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第三話

 ───カタン。  静かだった蔵の中に、不意に微かな物音が響いた。 「……?」  穏やかな陽が射し込む二階の窓の近くに座って、昨日差し入れられたばかりのファンタジー小説に没頭していた柚斗は、その音で一気に現実世界へ引き戻される。  これまでの経験から察するに、恐らく小窓から何かが差し入れられた音だろう。けれど、だとしたら妙だ。  昼食は少し前に食べたから、夕食まではまだまだ時間があるはずだし、食事以外の定期的な物資の差し入れは昨日届いたばかりだ。  今日は本来なら、食事以外何も届くはずのない小窓から聞こえた物音。一体何なのだろうと、柚斗は読んでいた本に栞を挟んで床に置き、恐る恐る階下へ下りてみる。  隙間だらけなので到底隠れることは不可能なのだが、それでも階段の手摺に身を隠すようにしてそろりと小窓に据え付けられたカウンターを見ると、そこには見たことのない物が並んでいた。 「……なに、アレ……」  眉を顰めて暫くじーっと眺めてみたが、取り敢えず動くことはなさそうだったので、柚斗は意を決して小窓に歩み寄り、カウンターに並ぶ謎の物体をまじまじと見詰める。  一つは、白くて四角い箱のようなもの。  それから、束ねられた白い……紐? 首を捻りながら指先で触れてみたそれは、紐と言うには硬すぎる。二階の唯一の照明である電気スタンドのコンセントと同じで、二本の金属が片側についているから、恐らくこれはコンセントコードだ。  そしてあと一つは、白い箱よりもっと薄くて細長い、銀色の板のようなもの。手に取ってみると、これも板と呼ぶには厚みの割に重かった。見た目といい、質感といい、木製ではないことは明らかだった。  片面には中央にアルファベットが数文字並んでいるだけで、もう片面は真っ黒だ。  これらが一体何なのか、どのように使うものなのか、それを説明するようなものは添えられていない。確かめるだけ無駄だろうと思いつつ、一応そうっと小窓を中から押し開けて外を覗き見てみたが、そこに人の姿はなかった。  昨日差し入れそびれた物なら、毎度のごとく今日の食事と一緒に添えられていたはずだし、だとしたら何故急に、こんな用途も何もわからない物が届けられたのだろう。  持ち上げたり、引っ繰り返してみたりと、それがスマートフォンだとは知らない柚斗は、初めて見る謎の『板』を色んな角度から眺めてみる。その拍子に偶然柚斗の指が電源ボタンに触れ、それまで真っ暗だった面が突然パッと照明のように明るくなった。 「……っ!」  驚いた拍子に『板』を落としてしまいそうになり、慌てて両手で抱え直す。 「……光、った……?」  形は変わっているが、蔵の扉脇に備え付けられている懐中電灯のようなものなんだろうか。一転して明るくなった『板』の表面を、眩しさに目を細めながら覗き込んだ柚斗は、そこに表示された文字に気付くと、細めていた目を見開いた。    14:20   5月19日 土曜日 「コレ……」  時計もカレンダーも何もない蔵で育った柚斗は、本の中でしかこんな表記を見たことがなかったが、もしかしてこれは時間と日付、ではないのだろうか。  一体いつの…と、呆然とする柚斗の目の前で、表示された時間が『14:20』から『14:21』に変化した。 (進んでる……!)  柚斗が本の中で見てきた時間は、いつだって止まったままだった。次の日、また次の日と同じページを開いても、本の中に記された時刻が変わることはない。けれど今、柚斗の目の前に表示されている時刻は、確かに時を刻んで進んでいる。────恐らく、外の世界の時間を。  柚斗はずっと、外の時間とは切り離された、この蔵だけの時間の中で生きてきた。時の流れなんて、体感でしか感じられない曖昧なものだった。そんな柚斗の時間が今、誰が届けてくれたのかもわからない不思議な差し入れによって、初めて外の世界と繋がったのだ。 (……おかしい)  直感的にそう感じた柚斗は、差し入れられた物を素早く両腕で抱え込むようにして、監視カメラの死角になる階段の隅へと移動し、腰を下ろした。  今まで徹底して蔵の外との関わりを断絶されていた柚斗に、日付や時間がわかるような物がどうして突然差し入れられたのだろう。いつも通りの差し入れは昨日届いているし、これは明らかなイレギュラーだ。  一体誰が、どんな意図で……。  確実に進んでいく時間表示を見詰めていると、不意に柚斗の手の中で奇妙な『板』がピピピピッとけたたましい音を立てて振動し始めた。 「うわっ……!?」  これにはさすがに柚斗も驚きの余り、持っていた『板』を放り出してしまった。ゴトリと鈍い音と共に床へ落ちたそれは、尚も音を立てながら振動を続けている。