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第二話

「どうしよう……」  最早、食べようとしていた夕食のことなどすっかり忘れて、柚斗はズルズルと扉脇の壁に背を預けて座り込んだ。  この蔵へ来て、もう何年経つのかわからない。わからないけれど、今日初めて、ずっと守ってきた決まりを思いきり破ってしまった。  最初は、言葉を交わすつもりなんかなかった。  ただ、いつもより賑やかな外の様子や、滅多に人が来ない庭の東屋に見えた人影が気になっただけだった。  東屋の外灯の明かりに照らされた二つの人影はピタリと寄り添っていて、時折読む小説に出てくる恋人同士みたいな雰囲気だった。……といっても状況が小説の描写と似ていたから何となくそう思っただけで、実際の恋人同士というものが具体的にどういう関係のことを言うのか、柚斗にはわからないのだけれど。  そんな恋人みたいな雰囲気を醸し出していたかと思えば、一体何があったのか、突然破裂音のような乾いた音が響いたと思ったら、女性が何やら感情的に怒鳴る声がしたものだから、柚斗はその光景から目を離すことが出来なかった。勿論、何事かと驚いたのもあるのだが、風に乗って響いてくる女性の怒声が、幼い柚斗の顔を見るたびに怒鳴りつけていた女の人を思い起こさせたからだ。あの人が柚斗にとってどういう存在だったのかはわからないが、あの声は、好きじゃなかった。  柚斗が少し憂鬱な記憶に浸っている内に、女性はいつの間に東屋から姿を消してしまったのか、そこには細長い人影が一つだけ残っていた。  怒って立ち去ってしまったらしい女性を追い掛けるでもなく、かと言ってそう落胆している様子もなく、残された人影はぼんやりと東屋に座っている。それは、柚斗が知っている恋人同士の姿とはすっかりかけ離れてしまっていた。  ついさっきまでは逢瀬を楽しむ男女、という雰囲気だったのに、恋人という関係はこんなにも一瞬で綻ぶ関係なんだろうか。それとも、二人は端からそんな関係ではなかったんだろうか。  所詮は本を読みながらただ想像することしか出来ない柚斗に、二人の出会いから別れまでのいきさつなんて、予想出来るはずもなかった。だから、東屋に一人残された男性が、まさか柚斗の居る蔵へやって来るなんてことも、全くの想定外だったのだ。    蔵には毎日三食、食事を運んでくれる人が居る。  時計がないからその時刻までは柚斗にはわからなかったが、感覚的に「そろそろかな」と思っているとそっと小窓から食事のプレートが差し入れられるので、恐らくほぼ定刻に運ばれてきているのだろう。  それから食事以外にも、これも曜日は特定できないけれど、きっちり七日に一度、本や衣服や生活消耗品などが差し入れられるのだけれど、食事やそれらの物資を運んできてくれているのが誰なのか、そもそも毎回同じ人物なのかということも、柚斗は知らない。シャンプーや洗剤など、急遽足りないものが出たときや、届けられた衣服のサイズが合わないときは、食べ終えた食事のプレートにその旨を書いたメモを添えておく。すると、次の食事の際には迅速に希望した品が一緒に届けられた。  届けてくれた相手には心の中で礼を述べるだけに留めておいて、一切干渉しないのがここでのルール。柚斗が蔵でのルールを守らなければ、柚斗に関わった相手が困ってしまうのだということを知ってから、柚斗は敢えて関わろうともしなかったし、毎日蔵を訪れる『誰か』も、役割を終えれば足早に立ち去っていく足音が小窓越しに聞こえるので、きっと向こうも関わりたくないのだろうと思うようになっていた。  柚斗が体調を崩したときにやってきた医者でさえ、診療後は逃げるように蔵から出て行った。その医者の為に蔵の入り口を開けたのが誰なのか、弱っていた柚斗にはそれを確かめることも出来なかったけれど、何はともあれこの蔵には誰もが極力近付きたくないのだろうということだけは、ハッキリとわかった。  だから、そんな蔵へ敢えて近付いてきた上に、固く閉ざされた扉に触れようとする人が居たことに、柚斗は何より驚いた。お陰でつい決まりも忘れて咄嗟に声を掛けてしまったのだが、皆が柚斗との関わりを避けるように離れていく中、あろうことか相手の方から質問が返ってきたので、柚斗はこれにもビックリして、ついうっかり言葉を返してしまったのだ。  外が暗い所為で相手の顔はハッキリとは見えなかったけれど、少なくとも柚斗の知らない人物であることは明らかだったし、向こうも柚斗の存在……というより、この蔵の存在自体、知らない様子だった。だとしたら、彼は一体誰なのだろう? 『西園寺卓巳』と名乗っていたが、そう言えば過去に読んだ小説に、『西園寺』という人物が登場するものがあったな、ということくらいしかわからない。もっともその小説はフィクションのミステリー小説だったから、さっきの彼とは無関係なのだろうけれど。  大体、柚斗に話しかけ、更に名前を名乗ってくる相手なんて、これまで一人も居なかった。現に柚斗は、父親の名前さえ知らないのだ。  色んな『初めて』が重なって、すっかり卓巳の存在に気を取られていた柚斗は、これ以上話してはいけないと思いながらも、問われるまま自分も名乗り返してしまった。誰かと言葉を交わすのも、柚斗にとってはもう何年ぶりかというくらい久しい出来事だったので、無意識に浮かれてしまっていた部分もあったのかも知れない。  そして名乗ってしまってから、激しく後悔した。この蔵に来て初めて、柚斗に話しかけてくれた卓巳が、柚斗の所為で困ることになってしまうのではないか、と。  