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第五話

「さすがに、ちょっと頭が追い付かないよ……」  自宅に戻って来た卓巳と龍哉は、その足で揃って龍哉の部屋へ直行した。いつも冷静な龍哉も今日ばかりはかなり混乱している様子で、部屋に入るなりベッドに腰を下ろすと、重い溜息を零した。  全く同じ思いだった卓巳も、その隣に座って天井を仰ぐ。  東條の家を出たところで偶然居合わせた、柚斗そっくりなΩの女性。  他人の空似、なんて言葉では片付けられないほど、柚斗によく似たその女性を思わず追い掛けた卓巳だったが、まさか彼女の口から「東條家のご子息」などというとんでもない発言が飛び出すなんて、思いもしなかった。  東條家の人間でさえ、子供は娘の千夏の存在しか明かしていないのに、彼女は何でもないことのように「ご子息」という言葉を口にした。つまり、彼女だけは東條家に『息子』が存在することを、当然のように知っていたということだ。それが一体何を意味するのか。  元気も何も、まさかその存在すら世間には伏せられているなんて思ってもいない様子の彼女に、今の柚斗の状況を伝えるわけにもいかず、答えに迷った挙句、卓巳は「元気にしてらっしゃいますよ」と辛うじてそれだけを絞り出した。  そんな卓巳の返答を聞いた彼女は、安堵した表情で卓巳たちに一礼した後、「どうか私の事は東條家の方々にはご内密にお願いします」とだけ言い置いて、その場を立ち去った。卓巳も龍哉も、彼女の背中が見えなくなるまで、ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。  もしも柚斗の顔を見ていなければ、彼女の言動にただ疑問だけが残ったかも知れない。  だが、これまで柚斗から得た情報や、柚斗の置かれている環境、そして何より柚斗の容姿が彼女にそっくりだったことから推測すると、柚斗は聡一郎とあのΩ女性の間に生まれた子供である可能性が極めて高い。  おまけに柚斗がαではないこともわかっているので、そうなると柚斗の第二の性がΩである可能性もかなり高まった。 「兄さん……柚斗くんがさっきの女性に似てたっていうのは、間違いないの?」 「俺だってそう思いてぇけど、他人だって言う方が難しいくらいに似てる」  恐らく誰が見ても一目で親子だとわかるであろう、二人の顔を思い浮かべながら頷いた卓巳の隣で、龍哉が再び長い息を吐く。 「おまけに東條家に息子が居ることを知ってたってことは、もう柚斗くんはあの女性の子だって、ほぼ確定したようなものじゃないか」 「しかも、柚斗の方はαじゃないってことしかわからねぇけど、彼女は間違いなくΩだった」 「……つまり兄さんが、柚斗くんが蔵に幽閉されてる理由として挙げてた二つの可能性が、もしかしたら両方当てはまるかも知れないってことでしょ」  ────そうだ。  跡取り問題に悩んでいるはずの東條家が敢えて柚斗の存在を隠している理由として、 ・柚斗が、聡一郎か香夏子、どちらかが外で作った子供である可能性 ・柚斗の第二の性が、名家にあるまじきΩである可能性  この二点を、卓巳は初めて柚斗を見つけたときから考えていた。  これまでの柚斗の言葉と、それから今日のΩ女性との出会いによって、これらの二つの可能性がどちらも当てはまる確率も一気に上がったことになる。  だが、その一方で新たな疑問点も出てきた。 「もしもあのΩが柚斗の母親なんだとしたら、彼女は柚斗が至って普通に、東條家で育てられてると思ってるってことだよな」  彼女が柚斗の今置かれている状況を把握していたとしたら、「お元気ですか」なんていう質問が出てくるはずがない。おまけに柚斗は、良い記憶ではないにしろ、香夏子のことも覚えているということは、少なくとも蔵に入れられるまでの僅かな期間に、聡一郎や香夏子と接する機会はそれなりにあったということだろう。逆にΩの彼女は、それ以前に、何らかの理由で柚斗を東條の家に託したということが考えられる。  もしも柚斗がΩであったなら、何故東條の家に託されたのだろう。それに、柚斗を蔵に幽閉したのが香夏子だったというのならまだ理解も出来るが、何故聡一郎が突然そんな行動に出たのだろうか。 「……柚斗くんは、兄さんと初めて会ったとき、『守られてる』って言ったんだよね」  何かを考え込んでいるのか、龍哉が顎に手を添えてポツリと呟く。  そう言えば、卓巳と関わるようになって柚斗もさすがに自身の境遇に少し疑問を持ち始めているようだが、出会った当初の柚斗は『守られている』と信じきっていたことを卓巳も思い出す。 「彼を蔵に閉じ込めたのが聡一郎さんなんだとしたら、それはもしかして、香夏子さんから守る為だったってことなのかな」 「確かに柚斗の話じゃ、香夏子は柚斗に相当キツく当たってたみてぇだけどな。