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第四話

「ど、どうしよう……」  パキン、と小気味よい音を立てて呆気なく壁から外れ、雑草の伸びた地面へと落下し、そこで更に無残に砕け散った鉄格子の成れの果てを見下ろして、柚斗は呆然と呟く。  毎日塩水をかけ続けている内に、余りにも色が変わり果てた鉄格子の状態が気になって、ほんの少し押してみただけのつもりだった。だって卓巳に出会うまでは、いくら柚斗が窓の外を覗こうと必死に押しても引いても揺すっても、鉄格子は外れるどころかピクリともしなかったのだ。それが、ただ卓巳に言われるまま、毎日塩を混ぜた水をかけ続けただけで、こうも簡単に外れてしまうなんて、柚斗には未だに信じられなかった。  ごく簡単な手順で出来上がった液体が、頑丈だった鉄格子を呆気なく破壊してしまうとは、それこそまるで魔法使いにでもなったような気分だ。  動揺の余り、鉄格子の外れた窓の写真と共に携帯で卓巳にメッセージを送ったが、卓巳の方はこの結果を端から想定していたようで、「OK。カメラでバレないようにだけ気を付けろ」と落ち着いた返事が返ってきた。  窓の周囲には、鉄格子の根本が棘のように残っていたが、それらも大して力を入れなくとも、触れればパラパラと崩れて地面へと落ちていき、蔵の裏に面した窓は、これまでと一転して開放的になった。  今までは鉄格子が邪魔で出来なかったが、柚斗は恐る恐る、窓から軽く上半身を乗り出してみる。  一番の難関だった鉄格子は取り除くことが出来たものの、窓から見下ろした地面は小柄な柚斗には相当遠く見え、初めて感じる高さに本能的に足が竦んだ。  こんな高さから、一体どうやって下まで降りれば良いのだろう。  窓からそろりと手を差し出してみると、少し暑いくらいの陽の光が柚斗の腕へと降り注いでくる。その温かさもとても心地良いものに思えたけれど、同時に柚斗は、二週間前に初めて感じた、もっと心地良い温もりを思い出していた。  鉄格子を壊す為に差し入れを届けてくれた卓巳が、力強く握ってくれた手の感触。それを思い返しながら、空中に差し出した掌を、柚斗はそっと握り込む。  人の手があんなに温かいなんて、初めて知った。卓巳が初めて教えてくれた。  誰も関わろうとはせず、こちらからも関わることを禁じられている柚斗の手を握ってくれたのは、卓巳だけだ。父親にすら、あんな風に手を握って貰った記憶はない。 『人と触れ合う』────物語の中では当たり前のように書かれていることなのに、柚斗はそんなことすら経験したことがなかった。  文字で見て、知っているつもりになっていても、実際に触れた卓巳の手は柚斗が思うよりずっと温かくて力強くて……離れてもずっとその手に残った感触に、あの日、気付けば涙が零れていた。  初めての感触への驚きなのか、悦びなのか、感動なのか、あるいはその全てなのか。自分でも涙の理由はわからなかったが、ただ一つハッキリしているのは、もう一度あの手に触れたいという想いが、柚斗の中に芽生えたことだった。  卓巳に出会うまでは、この先もずっと蔵の中で過ごしていくのだろうと思っていたけれど、どれだけ多くの本を読んでもまだまだ知らないことがあるのだと、柚斗は改めて実感してしまった。だからこそ、もっと色んなことが知りたい、見てみたいと、抱いてはいけない欲求が沸き起こるのを、抑えきれない自分が居る。  でも…、と柚斗は窓から差し出した手を地面に向かって精一杯伸ばしてみる。当然だが、地面から伸びる雑草にすら到底届かないほど、窓から見下ろす地上は遠い。  丁度柚斗が最近読んでいたファンタジー小説には空飛ぶ魔法の箒が出てきたけれど、柚斗が知らないだけで、実は外の世界にも空飛ぶ箒があったりするのだろうか。それとも、柚斗の居る蔵よりずっと高い空を飛び交う鳥のように、実は柚斗も、この窓から飛び立つことが出来るんだろうか。 『ユウト:鉄格子はなくなりましたが、地面がとても遠いです。こんなに高いところから飛んだことはないですが、俺でも降りられますか?』  何せ『常識』というものがわからない柚斗は、この先どうして良いのか全くわからず、純粋な疑問を卓巳の携帯へぶつけてみたのだが、それにはすぐに慌てた様子で卓巳から返事が返ってきた。 『卓巳:待て!! 鉄格子が外れたからって、一人で降りようとすんなよ!? 飛び降りるとか、絶対するんじゃねぇぞ!』 『ユウト:やっぱり俺一人じゃ降りられないんですか。でも、それならどうやって降りるんですか?』 『卓巳:ちゃんと迎えに行くから、それまで待ってろ。言っただろ、絶対出してやるって。だからそれまでは、鉄格子が外れたことがバレねぇように、なるべくいつも通りに過ごしててくれ』 『ユウト:わかりました。