慌てて階下に下り、小窓からそろりと外を覗き見ると、他の誰とも違ってゆっくりと去っていく、背の高い男性の後ろ姿が見えた。思わず「待って!」と呼び止めそうになって、喉まで出かかった言葉を、柚斗は歯痒い思いで必死に押し殺した。  これ以上決まりを破るワケにはいかない。もしも卓巳が柚斗と接触したことが知られれば、かつて柚斗が「出して」と訴えた『誰か』が言っていたように、ただでは済まないかも知れないのだ。  ただでは済まない、というのが具体的にどういうことを指すのかまでは、柚斗にはわからない。何か酷い仕打ちを受けるだとか、決して良くはないことだというのは知識として知っているが、必要以上に柚斗と関わった相手が実際にどんな目に遭うのか。それが想像すら出来ないことが、柚斗には怖くて堪らなかった。柚斗の所為で知らない誰かが困ったり、辛い思いをするのかも知れないと思うと、自分がまるで物語に出てくる悪い魔法使いにでもなったみたいで……。  初めて柚斗とまともに言葉を交わしてくれた卓巳が、どうか辛い思いをしませんようにと床に座り込んで顔を覆いながら、同時に柚斗は初めてこの蔵に連れて来られた日のことを思い出していた。  柚斗一人を蔵の中に残して、重い音と共に閉ざされた扉。  たった一枚の扉に隔てられただけで、聞こえる父の声は随分と遠くなって、まるで世界にたった一人きりになったような気がしたのを覚えている。  この蔵で一人で過ごす生活がすっかり当たり前になっていたはずなのに、もう関わってはいけないと思いながらも、一方で卓巳を呼び止めてもっと言葉を交わしたかったと、柚斗の心が相反する感情の間で揺れ動いていた。  心がこんなに揺らぐのは、きっと彼が柚斗に言った「閉じ込められてる」という言葉の所為だ。  フラリと立ち上がった柚斗は、そのまま壁際の本棚へ向かい、分厚い一冊の本を抜き取る。蔵へ来て、まだ日も浅い内に差し入れられた国語辞典。  貰った当時はこの本の使い道が全くわからなかったけれど、様々な言葉の意味が調べられるのだと気付いてからは、柚斗は知らない言葉に触れるたびに、辞典を何度も何度も開いてきた。だから、この蔵にある多数の本の中でも、この国語辞典だけは一際ボロボロになっている。  今にもちぎれてしまいそうなページを慎重に捲りながら、柚斗は「と」の項目を辿っていく。やがて見つけた「閉じ込める」という言葉の意味は、「戸などを閉めて、外に出られないようにすること」とある。  確かにこれだけ見れば、今の柚斗の状況を表していると言ってもおかしくはない。  けれど、柚斗はそれを否定した。何故なら、父の言葉を頑なに信じていたからだ。  人は、大切な宝物を守るためにどこかへ仕舞ったり、誰にも触れられないようにする。少なくとも、柚斗が与えられた本には、いくつもそんな場面が見られた。  お金や宝石などは金庫へ。価値のある美術品はケースの中へ。有名な絵画はロープに囲まれて近付くことが出来ず、歴史に残る王の墓には立ち入ることが許されない。 「大事なおまえを守るため」という父の言葉から、柚斗はきっと自分もそれらと同じようなもので、だからこそ誰にも触れられない場所で守られているのだと思ってきた。  お金や宝石や美術品に有名絵画、ましてや偉大な王の墓を「閉じ込める」などとは言わないから、当然のように柚斗は卓巳の言葉を否定したのだが、見届けた背中を思い返しながら改めて国語辞典のページへ視線を落とす。  柚斗のことなど知らないはずの卓巳が、サラリと「閉じ込められている」と口にしたのは何故なのだろう。  これまで疑問に思わなかったし、思わないように心掛けてきたけれど、大事な物は厳重に仕舞われるものだが、人々が芸術品や古代遺産に触れられなくとも魅入られるように、また怪盗が仕舞われた宝物を颯爽と奪いに来るように、人というのはそれらに集いこそすれ、柚斗みたいに拒まれることはないんじゃないのだろうか。  関わった人がただでは済まないらしい柚斗────それは、本当に『大事なもの』と呼べるのか? 柚斗はそれこそ、人々から忌み嫌われる悪い魔法使いと同じではないんだろうか。  抱いたことがなかった……いや、恐らく抱いてはいけなかった疑問が、柚斗の中でゆっくりと膨れ始める。  ────知りたい。  本当のことが。  自分のことが。  手の中の分厚い辞典を全ページ捲っても決して見つからなかった答えが。  もう二度と会えないかも知れないし、何より会ってはいけないのだけれど、初めて柚斗の心を揺さぶってくれた卓巳なら、『柚斗』という存在が何なのか、その答えをくれるのだろうか。  そっと閉じた辞典を棚へと戻した柚斗は、瞳に焼き付いた卓巳の背中へ、静かに思いを馳せるのだった。 「ちょっと! 今日の腑抜けた姿は一体何なの!?」  ノックも無しに、扉を蹴破るような勢いで書斎へとやって来た香夏子を振り返りながら、聡一郎は柚斗の居る蔵の中をモニタリングしているディスプレイの電源を素早く落とした。  だが、目敏い香夏子はそれを見逃さなかったらしい。 「またあのΩの様子を見てたの!? 千夏の誕生パーティーはうわの空だった癖に、やっぱりあの女の子供が大事なのね」 「そうじゃない……今日は少し疲れが溜まっていたんだよ。……すまなかった」  こうして香夏子に頭を下げるのも本音を言えばもううんざりだったが、それは香夏子も同じようだった。「どうだか!」とまだ怒りの治まらない様子で扉に凭れかかった香夏子が、苛々したように腕を組む。  