衝撃で壊れなかったのが幸いだったということなど、このときの柚斗にはわかるはずもなく、どうしたらこの音と振動を止められるのか、完全にパニック状態だった。何せ、出来る限り物音を立てるなと言いつけられているのだ。  いっそ外に捨ててしまった方がいいのだろうかと、動揺したまま『板』を拾い上げた柚斗は、先ほどまで表示されていた日付や時刻に代わってそこに表れた『西園寺卓巳』という文字に気付いて思わず固まった。 『サイオンジ タクミ』  以前、この蔵へフラリとやって来て、初めて柚斗に声をかけてくれた人物の名前を思い出す。  恐らく表示されているのは彼の名前だろうというのはすぐにわかったが、何故彼の名前が表示されているのかが全くわからない。  音を鳴らし続ける『板』に表示された卓巳の名前の下には、『応答』と『拒否』という相反する意味の二種類の文字が並んでいる。応答するか拒否するか、という選択があるということは、これは卓巳から何かしらの接触を求められているということなんだろうか。だとすると、もしかしてこれらを差し入れてくれたのは……。  ドクン、ドクン、と初めての状況に騒ぐ胸を押さえて、柚斗はジッと表示された卓巳の名を見詰める。  柚斗は、誰かと関わることを禁じられている。もしもこれを届けてくれたのが本当に卓巳なんだとしたら、幸い卓巳は柚斗と話したことを知られずに済んで、無事に過ごしているということだろう。けれど、これ以上関わってしまったら……?  悩む柚斗を急かすように、耳馴染みのない音は蔵の中に響き続ける。  もう関わってはいけない。卓巳に迷惑をかけてはいけない。  それは嫌というほどわかっているのに、鳴り続いている音が自分を呼んでいるように思えて、柚斗はゴクリと喉を鳴らした後、震える指で『応答』の文字に触れてみた。  すると、それまで散々鳴り響いていた音がピタリと止まり、代わりに少しの間を置いて、 『……柚斗か?』 『板』から躊躇いがちな声が聞こえてきて、そのことにまた柚斗は驚く。  真っ暗だったところにいきなり日付や時間が表示されたかと思ったら、突然音が鳴って、更には触れるだけで人の声が聞こえてくるなんて、まるでSF小説に出て来る未来の通信機器みたいだ────そこまで思って、柚斗はハッとする。もしかして、これは正しくその通信機器なのではないのだろうか。 『もしもし? おい、聞こえてるか?』  呆然としたまま声を返せずにいた柚斗の耳に、ちょっとだけくぐもった、けれど確かにあの日聞いた卓巳の声が響いてくる。  卓巳の声が少し遠かったので、柚斗はおずおずと通信機器のようなものを、耳元へ近づけてみる。 『おーい、柚斗?』 「わ……ッ!」  丁度耳に押し当てたタイミングで、耳のすぐ傍から卓巳の声が聞こえてきて、今度は余りの近さに思わず声が漏れた。まるですぐ隣に卓巳が居るみたいに声が聞こえるなんて、一体どういう仕組みなのだろう。 『どうした? 大丈夫か?』  こちらの状況がわからないからだろうか、卓巳の声が心配そうなトーンになる。 「だ、大丈夫です……。あの……」  こんなものを使ったことどころか、見たのも初めてなので、何をどう話せば良いのかわからず柚斗が口籠っていると、耳元で卓巳が小さく笑う声がした。その息遣いさえ耳に直接届いてくるようで、初めての感覚に柚斗の背中がゾクリと微かに震える。 「あの……なんかコレ、耳とか背中がゾワゾワします……」 『ゾワゾワ? ……もしかして、電話すんの初めてか?』 「電話……?」  その単語は知っている。何度も何度も本の中で見かけて、国語辞典で意味も調べてみたけれど、音声を電気的信号に変えるだとか、電話を使ったことのない柚斗にはどうしてもその仕組みがピンとこなかったのだ。ただ何となく、その場に居ない相手と話せるものなのだろう、ということくらいしかわからなかった。 「これが、電話なんですか……?」 『そう。正確には、お前が今持ってるのはスマートフォンとか、携帯電話って言うんだけどな』 「携帯電話……! 本に何度も出てきました。ポケットなんかにも入る電話って一体どんなものなんだろうって思ってたんです。これがそうだったんですね……」  柚斗一人ではどうしてもわからなかった謎が一つ解けたことに純粋に感動していると、また耳元で卓巳が笑った。 『そんなに感動して貰えたら、贈った甲斐あったな』 「……やっぱり、西園寺さんが届けてくれたんですか?」 『そうだよ。……つーか、苗字で呼ばれんの苦手だから、卓巳でイイ。ついでに、敬語じゃなくても大丈夫だから』 「でも、知らない人や目上の人には敬語を使うのが礼儀だと、本で読みました。……それに、人と話すのは慣れてないので、実はどんな風に話したらいいのか、よくわかりません……」 『そうか。なら、お前が慣れてくれんの待つから、自分の楽な話し方で喋ってくれ』  喋ってくれ、なんて言われたことがない柚斗は、いけないことをしているのはわかっていたものの、どうしても卓巳を拒むことが出来なかった。  