でも、柚斗が香夏子と血の繋がりがなくて、おまけにΩだったとしたら、そもそも何で東條の家で引き取ったんだ? プライドの塊みてぇな香夏子が、柚斗をすんなり受け入れるワケないことくらい、聡一郎もわかってたハズだろ」 「そこの経緯が、考えてもいまいちわからないんだよね。今日出会ったΩの女性からもっと詳しく話を聞けたら良かったんだけど、彼女も僕らに『東條家には内密に』って言ってたくらいだから、仮に問い詰めてもどこまで話してくれたか……」 「しかも、今の柚斗の状況も、全く知らないみてぇだったしな」  年頃に育っているはずの息子が、幼い頃からずっと蔵に監禁されていると知ったら、彼女はどう思うだろう。それを考えると、卓巳はあの場でとても彼女を問い詰めることは出来なかった。境遇はともかく、柚斗は幸い元気に育っているので、せめてその事実だけを伝えるのが精一杯だった。 「柚斗くんが東條家に引き取られた経緯はまだわからないけど、何はともあれ彼がΩである可能性が強まった以上、連れ出すなら尚更、急がないと危ないよ」  龍哉が張り詰めた顔で卓巳を見る。 「危ない?」 「だって彼が十代半ばくらいのΩなら、そろそろ発情期が来てもおかしくない。蔵の中で、偏った知識だけでここまで育ってきた彼が、もしあの蔵で突然発情期を迎えたりしたら、どうなると思う?」 「………」  龍哉に問われて、今度は卓巳が『考える人』になる。  穢れなんて微塵も縁がないほど純粋な柚斗。以前電話で話したとき、第二の性について『α』『β』『Ω』の三種類に分類される、という基本的な知識はあるようだったが、世間における第二の性のカーストや、Ω特有の発情期など、特に身体的な特徴に関してはよくわかっていない様子だった。  中でも特に印象的だったのは、 『どうしてなのかはわかりませんけど、Ωだけは男女どちらも子供を産むことが出来るんですよね? だとしたら、Ωって凄いなって思います』  という、現実社会では到底考えられないような柚斗の発言だ。世間でのΩの扱いを知らないからなのだろうが、余りにも無垢なその言葉に、不憫さや切なさで胸が締め付けられる思いがした。  そんな柚斗がたった一人である日突然発情期を迎えてしまったら、自身の身体の変化に戸惑い、さぞかし動揺するに違いない。 「……とても一人で対処出来るとは思えねぇな」  これは龍哉の言う通り、一刻も早く連れ出さなければ柚斗の身も危ないかも知れない。  Ωの発情は、特に年齢が若ければ若いほど理性で抑えることは難しく、抑制剤の使用や性行為などの対処をしなければ、錯乱状態に陥ることもあると聞いたことがある。自慰すら知らない可能性がある柚斗が発情したらどうなるかなんて、それこそ想像するだけでも気持ちが焦る。 「千夏さんの気持ちも僕に向くことは無さそうだし、いよいよ踏み込まないと不味いかも」 「だな。取り敢えず俺も借りる部屋の目星は大体つけてるから、急いでそっち抑える」 「柚斗くんの身体のサイズは、ちゃんと測れた?」 「お前に言われた箇所は、一通り測ってきた」  携帯にメモしておいた柚斗の『サイズ』を、龍哉の携帯にメールで送信する。その内容を見て、龍哉が「バッチリ」と顔を上げた。 「思ったより小柄だから、大きめのスーツケースに空気孔なんかの細工をすれば、充分運び出すのは可能だと思う」 「────なら準備が整ったら、決行だ」  いよいよ大詰めになった作戦内容を互いに確認して、卓巳と龍哉は目と目で静かに頷き合った。  ────数刻前 「ちょっと千夏! 出掛ける予定があるなんて聞いてないわよ!?」  西園寺兄弟を庭先で見送った後、急いで屋内へ引き返した香夏子は、二階にある娘の部屋へノックもせずに怒鳴り込んだ。 「……大学の友達から、急に呼び出しがあったの」  無遠慮に部屋へ踏み込んできた香夏子に不満そうな視線を向けた後、千夏はさっさと出掛ける身支度をし始める。その態度が、香夏子の怒りに更に火を点けた。 「大学の友達なんて、別に急ぐ必要もないでしょう! 折角龍哉さんが時間を割いて来てくれたのに、こっちの都合で追い返すなんて、失礼極まりないわよ!」 「だったら私の都合はどうなるの!?」  荷物を詰めたバッグを苛立ち紛れにデスクの上へ叩きつけて、千夏が香夏子を振り返る。初めて香夏子に向かって声を荒げた娘に、香夏子も思わず一瞬言葉に詰まった。  そんな香夏子に、千夏はうんざりした様子で溜息を零す。 「……ママ。私だって、龍哉さんのことは嫌いなわけじゃないわ。ただそれでも私は、龍司さんが好きなの」 「貴方、まだそんなこと…────龍司さんは西園寺家の次期当主よ? そんな人間を、西園寺の連中がうちの婿になんてくれるものですか」  千夏の訴えを鼻で笑って一蹴した香夏子にまたも小さな溜息を吐いて、千夏は粗っぽい手付きでバッグのベルトを引っ掴んだ。 「……ママが欲しいのは、婿じゃなくて西園寺の血なんでしょ。とにかく私は、龍哉さんと関係を進めるつもりは無いから」  そう言い置いて、バッグを肩に掛けながら部屋を出ていく千夏の背中を睨みつけ、香夏子は声を張る。 「いつまでも夢ばかり見てないで、いい加減目を覚ましなさい! 