千夏の誕生パーティーが終わってすぐに自室を兼ねた書斎へと引っ込んだ聡一郎だったが、香夏子もドレスから着替えもせずに押し掛けてきていた。  柚斗が生まれてからというもの、聡一郎と香夏子のやり取りは大抵いつもこんな感じで、今日のように来賓があった日は特に、そこで過剰なほど愛想を振りまいている分、その鬱憤が後から全て聡一郎へと向かってくるのがお決まりだった。  しかし柚斗の件に関しては確かに聡一郎に非がある上、婿養子という立場もあって、結局は香夏子の怒りが治まるまで、聡一郎はひたすら謝り続けるしかない。そんな日々に、聡一郎は心底疲れ果ててしまっていた。  けれどそんなことはお構いなしとばかりに、香夏子はいつものように零し始める。 「貴方がそんなだから、いよいよ西園寺の家からはすっかり舐められてるのよ!? 今日なんて、とうとう末っ子しか寄越さなかったじゃないの!」 「きっと向こうの都合もあったんだろう。それに、次男の卓巳くんも来てくれていたじゃないか」 「それが一層腹が立つのよ! 東條家の娘の誕生パーティーには、末っ子と、出来損ないのβを行かせておけば充分だと思われてるってことでしょう!」  またそれか…、と聡一郎は香夏子にバレないよう、密かに呆れた息を吐く。  ただでさえ跡取り不足に悩まされている東條家の一人娘として育った香夏子は、人一倍、α以外の人間を蔑む傾向にある。どうにかしてαの血筋を残すことに必死だったが故に、一層βやΩの存在を毛嫌いするようになったらしい。  ただ、西園寺家の次男と三男には数年前の義母の葬儀以来、久し振りに顔を合わせたが、二人とも立派な好青年に成長していた。少なくとも、βだΩだということだけで相手の存在を否定してしまう香夏子のような名家の人間たちよりは、西園寺家の次男はよほど人として真っ直ぐに育っているように、聡一郎の目には映った。  だが、そんなことを口にすれば、香夏子という業火に益々油を注いてしまうことになるので、聡一郎は黙って耳を傾けるしかなかった。 「向こうがその気なら、こっちもせめて西園寺の三男の尻尾は離さないわよ」 「おいおい……下手に西園寺の家に手を出さない方がいい。今の東條じゃ、到底西園寺の力には敵わないよ」 「だから貴方にはもっとしっかりして頂戴って言ってるのよ! 長男は無理でも、三男くらいどうにかして千夏の婿養子にしなきゃ気が済まないわ! 貴方もいい加減、『もう居ない』Ωに構ってないで、東條家の将来を真剣に考えて!」  アップにしていた髪をバサリと下ろし、肩に落ちたその髪を鬱陶しそうに払いながら香夏子が聡一郎を睨みつける。明るい茶色に染色しているその髪は毛先が随分と痛んでいて、どうしても聡一郎は記憶の中にある柚花 > ゆうかの綺麗な黒髪と比べてしまう。髪も人柄を表すのだろうか、などと思わず苦笑した聡一郎に、これみよがしに盛大な溜息を一つ吐き捨てて、香夏子は荒々しく書斎を出て行った。  廊下を歩く足音が遠ざかっていくのを確認してから、聡一郎は深い息と共にデスクの前へ腰を下ろし、再びディスプレイの電源を入れた。  目の前のディスプレイには、蔵の一階部分と二階部分がそれぞれ映し出されている。  東條家の敷地全体のセキュリティに関しては外部に依頼してあるが、さすがに世間に柚斗の存在を隠している以上、蔵の監視カメラは外部に任せるわけにもいかず、その映像は聡一郎の書斎で確認出来るようになっていた。  とはいえ、聡一郎も二十四時間自宅に居るわけではない。仕事もあれば、付き合いで外出することも多々ある。  その為、蔵に取り付けてある監視カメラは、『監視』という役割よりも、時折柚斗の様子を『観察』している、と言った方が正しい状態だった。  香夏子などは、最早柚斗を「あのΩ」と呼び、生きてさえいれば良いのだと、関心すら示さない。だから以前、モニター越しに柚斗の体調がおかしいのではと聡一郎が気付いたときも、香夏子は医者を呼ぶことさえ渋っていた。  結局、それで万が一のことになったらどうするんだと聡一郎が説得し、充分に香夏子が脅しという名の口止めをした医師だけが蔵に入るという形で治療をして貰ったのだが、日に日に成長し、柚花に似てくる柚斗を見ながら、聡一郎は考えずにはいられなかった。  もしも柚花の妊娠がわかったとき、東條の家を捨てて彼女と一緒になっていたら、自分や柚花や柚斗には、どんな未来が待っていたのだろうか、と────  果たして監視カメラというものに気付いているのかいないのか。画面の中で、柚斗は蔵の一階で分厚い本を捲っていた。恐らく、アレはまだ柚斗が幼い頃に蔵に届けた国語辞典だ。柚斗が新しい本を読んでは、片手間にその辞書を広げている様子を聡一郎も何度も見ているので、きっと辞書の使い道を理解しているのだろう。  察しが良く利口で、どこまでも純粋。 (……本当に、柚花そっくりだ……)  柚斗が置かれているこの状況を柚花が見たら、一体どう思うだろうか。彼女は息子のこんな未来を、想像しただろうか。  柚斗自身はもう日付の感覚なんてないだろうからきっとわからないはずだが、彼ももうすぐ十六歳だ。そろそろ、いずれ迎える発情期にも備えなければならない。だが、この状況でどうすれば良いというのだろう。恐らく香夏子は、放っておけと言うに違いない。  そんなことなどまるで知らない様子で、真剣に本のページを捲る柚斗の姿を眺めながら、聡一郎は疲れの滲む顔を覆った。  これだけ育ってしまった東條家の『秘密』は、抱え込むにはあまりに大きく、重い。  そしてその『秘密』を作ってしまったきっかけが聡一郎自身であることを悔いるには、余りにも時間が経ちすぎてしまっていた。        ◆◆◆◆◆ 「んー……やっぱあの構造だと難しいよなぁ……」  我が物顔で弟のベッドに転がり、勝手にテレビまで点けて適当にチャンネルを変えながら呟く卓巳へ、ベッドの主である龍哉がデスクから迷惑そうな視線を寄越してきた。 「兄さん、テレビ見るなら自分の部屋で見たら? レポート集中できないんだけど」  国内トップのT大法学部に在籍している龍哉は、平日休日問わず、家に居るときは大抵デスクに向かって勉学に勤しんでいる。今も正にPCと向き合いながら小難しいレポートを作成している真っ最中のようだが、さすがにもう小一時間ほど部屋に居座っている卓巳に、うんざりし始めたらしい。  だが、弟のそんな反応などお構いなしに、卓巳はテレビのリモコンを放り出してボフッとベッドに顔を埋めた。  東條家の娘、千夏の誕生パーティーに呼ばれてから、今日で一週間。  あの日、東條家を去る直前に出会った(というか、見つけてしまった)柚斗のことが脳裏から離れずにいる卓巳は、柚斗が蔵に監禁されている理由と、あの蔵から柚斗を助け出す術について、毎日考え続けていた。  まずは監禁の理由だが、正直柚斗との短い会話の中から確定づけるのは難しい。けれど、例えば柚斗が当主の聡一郎と夫人の香夏子の間に生まれた息子であるとすれば、跡取り不足に悩まされている東條家にとっては寧ろ有難い存在のはずで、監禁する理由なんて見当たらない。だとすると、考えられる可能性は大きく二つ。  一つは、柚斗が聡一郎か香夏子、どちらかの愛人との間に生まれた子供である可能性。  そしてもう一つは、卓巳と同じく、名家にふさわしくない『第二の性』をもって生まれた可能性だ。ただ、東條の家より今ではよほど力の強い西園寺の家にβとして生まれた卓巳ですら、放任されているとはいえ、別に非人道的な生活を強いられたりはしていない。それを考えると、柚斗は社会的には最も地位が低いとされるΩである可能性が高くなる。  勿論、これ以外の理由も卓巳には思いつかないだけであるのかも知れないが、二つの内のどちらかの理由で監禁されている可能性が最も高いと卓巳は踏んでいた。  そして次に、柚斗をどうにかして蔵から出してやる方法だ。  思いつく手法を片っ端からスマホで検索し、実行可能かどうか、頭をフル回転させてシミュレーションしてみているのだが、なかなか成功しそうな手段が見つからない。  柚斗は、彼と話すと卓巳が困るのだと言っていたが、出会いから一週間経った今も、特に東條家からは何の動きもない。ということは、あの日卓巳が柚斗と出会ったことは、恐らく東條家にはバレていないと考えていいだろう。そこから察するに、蔵の内部は不明だが、少なくとも蔵の周囲に関しては、それほど厳重に警備されているということはなさそうだ。  あの過剰なほどに南京錠が取り付けられていた扉とは相反して周辺の警備が緩いのは、柚斗本人に逃亡の意思がまるでないからかも知れない。短い言葉を交わしただけだが、少なくとも柚斗が「閉じ込められている」という認識を全く持っていないらしいことは明らかだった。  それに何より、あの日見た限りでは、あの蔵には施錠された扉以外に、人が出入り出来そうな箇所が一つもなかった。扉の脇にポストのような小窓があったが、それはいくら柚斗が卓巳より小柄で細身な少年だったとしても、到底通り抜けることは不可能なサイズだったし、柚斗が覗いていた二階(もしくは三階?)の窓は、大きさとしては出入り出来そうだったが、高さの問題に加えて、しっかりと嵌められた鉄格子がそれを遮っていた。 (どう考えても、監禁用に建てられたとしか思えねぇんだよな……)  仮に卓巳が長い梯子を持参して上階の窓に到達出来たとしても、鉄格子がある限り、卓巳が入ることも、柚斗を連れ出すことも不可能だ。かと言っていっそ大胆に、壁に大穴でも開けようものなら、いくら警備が手薄でもさすがにそれはバレるだろう。  そうして結局考えが行き詰ってしまう卓巳は、自分より遥かに優秀な頭脳を持つ弟の力を借りるべく彼の部屋へ居座っているのだが、今度は柚斗のことをどう切り出したものかと迷っていた。  もしかしたら、東條家のとんでもない秘密を暴こうとしているかも知れないと思うと、軽率に話してしまって良いのだろうかと頭を抱えるところだ。しかし、だからと言って父や龍司に話そうものなら、「関わるな」と一蹴されるに決まっている。それを考えると、西園寺家のはみ出し者である卓巳が力を借りるなら、やはり一番親しい龍哉しか居ない。  ベッドに横になったまま、ただ流れている番組を見ながら卓巳は考える。番組ではグリム童話が特集されていて、その中から『シンデレラ』が紹介されていた。シンデレラに辛く当たったり、意地悪な姉たちをどうにか王子の嫁にしようと無理矢理ガラスの靴を履かせにかかる継母の姿が香夏子と重なって、卓巳は思わずげんなりした。  ……やっぱり、このままでいいワケがない。  視線はテレビ画面に向けたまま、卓巳はいよいよ腹を括って「なあ」と重い口を開いた。 「東條の家の子供って、娘の千夏一人だよな?」  寝転んだまま問い掛けた卓巳に、龍哉が「いきなり何?」と怪訝そうに首を傾げてデスクチェアごと卓巳の方へ向き直る。 「東條家に千夏さん以外の子供が居るなんて、聞いたことないけど。……っていうか、『東條の家は一人娘だから、既に娘の婿探しに必死だ』って、この前のパーティーで兄さんが言ってたんじゃないか」  溜息混じりに言いながら、龍哉は卓巳の質問の意図を計りかねてか、形の良い眉を顰めた。