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第一話

 ────16年前。  かつての栄華は失いつつあったものの、それでも世間一般から見れば充分すぎるほどに裕福な東條(とうじょう)家に、二人目の子供が生まれた。  ────いや、「生まれた」というのは、少し語弊があるかも知れない。  何故なら、その子供は父であり東條家の当主でもある東條聡一郎(そういちろう)が、妻ではない女性との間に授かった子供だったからだ。  東條の家は、かつては多くの子会社を有する有名企業の代表を務めてきたが、なかなか跡取りに恵まれず、おまけに子会社の経営不振も重なって、名家としての窮地に立たされていた。  実際、東條の直系に当たるのは聡一郎の妻である香夏子(かなこ)一人だけであり、聡一郎は婿養子として、半ば強引に縁組されたようなものだった。その香夏子との間に授かったのも、長女の千夏(ちか)のみで、聡一郎は肩身の狭い思いをしてきた。  そんな聡一郎が、不徳と心得ながらもとある一人の女性に心を惹かれたのは、二年前、職場の人間に誘われて渋々立ち寄った高級クラブでのことだった。  相手は、その店のホステスとして働いていたΩの女性。  αである聡一郎に特別媚びを売るでもなく、けれど丁寧に接客してくれるその女性に、聡一郎はすぐに心を奪われた。 「柚花(ゆうか)」と名乗ったそのΩは、艶やかで長い黒髪と、αと言っても誰も疑わないのではと思うほど目鼻立ちのハッキリした美しい容姿で、おまけにとても聡明な女性だった。  博識だとかそういう類ではなく、恐らく頭の回転が速いのだろう。聞き上手で話上手でもある上によく気も利くけれど、常に一歩下がった控えめさも忘れない。Ωである彼女がそのように育つにはきっと本人の努力も相当なものだったに違いないと、聡一郎は会う度感心していた。  柚花は自身の境遇に関してはほとんど話そうとはしなかった。だから聡一郎の前では隠していただけなのかも知れないが、Ωであるということを悲観している様子を見せることはなく、彼女はいつも優しい笑顔と声で聡一郎を癒してくれた。  恋愛感情など抱く前に香夏子と結婚させられたこともあってか、聡一郎は何度も店に通っていながら、柚花に既婚者であることを打ち明けることが出来ないまま、彼女との密かな逢瀬を楽しんだ。そうして時折店の外でも柚花と会うほどに関係は進み、やがて彼女は聡一郎との子供を身籠った。  柚花の妊娠を知ったとき、聡一郎はいっそ東條の家を捨てても良い覚悟だったのだが、柚花は全てを打ち明けられても、聡一郎の話に首を縦には振らなかった。彼女と過ごす時間は聡一郎にとってとても幸せなものだったし、恐らく彼女もそれを感じてくれていたからこそ、聡一郎と関係を持ってくれたのだろうと思う。だからこそ、何故それでも聡一郎が東條の家を捨てることを彼女が良しとしなかったのか、聡一郎には理解出来なかった。  おまけに、東條の家を捨てることを許してくれなかったのは、彼女だけではなかった。  妻の香夏子だ。  香夏子は元来プライドの高い女性であり、不倫の末に捨てられるなど有り得ないと憤慨し、義父母へは黙っておく代わりに聡一郎は東條家の当主で在り続けることと、そして万が一生まれた子供が男児であれば、東條の家に引き渡すよう命じてきた。  柚花からすれば、これほど理不尽な要求はないだろうと思ったのだが、思いの外彼女はすんなりその要求に応じてくれた。その時聡一郎は、もしかすると柚花はいつからか、聡一郎の境遇も含め、全てを察していたのかも知れないと思った。だからこそ、求められれば子供は東條の家に託し、そうでなければ柚花が一人で育てる……彼女は初めから、そう決意していたように思えたのだ。  そうして無事に生まれたのは元気な男の子で、柚花は「この子だけは守ってあげて」と変わらない優しい声で聡一郎にそう言うと、愛息子を聡一郎へ託してそれっきり姿を消してしまった。  それだけでも、東條家での聡一郎の立場は益々肩身の狭いものになってしまったのだが、問題はそこで終わらなかった。  漸く跡取りが迎えられたと聡一郎以外の東條一族が喜んだのも束の間。東條家が引き取った男児は、なんと名家にあるまじきΩだったのだ。  それがわかったときの香夏子のヒステリー具合ときたら、まだ幼い長女の千夏が丸一週間、怯えて香夏子に近付こうとしなかったほど凄まじいものだった。自分とは血の繋がりもない上にΩだなんて東條家の恥も恥!と喚き散らし、すぐに母親へ突き返せと聡一郎に言ってきたが、その頃には既に柚花とは連絡も取れなくなっていた為、「柚斗(ゆうと)」と聡一郎が名付けた男児は結局東條家には存在しないものとして、雇いの乳母によって、敷地内にある離れでひっそりと育てられることになった。  