どうしてわざわざ、柚斗に携帯電話を差し入れてくれたのか。柚斗に関わると卓巳の身に何かあるかも知れないと警告したにもかかわらず、それでも尚、こうして柚斗に接触してくれるのは何故なのか。  聞きたいこと、話したいことは山ほどあるのに、会話慣れしていないお陰で言葉がうまく出てこないのがもどかしい。  なかなか言葉が紡げずに居ると、卓巳の方から話を促してくれた。 『この前ゆっくり話せなかったから、ちょっとお前に色々聞きてぇんだけど、今話してても大丈夫か?』  はい、と答えかけて、そう言えば蔵の裏手側の窓────先ほどまで柚斗が読書に没頭していた二階の窓が一つ開けっぱなしになっていることを思い出し、柚斗は「ちょっと待ってください!」と携帯やコードの一式を一旦服の中へと隠した。落ちないよう服の上からそれらを押さえたまま、慌てて二階へ駆け上がって窓を閉め、二階に設置された監視カメラの真下へ移動する。ここも、カメラの向きからして死角になる場所だ。  しかし、服の中から取り出した携帯に向かって「お待たせしました」と柚斗が声をかけると、聞こえてきたのは卓巳の声ではなく、ツーツーという無機質な音だった。 「………?」  慌てて服の中に隠した際、誤って通話を切断してしまったことなど全く気付かなかった柚斗は、突如聞こえなくなった卓巳の声にただ首を傾げる。 「あの……卓巳さん……?」  とっくに通話が切れてしまっている相手に呼び掛けても、当然返事が返ってくるはずもない。  一体どうしたのだろうと、携帯を軽く揺すってみたり、あちこち触ってみては、『カメラ起動中』という表示に「カメラ!? 携帯電話ってカメラもついてるの!? 電話なのに!?」と謎の感動を覚えたりすることくらいしか、柚斗には出来ないのだった。 「……やべぇ、切れた」  弟のベッドをまたも陣取って柚斗と話していた卓巳は、突如途絶えてしまった通話に、困惑の声を漏らした。  傍のデスクで、柚斗に最低限確認しておきたいことを箇条書きで紙に書き出していた龍哉が、「えっ」とその手を止めて視線を向けてくる。  今回も柚斗の居る蔵を訪れたことは東條家にはバレなかったようで、無事スマホを柚斗の元へ差し入れるというミッションもクリアした卓巳は、自宅に帰り着くなり龍哉の部屋で柚斗のスマホを鳴らしてみた。  柚斗がなかなか応答せず、せめて簡単な操作説明くらいはメモ書きして添えておけば良かったかと卓巳は後悔したのだが、暫くして柚斗は無事電話に出てくれた。繋がったことにホッとしたのも束の間、さあこれでやっとゆっくり話が出来ると思ったところで、突然プツリと通話が切られてしまったのだ。 「もう一回かけてみたら?」 「それが、『ちょっと待って』っつって切れたから、もしかすると誰か来たのかも知れねぇ」 「えっ……だとしたらマズイね。スマホが見つかって即没収、なんてことになったら洒落にならない」  通話が切れたのが柚斗のうっかりミスだとは知る由もない二人は、向き合ったまま暫し考え込む。  柚斗に渡したスマホには、極力操作が簡単になるようロックもかけていないし、予め卓巳の連絡先も登録してある。それから柚斗の居場所をいつでも確認出来るように、GPSの位置情報も卓巳と龍哉の携帯で把握出来るようにしておいた。  だから何かあればいつでも連絡するよう伝えるつもりだったのだが、肝心の操作方法を説明する前に通話が切れてしまったからどうしたものか……。 「まあ取り敢えず、アイツが思ったよりずっと察しが良くて、利口だってことはわかった。俺なんかよりよっぽど礼儀正しいしな」 「そうなの? じゃあ兄さんも蔵に閉じ込められたら礼儀正しくなるんじゃない?」 「……真顔で恐ろしいこと言うんじゃねぇよ」 「冗談だよ。それより、兄さんと話していたことが誰かに知られて、あの子が問い詰められたりしてないことを祈ろう」 「あのワニ……じゃなかった、東條香夏子にだけは、見つかって欲しくねぇな」  今回柚斗にスマホを届けたことがバレると一番厄介なのは、間違いなく夫人の香夏子だ。香夏子はどうにか龍哉を娘の千夏の婿にしようと躍起になっているようなので、龍哉にはかなり我慢させてしまっているが、出来る限り現状を維持して柚斗から意識を逸らしておきたい。  一先ず暫く時間を置いてから、もう一度通話を試みてみるか、と卓巳がベッドに寝転がったところで、不意に顔の横のスマホが着信を知らせて震え出した。画面に表示された『ユウト』の文字に、思わずガバッと起き上がり、一瞬龍哉と視線を交わす。  ……まさか、龍哉の予感が的中してスマホが誰かの手に渡ってしまったのだろうか。  龍哉が神妙な面持ちで見守る中、卓巳が万が一に備えて言い逃れる術を考えながら応答ボタンを押すと、 『あ! やった、通話出来ました!』  