もしかしてβの自分だけが知らされていないだけなんだろうかとも少し思ったりしたのだが、龍哉の返答からすると、やはり東條家の子供が一人だけだという情報は間違いなさそうだ。  それを確信して、ようやく卓巳は身体を起こしてベッドの上で胡坐をかく。 「おまえ、この前の誕生会で俺が抜け出した後、東條の連中と何か話したか?」 「西園寺の代表として行ってたんだから、話もしないで黙って帰れるワケないでしょ」  誰かさんが勝手に居なくなるから余計にね、とあの日のことを思い出したのか、不機嫌な声で龍哉はチクリと嫌味を添えてきた。 「でも誕生パーティーっていうのは口実みたいなもので、実際は兄さんの言う通り、娘の千夏さんの婚活パーティーみたいな感じだったよ。千夏さんはどうも龍司兄さんがお気に入りみたいだったけど、香夏子夫人からは妙に熱心に千夏さんを推された」 「やっぱりおまえ、かなり有力な婿候補にされてんじゃねぇ? 一方的に」 「申し訳ないけどそれはご遠慮したいなあ……僕にはあの母娘は色んな意味でキツ過ぎるんだよね」 「当主の聡一郎とは? 俺が出てった後話さなかったのか?」 「聡一郎さんは、終始心ここにあらずって感じで、時々誰かに声を掛けられたら答えてはいたけど、挨拶しか交わさなかったな。聡一郎さんて、前からあんな感じだったっけ? あの日は具合でも悪かったのかな……」  首を捻る龍哉を見ながら、卓巳もあの夜の聡一郎を思い出す。酷く疲れているような、まるで覇気のなかった東條家の当主。  いくら東條の家が落ち目だと囁かれていようとも、変わらず勝気な母娘に圧倒されて疲弊してしまっているのかとその時は思った卓巳だが、柚斗が言っていた、お父さんに「守られている」という言葉を素直に受け止めるなら、敷地内に蔵を造ってそこに人間を閉じ込めるだけの権限を持っているのは、恐らく聡一郎以外には有り得ない。 「閉じ込められてません」とあっけらかんと否定した柚斗と、何かに疲弊しきった様子の聡一郎。この二人の間に、一体何があるのだろう。  東條の家が子供は千夏一人だと公表している以上、東條の人間を問い詰めたところで、恐らく皆、柚斗の存在を否定するだろう。そうでなければ、あんな蔵に隠しておく必要などないのだから。  だとすれば、やはり柚斗自身からもっと話を聞かないことには、何もわからない。出してやろうにも蔵の内部が全くわからなければ迂闊に手も出せないし、柚斗があの蔵に隠された経緯を聞き出す必要がある。  だがそこで問題なのが、柚斗とゆっくり話をする場もないということだ。  先日は柚斗が先に声を発してくれたお陰で卓巳もその存在に気付くことが出来たし、幸い人目もなかったので短いながらも話が出来た。  けれど、蔵の周辺がどうなっているかはともかく、いくら何でも東條家の敷地全体にはそれなりにセキュリティ対策もなされているだろうから、勝手に入り込むのはリスクが高すぎるし、仮に無事蔵まで辿り着けたとしても、窓越しにしか会話が出来ないとなると、その声で誰かに気付かれる可能性は大いにある。 「さすがに、東條の家のセキュリティ状況までは、おまえもわからねぇよなぁ……」  どうしたものか、と腕を組んで再び沈黙した卓巳に、龍哉が怪訝そうに首を捻った。 「さっきから一体何なの。東條の家に盗みにでも入るつもり? 兄さん、先週の誕生パーティーに行ってからずっとそうやって考え込んでるけど、東條の家に何かあるの?」  意外にも卓巳の様子をよく見ていたらしい龍哉の問い掛けに、思わず顔を上げる。すると視線の先、つけっぱなしだったテレビ画面に映った映像を見て、卓巳は「そうだ、コレだ!」と思わず手を打った。  今度はなに、と龍哉も視線を向けたテレビで流れていたのは、グリム童話の『ラプンツェル』だ。  高い窓から覗く柚斗を見上げて話していたとき、その状況に似たような話をどこかで見たような気がすると思ったが、思いがけないところで答えが見つかった。まともに読んだことがないので詳細は知らないが、高い塔に幽閉されているラプンツェルと、蔵に閉じ込められた髪の長い柚斗の姿が今になってピッタリ重なる。 「兄さん、グリム童話なんて興味あったの?」 「そうじゃねぇよ。この『ラプンツェル』が思い出せなくてモヤモヤしてたんだ。この話、確か塔から垂らした髪を王子が登っていくんだったよな?」 「そうだよ。でもグリム童話だから結構ハードな内容なんだよね。ラプンツェルの髪を登っていった王子が、ラプンツェルを妊娠させたり、それが原因でラプンツェルは塔から放り出されるし、王子は両目を失ったりするし」 「……おまえ、人のやる気削ぐようなこと言うなよ」 「やる気……? 別に、話の内容をざっくり言っただけだけど」  意味がわからないといった様子で、龍哉が首を傾げる。  いくら柚斗の髪がラプンツェルくらい長くても、実際にその髪を卓巳がよじ登ったりしたら、柚斗の首がポッキリいってしまう。おまけに、仮に奇跡的に登ることが出来たとしても、卓巳に鉄格子を潜り抜ける術がない。 「……『ラプンツェル』と東條の家が、何か関係あるの」  龍哉の鋭い質問に、卓巳はこれはもう素直に話して弟の知恵を借りるしかないとテレビの電源を消した。さすがに柚斗が蔵から放り出されたり、卓巳が失明するようなルートは避けたい。 「龍哉……おまえ、口の軽い男じゃねぇよな?」 「……あ、それなんか良くない話の前振りだ」  あからさまに嫌そうな顔をする龍哉に、ここまで来たら付き合ってくれと縋る思いで卓巳は少し身を乗り出した。 