待ってます』  やっぱり柚斗一人で降りることは叶わないのかと少しだけガッカリしつつ、柚斗は卓巳への返事を送って、再び窓の下へ視線を戻した。  仮に卓巳がこの窓の下に来てくれたとして、お互い精一杯手を伸ばし合ったとしても、きっとその手が触れ合うことすら難しいだろう。なのに、一体どうやって卓巳は柚斗をこの窓から外へ出すつもりなのだろう。  そもそも、これまで携帯や塩を差し入れてくれたときもそうだったが、卓巳はどうやっていつもこの蔵へやって来ているんだろうか。  食事や定期的な物資が差し入れられる日時を確認されたりもしたので、きっと卓巳はそれらの人たちに見つかると困るはずだ。それでも卓巳が柚斗を外へ連れ出そうとしてくれるのは、何故なのだろう。  それに柚斗自身も、人と関わってはいけないという決まりを、今は完全に破ってしまっている。  それを自覚していながら、それでも早く卓巳に会いたい、会ってまた、あの日の温もりを確かめさせて欲しいと思ってしまう自分は、やはり良くない存在なのかも知れない。  これまでずっと守り抜いてきた言いつけを破ってしまったことへの罪悪感と、卓巳に会いたい欲求の間で揺れ動く胸に、そっと右手を宛がう。 「……ごめんなさい……」  誰にともなく謝罪を零し、柚斗は卓巳に握られた右手で、服の胸元をギュっと握り込んだ。 「駄目だ」  パソコンの画面に向き合ったまま、父の龍馬から寄越された予想外の返答に、卓巳は父の短い一言の意味がすぐには理解出来なかった。  卓巳と龍哉が予想していたより早く、柚斗から鉄格子が外れたと連絡が来たので、卓巳はこの先のことも考えて「家を出る」と龍馬に告げにきた。  これまでずっと、兄弟の中では卓巳だけが放任されてきたし、どうせ都合の良い駒のように使われてきただけの存在なのだから、父はむしろ喜んで手放してくれるだろうと、卓巳は踏んでいた。だからこそ、返ってきた父の言葉はあまりにも想定外のものだった。 「駄目だって……何でだよ? 別にもうとっくに成人してるし、就職もしてんだから問題ないだろ」  思わず父のデスクに手を突いて身を乗り出しながら問い返す卓巳に、父はパソコンと手元の書類を交互に見遣りながら淡々と続ける。 「そもそも何故、今家を出る必要がある?」 「家を出たいってのは、前々からずっと思ってたよ。今なら職にも就いたし、もうイイだろって思っただけだ」 「お前が就職して、まだほんのふた月程度だろう。これまで遊び歩いてはいたようだが、社会に出て間もないお前が考えもなしに独立出来るほど、世の中甘くはない」 「社会に出ると同時に独立するヤツだって、普通に居るだろ。自分のことくらい、自分でどうにかしてみせる」  苛立ちを滲ませた卓巳の反論に、父は漸くそこで初めて書類から顔を上げ、昔から変わらない鋭い視線を向けてきた。 「なら聞くが、お前が学生の頃から遊び歩いていた金は誰に与えられたものだ? お前が軽率に声を掛けた為に、自宅へ付き纏ってきた女が何人居たと思っている。その後始末をしてきたのは?」 「………」  前半はともかく、後半は初耳だった卓巳は、思わず返答に詰まった。自身の夜遊びのツケが、ここへ来て回ってくるとは思わなかった。自分の浅はかさは充分反省しているが、同時にそれなら何故、これまで一度も咎めようとすらしなかったんだと父を恨めしく思う。ずっと小言の一つも言わなかった癖に、こんな時になって卓巳をこの家に縛り付ける理由にする都合の良さに、反吐が出そうだ。 「だったらその時に言えば良かっただろ。別に俺なんかこの家に必要ねぇ癖に、利用される為だけに居続けろってことかよ。……『名家』なんざ、どこもロクなもんじゃねぇな」  結局卓巳も柚斗と同じく、西園寺の家でただ生かされているだけだ。ただ一つ違うのは、卓巳にはまだ自ら飛び出せるだけの自由があること。  同意が得られないなら、それはそれで別に構わない。どうせこれまでも、散々都合よく利用されていただけなのだ。それなら勘当されてでも、こっちから勝手に出ていってやると、卓巳は無言で父に背を向け、部屋を出た。  後ろ手に扉を閉めてふと顔を上げると、廊下の壁に凭れるようにして兄の龍司が立っている。 「……聞いてたのかよ」  趣味悪ぃ、と腹立ち紛れに吐き捨てて通り過ぎようとした卓巳の背中に、久々に聞く兄の声が飛んできた。 「さっきの言葉、本気でそう思ってるのか」 「……は?」  兄が卓巳のどの発言を指しているのかがわからず、思わず足を止めて振り返る。龍司は凭れていた壁からゆっくりと背を浮かせると、「だから、お前は『甘い』んだ」と呆れたような口調で言い置いて、そのまま卓巳と入れ替わりで父の私室へと消えていった。 