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第六話

   澄みきった空の下。  まだ春先の所為か、人の姿もまばらな海岸に座った聡一郎は、隣で波の音に聞き入っている柚花の横顔を見詰める。  柚花と店の外で会うのは、この日が初めての事だった。  時折吹いてくる潮の香りを含んだ風が、柚花の長い髪を揺らす。その度に、フワリと甘い香りが鼻先を掠めて、聡一郎はただそれだけで、東條の家で日々蓄積している疲れが癒されていくのを感じていた。  これまではあくまでも客とホステスという関係でしかなかったが、初めて「店以外の場所で会いたい」と一歩踏み込んだ聡一郎に、柚花は少し躊躇いながらも応じてくれた。そんな彼女が逢瀬の場所に選んだのが、この海だった。  色白な柚花が海へ行きたいというのは意外だったが、時折犬の散歩に訪れる人や、波を待つサーファーが数人居る程度の穏やかな海岸に、柚花の姿はとてもよく映えた。  店ではいつもドレスを纏っている柚花だが、この日はシンプルなモノトーンのストライプワンピースに薄手のカーディガンという、何処にでも居る女性といったラフな格好だった。けれど華やかなドレス姿より、今の柚花の方が、聡一郎には何故か「彼女らしい」と思える。そもそも彼女の容姿自体が目を惹くものだけに、変に着飾る必要などないのかも知れない。家に居る時でも、一時間ほどメイクに時間を掛け、常に派手なブランド服に身を包んでいる香夏子の姿と、どうしても脳内で比較してしまう。 「此処へは、よく来るの?」  飽きる様子もなく、寄せては返す波を眺めている柚花に問い掛ける。風で顔に掛かりそうになる髪を押さえながら、柚花が優しい眼差しを向けてきた。 「ええ。幼い頃、何度か両親に連れられて来たことがあって、それ以来一人でも時々来るんです。波の音って、何だか落ち着きませんか?」 「確かに。……海なんて、もう随分久し振りだな」  東條の家に婿入りして以来、そもそもこんな風にゆったりとした時間を過ごしたことなど、一度も無かった気がする。  付き合いの長い名家や関係者へのご機嫌取りに、深刻な後継ぎ問題。加えて、無理矢理会長職を押し付けられた企業の経営不振……家に居ると頭の痛い話ばかりで、聡一郎には気の休まる時間が全く無かった。 「柚花は、ご家族と一緒に暮らしてるの?」  続く問いには、柚花は少し伏し目がちに「いいえ」と静かに首を振った。 「訳あって、もう何年も前から一人で暮らしています」 「じゃあご家族は別の場所に?」 「そんなところです」  曖昧に笑って、柚花は再び海へと視線を戻す。 「……君は本当に、自分のことは教えてくれないね」  住んでいる場所も、クラブで働く以前の生活についても、柚花は自身のことは頑なに話そうとしなかった。柚花の年齢も、その生い立ちも、聡一郎は何も知らない。分かっているのは、彼女がとても見目美しいΩであり、聡明で優しい女性だということくらいだ。 「せめて、フルネームくらい教えてくれないか?」  そもそも彼女の職業柄、『柚花』という名前すら、本名なのかどうかもわからない。だが、柚花はゆっくりと聡一郎に向き直ると、大きな瞳を少しだけ細めて微笑んだ。 「ただの『柚花』では、いけませんか?」  逆に問い返されて、聡一郎は思わず押し黙る。  東條家の籍に入ってからというもの、『東條』の名前の重圧とそのしがらみに、聡一郎自身も嫌気が差していることを改めて自覚する。店に通うことはともかく、妻子ある身でありながら、こうしてプライベートで柚花と会うことは不徳だとわかってはいたが、柚花という存在が無ければ、聡一郎は東條の家に潰されてしまいそうだった。 「……そうだね。家柄なんて、面倒なだけだ」   足元の砂へ視線を落として苦笑交じりに呟いた聡一郎の手を、そっと白い掌が包み込む。顔を上げた先で、柚花が柔らかな声で告げた。 「────貴方は、嘘が吐けない人。だから私は、そんな貴方の疲れを癒せたなら、それだけで良いんです」  純粋で真っ直ぐな言葉に、自身が既婚者であることを未だに伝えられずに居る聡一郎の胸がキリ…と痛む。  こんな自分は、柚花に癒して貰う資格など無い。