龍哉さんだって充分将来有望な、素晴らしい男性よ。次に失礼な真似したら、タダじゃ済まないわよ!」  香夏子の声に最後まで聞こえないフリを決め込んで廊下を歩き去る千夏を見送って、香夏子は苛々と長い髪を掻き上げた。  その遣り取りが聞こえていたのか、千夏と入れ違いで二階に上がって来た家政婦が、おどおどした様子で手に持った封筒の束を差し出してきた。 「あの……今届きました、郵便物です」  荒々しくそれらを奪い取った香夏子に怯えたように、家政婦はペコリと頭を下げ、逃げるように階下へ降りていく。  反抗的な千夏といい、いつまでも当主としては頼りない聡一郎といい、本当に腹の立つことばかりだと鼻息荒く、香夏子は渡された封筒へザっと目を通す。その中に、一通だけ聡一郎宛のダイレクトメールが紛れていた。 「まったく、仕分けもまともに出来ないの!?」  既にこの場に居ない家政婦へ鬱憤をぶちまけて、香夏子は廊下の突き当りにある聡一郎の書斎へ向かった。  聡一郎は、日頃から交流のある企業の会長たちと朝からゴルフに出掛けている。どうせ相変わらずペコペコと頭を下げるばかりなのだろうと想像し、なんて情けない、と嘆きながら香夏子が書斎のドアを開けると、デスクの上のモニターが点きっぱなしになっていた。香夏子にとっては忌々しいことこの上ないΩが過ごす、蔵の内部を監視する為のモニターだ。  もういい加減気に掛けるのはやめるよう何度も言っているのに、聡一郎は相変わらずあのΩの様子を見ているのかと、香夏子は更に込み上げてくる苛立ちに鼻を鳴らす。  だがモニターに映し出された光景に、ふと妙な違和感を感じて、香夏子は思わず食い入るように顔を寄せた。  モニターの中で、柚斗が柱に結びつけられた長いロープのようなものを、解こうとしているのか、色んな方向から引っ張っている。そこから繋がって柚斗の足元で束になっているそれは、よく見ると梯子状になっているようにも見える。  結ぶのは絵を見ながらだったのですんなり出来たものの、縄梯子を解く作業に手間取ってしまっていた柚斗は、すっかり監視カメラの存在を失念してしまっていたのだが、そんなことを香夏子が知るはずもない。 「……何なのよ、コレは……」   充分地上まで届く長さはありそうな縄梯子を見詰めながら、香夏子は唖然と呟く。  こんな物が、あの蔵にあっただろうか。  柚斗の存在を誰かに知られるのは困るが、かと言って東條家の敷地内で死なれても困るので、身の危険になりそうな物は蔵には置かないよう、聡一郎には言ってある。それに何より、香夏子と違って聡一郎は今でも尚柚斗の身を案じているはずだ。なのに縄梯子なんて渡して、万が一首でも吊られては敵わない。  けれど縄梯子は柱の中ほどに固定されているので、どうやら柚斗はもっと別の目的でそれを使用していたのだろう。だとしたら一体何に…、と思ったところで、ふと毎回龍哉に付き添ってきては、異常に東條家の庭に拘っている卓巳の顔が香夏子の脳裏に浮かんだ。  最初こそ、βとはいえ庭を褒められて悪い気はしなかったが、考えてみればあれでも西園寺家の息子なのだから、東條家の庭よりも立派な日本庭園なんて、いくらでも見る機会はあるはずだ。そんな卓巳が、例えカメラにハマっているとしても、いつも龍哉と連れ立って来るほど、東條家の庭に執着するものだろうか。  それに、千夏の誕生パーティーでも特別千夏に対して興味を示していなかった龍哉が、突然千夏に何度も会いに来るようになったことも、冷静になって考えてみればどこか不自然だ。  徐々に湧き起こってくる疑問を確証に変えるべく、香夏子は陽が落ちてからこっそり一人で庭の最奥へと向かった。  柚斗の存在自体が腹立たしい香夏子は、敢えて今まで近づくことのなかった蔵へ初めてやってきた。正面から眺めた蔵の外観には、特におかしな様子は見られない。二階の窓は明かりが漏れるのを防ぐ為、香夏子の言いつけ通りに内側から板で塞がれているし、外側も鉄格子によって出入りは出来ないようになっている。  それを確かめた上で、香夏子は足音を殺し、ゆっくりと蔵の裏側へ回った。香夏子の腰辺りまで伸びた雑草を掻き分けるようにして進んでいくと、足元でパキッと何かが砕けるような音がした。 「………?」  暗がりの中、音の正体を確かめるべく、香夏子は静かに身を屈める。香夏子の靴の下で砕けたそれは、拾い上げてみると錆びた小さな金属片だった。  ────まさか。  ゆっくりと身を起こしながら、香夏子は蔵の裏側の窓を見上げる。内側こそ、こちらも板で塞がれてはいたが、正面の窓にはしっかりと嵌っていた鉄格子が、裏側の窓からは綺麗に取り払われていた。改めて足元の草むらへ視線を落とすと、恐らく元々は窓に嵌っていたであろう鉄格子の成れの果てが、無残な形でそこかしこに散らばっている。 (やっぱりそうだったのね……!)  卓巳がやけに東條家の庭に拘っていた理由が、まさかここにあったなんて。  