「何だよ……意味わかんねぇ」  普段は家の中で顔を合わせても声なんて掛けてこない癖に、父といい兄といい、一体何なんだとモヤモヤした思いを抱えたまま、卓巳は自室ではなく、龍哉の部屋へと向かった。  ノックの後、返事も待たずにドアを開ける卓巳にもすっかり慣れた様子で、龍哉はデスクからチラリと視線を寄越した瞬間、「うわ、人相悪い」と眉を寄せた。 「父さん、何だって?」 「いつもは俺が家に居ても居なくても気にしねぇ癖に、俺が家を出るのは駄目なんだとよ」  やってられるかとばかりに、卓巳は龍哉のベッドへボフッと倒れ込む。少しの間黙って卓巳を見詰めていた龍哉は、椅子の背に身を沈めて小さく溜息を落とした。 「……それで、どうするの。蔵の出口はもう開いちゃったよ?」 「どうもこうも、親父の意見なんか知るかよ。別に未成年でもねぇんだから、俺は俺で勝手に出ていく。それで見限られても構わねぇし、俺が居なくなったところで、別にこの家は何も変わらねぇだろ」  それより早いとこ住む部屋探さねぇとな、とベッドに転がったまま、卓巳は携帯で賃貸情報サイトを検索する。何はともあれ、柚斗を助け出した後の逃げ場は用意しておく必要がある。しかもなるべく、東條家の連中の目を誤魔化せる場所を選ばなくてはならない。多少家賃は高くついたとしても、いっそ人の多い都心近くに紛れる方がいいだろうか。  あれこれと条件を絞って物件を探す卓巳の傍にやってきた龍哉が、静かにベッドの縁へ腰を下ろした。 「……少なくとも僕は、兄さんが居なくなっても変わらないとは思わないけど」  ポツリと小声で零された呟きに、え?、と思わず首を捻った卓巳の顔へ、べしっと龍哉がコピー用紙を叩きつけてきた。 「ぶっ! ……お前まで、何なんだよ一体……」  家族から立て続けに理不尽な仕打ちを受け、不満げな声を漏らした卓巳の視線の先で、龍哉は「別に」とどこか不貞腐れたような顔をしていた。それは、卓巳より余程優秀な龍哉が、昔から卓巳の前でだけ見せる『弟』の顔だった。その表情を見て、ああそうか…と卓巳は苦笑交じりに身を起こす。唯一この家に未練があるとすれば、βである卓巳に昔から変わらず接してくれる、龍哉の存在だ。 「俺が家出たら、そっからお前は何聞かれても素知らぬ顔してろよ」  つい子供の頃からの癖でくしゃりと龍哉の髪を掻き混ぜる卓巳に、「もう子供じゃないんだけど」と不服そうな声を返しながら、龍哉が改めて、先ほど卓巳の顔に叩きつけたコピー用紙を差し出してきた。 「兄さんにそんなヘマさせないように僕が居るんだって、前にも言ったよね」 「何だこの絵……ロープの巻き方……?」  差し出されたコピー用紙には、卓巳と違って丁寧な龍哉の手描きイラストで、柱にロープを固定する方法が分かり易く図解してある。 「彼を蔵の外へ助け出す為の、縄梯子の固定方法だよ。さすがに普通の梯子だと、持参した時点で怪しまれるでしょ。なるべく彼にも分かるように描いたつもりなんだけど、理解してくれそう?」 「俺でも分かるくらいだから、柚斗ならすぐ理解するだろ。アイツ、俺より頭良さそうだからな」 「……兄さん、あの子まだ十代半ばくらいだって言ってなかった?」 「悪かったな、十代より知能指数低くて」 「そんな兄さんが今この家を出てったら、あの子を助け出す為の作戦が練られなくなるんだよ」  何なら今すぐにでも出て行ってやる、くらいの勢いだった卓巳を、遠回しに、龍哉が引き留めてくれる。「確かに」と納得する反面、まだこの家で自分を思ってくれる存在の有難さに、卓巳は小さく笑った。 「さすがにそう何度も東條家を訪問してると怪しまれるだろうし、何より兄さんのカメラマンごっこもそろそろ限界でしょ。取り敢えず次の訪問で実際に彼が縄梯子をちゃんと固定して、無事に外に出られるかどうかを確かめたい。それが出来たら、彼の身体の大きさを測る」 「身体の大きさ?」 「敷地から連れ出すのに、まさか堂々と手を引いて出るわけにはいかないでしょ。彼が入れるくらいの大きめのスーツケースか何かを用意して、運び出さないと。つまり最短あと2回の訪問で、彼を東條の家から連れ出すことが出来れば、パーフェクトだ」 「ならそれまでに、逃げ込める場所も用意しておく必要があるってことだな」 「そういうこと。だから兄さんは、部屋探しに加えてコレ、急いで準備しておいて」  コレ、と龍哉が二枚重ねになっていたコピー用紙のもう一枚を提示してくる。そこには、長さや太さが細かく指定された縄梯子の絵が描かれていた。 「……コレ、俺が作んのかよ?」 「描いてある物と同じ寸法の縄梯子が売ってるなら市販のものでもいいけど、多分探す方が難しいと思うよ。