そう思っているのに、柚花の手を解くどころか、いっそその手を取って逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。 「……もっと早く、君に出会えていれば良かった」 「聡一郎さん。……貴方の苦しみは、私も一緒に背負います。だから、大丈夫」  柚花への想いと一緒に言葉を絞り出した聡一郎の手を、柚花がキュ、と優しく握る。  一体何が「大丈夫」なのか、この時の聡一郎にはよくわからず、いつものように聡一郎を安堵させようとしてくれているのだと思った。だが後になって考えれば、柚花はこの時既に、聡一郎が内に隠していた後ろめたさも何もかも、その全てを見抜いていたのかも知れない。  聡一郎の耳には、この日の柚花の言葉と、静かな波の音だけが、いつまでも残っていた────  気が付くと、聡一郎は書斎の椅子に腰掛けていた。  久々の休暇で朝から家に居た聡一郎は、昼食の後、書斎で本を読んでいたのだが、いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。  時計を見ると、時刻はもう午後三時になろうとしていた。  柚花の夢を見たのは、随分と久し振りだ。そして彼女の夢を見た後は、決まって同じことを考える。これが現実だったなら、と────  あの時、東條の家を捨て、柚花の手を取って逃げていれば、今とは全く違う生活が待っていたかも知れない。授かった子供の成長を二人で見守る、穏やかな日常……そんな日々が、迎えられたのかも知れない。  だが結局、聡一郎は散々自分を癒してくれた柚花を見捨て、彼女が恐らく自身の全てを懸けて託してくれた息子すら、薄暗い蔵へと追いやってしまった。  あの頃はとにかく香夏子から柚斗を守ることに必死だったが、そんな事情など知る由もなく、日々蔵の中で成長している柚斗を見ていると、最早聡一郎が守っているものは何なのかがわからなくなる。  疲弊の滲む顔を覆って、聡一郎は重苦しい息を吐く。自分は、柚花との約束も、柚斗のことも、何も守れなかったのではないのか。  香夏子にはもう忘れろと言われたが、日に日に柚花に似てくる柚斗の存在を、忘れることなど出来るはずもない。だが今の聡一郎に出来ることは、精々柚斗の状態をモニター越しに日々チェックすることくらいだ。  そう言えば今朝、柚斗の存在を他言しないよう香夏子から強く脅されている使用人から、最近柚斗があまり食事を食べていないようだと報告を受けていた。梅雨も半ばに入り、連日蒸し暑い悪天候が続いているので、夏バテでもしているのだろうか。蔵には空調設備も完備しているが、そうだとしてもさすがにここ最近はすっきり晴れる日も無く雨ばかりなので、聡一郎ですら身体の怠さを感じている。  きっと香夏子が知れば、また「放っておけばいい」と言うに違いない。そんな香夏子は、今日は夕方まで外出すると言っていたので、ならばせめて鬼の居ぬ間にと、聡一郎は目の前のモニターの電源を入れた。  画面には、蔵の一階部分の映像が映し出されたが、そこに柚斗の姿はない。日中は比較的二階に居ることが多いので、この日も柚斗は二階で過ごしているのだろうと、モニター画面を切り替えようとしたところで、聡一郎は小さな異変に気が付いた。  一階を映した画面の隅に、開いたままの本が裏返しになって落ちている。本が好きらしい柚斗は、例え読みかけであっても、本はきちんといつも本棚へ戻しているのに、画面に映ったそれはまるで投げ捨てられたような状態で床に放置されていた。  ……大事な本をいつも通りに仕舞うことすら出来ないほどの何かが、柚斗の身に起こっているのか。  胸がざわつくのを感じながら、慌てて二階のカメラにモニターを切り替えた聡一郎は、映し出された柚斗の姿に愕然とした。  床に倒れ込んだ柚斗の肩が、浅い呼吸に苦しんで上下している様子が、モニター越しにもハッキリと見てとれる。最大限に映像を鮮明化すると、何かを堪えるように時折床を掻き毟る柚斗の全身が、真っ赤に火照っているのが分かった。  ────まさか、と聡一郎はガタリと椅子を鳴らして立ち上がる。  この光景には、見覚えがある。  