千夏の誕生パーティー以降、急に何度も卓巳と龍哉が東條家を訪れるようになったということは、恐らく卓巳はあのパーティーの夜、この蔵の存在に気付いたのだろう。  本当に東條の家を訪問したかったのは龍哉ではなく、卓巳の方だったのだ。  それを確信した香夏子は、まんまと騙されてしまっていたことへの悔しさと憤りにギリ…、と奥歯を鳴らした。  どんな手を使ったのかは知らないが、鉄格子を破壊したのも、柚斗が縄梯子を所有していたのも、全て卓巳の協力によるものだろう。卓巳は恐らく、柚斗をここから連れ出そうとしている。  別に、柚斗がこのまま居なくなってくれれば、香夏子にとってはコソコソと隠しておく必要もなくなるのだから、願ったり叶ったりだ。けれど、この蔵に長い間柚斗を監禁していたことを世間にバラされてしまえば、一瞬で東條家の未来は絶たれてしまう。ただでさえ現当主である聡一郎は頼りにならないし、存続の危機にある東條家としては、それだけは何としても阻止しなければならない。  それに何よりも香夏子のプライドが、このまま西園寺家のβごときに出し抜かれることを、許すはずがなかった。  ────利用されたのなら、こちらも西園寺を利用してやればいい。  確かに柚斗の存在は東條家にとっては重大な秘密だが、卓巳は香夏子の目を盗んで東條家の敷地内を勝手に散策していたことになるのだから、少なくともそのことを西園寺の家に訴えることは出来る。  弱味を握っているのはお互い様だと、鮮やかな口紅に彩られた唇を歪ませた香夏子は、本宅へ引き返すと、卓巳宛に東條家へ『招待』の電話を掛けた。   ◆◆◆◆◆  しとしとと朝から鬱陶しい雨が降り続いている土曜日。  香夏子から呼び出しを受けた卓巳は、一人で東條家を訪れた。  先週の夜、突然香夏子から卓巳宛に電話があり、「今日の娘の失礼をお詫びしたい」と言われ、丁度柚斗を連れ出すタイミングを計っていた卓巳は龍哉と共に訪問すると答えたのだが、香夏子からはどういうわけか卓巳一人で来るようにと強く言われ、卓巳は嫌な予感を覚えていた。  龍哉に相談することも考えたが、万が一香夏子が卓巳たちの計画に気付いていた場合、龍哉を巻き込むことは避けたかったので、卓巳は敢えて龍哉には伝えないままこの日を迎えた。だが、不自然なほど満面の笑顔で出迎えた香夏子に応接間へ通された卓巳は、足を踏み入れた瞬間、せめて知恵だけでも借りておけば良かったと、激しく後悔することになった。 「どうぞ、お座りください」  笑顔のまま香夏子に示されたソファ。その前のテーブルには、バラバラになった鉄格子の破片が、ご丁寧に真っ白なナプキンの上に載せられた状態で置かれていた。 「卓巳さん? どうかなさったの?」  思わず立ち尽くしてしまった卓巳に、香夏子がわざとらしい声で問い掛けてくる。  ……どうする? 取り敢えず、白を切る方がイイのか?  動揺を悟られないよう必死に平静を装って、卓巳は一先ず素知らぬ顔を決め込み「いえ、何でもありません」と笑顔を返して促されるままソファへ腰を下ろした。  錆びた金属片が置かれたテーブルを挟んだ異様な状況で、香夏子は卓巳の向かいに座って笑みを深める。 「先日は、娘が大変失礼致しました。龍哉さんは、お気を悪くしていなかったかしら」 「とんでもない。是非またの機会にと申していました」 「そうですか。……でも、それもそうですわね。だって龍哉さん────いえ、卓巳さんの目的は、別にあるんですものね」  ずっと笑みを浮かべていた香夏子の瞳が、爬虫類のようにギラリと鋭く光る。 「……どういうことですか?」  卓巳は辛うじて笑顔は保っていたものの、声が強張るのは抑えられなかった。  そんな卓巳の反応にクスリと嗤った香夏子が、「いい加減、猫を被るのはお止めになったら?」とテーブルに一枚の写真を投げ出した。それは、柚斗が柱に結んだ縄梯子を外そうとしている様子が映し出されたモニター映像を撮影したものだった。  ……しまった。結び方だけじゃなく、解き方も龍哉に描いてもらうべきだった、などと後悔してももう遅い。柚斗の写真を見せられて、さすがに卓巳の顔からも笑顔が消えた。 「いくらβとはいえ、西園寺家の息子である貴方が敢えてうちの庭に執着するなんておかしいって、もっと早く気付くべきだったわ」 「……アイツに、何かしてねぇだろうな」  普段の口調に戻って香夏子を睨み返す卓巳に、香夏子が「まぁ、怖い」と大袈裟に怯えた声を上げる。  ただでさえ香夏子に関しては良い記憶がないという柚斗が、これ以上香夏子に手出しされていないだろうかと真っ先に不安になったが、香夏子は卓巳の言葉を鼻で笑い飛ばした。 「あんな忌々しいΩになんて、近づきたくもないわ。でもあのΩには、あそこでひっそりと生きておいて貰わなければ困るのよ」  柚斗のことをまるで人とも思っていないような物言いに、卓巳は腹の底から込み上げてくる怒りを必死に抑える。香夏子が女でなければ、とっくに手が出ていただろう。  だが同時に、香夏子の発言で柚斗がΩであることは確実になった。