材料はホームセンターなんかで手に入るだろうし、これが柚斗くんの命綱になるんだから、頑張って」  龍哉のわざとらしいほどにこやかな笑顔に背中を押され、「……了解」と頷くしかなかった卓巳は、それから数日間、寝る間も惜しんで縄梯子職人に徹したのだった。   ◆◆◆◆◆  六月も半ばに差し掛かろうという土曜日。  例によって聡一郎の不在を確認した卓巳は、龍哉と共にもう何度目かの東條家訪問を試みていた。  少し前に梅雨入りが発表された為、天気が心配だったのだが、幸いこの日は湿気こそあるものの、天気は梅雨の中休みとも言える晴天だった。 「卓巳さんは、余程うちの庭が気に入って下さったんですの?」  玄関で出迎えてくれた香夏子の言葉の裏には「また貴方も一緒なの?」という本音が見え隠れしていたが、卓巳は精一杯の愛想笑いを返して頭を下げた。 「毎度毎度、お邪魔して申し訳ありません。写真はまだ始めたばかりなので、なかなか納得のいくものが撮れずにいるんです。特にこちらの庭は、来るたびにその時々の季節が感じられるので、より良い写真を撮りたいと思っていまして」  上手く事が運べば、こうして香夏子に愛想を振りまく必要ももうなくなるのだと自分に言い聞かせ、卓巳はすっかり東條家の庭に魅せられたカメラ趣味の青年を演じきる。  いくら庭を褒められているとはいえ、毎回龍哉に同行してくる卓巳に煙たそうな目を一瞬向けてきたものの、香夏子は渋々といった様子でこの日も卓巳に撮影を許可してくれた。  龍哉が懸念していた通り、いい加減撮影を理由に潜り込むのも、限界が近そうだ。何としても、今日中に柚斗が無事蔵から出られるかどうか、更にはスーツケースで運び出すことは可能かどうか────それらを全て確認し、怪しまれる前に実行に移す必要がある。  すっかり慣れた足取りで庭の最果てにある蔵へと向かった卓巳は、人目がないことを確認してから、蔵の裏側へ回ってみた。  一切手入れがされていないのか、伸び放題の雑草の隙間に、朽ちて散り散りになった鉄格子が落ちている。本来それが嵌っていた窓を見上げると、解放的になったそこはまるで卓巳の訪問を待ち侘びていたように開け放たれていた。  今日卓巳が訪れることは昨日の内に柚斗に伝えてあったので、卓巳はその窓へ向かって「柚斗」と控えめに呼び掛けてみた。すると、「卓巳さん……!」と、間髪置かず、窓から柚斗がヒョコッと顔を覗かせた。  スルリと、柚斗の肩から結われた長い黒髪が垂れ下がる。さすがに童話のようにそれが卓巳の手まで届くことはなかったが、この状況は本当に『ラプンツェル』みたいだ。  折角遮るものがなくなったというのに、逆光が眩しすぎて肝心の柚斗の顔がまだよく見えない。 「柚斗、昨日伝えた縄梯子とその結び方、下の窓に入れるからやってみてくれ。梯子は裏の窓に近い方の柱に固定しろよ」  眩しさに眇めた目の上へ片手を翳しながら、バッグから取り出した縄梯子を軽く掲げて見せると、「わかりました」と答えて柚斗が窓の向こうに引っ込んだ。  蔵の中から微かに響いてくる、階段を駆け下りる足音を聞きながら、卓巳は蔵の正面へ回る。努力の結晶である手製の縄梯子と、龍哉が描いてくれた梯子の固定方法のイラストを、一階の小窓から滑り込ませた。すかさず、柚斗が中からそれを受け取る気配がする。 「出来そうか?」  小窓越しに問いかけると、きっと龍哉による図解を見ているであろう柚斗から少し間を置いて、 「……この絵を見ながらやれば出来ると思います。ちょっとやってみますね」  という声に続いて、今度は階段を駆け上がる足音が聞こえた。  その足音を追うように、卓巳も再び蔵の裏へと引き返し、二階の窓をジッと見上げて待つ。柚斗からの情報やこれまでの経験から、蔵周辺の警備は薄いだろうとはわかっていても、今この瞬間誰かが来たら…と思うと、一分一秒が酷く長く思えた。  時折蔵の陰から人の気配の有無を確認しては、また窓の下へ戻る。5往復ほどしたところで、「出来ました……!」と頭上から柚斗の声が降ってきた。 「ちゃんと固定されてるか確かめるから、梯子垂らしてみてくれ」  はい、と答えた柚斗がソロリと窓から垂らした縄梯子は、地面から50センチほどの高さで止まった。あくまでも龍哉に言われた寸法に合わせて卓巳は作製しただけだが、改めて弟の完璧な計算力に感心する。  先ずは手で引っ張って確かめた後、卓巳自ら、一段目に両足で乗ってみて、卓巳の体重でも支えられるほど梯子がしっかり固定されていることを確認する。 「……よし、大丈夫そうだな。柚斗、梯子の下り方、わかるか?」 「絵で見たことはあるんですけど……後ろ向きに下りればいいんですか?」 「そう。後ろ向きで壁に向き合う感じで、足から一段ずつ、ゆっくり下りる。ホントは俺が上まで行って支えてやりてぇけど、柱と梯子の強度がわからねぇから、万が一二人揃って落下したら洒落にならねぇしな。……いけそうか?」 