Ω特有の発情期に苦しむ柚花と、それを目の当たりにして、抑えきれず最後の一線を越えてしまった聡一郎。その過ちが、今の柚斗の存在に繋がってしまったのだ。  モニターの中で苦しげに身動ぐ柚斗の姿が、聡一郎の目には、あの日の柚花と重なって見える。同時にあの日、柚花から感じた目が眩むような甘い香りが蘇り、思考までもが段々と懐かしい記憶に塗り替えられていく。 「柚花……」  譫言のように呟いた聡一郎は、デスクの引き出しの奧に仕舞い込んでいた鍵束を掴むと、開きっぱなしの引き出しを気にすることもなく、記憶に残る香りに誘われるように蔵へと走った。  ガチャガチャと、耳障りな金属音が響く。  それが何の音なのか、柚斗は必死に考えようとするが、意識が朦朧としてよくわからない。身体が熱くて、中でも下肢が今にも溶け出してしまいそうなほど熱を帯びているのがわかったけれど、どうしてそんなことになっているのか、どうすればいいのかもわからない。  階下から聞こえているらしい金属音が止んだ後、ギィ…と何かが軋むような音がした。  もう何年も前。蔵に医者がやって来たときにも聞こえた音だ、と漸く思い出した柚斗は、どうにか頭を擡げる。 (……誰か来る)  何者かが蔵の中へ入ってくる。────誰でもいい。とにかく誰か、この身体を楽にして欲しい。全身が燃えて、溶けて、無くなりそうな苦しみから解放して欲しい。  理性の崩れかかった頭で、縋るように顔を上げた柚斗は、蔵の階段を上がって来た人物の姿に、熱に濡れた瞳を大きく見開いた。  幼い柚斗をここへ連れて来たその日を最後に、それっきり一度も柚斗の前に現れることはなかった父の姿が、そこにあった。 「……お父、さん……」  浅い息の合間、呆然と呟いた柚斗の方へ、父がゆっくりと近づいてくる。その口から零されたのは、耳慣れない名前だった。 「柚花……」  目線は確かに柚斗に注がれているのに、父は何度も「柚花」と同じ名を繰り返しながら、一歩一歩、床を踏みしめるように歩み寄ってくる。  ……ユウカ? ユウカって誰……?  そう思うのに、聡一郎が傍に来た途端、柚斗の身体の火照りは一層強くなった。  元々Ωが発情時に放つフェロモンはαに強く作用する為、Ωの柚斗が、番の居ないαである聡一郎に反応するのも、またその逆も、ごく自然なことなのだが、そんな知識のない柚斗に理解出来るはずもない。何より柚斗は、自分がΩであるということすら知らないのだ。 「……柚花、君の匂いはあの頃から全く変わらない……」  一体誰のことを言っているのだろう。父は柚斗に、知らない誰かを重ね合わせている。  何かを懐かしむように目を細めながら、父が柚斗の傍らに腰を下ろした。その手が柚斗の長い髪を掬い上げる。ただそれだけで、柚斗の心臓が勝手に大きく跳ねた。  ビク、と柚斗の意思など関係なく反応する身体が恐ろしくて、柚斗は必死に床へと爪を立てる。 (……怖い……)  柚斗を見ているようでまるで見ていない父も、そんな父に縋りついてしまいそうな自分の身体も、何もかもが怖い。  このままここに居てはいけないと強く思った柚斗は、ありったけの力を振り絞って怠い身体を奮い立たせ、片手に携帯を握り締めたまま、父を突き飛ばすようにして階段を降りた。 「柚花……っ!」  よろめいた父が叫んで、すぐに追ってくる気配がする。  有難いことに、蔵の入り口の扉が少し開いていた為、柚斗は躊躇うことなくその隙間から外へと飛び出した。  分厚い雲に覆われた空からは生温い雨が降り注いでいて、地面も連日の長雨で随分とぬかるんでいたが、そんなことを気に掛ける余裕もない。それどころか何処へ向かえばいいのかすら、柚斗には全くわからなかったけれど、追ってくる父から逃げることだけを考えて、林の中を駆け抜けた。  庭へ続く小道の存在も知らない柚斗は、裸足の足が傷つくのも構わず林を抜け、そのまま東條家の庭を突っ切る。その先に、大きな門扉が見えた。  反対側にある屋敷には、もしかしたら柚斗の記憶にあるあの怖い女性が居るかも知れない────咄嗟にそう思った柚斗は、迷わず外の世界へ続く門扉へ向かった。  門を潜る直前、追ってくる父が一瞬戸惑うように速度を緩めたのを見逃さなかった柚斗は、そのまま勢いよく門を潜り抜けた。  