「……実はこの前、東條家の敷地の隅で、監禁されてるヤツを見つけちまってさ」  神妙な面持ちで切り出した卓巳に対して、龍哉は一瞬何を言われたのかわからないと言った様子で数回目を瞬かせた。 「は……? 監禁……?」  呆然と卓巳の言葉を繰り返す龍哉に、卓巳は静かに頷き返す。 「庭の林を抜けたところに蔵があるのをたまたま見つけたんだけどな。その中に、多分十代半ばくらいの男が監禁されてた」 「ちょ、ちょっと待って。さっきから東條家の子供がどうとか言ってたけど、まさかその監禁されてる人物って……」 「俺の予想では、多分東條家のもう一人の子供だ」 「……冗談キッツイよ……」  卓巳の口調や面持ちから冗談などではないとわかっているだろうが、それでも龍哉は堪らずといった様子で額を押さえた。 「跡取りが出来ないって必死になってる東條家に、実は男の子が居たってこと? でも、男の子なら東條家にとっては何より嬉しい存在じゃないの?」 「問題はそこなんだよ。跡取りが欲しいはずの東條の連中が敢えてその存在を隠すぐらいだから、東條夫妻の間に真っ当に生まれた子供じゃないか、もしくは、そいつがβかΩなんじゃないかと俺は思ってる」  それから、卓巳は改めてあの日パーティー会場を抜け出してから、柚斗に出会うまでの経緯を、蔵の外観も含めて詳細に話した。  黙って耳を傾けていた龍哉が、卓巳の話を聞き終えた後、重くて長い息を吐く。 「……つまり、兄さんがナンパに失敗したから、偶然その蔵の存在を知ってしまったってことか」 「あの女のことはどうでもいいんだよ、腹立つから思い出させんな」 「何言ってんの、自業自得でしょ。……それにしても、子供を監禁してその存在を隠し続けてるなんて、事実だとしたら許されないことだよ。この話は僕も聞かなかったことにするから、兄さんも、これ以上関わらない方がいい」  父と兄から寄越されると思っていた反応が弟の龍哉からも返ってきて、落胆と悔しさから卓巳は眉根を寄せた。 「……おまえも、結局そういう答えなのかよ」 「兄さんの話を聞く限り、大方その子を蔵から出してやろうとでも思ってるんじゃないの? だけどいくら西園寺の権力が強くても、下手に手を出したらこっちが誘拐犯になるんだよ。彼を助けたいなら、警察に通報すればいい話でしょ。それにそもそも兄さんは、自分からそんな面倒事に首を突っ込むタイプじゃなかったじゃないか」  「………」  そんなことは、龍哉に言われなくてもわかっている。  卓巳は特別正義感の強い人間というワケでもないし、面倒事が嫌いだから、これまで出会った女との関係も一晩限りに留めてきた。だからあの日出会った柚斗が卓巳に「助けて」と訴えてきていたら、卓巳は逆にこれほど彼に執着することもなく、龍哉の言うようにあっさり警察に通報して、それっきり関わることもなかったかも知れない。  けれど、自分はあくまでも「守られている」のだと信じつつ、監禁されている自分よりも卓巳の身を案じていた柚斗の純粋さが、酷く不憫でならなかったのだ。  黙り込んだ卓巳に、龍哉が困ったように小さく溜息を零す。 「仮に彼を助け出すことに成功したとして、その後はどうする気なの? 彼が本当に東條の家の隠し子だとしたら、居なくなったことがわかればきっと向こうは血眼になって探すだろうし、例え逃げのびたとしたって、その先彼にどんな生活を与えるつもり?」 「……もしもアイツを助け出せたら、俺もこの家から出ていく。αに生まれなきゃ、自分の思うように生きることも許されないのかよ。俺だって、望んでこの家にβとして生まれたワケじゃない。アイツだってきっとそうだ。だからこそ、望むように生きる権利くらい、あったっていいだろ」  父の龍馬は昔から、重鎮の集まる場には卓巳を連れ出そうとはしないくせに、東條家の誕生会のような、自ら足を運ぶまでもないと判断した場には都合良く卓巳を利用する。そんな風に扱われることを、嫌だと思いながらも心のどこかで「仕方ない」と諦めて、卓巳は今まで生きてきた。だからこそ、自由を奪われた中でも卓巳のように擦れることなく純粋に育っている柚斗には、卓巳と同じような思いはして欲しくなかった。させたくなかった。  やはり柚斗の件は自力でどうにかするしかないかと、弟の協力は諦めて自室に戻ろうとした卓巳の背後で、再びPCに向き合った龍哉が「言っておくけど」と声を上げた。驚いて振り返った卓巳の視線の先で、龍哉はPCモニターを見詰めたまま続ける。 「僕は法学部に通ってる身として、法に触れる可能性がある行為には頼まれたって手は貸せない。……貸せるとしたら、精々知恵くらいだよ」 「龍哉……」  キーボードを叩く手を止めないまま敢えて素っ気ない声を寄越してくる龍哉に、卓巳は改めて思い知った。自分がこれまで西園寺の家でどうにか過ごしてこられたのは、この弟の存在があったからだと。  両親ですら卓巳には関心を示さない中、弟の龍哉だけは小さい頃から「兄さん」といつも卓巳の後をついてきた。さすがに今では龍哉も卓巳が西園寺の家で煙たがられている理由は理解しているだろうが、それでも龍哉だけは、卓巳への態度を変えることはなかった。そういう意味では、西園寺の家の中で、龍哉が一番純粋なのかも知れない。 「何だよおまえ、ツンデレかコラ」  ぐしゃぐしゃと弟の髪を掻き乱す卓巳の手を迷惑そうに払い除けて、龍哉は観念したように息を吐く。 「どうせ端から僕に協力させるつもりで部屋に来たんじゃないの? だけど、僕に限らず兄さんだって西園寺の人間なんだし、あんまり危険な橋渡るようなことはしないでよ」 「わかってる。