「『ジャックと豆の木』を思い出しながら、やってみます」   「お……おう……?」  懐かしいタイトルに一瞬どんな話だったかと首を捻りつつ、卓巳は窓の縁から慎重に身を乗り出す柚斗の姿を、固唾を飲んで見守る。「とにかく絶対梯子から手ぇ離すなよ」という卓巳の言葉に「はい」と少し強張った声を返した柚斗の裸足の右足が、恐る恐るといった様子で梯子にかかった。続いて左足もしっかり梯子に乗っかったのを確かめ、「その調子」と卓巳は万一に備えて梯子の真下で構える。  そうして卓巳が見守る中、柚斗の全身が、とうとう窓の外へ出た。艶やかな黒髪と、服の袖や裾から伸びる細くて白い手足のコントラストが、陽の光を受けてより際立って見える。 「そっから、一段ずつでイイからゆっくり下りて来い。もしもの時は、絶対下で受け止めてやるから」 「……今、凄く手足が震えてるんですけど、ジャックの勇敢さを思い知りました……」  言いながら、柚斗がゆっくりと一段一段確かめるように、梯子を伝い下りてくる。その縄は、確かに柚斗の心境を表すかのように小刻みに揺れている。 「あと、どのくらいですか?」 「もうちょいで半分」 「……階段って、便利なんですね……」 「順調だから、あとちょっと頑張れ」 「はい…────って、うわ……っ!」  卓巳の励ましを受けて下ろされた柚斗の右足が、次の段を踏みかけてズルッと滑った。 「柚斗!」  たちまちバランスを崩して大きく揺らぐ梯子から、残っていた左足も滑らせた柚斗の身体が、彼の手だけでは支えきれずに降ってくる。地面からはおよそ二メートル。卓巳は咄嗟に全身で柚斗の細い身体を受け止め、衝撃で二人は揃って地面にドサリと転がった。 「……っ、だ、大丈夫ですか……!?」  卓巳の身体の上で身を起こした柚斗が、下敷きになった卓巳を蒼白な顔で覗き込んでくる。やっとまともに見ることが出来たその顔は、目鼻立ちのいい何とも小綺麗な人形のようで、中でも一際目を引く大きくて澄んだ瞳に、卓巳は一瞬返事も忘れて魅入られてしまった。  これほど見目も良く聡明なのに、何故今までこんな蔵の中に閉じ込められていたのかがわからない。  そして同時に、柚斗の綺麗な黒髪や顔立ちを見て、卓巳は妙な既視感を覚えていた。柚斗の容姿は誰かに似ている気がするのだが、それが誰なのか思い出せない。少なくとも東條香夏子でないことは確かだったし、香夏子によく似た千夏でもなければ、聡一郎とも違う。もっとよく似た人物を見たことがある気がするが、一体誰だったか……。 「卓巳さん……?」  ジッと柚斗の顔を見詰めたままの卓巳を、形の良い双眸が心配そうに見下ろしてくる。そこで漸く我に返った卓巳は、目の前の白い頬へそっと手を伸ばした。 「お前が軽かったから大丈夫だ。それよりお前の方こそ、怪我してねぇか?」  卓巳が柚斗の頬へ掌を宛がった瞬間、細くて骨ばった肩がピクリと小さく震えた。 「……俺は、大丈夫です」 「なら良かった。……やっと、お前の顔がちゃんと見えた」   そう言って笑った卓巳を見下ろしていた柚斗の瞳に、突然ぶわっと涙が溢れた。理由がわからずギョッとする卓巳の掌を、零れ落ちた大粒の滴が濡らしていく。 「お、おい、どうした!? やっぱどっか痛めたのか!?」  慌てて柚斗の下から這い出るように身を起こした卓巳の前で、柚斗は次から次へと溢れてくる涙を必死に手の甲で拭いながら、フルフルと首を振った。 「……どうして涙が出るのかわからないんですけど、卓巳さんの手が、温かくて……」  すみません、と言いながら懸命に涙を堪えようと唇を噛み締める柚斗の姿に、卓巳の胸が切ない痛みを感じて軋んだ。  卓巳にとっては、何気なく伸ばした腕。だが柚斗は、そんな些細な温もりすら、感じることも許されないまま過ごしてきたのだ。  柚斗の理不尽な境遇を改めて思い知った卓巳は、気付けばその細い身体を強く掻き抱いていた。 「……っ」  驚いたように、腕の中で柚斗が息を詰める。  いっそこのまま柚斗を抱えて、今すぐ連れ出してやれたらどんなに良いだろう。それが出来ない歯痒さから、柚斗を抱く腕に自然と力が篭る。せめて今だけは、卓巳の熱を思う存分、柚斗に伝えてやりたかった。 「今日このまま連れてってやりてぇけど、まだ準備が整ってねぇんだ。次に来る時には、ちゃんと自由なトコに連れ出してやるから」 「じゃあ、今日はどうして外に出してくれたんですか?」  まだ涙の跡が残る顔を上げて、柚斗がきょとんと首を傾げる。その頬や目尻を親指で軽く拭ってやって、「その準備の最終確認の為だ」と卓巳はポケットからメジャーを取り出した。 「ちょっとアクシデントはあったけど、お前がちゃんと梯子を下りられるのはわかったし、後はお前の『サイズ』、測らせてくれ」 「サイズ……?」 