……今の状況では、決して喜ばしい情報ではなかったが。 「そう思ってるなら、早くこの家からアイツを解放してやれよ。アンタらがアイツを自由にしてくれるんなら、他言はしねぇ」 「これまでずっと騙されてきたのに、そんな話が信じられるものですか。────ただし、こちらの条件をのんで貰えるのなら、あのΩは引き渡してもいいわ」 「条件……?」 「あのΩを解放する代わりに、貴方の弟である龍哉さんには、千夏の婿として東條の家に入ってもらう。悪い条件じゃないでしょう?」  脚を組みながら真っ赤な唇に笑みを浮かべる香夏子に、「ふざけるな!」と卓巳はテーブルを叩きつけて立ち上がった。 「お前ら、自分のやってることわかってんのかよ!? 子供を監禁してまともな教育も受けさせてねぇ時点で、立派な犯罪だろうが!」 「だったら、貴方が弟と共謀して私たちを欺き、敷地内を無断で探索していた事実はどうなるのかしら? そんな事が世間に知られれば、ただでさえ西園寺家の出来損ないである貴方が、当主であるお父様の顔に泥を塗ることになるのよ?」 「………っ」  こんな時にも西園寺の名前や、その家にβとして生まれたことが枷になる悔しさに、卓巳はやり場のない怒りを持て余して震える拳を握り締める。確かに卓巳自身が撒いた種なのだが、こんな事になるならやはりもっと早くに西園寺の家を出ていれば良かった。 「仮に俺がその条件をのんだとしても、親父が龍哉を婿養子になんか出すわけねぇだろ」 「だったら、貴方にもあのΩの事は忘れて貰うだけよ。勿論、今後一切、東條家の敷地にも立ち入らないと約束して頂戴」  そう言って、香夏子が一枚の紙を卓巳の目の前に突き付けてきた。『誓約書』と書かれたその用紙には、この先二度と東條家の敷地に立ち入らないことや、柚斗のことも含め、東條家の情報の口外を禁じる旨の内容が記されている。 「弟と引き換えにあのΩを連れ帰るか、それともその誓約書にサインするか。お好きな方をどうぞ」 「……どこまでも腐ってやがんな」  手の中の誓約書をぐしゃりと握り潰す卓巳の前で、香夏子は「どうとでも言えばいいわ」と、魔女のように黒いネイルが施された指先を眺めている。  卓巳の身ならいくらでも犠牲にして柚斗を解放してやるところだが、龍哉の名前を出されれば、さすがに卓巳も応じるわけにはいかない。それを見越した上で、敢えて香夏子は龍哉を条件に出してきたのだろう。柚斗か龍哉、そのどちらかを裏切る選択肢しか、卓巳には端から用意されていない。  もしも柚斗を選べば、龍哉は勿論だが、結局は西園寺の家をも巻き込むことになってしまう。だからと言ってこの誓約書にサインすれば、卓巳は柚斗と交わした約束を破ることになる。  結局のところどちらを選んでも、卓巳以外の誰かが犠牲になってしまう卑劣な選択に、怒りと悔しさが抑えきれない。 「さあ、どうするのかしら? 西園寺家のガラクタさん」  答えを促すように、香夏子がテーブルの上へ、押印用の朱肉を滑らせてくる。卓巳はそれを、怒りに任せて思いきり払い除けた。壁まで飛ばされた朱肉の容器が、衝撃で砕けて床に散る。 「てめぇみたいなクズにだけは、言われたくねぇよ……!」  葛藤する卓巳の心同様、ぐちゃぐちゃになった誓約書に、卓巳は自らの歯で噛み切った指で押印する。叫び出したい悔恨と共に柚斗との約束をテーブルへ投げ捨てて、卓巳はもう二度と立ち入ることの出来ない東條家の門を駆け抜けた。  雨足の強まる中、傘もささずに帰宅した卓巳に、出迎えた家政婦は驚いた様子でタオルを持ってきてくれたが、卓巳はそれを断ってそのまま自室に備え付けられたシャワールームに篭った。  頭上から降り注ぐシャワーの湯が排水溝へ流れていく様子を眺めながら、卓巳は自身の不甲斐なさをただ責めることしか出来なかった。  必ず迎えに行くと、柚斗に宣言したにも拘らず、結局卓巳は何も出来なかった。せめて卓巳自身がαだったなら、卓巳が犠牲になって柚斗を解放してやることも出来たかも知れないのに、βである自分にはそれすらも出来ない。  今になって、父や兄に指摘された己の甘さを痛感する。二人に言われた通り、甘い考えで柚斗に散々期待させた末に、裏切ることになってしまった。ずっと卓巳に協力してくれた龍哉のことも、結果的に振り回しただけだ。 『……本当は離れたくないって、思っててもいいですか?』  離れ際の柚斗の言葉が、帰り道から延々と卓巳の頭の中で響いている。  辛うじて救いなのは、柚斗に渡した携帯の存在が香夏子には気付かれていないらしいことと、誓約書に「柚斗と関わってはならない」とは書かれていなかったことだろうか。そのお陰で携帯でのやり取りはこれまで通り可能だが、それでももう二度と卓巳が柚斗に会いに行くことは叶わないと知ったら、柚斗はどう思うだろう。  ほんの少し、蔵の外へ出ただけでもあれだけ目を輝かせて喜んでいた柚斗を思い出すと、卓巳の胸は重苦しく痛む一方だった。  一体どのくらいシャワーを浴び続けていただろう。  