あくまでも俺の独断でやったことにするから、仮に何かあっても責任は全部俺が取る」 「……兄さんにそんなヘマさせないように、僕の知恵が要るんでしょ」  少し拗ねたような口調で呟いた龍哉が、一枚のコピー用紙とボールペンを突きつけてきた。 「兄さんが見た限りでいいから、その子が監禁されてる蔵の外観図、描いて」  紙とペンを受け取って、卓巳はデスクの端のスペースを借り、記憶を辿って蔵の絵を描き込んでいく。西園寺家の凸凹……いや、凹凸兄弟による、『柚斗救出作戦』の幕開けだった。  そう言えば小さい頃、こうして一緒に秘密基地の図面を描いて遊んだのを思い出す。  卓巳が描き上げた蔵の絵を見て、龍哉もどこか懐かしそうに目を細めて笑った。 「相変わらず兄さん、絵下手だなあ」 「うるせぇな。大体の構造がわかればいいんだろ」 「なるほど……一階部分からは出入りは不可で、上階の窓にも鉄格子か。脱出に使えそうなのは上の窓だけど、鉄格子をどうにかしないと出られないね」 「それな。蔵の中に何があんのかわからねぇけど、鉄格子を壊す道具なんか、さすがに無いだろうしな」 「でも、幸いなのは鉄格子が外側についてることだよ。常に外気に触れてる場所なら、どうにかして彼に毎日、鉄格子に海水────つまり塩水をかけてもらえばいい」 「塩水……?」 「海の傍の家では車とか金属が錆びやすいって、聞いたことない? 外で雨ざらしになってれば鉄は放っておいても自然と錆びていくけど、塩分があればより錆びやすくなるんだよ」 「……そうか、錆びさせてとことん劣化させるってことか」  その通り、と龍哉が頷く。 「手っ取り早いのは工具で強引に破壊するか、強い薬品を使う方法なんかがあるけど、工具の場合は騒音の問題があるし、薬品は人体に害を及ぼしてしまう可能性もあるから、安全かつ手軽なのは塩水で錆びによる劣化を促すことだと思う。ただ問題は、彼に塩水を用意することが可能かどうか……この一階にある小窓は、開閉可能なのかな?」  龍哉が、卓巳の描いた蔵の入り口脇にある窓を指して首を傾げる。 「どうだろうな……見た目は郵便受けみてぇだったけど」 「郵便受け……そっか、人が通れないサイズになってるってことは、正に『郵便受け』みたいな役割なのかも知れない。彼がどのくらい蔵で過ごしてるのかわからないけど、兄さんの話を聞く限りでは特に衰弱してるってことはなさそうだし、だとしたら食糧とか、生きていく上で最低限必要な物資は届けられているんじゃないかな」 「この小窓が誰でも開閉出来るなら、塩水もこっちで用意して差し入れるのは、不可能じゃねぇワケだな」 「でも僕なら、まずは最初にスマホと、蔵の中にコンセントがないことを配慮してモバイルバッテリーを差し入れるかな」 「スマホ?」 「うん。蔵の外観は大体把握出来たけど、蔵の内部構造だとか、彼が置かれている環境とか、あまりにも情報が少なすぎる。兄さんはたまたま見つからずに済んだみたいだけど、監禁してるくらいだから、警備も完全なノーガードっていうのは考えにくいし、先ずは彼と話せる環境を作って、可能な限り情報を集めるのが良策じゃないかな。……その子がスマホを扱えるかどうかは、ある意味賭けになるけど」 「……さっすが、現役T大生は頭の回転速いな」  この一週間、卓巳が散々頭を悩ませていたことに、龍哉は次から次へと打開策を見出していく。その頼もしさに素直に感心する卓巳を横目で見遣って、「兄さんが一人で暴走しなくて良かったよ」と龍哉が呆れた呟きを漏らした。 「でも何より大事なのは、その子に『外に出たい』っていう意思があること。それがなかったら、兄さんはホントにただの誘拐犯になる。あとは、どうやって彼に差し入れを届けるかだね」 「アイツの意思はスマホが無事届けられたら改めて確かめるとして、届ける方法に関しては俺に考えがあんだけど、おまえ、協力してくれる?」 「……法に触れないことなら」  露骨に顔を顰める龍哉に向けて、卓巳はニ…、と不敵に口端を持ち上げて見せた。   ◆◆◆◆◆  ────五日後。  よく晴れた土曜日の午後。  卓巳は龍哉と共に、再び東條邸を訪れていた。  龍哉に「千夏さんともっとゆっくり話がしたい」と東條家に連絡して貰ったのだが、応対した母の香夏子は二つ返事で「是非に」と応じてくれた。娘はともかく、香夏子はどうやら相当龍哉にご執心らしい。  この日は当主の聡一郎が仕事で不在だと聞き、敢えて卓巳たちは今日という日に約束を取り付けた。『敵』は一人でも少ない方がいい。  勿論、自身の目的の為に龍哉を千夏の餌にする気なんて、卓巳には毛頭ない。千夏と話す中で、東條家のセキュリティ状況をさり気なく聞き出して貰うのが目的だった。  西園寺家の送迎車を使うと父にバレる可能性があるので、この日は敢えて電車を利用して卓巳たちは東條家を訪れていた。  パーティーの時とは違って固く閉ざされた立派な瓦付きの門の脇にあるインターホンへ手を伸ばそうとして、卓巳はふと視界の隅に映った一人の女性の姿に気が付いた。  改めてそちらへ顔を向けると、道路を挟んで反対側の歩道に立つその女性は、懐かしそうにも寂しそうにも見える顔で、ジッと東條邸(恐らく彼女からは門と塀しか見えていないだろうが)を眺めている。肩に沿うようにして綺麗に編み込まれた艶のある黒髪が目を引く女性だった。  東條の家に何か用事があるのだろうかとも思ったが、容姿こそ美しいものの、身なりは至って平凡だったし、一定の距離を保ったままそれ以上近付く気配もない。 「兄さん?」  インターホンを押す手が完全に止まってしまっている卓巳に、隣から龍哉がどうかしたの?