乳母、と言っても、東條家に雇われた彼女は、所謂母親代わりという存在では決してなかった。  幼い柚斗に字の読み書きや言葉を教え、更には掃除や洗濯といった、自身の身の回りのことも教える完全な教育係。母親の存在を知らない柚斗は、幼いながらに乳母の教えを着実に吸収していった。覚えの速さは、柚花譲りだったのかも知れない。  聡一郎は時折柚斗の顔を見に行っていたのだが、香夏子はそのことも、そして柚斗が日に日に柚花に似てくることも、許せなかったらしい。  離れに聡一郎が居るとわかれば、文字通り鬼の形相で飛んできて、小さな柚斗へ容赦なく侮蔑の言葉を浴びせかけた。幼い柚斗にはきっとその言葉の意味はわからなかっただろうが、恐らく香夏子から自分へ向けられている感情が、本来母親から与えられるそれではないということくらいは感じ取れただろう。  更に、千夏を授かるまでも数年を要した香夏子が、それ以降、聡一郎との子供を全く授かることが出来なかったことも、香夏子の苛立ちの種となっていった。  そうして積もり積もった香夏子の苛立ちは次第に千夏へも向けられるようになり、このままでは柚斗だけではなく千夏さえも守れないと思った聡一郎は、東條家の敷地の最奥に蔵を建て、漸く五歳になったばかりの柚斗をその蔵へ監禁するという歪んだ行為で、柚花との約束を守ることにした。 「おとーさん! おとーさん!?」  閉めた扉の向こうで泣きながら柚斗が聡一郎を呼ぶ数だけ、聡一郎は扉へ南京錠を取り付けた。その姿は、傍から見ればさぞ狂気じみていたことだろう。  実際、柚花を失った時点で、聡一郎のどこかが壊れてしまっていたのかも知れない。 「大事なおまえを、守るためなんだ……」  自分自身に言い聞かせるように何度もそう口にしながら、入り口を過剰なほどに施錠した聡一郎は、大事な息子を薄暗い蔵の中へ置き去りにして、自身の中の「東條柚斗」の存在をも封じ込めたのだった。   ◆◆◆◆◆ 「うわ、今日の夕飯はほうれん草か……」  蔵の入り口の脇に設けられた、高さ二十センチほどの郵便受けのようなフラップ式の小窓から差し入れられた夕食のプレートを見て、柚斗は隅っこの緑の塊に思わず顔を顰めた。  柚斗がこの蔵で過ごすようになって、もうどのくらい経っただろう。  正確な日数なんてとっくにわからなくなっているけれど、恐らくもう両手では足りないくらいの年数が過ぎた。  二階建てのこの蔵は、一階部分には毎日の食事や生活物資を差し入れてくれる小窓以外には、一切窓がない。柚斗が通り抜けるには余りにも小さいその窓と、あとは内側からは決して開けることが出来ない扉があるだけ。  二階に上がるともう少しだけ大きい窓が二つあるのだが、柚斗が寝床としているそのスペースを挟むように向かい合った二つの窓は、どちらもガラスの向こうに頑丈な鉄格子が嵌っているので、眺めは決して良くはない。  どうして自分は、こんな蔵の中で過ごさなければならないのか。  最初の頃は毎日考えては泣いて、の繰り返しだったし、食事を差し入れてくれる『誰か』に「ここから出して!」と訴えたこともあった。けれど、窓の向こうで顔の見えない『誰か』が「貴方様に何かあると、私も私の家族も、ただでは済まないんです……!」と嗚咽交じりにそう答えたのを聞いて、そのとき柚斗は悟った。  理由は全くわからないけれど、自分がここに居なければ困る人が居るのだ、と。  幸い、蔵の中には風呂やトイレ、寝具に空調設備など、必要最低限な生活用具は一通りちゃんと揃えられていたし、消耗品などは定期的に『誰か』が届けてくれる。  それに、毎週様々なジャンルの本や辞書が届けられるので、読み物には困らなかった。最初の頃は空っぽだった蔵中の棚は、今ではそのほとんどが本でビッシリ埋まっている。  本のお陰で、増えた知識だけは無駄にある。だって本を読むくらいしかすることがないのだから仕方ない。  だからついさっき届いた夕食のプレートに載っている、大嫌いなこの緑の塊が『ほうれん草のおひたし』というものだということも、柚斗は知っているのだ。  しかしどれだけ本を読んだところで、一向にわからないこともある。  それは、柚斗自身のことだ。  これまで沢山の本を読んできたが、人には基本、姓があって、名がある。得た知識から考えて、『柚斗』というのは『名』にあたるものだと思うのだが、じゃあ柚斗の『姓』は何なのだろう?  それに誕生日だって知らないし、今日が一体西暦何年の何月何日なのかすらわからないから、自分の年齢もわからない。  血液型も知らないので、万が一輸血が必要になった場合はどうしよう。……この蔵でそんな心配が必要なのかどうかはともかくとして。  それから生まれて間もなく全ての人が調べるらしい、『第二の性』。