「まあ取り敢えず立って……って、そうか、お前裸足なのか。足、大丈夫か?」  カーキ色のクロップドパンツの裾から伸びた裸足の白い足を見詰める卓巳の前で、柚斗は「大丈夫です!」と立ち上がってみせた。 「後で洗えばいいし、何よりずっと、地面の感触が知りたかったんです」  ワクワクした表情で、土の感触をじっくり確かめるように何度も足を踏みしめる柚斗の姿は、無邪気な子供のようだった。  こんな荒れ放題の庭の一角ですら、柚斗にとっては新鮮で仕方ないのだろう。柚斗に出会うまで、毎日のように気ままに遊び歩いていながら、充足感どころか、虚しさしか感じることが出来なかった卓巳とは正反対だ。  柚斗と一緒なら、卓巳にもこの世界がもっと鮮やかに見えるような気がした。この世にはもっと見応えのある景色が沢山あることを、早く柚斗に教えてやりたい。  目を輝かせながら、土や草の感触を素足で堪能する柚斗を一度真っ直ぐに立たせて、卓巳は背丈や肩幅、胴周りなど、龍哉に指示された箇所を手早く採寸し、携帯にメモしていく。その間にふと空を見上げた柚斗が、眩しそうに目を細めて感嘆の息を零した。 「凄い……空って、こんなに広かったんですね」 「まだまだこんなモンじゃねぇよ。自由になったら、もっと広い空が見える」 「そうなんですか? ……ホントに、知らないことばかりなんだ……」  流れる雲を目で追いながらポツリと零された柚斗の呟きを聞いて、卓巳は「そう言えば」と今日のもう一つの確認事項を思い出した。  役目を終えたメジャーをポケットに押し込み、代わりにバッグから少し色褪せかけた一枚の写真を取り出す。  龍哉に頼んで、母親から借りて貰ったその写真は、今から二十年近く前のものだ。父の知人の結婚式で撮られた集合写真で、卓巳の両親と、まだ幼い頃の兄が写っているが、端には東條夫妻の姿もある。  もしも柚斗の言う「お父さん」というのが聡一郎なのであれば、この頃の聡一郎には見覚えがあるかも知れないという龍哉の読みだった。もしも柚斗が聡一郎に何かしらの反応を示せば、彼が知りたがっている『柚斗という存在』を知る手がかりに、一歩近づくことになる。 「柚斗。この中に、お前の知ってる人間、居るか?」  卓巳が差し出した写真をそっと受け取った柚斗が、整列した人々の顔へ視線を滑らせていく。その顔色を窺うように見詰める卓巳の前で、ふと柚斗の瞳が一層大きく見開かれた。 「……お父さん……」  小さく、けれどハッキリと紡がれた言葉に、「どれだ!?」と思わず身を乗り出す。そんな卓巳の反応に驚いたのか、おずおずと柚斗が指差したのは、卓巳たちの予想通り、最後列の端に写った東條聡一郎の姿だった。  やっぱりそうか…、と胸の内で呟きながら、卓巳はその隣に写る香夏子を指差す。 「こっちは? 知ってるか?」  卓巳の問い掛けに、柚斗の表情がサッと曇るのがわかった。 「……誰なのかはわかりませんけど、俺を見ると、いつも怒っていた人です」 「怒ってた?」 「はい……。それしか、覚えてません」  香夏子に関する記憶は余程苦いものなのか、キュ、と唇を噛みながら柚斗が苦しげに眉を寄せる。これ以上思い出させるのは気が引けて、卓巳は「そうか」とだけ答えると、早々に写真をバッグに仕舞った。柚斗にとっては辛い過去を蘇らせてしまったかも知れないが、これで柚斗と香夏子の関係性も何となく把握は出来た。  さっきまでの活き活きした表情から一転して暗い顔になってしまった柚斗を宥めるように、卓巳はその頭を軽く撫でる。 「サンキュ。お前のことが、少しだけわかった」 「……卓巳さんは、俺のお父さんを知ってるんですか?」 「知ってるか知らないかで言えば、知ってるな」 「じゃあ、さっきの写真の女の人は、俺のお母さん……なんですか?」  卓巳を見上げてくる柚斗の瞳が、不安げに揺れる。それはまるで、香夏子が母親である可能性を恐れているようにも見えた。  柚斗の話からすると、彼が聡一郎か香夏子のどちらか片方としか血の繋がりがないとしたら、恐らく繋がっているのは聡一郎に間違いないだろう。柚斗は、蔵に自分を閉じ込めたのも「お父さん」だと言っていたので、その理由は現時点ではわからない。だが、香夏子と柚斗の容姿が全く似ていない上に、柚斗に辛く当たっていた過去があるのだとしたら、きっと柚斗の本当の母親は別に居るはずだ。 「百パーセントそうだとは言えねぇけど、さっきの写真の女は、多分お前の母親じゃない」 「え……それじゃあ、あの女の人は誰なんですか? 俺のお母さんは……?」 「その辺は、ちょっとじっくり話す時間が要るな。お前の母親の存在も、今の時点では俺にもわからねぇ」 「……そうですか……」 「次来るときまでに、俺の方もちょっと情報整理しとく。