こちらの心配を余所に、何とも無邪気な柚斗の声がスピーカーから響いてきて、卓巳は思わずベッドに崩れ落ちた。どうやらその声は龍哉にも漏れ聞こえていたようで、デスクに向き直って苦笑交じりに肩を竦めている。 「何だよ、急に通話切れたから心配しただろ」 『すみません、俺の所為だったんでしょうか……?』 「わからねぇけど、取り敢えず何事もなかったんなら良かった。つーか、よく電話のかけ方わかったな」 『あちこち触ってみてたら、操作マニュアルっていうのを見つけたので、それを読んだら何となくわかりました。こういう説明書き、読むの好きなんです』   どうやら柚斗は本当に、卓巳よりも相当頭の回転が速いのかも知れないと、その返答を聞いて苦い笑いが漏れる。卓巳は携帯のマニュアルなんて、これまで一度も読んだことがない。……恐らく、大半の人間はまともに読んでいないのではなかろうか。それをこの短時間で、さすがに全部ではないだろうが、ちゃんと「通話する」という目的の項目を見つけて自己解決するくらいの知能を持ち合わせているのだから大したものだ。 「それじゃ、今度こそ話出来るか?」 『……俺に話せることなら』  龍哉が、紙に書き出した質問事項の中でも、唯一赤字で書かれた一行目を卓巳に示してくる。それに頷き返して、卓巳はスマホを握る指に少しだけ力を込めた。 「さっき色々聞きてぇっつったけど、何より最初に、お前に確認しておきたいことがある。……お前は、そこから出たいと思うか?」  この質問に柚斗からYESの返事が返ってこなければ、卓巳たちにはこれ以上出来ることはない。  頼むから、本当の自由を諦めないでくれと願う卓巳と、スピーカーの向こうの柚斗の間に、暫しの沈黙が流れる。 『……困ってるんです』  ポツリと零された柚斗の呟きが、ふと沈黙を破った。  卓巳の行動に困惑しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。 『本当は、「出たくない」って言わなきゃいけないんです。こんな風に話すことだって、本当なら今すぐ止めないといけない。そうしないと、卓巳さんを困らせてしまうから』 「お前、初めて会った日もそんなこと言ってたよな。なんで、俺が困るんだ?」 『この蔵に来てすぐの頃、言われたんです。知らない人だったと思うんですけど、俺に何かあったら「ただでは済まないんです」って。だからみんな、この蔵には近付きたくないみたいです』 「ただでは済まない……?」  柚斗の言葉を龍哉にも伝えるよう、敢えて復唱して、卓巳は龍哉と視線を交わす。「脅し?」と龍哉が口の動きだけで問い掛けてきたので、卓巳は龍哉と情報を共有すべく、通話をスピーカー通話に切り替えた。 「蔵に来てすぐの頃っていうのは、大体いつ頃だ?」 『……わかりません。まだ小さかったので』 「そんなにも前から閉じ込められてんのかよ!?」  さすがに柚斗の答えには、卓巳だけでなく、傍で聞いていた龍哉も驚いた様子で僅かに目を見開いていた。 『卓巳さんに会うまで、俺は自分が「閉じ込められてる」とは思っていませんでした。今も、実はよくわからないんです。ここから出てはいけないと思ってるんですけど、こうして卓巳さんと話していると、もっと色んなことが聞きたいし、外の世界を見てみたいとも思ってしまう』  だから困ってるんです…と、柚斗はどこか苦しそうな声で繰り返した。  時間の感覚すらわからなくなるほどの長い時間を、柚斗はずっと独り、あの蔵で過ごしてきたのだろうか。どうやら本を読める環境にはあるようだが、いくら本からある程度知識を得ることは出来たとしても、実際に見て、触って、感じたことがなければわからないこともきっと山ほどあるはずだ。  卓巳たちにとってはすっかり身近なアイテムである携帯も、初めて触れた柚斗にとってはさぞ大きな驚きと感動があっただろう。  頭の回転が良い割に、柚斗が幼い子供のような純粋さを持ち合わせていることも、彼の不憫な境遇を思えば、皮肉ながら合点がいった。 『……もしも外に出られたら、俺が一体どういう存在なのか、わかるんでしょうか……?』 「……それは、まだ俺にもわからねぇ。ただ、お前が外に出たいって言うなら、俺は可能な限り力になってやる」 『でも、俺の所為で卓巳さんが困ることになったら、それは嫌です』  きっぱりとした口調で、柚斗が言う。  下手をすれば誘拐犯扱いされてもおかしくない卓巳のことさえ、信じて疑わないどころかその身を案じる柚斗の純粋さに、いっそ今すぐ駆けつけて蔵の扉を力づくでぶち破ってやりたくなる。  βとして西園寺の家に生まれた卓巳は、家族の中でただ一人、ガラクタのような存在だった。フラリと遊び歩いていたって、気にも留めて貰えない。その虚しさを埋めようと夜の街に繰り出しては、家に帰るたびにまた居場所の無さを痛感する無限ループ。  