これも、『α』『β』『Ω』の三種類に分かれるらしいけれど、柚斗はどこに分類されるのか、それも知らない。この『第二の性』は、時に人生をも大きく左右するほど重要らしいのだが、自分がどれに属するのかわからない以上、悩むことさえ出来ない。  そして何よりわからないのは、家族の存在だった。  幼い頃、柚斗には「お父さん」と呼んでいた人が居たことは覚えている。柚斗が『柚斗』という名前であることを教えてくれたのも、その人だった。だからきっとあの人が柚斗の父親なのだろうと思っているが、「お母さん」と誰かを読んだ記憶が全くないのだ。  柚斗の傍で、毎日文字や言葉を教えてくれていた女性が居たけれど、その人に一度だけ「おかーさん?」と問い掛けると、青褪めた顔できっぱりと否定された。だとすると、記憶にあるのはいつも怖い顔で柚斗を怒鳴りつけている女の人……もしかして、あの女性が柚斗の「お母さん」なんだろうか。  ただ、柚斗が最後に顔を見たのは父一人だった。  この蔵へ小さかった柚斗を押し込んで扉を閉めるときの父が、初めて見る顔をしていたことは、いまだにハッキリ覚えている。哀しそうな、悔しそうな、でも何かを諦めたような……。  勿論、その当時はそんな風に冷静に考えることなんて出来なかったけれど、思い出せば思い出すほど、どうしてあの時父は、あんな顔をして自分をここへ残していったのだろうと柚斗は日々疑問に思っていた。 『大事なおまえを守るためなんだ』  あのとき扉越しに聞こえたこの言葉の意味も、いまだに柚斗にはよくわからない。  父は一体何から柚斗を守ろうとしていたのだろう。今も柚斗がここに居るということは、まだ尚、柚斗は何かから守られているんだろうか。  でもその割に、父はあの日を最後に、柚斗の前に姿を見せなくなった。  いつも食事や物資を差し入れてくれているのも声から察するに柚斗の知らない人だし、時折柚斗が体調を崩すとその時だけは蔵の中に医者がやって来るのだが、来るのはあくまでも医者一人だけで、やっぱり父は姿を見せなかった。  あの日突然父と離れ離れになって、心細くなかったと言えば嘘になるし、外の世界に興味がないかと聞かれたら、否定は出来ない。何せ柚斗は、外の世界を余りにも知らなさすぎるから。  けれど、蔵の一階と二階にはそれぞれ部屋の隅に監視カメラが設置されている。最初はそれが何なのか柚斗には全くわからなかったが、とある推理小説を読んでいる中で偶然監視カメラというものの存在や役割を知り、少なくとも『誰か』が柚斗を監視しているらしいということは推測出来た。  それに、この蔵が徹底して脱走を妨げるように設計されていることに加え、最後に顔を見たあの日以来全く柚斗に会いに来ない父のことを考えると、自分はここから出てはいけないのだという思いの方が日に日に強くなって、今ではもう、自らこの蔵を出る方法を考えることも、柚斗は諦めてしまっていた。  読書に飽きたら、届けられた紙とペンで絵を描いてみたり、本に載っていたヨガとやらを試してみたり、時には絵本に出てくる子供みたいに、階段の手すりに跨って滑り降りてみたり。  蔵での最初の食事と一緒に届けられた、この蔵で柚斗が守るべき『決まり事』は三つ。 ・大きな音や声を出してはならない。 ・夜の間は決して外に明かりが漏れないよう、必ず窓を板で塞ぐこと。 ・外の人間と会話などの接触をしてはならない。  これらを守ってさえいれば、何をしたって誰にも何も言われない。怖い顔で怒鳴られることもないし、『誰か』が困ることもない。  ずっと蔵で育ってきた柚斗自身に自覚は全くなかったが、外を出歩く自由を知らないが故に、また父の最後の言葉を疑うことを知らなかったが故に、柚斗は何とも不自由な環境で、それなりに自由に過ごしていたのだ。  取り敢えず苦手なほうれん草をどう攻略するかを考えながら、柚斗はかなり伸びてきた黒髪を慣れた手付きで緩く編んでいく。色艶の良いその髪や、日本人の割にハッキリした目鼻立ちが、生みの親である柚花そっくりに育っていることなど、当然柚斗は知る由もない。  過去に何度か、紙を切る為のハサミで散髪を試みたことがあるのだが、こればっかりは本を読んでもなかなか上手く切ることが出来なかった。それならいっそ、ある程度伸びたら適当な長さで切って、後は本を見ながら結うなり編むなりする方が楽だと気付いたのである。  一階の壁際にある一人用の小さなテーブルにプレートを運び、改めて今晩のおかずを見て見ると、幸い柚斗の好きな豚肉の生姜焼きもあった。嫌いなものなら残せばいい、とは思わず、どうにかして好物で誤魔化しながら残さず食べようと考えてしまうのは、変に栄養学に関する本なども読んでしまったからだ。  取り敢えず真っ先にほうれん草を口に放り込んで、その後味は生姜焼きで打ち消してしまおう、などと順番を考えながら椅子に座ろうとしたとき。