だからお前が自由になったら、ゆっくり話そう」  卓巳の言葉に、まだどこか不安そうな顔をしならも「わかりました」と柚斗が頷いたとき。卓巳の携帯が、メッセージの通知音を響かせた。 『龍哉:千夏さん、この後出掛ける予定があるらしい。出来る限り時間稼ぐから、急いで柚斗君を蔵に返して戻ってきて』  龍哉から届いたメッセージを見て、そんな予定があるなんて聞いてねぇぞ、と卓巳は苛立ちに眉を顰める。要領の良い龍哉なら、上手く千夏の気を惹いてくれるのではと思ったが、香夏子と違って千夏はそう簡単には、流されてくれなかったということなのだろうか。 「悪い、今日は時間切れみてぇだ」 「……何か、あったんですか?」 「お前は心配しなくていいから、取り敢えず蔵に戻れ。お前が梯子上りきるまで、ちゃんと見届けるから」  卓巳に追い立てられて梯子に手を掛けた柚斗が、名残惜しそうに卓巳を振り返る。  本当は卓巳としてももう少し話をするつもりだったが、予定が狂ったお陰で、柚斗を混乱させる情報を与えるだけになってしまった。そんな状態のまま柚斗を蔵に戻すのは、西園寺の家で中途半端な立場のまま放置されている卓巳と同じに思えて、焦る気持ちの中、卓巳はもう一度柚斗の身体をグイ、と抱き寄せた。 「…───ッ、卓巳……さん……?」  驚く柚斗の長い髪から、フワリと仄かに甘い香りが立つ。名残惜しいのは卓巳も同じなのだと伝えるように、柚斗の背中に回した腕へ力を込めた。 「柚斗。お前、自由になったら一番見てみたいもの、何かあるか」 「見てみたいもの……ですか?」  少し考え込んだ後、柚斗の口から「……海」という単語が零れた。 「海が、見てみたいです。物凄く広くて、大きいんですよね? 波ってどんなものなのか、どんな音がするのか……全然わからなくて」 「────わかった。広い海と空が見える場所、連れてってやる」  約束な、と敢えて柚斗の耳許で囁くと、抱き締めた身体がビクリと大きく震えた。 「ッ、……で、電話より……もっとゾワゾワします……」  囁かれた側の耳を片手で押さえて、戸惑いがちに卓巳を見上げてくる柚斗の顔は、耳朶まで真っ赤になっていた。 「ゾワゾワって、なんか俺が変質者みたいじゃねぇか」 「そういう意味じゃ……! ……すみません、嫌なわけじゃないんですけど、どう表現したら良いのかわからなくて……」  卓巳の行動や言動に、逐一新鮮な反応を返してくれる柚斗が素直に可愛くて、卓巳は「わかってるよ」と一度互いの額をコツンと軽く合わせてから、ゆっくりと回していた腕を解いた。 「このままじゃ、マジで離せなくなりそうだ。ほら、見つかる前に戻れ」  卓巳の言葉に頷き返し、改めて梯子に手足をかけた柚斗が、数段上ったところでふと卓巳の方へ顔を向けた。 「……本当は離れたくないって、思っててもいいですか?」  これまで一晩限りと誓った相手から強引に引き留められたことは何度かあるが、こんなにも控えめな哀願を受けたのは初めてだった。西園寺という家柄とも、汚れた大人の欲望とも、一切無縁な柚斗の純粋な言葉に、卓巳の胸が強く揺さぶられる。 「……俺だって同じだ。離れるって、辛いな」 「卓巳さん……」 「なるべく早く迎えに来るから、もうちょっと待っててくれ」  揺れないよう、梯子に手を添えて告げた卓巳に「待ってます」と寂しさの滲む笑顔を見せて、柚斗は今度は危なげなく梯子を上りきった。 「バレねぇように、梯子はなるべく小さく束ねて、置き場所にも気ぃ付けろよ」  無事に蔵の二階へ戻った柚斗が、「はい、隠しておきます」と答えて窓から梯子をスルスルと引き上げていく。 『龍哉:そろそろ限界。兄さん、まだ?』  龍哉からのSOSメッセージが卓巳を急かす。『すぐ戻る』と返してから、卓巳は手の届かない場所へ戻ってしまった柚斗に向かって軽く片手を上げた。 「それじゃ、またな、柚斗」  この場に留まりたがっている足を、身を切る思いで踏み出した卓巳の背中に、「また……!」と柚斗の切ない声が届く。その声に一度だけ肩越しに振り向いて頷き返した卓巳は、次こそ柚斗と共に通り抜けてやると心に誓いながら、庭へと引き返す小道を駆け出した。  卓巳が東條家の庭の東屋に戻った直後。本宅の玄関から、香夏子と共に出て来る龍哉の姿が見えた。間一髪、と胸を撫で下ろす卓巳の視線の先で、こちらに気付いた龍哉もまたホッとしたような表情を浮かべている。 「折角お越し頂いたのに、娘が急な予定を入れてしまって……本当に申し訳ございません。娘にも今後このような失礼のないよう、充分言って聞かせますので」  千夏の外出は香夏子にとっても予想外だったのか、二人の元へ歩み寄った卓巳に対しても、香夏子は珍しく萎らしい態度で深々と頭を下げてきた。確かに柚斗との逢瀬を断ち切られたのは悔しいが、今回も香夏子に怪しまれずに済んだのは、不幸中の幸いといったところだろうか。 