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催眠術

「それにしても、本当に赤ちゃんだねぇ、和仁くん」 授乳ではないが授乳が終わり、満足げにきゃっきゃっと笑う兄貴を「うわっ、ぶっさいく……」と思っていると、美和が深く感心したように言った。 「あの泣く子も黙る地獄の番人系男子の和仁くんがここまで変貌するって、それだけすごい催眠術かけちゃったんだねぇ」 肉食系、草食系、ロールキャベツ系男子は聞いたことあるけど、地獄の番人系男子は初めて知ったぞ。ちなみに私は肉食系女子だ。 「まさかこんなに効果があるなんて、思わなかったんだ」 新たに痛々しい痕をつけられた胸元を隠すようにシャツのボタンを留めていった紗月くんは、深いため息をついて項垂れた。 「『うわっ……、私の催眠術、成功率高すぎ……?』って謳い文句にほいほい引っかかって、その方法を実践してみたら、あまりにも理想の赤ちゃんになっちゃって……」 「そのキャッチコピー、アウトでしょ」 「それって、どんな方法なのー?」 美和が興味津々にそう訊ねれば、紗月くんはおかめのような顔で笑っている兄貴の頭をよしよしと撫でながら、苦い笑みで答えてくれる。 「すごく簡単だよ。眠っている間に魔法の言葉を耳元で唱えて、どんな風になってほしいのかを繰り返し囁き続けるだけで……」 「まぁ、簡単!」 驚き、感心する美和に対し、私は眼の周りの筋肉をひくつかせる。そんな荒唐無稽な方法で、いとも容易く催眠にかかってしまうものなのか。にわかには信じ難かった。 「その魔法の言葉って?」 「えっとね……『バニラアイスソフトクリームジェラートキャンディーロールケーキモンブラン、クッキークレープショートケーキ、チョコレートキャラメルナッツバナナクリームフラペチーノ生クリーム多めにココアパウダーをプラス……』だったかな?」 「……紗月くん、冗談はやめて……」 ただのスイーツ名の羅列と某コーヒーショップのメニュー名のような呪文じゃねぇか。頭痛がし始めたので、こめかみを押さえて鎮めようとした。対して美和は取り出したスマートフォンで、今のふざけた詠唱を漏れなくメモしていた。 「それでそれで?」 「うん、それから俺の場合は、『カズくんが1歳の男の子みたいに、元気で明るくて、素直でちょっぴりワガママで、だけど天使で、ママの俺がだーいすきで、疲れたこととか辛いこととかすべて吐き出して、いつも以上にど・ど・ど・ど・どすけべな赤ちゃんになぁれ』って100回は繰り返し唱えたかなぁ……」 「わぁ! 和仁くんはそうやって、紗月くん好みにカスタマイズした赤ちゃんになったんだぁ!」 この世の何よりも美しく輝く宝石のような目で美和は言うが、私は眼の周りの痙攣が顔全体にまで広がり、およそ女として最低限の尊厳すら保つことができていない表情になっているに違いない。 善かれと思ってやったことなのだと分かるが、その方向性があまりにもぶっ飛んでいる。紗月くんは、普段は優しくて穏やかな人だが、兄貴が絡むと途端におかしくなる。兄貴を愛するあまり、正常な思考が働かなくなるのだろう。 思えばこの7年間、紗月くんは愛すべきバカの称号に輝いてもいいくらいに、色んなことをやらかしてくれていた。あまりにもエピソードが多いので割愛させてもらうが、それでも兄貴は紗月くんが何をやらかしても、「バカ可愛いだろ?」と惚気のひと言だ。正直、うざい。 けれども流石に今回の件は、紗月くんに首ったけの兄貴でも怒るに違いない。何せ義理の妹とその彼女の前で、自らが醜態を晒すことになっているからだ。東京スカイツリーを遥かに凌ぐほどに、兄貴はプライドが高い。我に返り、すべてを知った時……いや、私の知ったことではない。勝手にやってくれ、のひと言だ。 「私も今度、千景ちゃんにやってみるね!」 「やらんでいい!」 意気込む美和に、デコピンをくらわせた。

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