二階の窓からざわざわと賑やかな声が、風に乗って微かに流れ込んできた。  しまった、そう言えば窓を開けっぱなしにしていたと気が付いて、柚斗は慌てて二階へ駆け上がった。  柚斗の居る蔵からは木々が邪魔をして見えないのだが、(柚斗の記憶が正しければ)父たちが住んでいるはずの本宅には、時に大勢の来客があるようで、こうして人々の声が蔵まで聞こえてくることがしばしばあった。中でも今日は一際騒がしい気がするけれど、何か特別なことでもあるのだろうか。  ちょっと見てみたい気持ちはあったが、どの道ここからでは本宅の様子は窺えない。そろそろ外も暗くなってきているし、明かりが漏れてしまう前に窓を塞ぐ為の板を嵌めようとして、柚斗は思わずその手を止めてしまった。  柚斗の居る蔵から、木々の隙間を通して辛うじて眺めることが出来る庭の東屋に、人影が見えたからだ────  ────時刻は三十分ほど前に遡る。    送迎の車を降りるなり、フワ…と気怠げに欠伸を漏らした卓巳(たくみ)を、先に車を降りていた弟の龍哉(たつや)がジロリと横目で睨んできた。 「兄さん……そういうことは、せめて車から降りる前にして」 「しょーがねぇだろ、寝不足なんだよ」  面倒臭い、という感情を隠すこともせず、それでも一応ネクタイだけは整える卓巳の態度に、弟は呆れた溜息を返して先に東條家の門を潜った。  卓巳たちの父であり、我が西園寺家の当主───西園寺龍馬(りょうま)から、東條家へ出向くように言いつけられたのは、つい二日前のことだった。  父の龍馬は、多数のグループ会社を傘下に抱える、大企業の社長を務めている。卓巳にとっては別段どうでもいい話だが、ほとんどの業界で、『西園寺龍馬』の名を知らない人間は居ないとまで言われているらしい。  そんな父の下、三兄弟の次男として生まれた卓巳は、由緒ある西園寺家の中では類稀なる落ちこぼれだった。  両親は当然共にαだし、兄の龍司(りゅうじ)と弟の龍哉も共にα。ところがオセロのように間に挟まれた卓巳もまたα……というわけにはいかず、西園寺家の中で卓巳一人だけがβとして生まれた。所謂、突然変異というものだ。  幸い兄の龍司がαだったお陰で、跡取りは決まったも同然だったが、その分卓巳は幼いときから両親からも放任されていた。大体、もう名前からして投げ遣り感が出ていると卓巳は思う。兄と弟は『龍』で、卓巳は『巳』……つまり『蛇』だ。そういう家系だから仕方ないのかも知れないが、そこまで露骨に分けるのかよ、と卓巳自身も半ば投げ遣りな気持ちにならずにはいられない。  龍司は既に父と同じ会社でメキメキと頭角を現しているが、卓巳は龍司のように優れた頭脳も要領の良さも持ち合わせていないので、父と兄が務める会社の子会社で、この春から卓巳は一介のサラリーマンとして働いている。ハッキリ言って、コネ入社だ。  それでも一応卓巳なりに仕事には真面目に取り組んでいるのだが、やはり周囲からはβとは言え西園寺家の御曹司という目で見られる為、イマイチ居心地が悪いのが現状だった。 「兄さん、今日も朝帰りだったんでしょ。龍司兄さんがぼやいてた」  弟の龍哉は、卓巳のことは「兄さん」と、兄のことは「龍司兄さん」と呼ぶ。それは単に卓巳の方が龍哉にとって歳が近いからだったが、今では殆ど言葉を交わすこともなくなった兄と違って、未だに卓巳に懐いてくれているところは、素直に可愛いと思う。 「あー……丁度玄関で鉢合わせしちまったんだよな」 「……まさか、今日東條家に行くことも忘れてて、慌てて帰ってきたんじゃないの?」  鋭い弟に図星をさされ、内心ギクリとなった卓巳だったが、兄の威厳として「そんなことねぇよ」とここは否定しておく。 「で? 今日の集まり結局何だっけ? 夫婦の結婚記念日?」 「全然違う。お嬢さんの二十歳の誕生パーティーだよ」 「ああ、そうだったそうだった」 「……ホントに覚えてた?」  弟の呆れた視線には気付かないふりをして、既に来賓が集まり始めている石畳を進んでいく。  αの弟は勿論だが、見た目だけは卓巳も両親に似て充分に人目を惹く程には整っている。切れ長の二重の瞳は、父親譲り。社会人になってさすがに黒く戻したが、学生時代は明るい色に染めていた髪は、今日は少し余所行き用に軽く整えている。家系なのか、父も三兄弟も長身な為、卓巳と龍哉はこの時点で来賓たちの注目を集めていたのだが、西園寺の家に生まれた自分たちには、もうすっかり身に馴染んだ状況だった。  目の前には、立派な東條邸の本宅が見えている。数年前、何かの用事で訪れたときに見た東條邸とは、随分と建物の雰囲気が変わっていた。以前は純和風の豪邸といった感じだったが、今はかなり和モダンな雰囲気にリフォームされている。 「なんか、随分派手に改築してんな。