、と声をかけてきて、ハッと我に返る。 「いや、向こうに東條の家をずっと見てる女が居たから気になってな」 「向こう……?」  卓巳が示した方向へ視線を向けた龍哉が、訝しげに首を捻る。 「……誰も居ないけど?」 「え?」  慌てて卓巳がもう一度女性が立っていた場所へ視線を戻すと、確かにそこにはもう彼女の姿はなかった。 「嘘だろ……ついさっきまで居たのに」 「兄さん、最近夜遊びしてないから、幻でも見たんじゃないの」  揶揄ってくる龍哉の米神を、コツンと軽く小突き返す。  ……幻? 幽霊? ……いや、こんな昼日中にあんなにハッキリと現れる幽霊なんて居ないだろう。  もしかして、卓巳たちの存在に気付いて早々に立ち去ったんだろうか。何にせよ、ただ通りすがりに豪邸を見かけて足を止めた、といった雰囲気ではなかったし、明らかにここが東條の家だと理解して思いを馳せているように見えた。  彼女は一体誰だったのだろうと首を捻りつつ、卓巳は気持ちを改めて今度こそインターホンを押した。  門まで出てきて迎えてくれた香夏子は、何故か龍哉と共にやってきた卓巳の姿を見て一瞬怪訝そうに眉を跳ね上げた。その目が「βのアナタが何の用なの」と問うているようで、卓巳は内心うんざりしつつ、それでも至って愛想の良い作り笑いを浮かべて一礼した。 「不躾な訪問、申し訳ありません」  頭を下げた卓巳の隣で、事前の打ち合わせ通り、龍哉も深々と頭を下げてから、卓巳の代わりに口を開いた。 「実は、兄は最近カメラに夢中なのですが、先日千夏さんのお祝いに伺わせて頂いた際、東條家の見事な日本庭園に惚れ込み、是非撮影したいと申しておりまして」 「弟が千夏さんとの歓談を楽しませて頂いている間、良ければ撮影させて頂けないでしょうか」  言いながら、卓巳は知人から借りてきた一眼レフを掲げて見せる。  香夏子も、龍哉の口から出た賛辞にすっかり気を良くしたのか、「まあ、そうでしたの」と一転して笑みを浮かべた。卓巳に龍哉と千夏の邪魔をする気がないとわかれば、コロッと態度を一変させるこの変わり身の早さには呆れを通り越して感心してしまう。 「そういうことでしたら、どうぞごゆっくり撮影してくださいな。ただ、お恥ずかしいながら奧の林は手が入っておりませんで、庭師が蛇を見たとも言っておりましたので、近づかないようにお気をつけくださいませね」 (なるほど、庭に立ち入る人間にはそうやって釘を刺してるワケか)  卓巳からすれば、目の前の香夏子に比べれば蛇なんて可愛いものだと思ってしまう。仮に林に居るのが蛇なら、香夏子はさしずめワニといったところだろうか、なんて思いつつ、 「ありがとうございます。爬虫類は苦手なので、なるべく手前で撮影させて頂きます」  と、卓巳なりの皮肉を込めた礼を述べて、もう一度深く頭を下げる。 「……これは違法じゃねぇだろ?」 「……相当グレーだよ」  庭に出る直前、香夏子には聞こえない声音で龍哉とそうやり取りしてから、卓巳は香夏子に促されて屋敷へ向かう龍哉と別れ、カメラを首から提げて庭園へと向かった。  背中のボディバッグには、柚斗への『差し入れ』が入っている。しかしそのまま真っ直ぐ柚斗の居る蔵へ向かったのではさすがに怪しまれるかも知れないので、卓巳はいかにもそれっぽくアングルを変えながら、二十分ほどシャッターを切りまくった。実際にはカメラの扱いなんて全くの素人なので完全にデタラメだったのだが、幸い龍哉が上手くやってくれているのか、庭に居る卓巳を気に掛ける者は居ないようだった。  そろそろいいか、と卓巳は初めて蔵の存在に気付いた東屋から、林の方へ目を向ける。  あの日は夜で、おまけに偶然蔵の窓から明かりが漏れていたから木々の間からでもその存在に気付くことが出来たが、昼間に改めて見てみると、上手く木々の緑に覆い隠されて、蔵は全く見えなかった。まるで、あの日卓巳が見つけた蔵は幻だったのではないかとさえ思えるほどだ。  なるほど、上手く隠したものだと思いながら、卓巳はゆっくりと林の方へ向かう。以前とは時間が違うので、万が一誰かと遭遇したときの言い訳を考えながら歩いていたが、幸い誰とも出くわすことなく、卓巳は林の中の小道を抜け、あの日の夜のようにひっそりと佇む蔵の前に出た。  それでも極力足音を立てないようソロリと近づき、高い窓を見上げる。残念ながら、今日は窓辺に柚斗の姿はなかった。今度は柚斗の存在が幻だったのか?、と思えてきたが、あの日と変わらず幾つもの南京錠で施錠された扉を見て、やはり柚斗は確かにこの中に閉じ込められているのだと確信する。  柚斗は今、この扉の向こうで何をしているのだろう。こんなにも良い天気の日ですら、外に出ることも許されず、どうやって時間を潰しているのだろうか。  声を掛けたくても、人目が気になってそれが叶わないもどかしさに、卓巳は無意識に拳を握り締める。柚斗の顔が見られないのは残念だが、今日の目的は、この先必ずこの陽射しの下で、柚斗の顔を見る為の布石だ。  そう自分に言い聞かせながら、卓巳が扉脇の小窓の取っ手に手を掛けると、龍哉の予想通り、小窓は郵便ポストのようにすんなり引き開けることが出来た。 (ちゃんと気付けよ……)  そんな想いを込めて、卓巳は小窓の隙間からスマホとその充電器、それから龍哉の提案通りにモバイルバッテリーも添えてそれらを素早く滑り込ませると、名残惜しい気持ちを抑えつつ、林の小道をゆっくりと引き返した。

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