「お気になさらないで下さい。こちらこそ、度々お邪魔させて頂いて申し訳ありません。千夏さんにも、よろしくお伝え下さい」  良家の息子らしく、卓巳の方も満面の営業スマイルで応え、門まで見送ると言う香夏子の申し出を丁重に断って、卓巳は龍哉と共に一礼してから、並んで門へと歩き出す。 「さすがに今日は、どうなることかとヒヤヒヤしたよ。どうも千夏さんは、まだ龍司兄さんの方に気があるみたいだ」  歩きながら、隣で龍哉が疲れた息を零した。 「兄貴に?」 「うん。僕と話してても、千夏さんは何かと龍司兄さんのことを知りたがってる」 「母親はすっかりお前がお気に入りみてぇだけど、娘の方は思ったより一途だったってことか」 「本当に、そろそろ僕が二人を引き付けるのも限界だと思うけど、そっちは? 上手くいった?」 「取り敢えず、今日確認するべきことは、一通り確認出来たと思う。アイツ、写真の聡一郎を見て、ハッキリ『お父さん』っつってた」  卓巳の報告を受けて、龍哉が「やっぱり……」と眉を顰める。 「香夏子さんの方は?」 「覚えてはいるみてぇだったけど、香夏子に関してはどうも嫌な思い出しかないらしい。それに何より、柚斗の顔は全く香夏子には似てねぇんだよ。どっかで見覚えある顔なんだけどな……」 「見覚えあるって……聡一郎さんじゃなくて?」 「いや、もっとよく似た顔、見たことある気がするんだよ」 「……それ、場合によっては凄い重要な要素じゃないの? 頑張って思い出してよ」 「それが思い出せねぇから困ってるんだって」  誰だっけなあ…、と首を捻りつつ卓巳は龍哉と揃って、東條家の門を潜った。そのまま駅の方へ歩き出そうとした視界の隅に、ふと人影が映って思わず歩みを止める。  車道を挟んだ向かい側の歩道に、日傘をさした女性が立っている。その顔を見た瞬間、卓巳の口から「居た……」と呟きが漏れた。  以前、東條家を訪問したときにも同じ場所に立って、ジッと東條邸の方を見詰めていた黒髪の女性。その女性が、あの日と同じように東條邸の塀を眺めている。  彼女の艶のある黒髪に、整った目鼻立ち。印象的な大きな瞳。それらが全て、卓巳の中で柚斗とピッタリ重なった。 「居た? ……誰が?」  突然立ち止まった卓巳の視線を追うように龍哉が女性の方へ顔を向けると、向こうもこちらの存在に気付いたのか、彼女が慌てた様子で踵を返して歩き出したので、卓巳は咄嗟にその背中を追って走り出した。 「ちょっと、兄さん!?」  困惑した様子で「一体なに!?」と問い掛けつつ、龍哉も卓巳に続いて走り出す。 「柚斗が誰に似てるのかわかった! 彼女なんだよ!」 「ええ!?」 「前にもあの場所で東條の家を見てた女だ……!」  女性が足早に曲がった路地へ、卓巳も急いで駆け込む。その少し後ろで「兄さんの幻覚じゃなかったんだ…」と龍哉が冗談なのかよくわからない呟きを零した。  卓巳たちの足音に気付いたのか、女性が走って逃げようとしたので、卓巳はその背に向けて「待ってください!」と縋るような思いで叫んだ。その声にビクリと肩を強張らせた女性が、思わずといった様子で足を止め、躊躇いがちに卓巳たちを振り返る。日傘の下から覗いたその顔は、見れば見るほど柚斗にそっくりだった。 「……突然、スイマセン」  肩で息をしながら、卓巳はやっと追いついた女性と向き合う形で足を止めた。彼女からは、発情期を迎えたΩ特有の、微かに甘いフェロモンが香っていた。 「前も同じ場所で、家を見てましたよね? あの家に、何か用なんですか?」  仮にも名家である東條家と、Ωである彼女の間に、本来なら縁があるとは思えない。ただ引っ掛かるのは、そんな彼女が何故これほどまで、柚斗にそっくりなのかということだ。  卓巳の問いに、女性は罰が悪そうに目を逸らした後、どこか申し訳なさそうな顔で卓巳に向き直った。 「……貴方がたは、東條家の方ですか?」  やはりあれが東條の家だと知った上で見ていたのか、と内心思いつつ、卓巳は女性の問いに「いえ」と首を振る。 「俺たちは、あの家にお邪魔してただけです。ただ、前にも貴方を見掛けたことがあったんで、ちょっと気になって……」  卓巳たちが東條の家の者ではないとわかった瞬間、女性は一瞬安堵の表情を見せた。────だがそれも束の間。日傘を畳んだ彼女の口から零された問い掛けに、卓巳たちは衝撃を受ける羽目になった。 「あの……東條家のは、お元気ですか?」  誰も知らないはずの東條家の『息子』の様子を問われ、卓巳は思わず返事も忘れて愕然とする。隣に立つ龍哉もまた、同じく目を瞠って言葉を失っていた。

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