東條グループのいい話、そんな聞かねぇけど大丈夫なのかよ」  かつては「西の西園寺、東の東條」と言われたほど、西園寺と東條の権力はほぼ拮抗していたそうだが、今では東條の方がだいぶ危うくなっていると聞いている。現に、今の当主である東條聡一郎も養子として東條の家に婿入りしたほど、跡取り問題も深刻らしい。 「折角のおめでたい席で、そういうこと言わない。兄さん、ちゃんとそれなりに愛想良くしててよ。一応、西園寺の代表として来てるんだから」 「わかってるよ。つーかお前こそ気ぃ付けろよ。東條んとこは一人娘だから、既に娘の婿探しに必死だって話だぜ? 親父が今日兄貴を寄越さなかったのは、万が一にでも東條の娘に目付けられたくないからだろうしな」  あとはまあ、将来有望な弟の、体の良い護衛として俺に付き添いを命じたってとこか、と卓巳は密かに溜息を零す。  西園寺家には専属のSPも居るが、彼らを頼らずとも事足りる、という父の判断なのだろう。本来はβである卓巳を表舞台には出したがらないのに、時には都合よく利用されることにも、卓巳はすっかり慣れてしまっている。日頃、名家の御曹司とは思えないほど自由な振舞いを黙認して貰っているので、このくらいの『雑務』は仕方がない。  それに父にとって今の東條家の存在は、末弟の龍哉に向かわせ、その付き添いは卓巳で充分だと考える程度のものだということだ。 「だからって僕に押し付けられても困るんだけどな……」  苦笑気味に肩を竦めた龍哉と並んで東條邸の玄関に辿り着くと、そこではバッチリメイクを施した東條家の母娘が満面の笑顔で卓巳たちを出迎えてくれた。相変わらずそっくりな母娘だな、と卓巳は思う。……気の強そうなところが。この夫人の強すぎる香水の匂いが卓巳は昔から苦手だったことを、久しぶりに会って思い出した。 「まあ、西園寺様! ようこそお越し下さいましたわ」 「どうも、ご無沙汰しております」 「この度はおめでとうございます」  一応兄として先に挨拶をした卓巳に続いて、龍哉がすかさず祝いの言葉を添えて頭を下げる。  二十歳の誕生祝いということもあって、父から持たされていた高級シャンパンを手渡すと、受け取った娘の東條千夏は大袈裟過ぎるほど喜んで見せた。その後、チラリと卓巳と龍哉の背後を覗き見るような仕草を見せ、 「あの……今日は、龍司さんはお見えじゃないんですか?」  ソワソワとした様子で問い掛けてくる。  やっぱり兄貴狙いか、と内心呆れながら、卓巳は申し訳なさそうな作り笑いを浮かべた。 「生憎、兄はどうしても外せない社用がありまして……折角のお祝いの席に参加出来ず申し訳ないと、お伝えくださいとのことです」  普段口を利くこともない兄からはそんな伝言は一切受け取っていないが、そこは日頃の営業で磨いた腕……もとい、口の見せどころである。 「まあ……さすがは西園寺家のご長男。お忙しいのにお気遣い頂いて光栄ですわ。さあさあ、お履き物はそのままで結構ですので、一先ずお上がり下さいませ」  東條夫人が、無理矢理感が拭えない、廊下に敷かれたレッドカーペットを示して微笑む。  促されるまま土足で玄関の框を上がる際、隣で「タヌキ」と龍哉が揶揄うように囁いてきたが、これも聞こえないふりをした。    通されたホールは、西園寺邸のそれに比べると広さは半分ほどだったものの、リフォームして天井を高くしたこともあってか、広さの割には豪奢に見えた。  さほど広くない場所に、それなりの人数の来賓が集っているから、余計にそういう雰囲気を醸し出して見えるのかも知れない。  立食パーティー形式で行われている誕生会は、主役の登場も待たないまま始まっているのか、既にアルコール片手に話に花を咲かせる人の姿もあちこちで見受けられる。  だが、そんなホール内で明らかに浮いている人物が居た。……あろうことか、東條家の当主である東條聡一郎だ。  タキシード姿できちんと正装しているにも関わらず、妙に場違いに見えてしまうのは、恐らく彼に全く覇気がないからだ。元々、卓巳たちの父のように自己主張の強いタイプではなかったが、こうも無気力な雰囲気だっただろうか。いくら落ち目とはいえ、名家の当主たるオーラがほとんど感じられない。 「本日はお招き頂き、ありがとうございます」  龍哉と並んで真っ先に卓巳は挨拶に行ったが、聡一郎はそこで初めて二人の存在に気付いた様子で、「ああ、お忙しい中ありがとうございます……」と力なく頭を下げた。  そんな聡一郎の違和感は龍哉も感じていたようで、お互い目配せし合って首を傾げる。  具合でも悪いのだろうかと思ったが、聡一郎は卓巳と龍哉を交互に見遣って、「二人とも随分と立派な青年になって」と感慨深げに言って微笑んだ。その視線は、卓巳たちの姿を通して別の誰かを見ているように、遠くへ注がれていた。  