その前に雨にも散々打たれていたこともあって、濡れた髪を拭くのもそこそこに、卓巳はズンと沈んだ気分のまま、携帯を片手にベッドへ腰を下ろした。  通話履歴から柚斗の番号を選び、通話ボタンを押そうとして、何度もその指が止まる。  どれだけ思い悩んだところで、柚斗を失望させてしまう結果には変わりないとわかっていても、なかなか踏ん切りがつかない。何をやっても中途半端な自分が、心底嫌になる。香夏子には思わず反論したが、結局卓巳は柚斗一人すら救えなかった出来損ないだ。  何だかんだで小一時間ほど悩んだ末、卓巳は一度長い息を吐いてから、意を決して通話ボタンを押した。殆ど間髪置かず、『はい!』と待ち侘びたような柚斗の声がスピーカーから響いてきて、卓巳の胸は一層苦しくなった。 「……柚斗、悪い。……お前との約束、守れなくなった」 『え……?』  重い口を開いた卓巳の言葉を受けて、柚斗が一瞬沈黙する。  さぞ落胆させてしまったことだろうと携帯を握る指に力を込めた卓巳だったが、柚斗から返ってきた言葉は予想を裏切るものだった。 『卓巳さん、もしかして何か酷い目に遭ったんですか!?』  落胆どころか、逆に卓巳の身を真っ先に心配され、今度は卓巳の方が返答に詰まる。柚斗のその優しさと純粋さが、今の卓巳の胸にはじくりと沁みた。 「……いや、俺のことなら心配ねぇよ。ただ、ちょっと色々あって、もうお前に会いに行けなくなっちまった」  ごめん、と絞り出した卓巳に、柚斗は『卓巳さんが無事なら、良かったです』と安堵の声を零す。 「お前の事、絶対迎えに行くって散々言ったのにな……」  卓巳の方が落胆しきった声を零してしまい、電話越し、『卓巳さん……』と柚斗が心配そうに卓巳の名を口にする。眉を下げた柚斗の表情が目の前に浮かぶようで、卓巳はぐしゃりと自身の髪を握り込んだ。 「ごめんな、柚斗……」  何度も謝罪を繰り返すことしか出来ない卓巳を励ますように、柚斗が努めて明るい声音で続けた。 『前にも言ったんですけど、俺は自分の所為で卓巳さんが辛い思いをするのが、一番嫌です。これまでもそうだったみたいに、やっぱり俺は、誰かと関わっちゃいけなかった。俺と関わった人は、きっとみんな、辛い思いをするんだと思います』 「そんなことねぇよ!」  何の罪もない柚斗にそんな言葉を言わせてしまったことが酷く情けなくて、卓巳は思わず声を張った。 「お前と会って、俺がどれだけ救われたと思ってんだよ……」  自由を与えられていながら、何に対しても投げ遣りだった卓巳と違って、狭い世界で生きていても真っ直ぐで前向きな柚斗は、色褪せていた卓巳の日々に、確かに光を与えてくれた。だからこそ、どうにかして柚斗にもっと自由な世界を見せてやりたかった。柚斗が見たいと言った海を、もっと広い空を、見せてやりたかった。 『俺も、卓巳さんに色んなものを貰いました。携帯電話も、梯子を下りるドキドキ感も、地面の感触も、それから卓巳さんのあったかさも……全部、卓巳さんが居なかったらきっと俺は、この先も知らないままでした。本当に充分すぎるくらいです。だからもうこれ以上、卓巳さんも、俺とは関わらない方がいいです』 「柚斗……」  滔々と話す柚斗が今どんな顔をしているのか。見えないのがもどかしい。  柚斗にとっては、卓巳も所詮柚斗を置き去りにして去っていく人間の一人になってしまった。結果的に柚斗との約束を守れなかったのだから、失望されるのは当然だ。 『……ありがとう、卓巳さん』  そう言い残して、一方的に通話が切られた。最後に聞こえた柚斗の声は────何かを堪えるように震えていた。  初めて卓巳が柚斗の頬に触れたとき、柚斗が零した涙の感触が蘇る。  ……卓巳は柚斗を置き去りにして去ったどころじゃない。一度は外の世界を見せて、純粋な柚斗に確かに希望を抱かせて────そして、再び突き落とした。  ただ蔵へ閉じ込めた聡一郎の方がまだマシだと思えるほど、卓巳は柚斗に消えない傷を残してしまった。 「クソ……ッ!!」  言葉にならない無念さ、切なさ、腹立たしさ、情けなさ……あらゆる感情が噴き出してきて、卓巳はベッドに携帯を投げ捨てると、力任せに拳を壁へ撃ち付けた。  関わる相手を不幸にしているのは柚斗じゃない、卓巳の方だ。  自身の不甲斐なさに、涙すら出ない。  どの道もう西園寺の家に居る意味もないと、卓巳は柚斗を連れ出す為に用意してあったスーツケースへ、乱雑に荷物を詰め込んでいく。その物音に気付いてか、ドアを二回ノックする音に続いて「兄さん?」とドア越しに龍哉の声がした。返事を返さない卓巳を不審に思ったのか、焦れたようにドアを開けた龍哉が、無言のままスーツケースに着替えや日用品を詰め込む卓巳を見て息を呑んだ。 「ちょっと……! 何やってるんだよ、兄さん!」  慌てて駆け寄ってきて卓巳の腕を掴む龍哉の手を、「放せよ」と卓巳は視線も向けずに振り払う。  「それ、柚斗くんを連れ出す為のスーツケースでしょ!?」 「もういいんだよ」 「もういいって何が!?」  