など繋がっていない。 父親同士の連れ子だった私と兄貴は、籍も別だ。この国では叶わない同性同士の結婚をいつか夢見て、一緒に暮らし始めた父親たちの、言ってしまえば独り善がりに付き合わされ、同じ屋根の下で暮らすことになった。 兄貴が10歳で私が7歳。互いに人見知りが激しければ、家庭環境もさほど良くなく、歪な性格に育ってしまっていたため、まったくソリが合わず、ろくに言葉を交わさず生活していた。 私の父親は妻――私の実母に逃げられ、兄貴の父親はそんな実父との不倫の末、兄貴の母親と別れ、実父と一緒になった。 幼いながらもふたりの複雑かつ祝福されぬいきさつを察していた私たちは、彼らへの嫌悪感を抱き、反抗した。本来幸せであるべき家庭で札付きが育つことになったのを、彼らはどう思っていたのだろうか。今となっては分からない話だ。 11歳の時、両親は当時住んでいたマンションの屋上から仲良く飛び降りた。 やはり、同性同士の恋愛は、ヘテロの恋愛よりも前途多難だったのだろう。年頃の我が子を度外視するようにふたりきりで死んだ彼らに、私も兄貴もただただ呆れ返り、薄情な子供なのだろうが、清々した。 寄る辺のない私たちはそれから、児童養護施設に預けられた。当時、反抗期真っ只中だった兄貴は、ろくに学校にも行かず、年上の悪い奴らとつるむようになっていた。バイク、タバコ、酒、女、万引きや窃盗に暴力。それらで身体が出来上がり、警察から度重なる世話を受け、施設の職員もお手上げ状態だった。 私は私で、どこからか両親の噂を聞きつけた同級生からイジメを受け、けれども当時から勝ち気だった私は彼らと真っ向にぶつかっていた。子供同士の喧嘩ではおそよ言い訳できないほど一方的に相手を負かしては、学校や教育委員会から危険因子の烙印を押され、小学校を卒業する頃には、誰も私に関わろうとしなかった。 そして、思春期を迎えた中学時代は、バカ兄貴に倣ったわけではないが、非行に非行を重ねる日々だった。 ませたガキだった私は、得体の知れない成人男性で処女を捨て、そこで自らの性的指向を自覚すると、さらに荒れた。バイセクシャルだった父親の遺伝子のせいか、それともたまたまなのかは分からない。とにかく娘の私はレズで、女に欲情する。自らに対する嫌悪感と度し難さにもがき、苦しみ、それを発散するように問題を起こし、周りの大人たちは揃って匙を投げていった。 少年院を出たり入ったりを繰り返していた兄貴は、18歳になる頃に、現在の勤め先であるヤミ金業者に流れ着いた。最初はパシリや用心棒からのスタートだったが、どんどん出世していき、今では32歳という若さで社長の椅子に座っているいいご身分だ。 ここまでのし上がることができたのは、すべて自分自身の腕力と努力だと自負する兄貴は、幼い頃から他人に頼る術を知らずに生きてきた。それが幸か不幸かは分からないが、兄貴を逞しくさせていったのだ。 一方の私は中学校を卒業後、高校には進学せず、夜な夜なバイクで東京の街を駆け抜け、喧嘩に明け暮れ、いつしかレディースの総長になっていた。 魑魅魍魎のごとく存在した暴走族グループとの縄張り争いを制し、勢力を拡大していく中、美和がアタマを務めるグループとはいつも五分五分の闘いを強いられ、長い間決着がつかずにいた。 当時の美和はとにかく猛犬のようで、それでいて頭がキレ、肝が座っていた。骨のある女だった。 しかしある日、当時付き合っていた男からクスリを掴まされた美和は、頭がイッている状態で彼氏とその友人たちに監禁され、回された。それを知った私は、彼女を助けるために、あらゆるツテを使って彼女と男どもの居場所をつきとめようとした。 その中で当時、借金取りの下っ端として債務者を追っかけ回す日々を送っていた兄貴と再会を果たした。その時は美和のことで頭がいっぱいだったため、兄妹仲など二の次三の次四の次五の次ぐらいで、兄貴の人脈と情報網を駆使して、美和たちの居所を掴むことに成功し、ボロボロになった彼女の救出と、下卑た野郎どもへの金的攻撃、再起不能を成し遂げた。 その一件があってから、私と美和の関係は良きライバルから友人、そしてそれ以上へと発展した。兄貴とも、ついぞ縮まることはないと思っていた距離が一気に縮まり、現在では世間一般程度には仲の良い兄妹になっている。互いの自慢の愛車で、どちらが峠を制するか、ガチンコ勝負するくらいには。 だからこそ改めて、はっきりと言える。兄貴は最近流行りの、繊細なチンピラなどでは決してない。ガラが悪く、口が悪く、そして非常に有能で、昔ながらの一本筋の通った強い男だ。 大切な人のためなら、自分のすべてを投げうつことだって厭わない。そんな兄貴が誰かに守られないと生きていけないなんて、信じたくなかった。 なかった、のに……。

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