あの強気な母娘の板挟みに遭っていて、おまけに婿養子という立場だと、気苦労も絶えないのかも知れないと、卓巳は心の中でそっと合掌することしか出来なかった。  それから程なくして、やっと今日の主役である東條千夏が母親と一緒にホールへやって来た。聡一郎がまず挨拶に立ったものの、話したのはほんの一、二分で、むしろその座を奪うように直後に話し始めた夫人の香夏子の話がうんざりするほど長く、卓巳は早々に飽きてしまった。  またしても堪え切れずに欠伸を漏らした卓巳の腕を、隣から龍哉の肘が軽く小突いてくる。 「……話長すぎ。つーか主役は娘だろ」  周囲に聞こえないよう、龍哉の耳元で囁くように不満を述べながら、どうにかこの退屈な場を抜け出す術を探して卓巳はホールに視線を巡らせる。すると、カクテルグラスを片手に壁際のソファに座り込む、一人の若い娘が目に留まった。歳は二十歳になったばかりの千夏とさほど変わらないように見える。  顔に見覚えがないのでそこまで名の通った家の娘ではないだろうが、それでもそこそこ質の良いドレスを身に纏っているから、卓巳のような単なる付き添い、というワケでもなさそうだ。 (……今日の相手は、アイツにするか) 「悪ぃ、ちょっと抜ける」  軽い調子で兄からポンと肩を叩かれた龍哉が、「は?」と抜かりなく声を潜めたまま目を見開く。 「どうせ向こうも、βの俺には興味ねぇだろ。母娘のご機嫌取り、頑張れよ。将来の嫁かも知れないぜ?」  卓巳の冗談に、龍哉が露骨に顔を顰めた。 「止めて。っていうかそもそも抜けるってなに。兄さん、まさかまた────」 「何かあったらスマホ鳴らせ」  卓巳の目論見を察したのか、引き留めようとする龍哉の声を遮って、卓巳は来賓の陰に隠れるようにしながら、目を付けた女の元へ向かう。アルコールの所為なのか、ソファの背に身体を預けるようにして座っていた彼女は、目の前にやって来た卓巳に気付いて、ほんのり紅く色づいた顔をゆっくりと持ち上げた。  大人しそうなその顔は、特別卓巳の好みのタイプではなかったが、今はこの退屈で窮屈な場所を抜け出せれば何でも良かった。それに少なくとも、千夏よりは可愛げがある。 「突然失礼。もしかして、気分でも悪いのかと思って」  警戒されないよう、営業用の優しい表情と声で、まずは控えめに声をかける。卓巳の思惑通り、彼女は少し気恥ずかしそうに苦笑して、姿勢を整えた。 「やだ、恥ずかしい……。慣れないお酒で、ちょっと酔ってしまったみたいで……」 「良ければ、ちょっと外出ませんか。風に当たると、気分も少し楽になるだろうから」 「え、でも……」  躊躇いがちに、彼女はまだ延々と熱弁を振るっている東條夫人を見遣る。あともう一押しと踏んだ卓巳は、「これだけ人が居れば大丈夫」とさり気なく彼女の手からカクテルグラスを奪って傍の給仕へ押し付け、空になったその手を捕らえて半ば強引に東條家が有する日本庭園へ彼女を連れ出した。  ずっと放任されて育ったからなのか、どうしても夜遊びや女遊びに走ってしまうのが、卓巳の悪癖だった。それに関しては弟の龍哉もさすがに良い顔はしなかったが、卓巳もしたくてしているワケではない。ただ、夜の街や一夜限りの男女の関係にしか、βである自分の居場所が見出せなかったからだ。  早々に親から見放され、自由を許されているからこそ、そんな自分を誰も咎めてはくれない虚しさが日に日に募っていく。それでも親の脛を齧っている卓巳は結局、西園寺の家から離れることは出来ないのだ。  パァン!、と小気味よく乾いた音が静かな庭園に響き渡ったのは、卓巳の唇が誘い出した相手の唇と重なる直前のことだった。 「は……?」  ジーン…と痺れる頬に、卓巳は一瞬何が起こったのか理解出来なかった。  目の前のほろ酔いで大人しそうな(と思っていた)娘から思いきり頬を張られたのだと気付いたのは、今度は怒りで顔を赤らめた彼女が東屋のベンチからすくっと立ち上がったときだった。  外に出たお陰で程よく酔いが醒めたのか、その顔は気の強そうな東條母娘とさほど変わらないように見えて、飲んでもいないのに酔っていたのは自分の方だったのではと卓巳は錯覚してしまったほどだ。  まだ事態を呑み込み切れていない卓巳へ、すっかり表情を一変させた彼女から容赦ない言葉が飛んできた。 「アナタ、αかと思ったらβじゃない! どうしてβなんかが呼ばれてるのよ!? βの癖に初対面で軽々しく触れようなんて、最低にも程があるわ!」  トドメに卓巳の身体を渾身の力で突き飛ばして、彼女はカツカツと怒りに満ちたヒール音を響かせながら、足早に屋敷へと引き返していった。 「……何だアレ……」  妖怪猫かぶり、とあっという間に見えなくなった背中へ向けて、卓巳は屈辱を通り越して馬鹿馬鹿しさを覚えながらポツリと呟いた。  