どうして自分だけがβに生まれたのか。どうして西園寺の家に生まれてしまったのか。  これまで何度、そう悔やんだかわからないが、いくら悔いたところで、自身の生い立ちは変えられない。  由緒ある西園寺の家で、βというガラクタだった卓巳を案じてくれたのは、弟の龍哉を除いては柚斗が初めてだった。ましてや、外へ出たいという人として当たり前の欲求を押し殺してまで、柚斗は卓巳のことを心配してくれている。たった独りでずっと蔵に閉じ込められていながら、何故そんなにも純粋な心を持っていられるのか。  面倒事は嫌いだった自分がリスクを冒してまで柚斗を蔵から出してやりたいと思うのは、卓巳もまた、柚斗という存在に居場所を求めているからなのかも知れない。 「俺のことは心配しなくてイイ。逃げるのは昔から得意だし、お前から聞いた話は外に漏らさねぇって約束する。……だから、お前自身がどうしたいのか聞かせてくれ。俺はお前に、蔵よりもずっと広い世界を、見せてやりたい」  またしても、スピーカーの向こうで柚斗が黙り込む。  恐らく二、三分は沈黙が続いただろうか。同じように黙って返事を待っていた卓巳たちの耳に、微かに震える声が届いた。 『……本を読んでもわからないこと……俺が、この蔵に居る本当の理由が、知りたい』 「それは、外に出て調べたいってことか?」 『「はい」って答えても、本当に、卓巳さんに迷惑はかかりませんか……?』 「そのことは心配すんなって言っただろ」  普通なら先ずは我が身を心配するところだろうと卓巳が笑うと、スピーカー越しに小さく息を詰める気配がした。 『……やっぱり、電話って耳がゾワッてなります……』 「じゃあお前を外に連れ出せたら、今度は電話越しじゃなくて、直接耳許で喋ってやるよ」  交渉成立、と卓巳は傍らの龍哉と目配せして頷き合う。 『でも、どうやって蔵から出ればいいんでしょうか? 卓巳さん、蔵の扉開けられるんですか?』 「開けられるんなら、初めて会ったときにとっくに開けてるっつーの。本題はここからだ。お前に色々聞きてぇことがあるって言っただろ? 取り敢えず、お前が居る蔵の状況を出来るだけ詳しく聞かせてくれ」  龍哉が、確認すべき項目を書き記した紙を差し出してきた。それを受け取ると、卓巳は描かれた内容を順に問い掛けていき、スピーカーから返って来る柚斗の答えを、龍哉がその都度PCに入力していく。 ①蔵の監視状態や警備状況について  蔵には毎日三食、食事を届けに来る人間が居る。それに加え、毎週金曜(携帯で今日が土曜であることを知って判明したらしい)に服や消耗品などの物資が差し入れられるが、それ以外に誰かが定期的に見回りに来ている様子はない。  どちらも担当している人間はわからないが、柚斗の知らない人物であるということは、東條家から口止めされた上で雇われている人間の可能性が高い。  また、蔵の一階と二階に一台ずつ監視カメラが設置されているが、柚斗は死角になる場所をちゃんと心得ている。 ②蔵の内部から外に通じる箇所について  一階は、施錠された入り口の扉と、その脇の小窓。それから、ゴミを捨てる為の筒(恐らくダストシュートのような物だと思われる)があるが、施錠された扉以外の二つは、柚斗の身体が通り抜けられるサイズではない。  二階には、同じ大きさの窓が向かい合う形で二つあり、一つは先日卓巳が柚斗と話した蔵の正面側に、もう一つは蔵の裏側にある。窓自体のサイズは人ひとりなら通り抜けられる大きさだが、どちらも鉄格子が嵌っている。 ③蔵での過ごし方について  幼い頃に蔵に入れられて以降、一度も外へ出たことはなく、その為柚斗は当然学校にも通えていない。  毎週金曜の差し入れの際、二回に一度は本が差し入れられるので、読み物だけは大量にある。蔵に入れられた時には既にひらがな、カタカナ、漢数字にアルファベットの読み書きは覚えさせられていたようで、知らない漢字や言葉は全て辞書や本で学んだらしい。  冷蔵庫や洗濯機、掃除機にエアコンなどの家電はあるが、テレビやオーディオ関係はなく、娯楽はもっぱら読書、時折落書きに、健康の為のヨガなど。ちなみに携帯同様、テレビも単語としては知っているが、どんな物なのかはよくわからないとのこと。 ④柚斗自身のことについて  父親だと思われる人物から『柚斗』という名前であることを教わったが、苗字に関しては教わっていない。生年月日が不明なので、年齢も不明。 『第二の性』に関しても、知識はあるが、柚斗がどの性にあたるのかも不明。  父親の顔は蔵に入れられた時に見たのが最後だが、今でも覚えている。一方、母親に関してはこれも一切不明。柚斗曰く、「怖い女の人がいつも自分を見て怒鳴っていた」とのことなので、その女性は卓巳の勘だが、香夏子である可能性が高いと思われる。 ⑤蔵の内部構造について  これに関しては、龍哉がなるべく詳細な情報が欲しいと事前に言っていたので、柚斗に操作方法を教えて蔵の一階部分、階段、二階部分を監視カメラの死角から撮影してもらい、メールで送らせた。この操作も卓巳が簡単に説明しただけで、柚斗はいとも簡単にこなしてみせたから大したものだ。  一階には風呂場とトイレ、それから食事をとる為の一人用の小さなテーブルと椅子があり、壁には本で埋まった棚が備え付けられている。天井照明はあるが、光を取り込む窓がない為、柚斗は二階で過ごす時間が多いらしい。  二階には窓がある代わりに、照明は電気スタンドのみ。夜は明かりが漏れるのを防ぐ為、必ず窓を板で塞ぐようにしている。因みに電気スタンドのコンセントがあることがわかった為、日中スタンドを使わないときはそこでこっそり携帯を充電するよう、柚斗には充電方法も含めて指示しておいた。  こちらも壁は本で埋まっていて、柚斗は中央のスペースに布団を敷いて寝起きしている。  二階には天井まで伸びた太い柱が二本あり、その内の一本に時々背丈を刻んでいる。(絵本の中で子供がやっていたのを真似たらしい) 「お前、ホントに優秀だな。お陰でだいぶ情報量が増えた」  取り敢えず以上の事柄を柚斗に確認した卓巳は、常に的確な回答を返してくれる柚斗に思わず感心の声を漏らした。幼い頃に何もわからないまま突然蔵に放り込まれたら、自分ならパニックになってその後もまともな生活なんて到底送れないように思うが、柚斗はそれまでに余程しっかりと教育されていたのか、それとも根が純粋だからなのか、蔵での生活を至って冷静に受け止めている印象だった。  独りにされてもこれだけしっかりした少年に育っているのだから、まともな環境で、ちゃんとした教育を受けて育っていれば、恐らく相当優秀な人間になっていただろうに……。そう考えると、やはり柚斗を本来在るべき場所へ連れ出してやりたいという思いが、卓巳の中で一層強くなる。 『でも、今話した通り、この蔵には俺が通り抜けられる場所がありません。扉の鍵を開けることも、窓の格子を外すことも、俺には出来ないから……』 「それを解決するのが、次にお前に届ける差し入れだ」 『え……?』  ポカンとした声を返す柚斗を余所に、順調に情報収集が出来た卓巳と龍哉は互いに顔を見合わせて頷き合う。  他にも、卓巳にはまだまだ個人的に柚斗に聞きたいことは色々あったが、初っ端から長電話をしすぎて東條家の誰かに怪しまれては元も子もない。名残惜しい思いを胸の隅に残しつつ、何かあればすぐに連絡してくるように柚斗に告げ、仕事中など通話が繋がらない場合に備えてアプリでのメッセージ送信方法もレクチャーしてから、卓巳は一旦通話を終えた。  その直後、アプリの方に「こうやって送るんですか!」と柚斗からメッセージが届いて、「バッチリ」と返信しながら卓巳はその素早さに思わず笑う。まるで新しいオモチャを与えて貰った子供のように、夢中でスマホを弄る柚斗の姿が思い浮かぶようだった。 「確かに、利口な子だね」  柚斗から得た情報をPCに入力し終えた龍哉も、卓巳の心中を代弁するように、感心した様子で呟いた。 「正直、東條家の隠し子かも知れないって兄さんから聞いたときは、本気で関わらない方が良いと思ったけど、今日彼……柚斗くんの話を聞いて、あの子を外に出してあげたいと思った兄さんの気持ちが、少しわかった気がする」 「だろ? お前が、人の心がわかるヤツで良かったよ」 「だけど、ある程度情報が集まったからって、相変わらず危険なことには変わりないってことは覚えておいてよ」  卓巳の手からスマホを奪い、先ほど柚斗が送ってきた、蔵の内部を写した画像を見ながら、龍哉が釘を刺してくる。  確かに、柚斗の了承は得られたとは言え、それで全てが解決するワケではないことくらい、卓巳にもわかっている。柚斗が蔵から出ることで、彼が知りたがっている真実に辿り着くことが出来るかも知れないが、それが柚斗にとって良いことであるとは限らないのだ。……むしろ、卓巳の予想が当たっていれば、柚斗にとってはより辛い事実を突きつけられることになるかも知れない。そうなったとき、どうやって柚斗を守ってやるのか。そのことを、卓巳は考えておかなければならない。 「……なるほど、二階の監視カメラの向きを考えると、蔵の裏側の窓は殆ど映らないだろうから、鉄格子を突破するならこっちだね。表側の窓だったら食事なんかを差し入れにくる人に気付かれると厄介だなと思ったけど、裏側ならその心配はほぼないだろうから彼は幸運だ」  デスクから、ベッドに座る卓巳の隣へ移動してきた龍哉は、蔵の二階の写真を指差して言う。  確かに、監視カメラは蔵の裏手側にあたる壁の隅に設置されているので、部屋の中央から正面側の窓の方向を映している形だ。 「……でも待てよ。これだと、蔵の正面にある窓は監視カメラで丸見えってことだよな? 