問い掛けた龍哉が、直後、何かに気付いたようにハッと目を瞠る。 「……兄さん、今日どこに出掛けてたの? ホントならこの休日、柚斗くんを連れ出せるかも知れないチャンスだったのに、何も言わないからおかしいと思ってたけど……もしかして、東條の家に行ってたんじゃないの?」  相変わらず勘の鋭い弟に、可笑しくもないのに卓巳の口から乾いた嗤いが零れた。 「……その通りだよ。それで全部台無しになった。だからお前も、今後一切東條の家には関わるな」 「関わるなって……何だよそれ。柚斗くんを助けるって、約束したんだろ!?」 「それが出来ねぇから情けなくて仕方ねぇんだよ!!」  漸く龍哉を振り返った卓巳の怒鳴り声が、キンと部屋に響く。いっそ卓巳が龍哉だったなら、自分が犠牲になることも出来ただろうし、そんなことをせずとも、もっと上手く柚斗を助け出す方法だって思いついたかも知れない。  自分がβに生まれたことはもうとっくに仕方ないと割り切ったつもりだったが、これほどαを羨ましく思ったのはこの日が初めてだった。 「αだのβだの、そんなモン今更どうだってイイと思ってた。けど結局、俺みてぇなβは、肝心なときにα相手じゃ敵わねぇんだよ……! αに生まれたお前にはわからねぇだろ!?」 「兄さん……」  感情任せに捲し立てた卓巳は、どこか哀しげに眉を下げた龍哉の顔を見て、ハッと我に返る。何も悪くない龍哉に当たってどうするんだと、再び自己嫌悪に陥って、卓巳は「……悪い」と視線を落とした。  そんな卓巳に、龍哉は小さく息を吐いて、静かに傍らへ腰を下ろす。 「兄さんが一人で東條家に出向いたってことは、大方香夏子さんから俺をネタに強請られたとか、そんなところでしょ」 「……何でわかるんだよ」 「いかにもあの人が考えそうな事だから。それに、いい加減怪しまれてもおかしくないなとは僕も薄々思ってたしね。……だから、香夏子さんが駄目なら、狙いを聡一郎さんに変えてみるって手もあるよ」 「聡一郎に?」 「これはあくまでも僕の推察だけど、聡一郎さんがこの頃ずっと憔悴してるのは、柚斗くんを隠し続けている後ろめたさに、段々耐え切れなくなってるからじゃないかと思うんだ。一人の人間の存在を隠し通すなんて、そんなに簡単な事じゃない。ましてやそれが血の繋がった子供だとしたら尚更だ」  確かに今の東條家の中で最も良心が残っている人間は、恐らく聡一郎だろう。聡一郎が龍哉の予想通り、柚斗を監禁しているという事実に耐え兼ねているのだとしたら、少し突けば口を開いてくれる望みはあるかも知れない。  だが、表向きは聡一郎が当主とはいえ、実質東條家を仕切っているのは香夏子だ。特に今の聡一郎は、ほぼ完全に香夏子に支配されていると言っても過言ではないように思う。例え聡一郎から柚斗のことを聞き出せたとしても、それが少しでも香夏子の耳に入ってしまえば、結局は龍哉や、西園寺の家ごと巻き込んでしまいかねない。 「お前の言う事は一理あるけど、香夏子の存在がある以上、多分柚斗に近付くのは難しい。俺はもう東條の家には入れねぇし、お前が共謀だったこともバレてるから、悔しいけどこの先、俺らは東條家に手を出せねぇよ」  ズルズルと居続けた西園寺の家。そこにけじめをつけるように、卓巳は最低限の生活用品を詰め終えたスーツケースの蓋を閉じた。幸か不幸か、柚斗を連れ出した後の為に、既に家具家電付きの1DKアパートも契約してある。本当なら、そこでは柚斗と過ごす生活が待っているはずだったのだが、そこへ一人で移り住むことが、柚斗へのせめてもの償いになれば良いと思った。 「……父さんたちに、何も言わずに行くの?」  スーツケースを起こして立ち上がった卓巳を見上げる龍哉の瞳が、少し寂しそうに揺れる。その髪をくしゃりと撫でて、卓巳は力なく笑った。 「前々から出てくって言ってたしな。お前も、この先東條の家のことで何か言われても、一切関係ないフリしてろよ」 「後でいいから、アパートの住所、携帯に送っといて。たまに覗きに行かないと、兄さんまただらしない生活してそうだから」 「素直に『寂しい』って言えよ」  居心地の悪いこの家の中で唯一の理解者だった弟に「じゃあな」と短い挨拶をして、卓巳は何事かと駆けつけてくる家政婦を振り切り、まだ降り続く雨の中、西園寺の家を密かに去ったのだった。   ◆◆◆◆◆  連日の雨続きで、昼間だというのに差し込む陽もなく薄暗い蔵の中。  朝からずっと開いたままの本のページに、もう何滴目になるのかわからない雫が柚斗の頬を伝って滴り落ちる。同じページを開きっぱなしにしている所為で、文字は滲み、紙はすっかり皺くちゃになってしまっていたが、そんな事すら今の柚斗には気に掛ける余裕もなかった。  丁度十日前、突如掛かってきた卓巳からの電話。 「約束が守れなくなった」と告げた、卓巳の酷く沈んだ声を聞いて、柚斗は瞬時に卓巳に何かがあったのだと察した。卓巳のそんな声を、聞いたことがなかったからだ。  