これまで、声をかけた女からこんな扱いを受けたことはない。別に自分を買い被っているワケじゃないが、相手を悦ばせることにはそれなりに自身もあったし、だからこそ拒絶なんて、されたことがなかった。むしろ卓巳は女との関係は一晩限りと割り切っていたので、また会いたいと強請る相手をいつも断る立場だった。 (ってか細い腕してる割に、ビンタ強烈過ぎんだろ。まだ痺れてんぞ)  卓巳の行為を非難されるならまだわかる。だが、今回は完全に卓巳がβだからという、ただそれだけの理由だった。ただそれだけで、この仕打ちだ。  やっぱり名家の集まりになんか顔を出すモンじゃないと、卓巳はだらしなくベンチに凭れ掛かってうんざりとばかりに重い息を吐く。 (大体声掛けられた時点でαかβかの区別も出来ないようじゃ、この世界でやっていけねぇぞ)  たった今卓巳の頬を思いきり引っ叩いていった女の将来を案じてしまう自分自身に、乾いた嗤いが零れる。  今更屋敷に戻る気には到底なれないし、東條夫人のあのスピーチの長さを考えると、パーティー自体いつお開きになるかもわかったものじゃない。  さすがの龍哉も途中で抜け出してきそうではあるが、夫人が話し終えてすぐに「失礼します」とはならないだろうから、さてどうやって時間を潰したものか……。  すっかり興醒めしてしまった卓巳が、ベンチに身体を沈めたまま月の浮かぶ空へ何とはなしに視線を持ち上げたとき。 「……?」  東屋の先にある、一見するとただの林に見える木々の隙間に、ぼんやりと四角い薄明かりが見えて、卓巳は思わず片目を眇めた。  高さ的には、建物の二階か三階あたりだろうか。 (……こんな林の向こうに、建物なんかあんのか?)  どうせ暇を持て余しているし、思えば名家の庭をじっくり探索する機会なんてそうそうあるものでもない。  興味本位で東屋を出た卓巳が林の方へ近づいてみると、遠目には無造作に木が植えられているように見えていたが、林には辛うじて人一人通れるほどの細い小道が奥へと伸びていた。まるで他者の目を誤魔化すように、小道はうねうねと無駄に曲がりくねっている。  お陰で必要以上に距離の長い小道を漸く抜けると、目の前に現れたのは昔ながらの蔵だった。  東條家は今でこそ落ち目と囁かれてはいるが、歴史は長い名家だし、その昔利用されていた蔵がまだ庭に残っていたとしても、別に不思議ではない。だが、卓巳は目の前の蔵に奇妙な違和感を覚えずには居られなかった。  月明かりの下でもわかるほど、蔵がそう古い時代に建てられたようには見えなかったからだ。  本宅が和モダンなテイストにリフォームされていたからそう感じるのだろうかとも思ったが、どうも違う。蔵全体を見ても、長い年月を重ねた建物特有の痛みもないし、どちらかと言うと、敢えて古い時代に建てられた蔵のように見せかけて、比較的最近造られたもののように、卓巳の目には映った。それに、この蔵を覆い隠すように広がっている林も相当不自然だ。  そして卓巳が感じた違和感は、蔵の入り口を見て一層強いものになった。  観音開きの扉の取っ手には太い鎖が幾重にも巻き付けられ、更にそれを固定するように、大小幾つもの南京錠が取り付けられている。まるでこの蔵の中に、恐ろしい化け物でも封じ込めているのかと思うほどの禍々しさだ。 「何だよコレ……」  最早違和感というより恐怖を覚えながら、卓巳がそっと南京錠の一つに手を伸ばした時。 「触らないで……!」  控えめながら悲痛な声が不意に頭上から降ってきて、卓巳は反射的に顔を上げる。  蔵の二階部分だろうか。高い位置にある小さな窓からこちらを見下ろす影があった。  月明かりしかない上、窓に嵌まった鉄格子が邪魔をして相手の顔がよく見えない。辛うじて、長い黒髪と大きな瞳が確認出来る。  シルエットからすると、少女か若い女…だろうか。どちらにしても、これほど厳重に施錠された蔵に閉じ込められているのはあまりに不似合いだ。てっきりもっとおぞましい生き物でも居るのかと思っていた卓巳からすると、ある意味拍子抜けである。  そう言えばこんなシチュエーションの物語がなかっただろうか。ロミオとジュリエット? ……いや違う。もっとしっくりくる話があったような気がするが思い出せない。 「アンタ、なんでこんなトコに閉じ込められてるんだ?」  卓巳の問い掛けに、シルエットの主は「閉じ込められてる?」と一瞬理解に苦しむように首を傾げた。 「俺、別に閉じ込められてませんよ」  またしても、随分と拍子抜けな答えが返ってくる。しかも、てっきり女だと思っていた影の主はどうやら男らしい。声のトーンからすると、恐らくまだ十代半ばくらいだろう。 「いやいや……だっておまえ、コレじゃ外出られねぇだろ」 「外には出られませんけど、守られてますから」 「守られてる……?」  一体何から?  