俺、初めて会ったとき、正面側の窓に居る柚斗と会話したのに、気付かれなかったのか……?」 「そう言えば今日、千夏さんに『最近セキュリティシステムの向上について学んでいる』って伝えたら、あっさり東條家の敷地のセキュリティ対策について教えてくれたけど、よく聞く大手のセキュリティ会社に委託してるみたいだよ。千夏さんの誕生パーティーの日、兄さんが勝手に東條家の庭を散策してもそのセキュリティシステムに引っ掛からなかったことを考えると、蔵の周囲は有難いことに監視が緩いのかも知れない」 「……いくらセキュリティ会社の人間だろうが、下手に外部の連中に蔵の存在を知られる方が、東條家にとっては脅威だってことか。まあ人を監禁してるなんて、さすがに気付かれるワケにはいかねぇだろうからな」 「だとすると、蔵の中の監視カメラは他のセキュリティシステムとは別に、東條家の人間が直接管理している可能性が高いね。そしてあの日は当主の聡一郎さん、夫人の香夏子さん、娘の千夏さんの全員がホールに居たから、兄さんが柚斗くんと話している最中、誰も監視カメラの映像を見ていなかった為に、気付かれることもなかった……と、僕は考えるけど」  そう言えば、今日卓巳が柚斗にスマホ一式を差し入れたときも、香夏子と千夏は龍哉が引きつけてくれていたし、聡一郎は不在だった。だから無事柚斗の手にスマホが渡ったのだと考えると、今後も同じようにこの三人をどうにかして引き付けておけば、その間蔵の中を監視する目はなくなる可能性が極めて高い。 「龍哉」  改まった声で名を呼んだ卓巳に、龍哉が「わかってるよ」と溜息混じりに肩を竦めた。 「近い内にどうにか東條家の三人と約束を取り付ける。あの子なら手順さえ教えれば塩水作りは問題なく出来るだろうから、先ずは早い内に柚斗くんに塩と空のペットボトルを差し入れて、似非カメラマンさん」   ◆◆◆◆◆  柚斗にスマホを届けた翌週、早速卓巳は龍哉と共に、再び東條邸を訪れていた。  さすがにこれだけ短期間で再訪を願い出た龍哉に、香夏子はもうすっかり婿を得たとばかりの上機嫌だった。勿論、そんな気は全くない龍哉は「さすがに良心が痛むよ」とこっそり卓巳にぼやいていたが、龍哉が気に入っている鰻屋で特上を奢ってやる約束をして、卓巳は前回同様、カメラ片手に庭へ出た。  卓巳がβとはいえ、東條家の庭は何度撮影しても飽きないほどとても気に入っているのだと伝えると、香夏子はそのことも満更でもないようだった。むしろ、卓巳が撮影に没頭してくれれば、より龍哉との話が弾むと踏んでいるのだろう。この日は前回以上に、香夏子は卓巳を快く庭へ送り出してくれた。  今日は聡一郎も在宅していたが、相変わらず東條家当主の顔には、濃い疲弊の色が滲んでいた。どうやら、あの日たまたま体調が悪かった、ということでもないらしい。ということは、何か慢性的な疾患でも抱えているんだろうか。  聡一郎だけは、卓巳と共に庭に留まりたそうだったのだが、香夏子が強引にその手を掴む……というより、捕らえてそのまま屋敷の中へと引き返していった。聡一郎に留まられては柚斗の元へ行けないので、このときばかりは香夏子の強引さに感謝した卓巳である。  今回も取り敢えず適当に庭の撮影に暫く勤しんでから、卓巳は周囲に人の気配がないことを確認して、柚斗の蔵へと向かう。  事前に柚斗から聞いていた食事の時間は外してあるので、蔵へはすんなり辿り着くことが出来た。もう三度目の訪問だが、誰かが飛んでくる様子がまるでないところを見ると、やはり蔵の周辺は殆ど警備はなされていないと考えて良さそうだ。  唯一柚斗が認識している父親ですら、一度も訪ねて来ない隠された蔵。 (……まるで呪われてるみたいじゃねぇか)  卓巳よりよっぽど知的で純粋な柚斗が、卓巳とは比べものにならないほど酷い扱いを受けている事実に、怒りなのか悔しさなのかわからない感情が卓巳の胸を焼く。柚斗がそのことを自覚していないから、尚更それが歯痒かった。  思わず、バッグから取り出したペットボトルを握り潰してしまいそうになり、卓巳はハッと我に返って、素早く小窓からペットボトルと食塩を滑り込ませた。  いくら警備が緩いとは言え、この場で通話をするのはリスクが高いかと、卓巳はアプリで「柚斗」と呼び掛けた。すると、少ししてから躊躇いがちに、蔵の内側からそっと小窓が押し開けられた。 「……卓巳さん……?」  細い隙間から、控えめな柚斗の声がする。  身を屈めて覗き込むと、外の明るさに対して蔵の中が薄暗い為、相変わらず柚斗の黒髪と大きな瞳くらいしか殆ど確認出来なかったが、それでも初めて会った日よりはずっと近くで見えたその顔に、卓巳は笑みを零す。 「顔合わすの、久々だな」 「はい……。初めて、ちゃんと卓巳さんの顔が見えました」  柚斗の方からは、明るい陽の下に居る卓巳の顔がよく見えているらしい。 「卓巳さんみたいな顔の人を、『イケメン』って言うんですか?」 