卓巳は「心配ない」と言ってはいたが、いつも力強く柚斗に話しかけてくれていた卓巳とは程遠いその声音に、柚斗は強い不安を覚えた。  やはり言いつけを守らず、柚斗が卓巳と関わってしまった所為だ。もしも卓巳の身に何かあったら…、という懸念が真っ先に頭を過ぎって、もう二度と卓巳に会うことが出来ないのだというショックは、少し遅れてやってきた。  これ以上卓巳に迷惑をかけないよう、必死に平静を装って電話を切ったが、その直後、柚斗の目から様々な感情と共に止めどなく涙が零れた。  卓巳に出会ったお陰で、柚斗の世界は一気に広がった。卓巳から聞く話や、携帯電話などの差し入れも、柚斗にとっては知らなかったことばかりで、改めて柚斗は限られた知識の中で生きてきたことを思い知らされた。  そんな柚斗を、卓巳はほんの短い時間とは言え、外の世界に連れ出してくれ、人の温もりを教えてくれた。それらはきっと、卓巳が居なければ柚斗は決して知ることは出来なかっただろう。それだけでも充分有難いことじゃないかと頭ではわかっているのに、この先もう二度と、卓巳の温もりを感じることは出来ないのだと思うと、次から次へと涙が零れて、結局その夜は一睡も出来なかった。  そうしてそれから十日間。  どうにか気持ちを切り替えようとどんな本を開いても、書かれた文字を必死に目で追おうとしても、これまでのように内容が頭に入ってくることはなかった。それどころか、少しでも気が弛むと、勝手に涙が零れてしまう。  柚斗が関わらなければ、もうこれっきり卓巳が酷い目に遭うことはない。ならばそれが何よりだ。  何度そうやって自分自身に言い聞かせても、柚斗を強く抱き締めてくれた卓巳の腕の温かさを思い出すと、卓巳への想いは膨らむばかりだった。  一体いつから、こんなにも強欲になってしまったのだろう。  柚斗に関わった相手は、皆辛い思いをするとわかっているのに、それでも尚、卓巳を恋しいと思ってしまう。言いつけを破っただけでは物足りず、もっともっとと求めてしまう自分の欲深さが、どこか恐ろしくもあった。  初めて柚斗に親切にしてくれた卓巳にさえ、柚斗は辛い思いをさせてしまった。こんな自分の存在とは、一体何なのだろう。  人を不幸にすることしか出来ないのなら、何故自分はここで生かされているのだろう。  こんな自分を「守る」と言った、父の言葉の真意は……?  ぽっかりと穴が開いてしまった柚斗の心の中に、日に日に虚しさや寂しさ、心細さが積もっていく。 「……卓巳さん……」  開いた本を膝の上に載せたままポツリと呼び掛けてみるが、当然返事は返ってこない。卓巳に会うまでは、むしろそれが当たり前だったはずなのに、今では蔵の中の静けささえ、酷く寂しいものに思えた。  食事も殆ど喉を通らず、毎日同じ本の同じページを眺め続けたまま、ただ時間だけが過ぎていく。このまま時間が過ぎれば、少しずつ柚斗の中から卓巳の記憶も薄れていくのだろうか。まだこの身にハッキリと残る、卓巳の腕の感触や温もりも、いつかは忘れてしまうんだろうか。  忘れなくてはいけない。……なのに忘れられない。忘れたくない。  相反する感情が柚斗の中でぶつかり合って、胸が苦しい。  また一筋、柚斗の目尻から伝った涙がポタリと滴った、その直後のことだった。  ────ざわり、と全身の肌が粟立つような感覚がして、柚斗の身体が大きく震えた。  え?、と思う間もなく視界が一瞬ぐにゃりと歪み、次第に心臓の音が強く、速くなっていく。それと同時にじわじわと身体が熱を持ち始め、上手く息が吸えなくて呼吸が浅くなる。 (……なに……コレ……)  これまで感じたどんな体調不良とも違う、明らかな身体の異変に、柚斗はドクドクと脈打つ胸を服の上から押さえながら、堪らず傍の本棚に寄り掛かった。膝から滑り落ちた本が床の上でバサリと音を立てたが、それを拾うことすら出来ない。  身体の奧の深いところが、まるで燃えているみたいに熱い。自身の身体の激しすぎる変化に、理解が追いつかない。  ワケが分からないまま、柚斗は力の入らない手足で這うように階段を上がり、二階の本棚に隠すように置いてある携帯へ無意識に手を伸ばした。無我夢中で卓巳に助けを求めかけて、寸でのところで辛うじて思い止まる。  ……駄目だ。ここで卓巳に連絡してしまったら、また卓巳に嫌な思いをさせてしまうかも知れない。もう関わらない方がいいと、柚斗の方からそう言ったのだから。  でもそれなら、一体どうすればいいのだろう。  身体の火照りは酷くなる一方で、熱くて熱くて、思考が次第に蕩けていく。自分が自分でなくなってしまうようで、怖くて堪らない。 「……助けて……卓巳さん……っ」  とうとう座っていることすら出来なくなって、柚斗はどろりと全身が溶けていくような感覚の中、縋るように携帯を抱え込んだままドサリと床に倒れ込んだ。  ────柚斗のΩ性が、目を覚ました瞬間だった。

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