仮に守られているとしても、入り口の狂気じみた南京錠の数を見ると、守られているのはむしろ彼をこの蔵に閉じ込めた人物の方じゃないのかと思ってしまう。少なくとも卓巳は、こんな守り方は見たことも聞いたこともない。 「おまえ、一人なのか?」 「そうです」 「誰がおまえを閉じ込め────じゃなかった、守ってるんだ?」 「それはお父さ────」  あっけらかんとした口調のまま答えかけた少年は、そこで初めて何かを思い出したようにハッと口を噤んだ。 (お父さん……?) 「すみません、言っちゃいけない決まりなんです。今日俺と会ったことも、絶対、絶対、誰にも言わないでください……!」 「……話すと、どうなるんだ?」 「きっと、ただじゃ済まないんです。……俺じゃなくて、貴方が」  さっきまでの調子から一変して、第一声のようにどこか苦しげな声で訴えてくる少年に、卓巳は益々ワケがわからなくなる。  そんな卓巳に何度か「ごめんなさい」と謝罪の言葉を繰り返した後、少年は逃げるように窓辺から引っ込んでしまった。  存在を隠すようにこんな敷地の最果ての蔵に入れられて、おまけに他言することも禁じられて……これを「閉じ込められている」と言わずに何と言うのだろう。言い換えるなら、「監禁」、「幽閉」……。そう利口でもない頭を捻って必死に言葉を探しても、到底「守られている」なんて言葉には辿り着かない。  それなのに彼がこの状況をそう表現するのなら、それは誰かにそう言い含められているからじゃないのだろうか。こんな異様な状況に置かれながら、「守られている」ということを純粋に信じているのだとしたら、余りにも惨い。  彼は卓巳と二度と会わないことを望んでいるのかも知れないが、卓巳は思わず声を上げずには居られなかった。 「おい、待てよ!」  敢えて少しだけ声を張って呼び掛けてみる。少年が自身の存在を隠したがっているのなら、大声を出されれば止めざるを得ないだろうと思ったからだ。  案の定、少しして少年が恐る恐るといった様子で、半分だけ窓から顔を覗かせた。 「なんでまだ居るんですか……!? お願いだから早く行ってください……!」 「これだけ教えてくれたら行くよ。……俺、西園寺卓巳っつーんだけど、おまえ、名前は?」 「………」  答えるべきかどうか、躊躇っている様子が重い沈黙から伝わってくる。彼を困らせていることはわかったが、何故かこのまま立ち去ってはいけないような気がしたのだ。  一体どのくらい沈黙が続いただろう。卓巳には酷く長く感じたが、実際はほんの数秒だったかも知れない。そんな沈黙の後、彼は再び窓辺から姿を消した。  駄目だったか…、と身を翻しかけた卓巳の耳に、「……柚斗」と消え入りそうな声が降ってくる。  え?、と再び見上げた窓は、既に何かで塞がれてしまったのか、真っ暗になっていた。  東條家の敷地内に監禁されているということは、普通に考えれば東條の関係者には間違いないだろう。しかも、ここまで非人道的な手段で存在を隠しているあたり、東條の家系にとってはかなり重要な人物である可能性が高い。  柚斗と名乗った彼は、自分を閉じ込めた相手を「お父さん」と言いかけていた。だとしたらそれは東條聡一郎のことではないのかと思うが、東條夫妻の間に、子供は娘の千夏一人しか居ないと聞いている。  ……そう。あくまでも「聞いている」だけだ。  もし、その情報が真実ではないとしたら……?  明かりが外に漏れないようにしているのだろうか。ピッタリと閉ざされた真っ暗で小さな窓を、卓巳は静かに見詰める。この蔵の中で、彼は一体どれほどの時間を過ごしているのだろう。  昔から西園寺の家の中でただ一人はみ出し者だった卓巳は、敷地の最果てに追いやられている柚斗に、無意識に自分を重ね合わせていたのかも知れない。 (俺、絶対二度目の約束はしねぇ主義なんだけど……) 「……また絶対、会いに来るからな、柚斗」  とんでもない真実に触れてしまったかも知れないことを思うと胸の中はざわついているし、まともに考えれば、これ以上深入りしない方がいいに決まっている。それはわかっているのに、柚斗には届かない呟きを零した卓巳の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。  不意に、胸ポケットで卓巳のスマートフォンが震える。着信は、いつまで経っても戻らない兄に痺れをきらした、弟からの怒りの電話だった。  スピーカーから響いてくる龍哉の説教に素直に謝罪の言葉を返しながら、卓巳は再び柚斗と話せる日がくることを願って屋敷へと引き返す。その背中を、入り口脇のフラップ窓からそっと覗いて見送る柚斗の視線には、気付くことなく────

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