「そんな答え辛い質問されたの初めてだわ……。別に、フツーだろ」 「でも、見た目が素敵な男の人のことを『イケメン』って言うんですよね? 俺がこれまで本で見たどんな人より、卓巳さんは『イケメン』です」 「……そりゃどうも」  βであっても西園寺の血が入っているお陰で容姿を褒められるのは別に初めてではなかったが、何の下心もなくこうもストレートに褒められると反応に困ってしまう。  そんな卓巳を細い小窓の隙間からジッと見つめる柚斗は、感動とも心酔とも取れる吐息を零した。 「……卓巳さんて、ホントに居たんですね」 「は……? どういうことだよ?」 「心のどこかで、実は全部夢なんじゃないかって思ってたんです。俺に声をかけてくれる人なんてこれまで居なかったし、その上携帯電話を届けてくれたり、またこうして届け物を持って来てくれたり……嬉しすぎて、信じられなくて」  飾らない、素直すぎる柚斗の言葉に、ギュッと卓巳の胸が鷲掴まれる。こんな言葉をかけてくれる相手なんて、卓巳にとっても初めてだった。 「……お前、可愛いな」 「え?」  愛おしさから思わず零れた呟きに、小窓の向こうで柚斗の目がパチパチと瞬く。思えばこんな風に、心から誰かを可愛い、愛おしいと思ったのも、生まれて初めてのような気がする。らしくない、と照れを隠すように「何でもねぇよ」と項を掻いて、卓巳は差し入れたペットボトルと食塩を指差した。 「それ、昨日伝えた塩水作る為のセットな。作り方、ちゃんとわかったか?」 「はい。分量もちゃんと覚えました。この容器に作って、窓の鉄格子に一日数回、かければいいんですよね?」 「蔵の裏側の窓だけな。間違ってこっち側の窓にかけないように気を付けろよ」 「わかりました。でも、たったそれだけで鉄格子が外せるんですか?」 「昨日言った通りにお前が毎日経過報告してくれれば、多分じきにわかる」 「……? そうなんですか?」  不思議そうにペットボトルと食塩を見比べている柚斗を微笑ましく思っていると、不意にポケットの中のスマホがメッセージ着信音を響かせた。 『龍哉:聡一郎さんが席を立った。急いで戻ってきて』 「マジかよ……」  龍哉からの緊急メッセージに卓巳は小さく舌打ちする。 「どうかしたんですか……?」 「悪い、ちょっとヤバそうだから、今日はこれで帰る。また携帯に連絡するから、念の為塩水も、なるべく監視カメラには映らないように気を付けろよ」  口早にそう告げた卓巳を見詰める柚斗の目が、一瞬不安げに揺らぐ。  一刻も早く庭へ引き返すべきなのはわかっていたが、卓巳は踏み出しかけた脚を止めて、小窓越し、柚斗に向き直った。 「柚斗、手ぇ出せ」 「えっ……」 「時間ねぇから、早く!」 「はっ、はい……!」  急かされた柚斗が、困惑げな目を向けながらもおずおずと小窓から右手を差し出してきた。  卓巳の腕よりずっと細くて白い、柚斗の腕。けれど綺麗なその手を、互いの指を絡めるようにギュッと握って、 「絶対、ここから出してやる」  強い口調でそう言い残すと、最後に両手で柚斗の手をしっかりと一度包み込んでから、そっと手を離す。そうして卓巳は、後ろ髪をひかれる思いを振り切るように、急いで庭へと引き返した。    握られた手に残る卓巳の手の感触や温かさに、思わず柚斗が涙を零していたことには、気付かなくて良かったかも知れない。それを見ていたら、卓巳は恐らく扉を打ち破ってでも、その場で柚斗を連れ出してしまっただろうから────   ◆◆◆◆◆  それから毎日、柚斗は卓巳(発案は龍哉によるものなのだが)から指示された通り、毎日数回、二階の裏手側の窓に嵌まった鉄格子に、ひたすら塩水をかけ続けた。  最初こそ、何の意味があるのか柚斗にはわからず、卓巳に言われていたまま、その日の鉄格子の状態を撮影してその画像を送信することを繰り返していた。けれど、明らかな異変に気付いたのは塩水を掛け始めて三日目のことだった。  黒っぽい焦げ茶色をしていた鉄格子が、明らかに赤味を帯び始めていたのだ。  そしてその報告を受けた卓巳と、横から覗いていた龍哉は、目論見通りとハイタッチを交わした。  外に取り付けられて常に空気に触れている分、恐らく錆びの進行は速いだろうという龍哉の読みは的中し、それ以降も着々と鉄格子の錆びは進行していき、そしていよいよ「どうしよう、押してみたら柵が落ちました!?」と柚斗から動揺した報告メッセージが届いたのは、塩水をかけ始めてから約二週間後のことだった。  元々何年もの間雨風に晒されていて錆び始めていた鉄格子の錆びを急速に進行させたお陰で、思いの外早く腐敗してくれたらしい。  長年閉ざされていた蔵にようやく、新たな扉が開いた瞬間だった。

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