生まれてこの方、道路なんて歩いたこともない柚斗は、門を出た先にある道路を横切った際、向かってきていた車に早速クラクションを鳴らされる羽目になった。けれど、本の中でしか車なんて見たこともなかった柚斗には、その音の意味だってわからない。  そもそも、ここからどの方向に行けばいいのか。前も後ろも右も左も、自分の居場所さえ、柚斗にはわからない。何もかも、わからないことだらけだ。ただそれでも今は、とにかく父から逃げ切る────柚斗の頭には、それしか無かった。  いくら雨に打たれたところで、身体の火照りは一向に消えない。お陰で既に息も切れ切れで、何度も足がもつれて転びそうになりながらも、柚斗は目の前の路地を走って、走って、走って、とにかく走った。  息が苦しい。足が痛い。もう後ろを振り返る余裕もない。  もし父がすぐ後ろまで迫っていたらどうしよう。このままがむしゃらに走ったところで、柚斗には目指すべき場所もなければ、この道の先に何があるのかもわからない。例え父から逃げ切ったとしても、もう帰り道もとっくにわからなくなっているし、立ち止まることも出来ない。  一体どうすれば…、と焦る気持ちから、柚斗の足が地面を蹴り損なって、大きく身体が傾いだ。  転ぶ……! ────衝撃を覚悟して思わずギュッと目を閉じた柚斗の腕が、不意に誰かに強く掴まれた。お陰で転倒は免れたものの、とうとう父に追いつかれてしまったのだろうかと、肩で息をしながら柚斗は恐る恐る顔を上げる。  持ち上げた視線の先で柚斗の腕を掴んでいたのは、綺麗な長い黒髪と、くっきりとした大きな瞳が印象的な、見知らぬ女性だった。 「こっちよ」  誰なのかと問い掛ける間も置かず、女性は柚斗の手首を掴み直してそのまま細い路地を走り出す。  この人は一体誰で、自分は何処に連れて行かれるのか。それは全くわからなかったけれど、柚斗の手を引いて走る女性からは、どこか懐かしいような、優しい匂いがした。それに、父には髪を触られただけでも胸が騒いで、怖くて仕方がなかったのに、目の前の女性に触れられてもその時のような異変や恐怖は感じない。  ……この人は、危険な人じゃない。そう直感した柚斗は、女性に連れられるまま、細い路地を力の続く限り走り続けた。 「…───ッ」  迷路のような細い路地を抜けたところで、柚斗はとうとう力尽き、濡れた地面にガクンと膝から崩れ落ちた。立ち上がろうにも、もう全く足に力が入らない。 「……大丈夫? もう着いたから、後少しだけ頑張って」  ゼェゼェと大きく肩を弾ませて荒い呼吸を繰り返す柚斗を、細い肩に担ぐようにして、女性が助け起こしてくれる。着いたって何処に?、と問い掛けることも出来なかった。  女性に支えられて辿り着いたのは、細長い二階建ての古びた建物だった。一階部分と二階部分に、それぞれ五つずつ扉が並んでいる。一階の一番奧の扉を開けた女性が、「狭いけど我慢してね」とずぶ濡れの柚斗を躊躇いなく中へ招き入れてくれた。  そこは柚斗が暮らしていた蔵の一階部分くらいの広さしかない小さな部屋だったが、女性と同様、室内も優しく仄かに甘い匂いに満ちていた。  柚斗がまだ蔵に入れられる前、文字の読み書きを習っていた頃に居た部屋と同じ、畳の敷かれた床へ柚斗の身体を横たえて、女性は自身が濡れているのも構わず、柚斗の濡れた身体を拭いてくれ、着替えの服も与えてくれた上に、動けない柚斗の裸足の足も洗面器とタオルを使って丁寧に洗ってくれた。  そうしてすっかり綺麗になった柚斗の元に、女性がコップに入った水と、明るいオレンジ色の丸い粒が載ったトレイを運んできた。 「これを飲んで」 「……なん、ですか……コレ……」  見たことのない物に不安げな声を漏らすと、女性は柚斗を安心させるように少しだけ微笑んで、そっと柚斗の上体を起こしてくれる。 「大丈夫、危険な物じゃないわ。発情抑制剤よ」 「ハツジョウ……ヨクセイザイ……?」 「その様子だと、発情期は初めてかしら。……辛いわよね」  何故か自分の方が辛そうな顔をして、女性が柚斗の手に丸い粒を握らせる。 「この薬は、発情期の症状を抑えてくれるものなの。完全に、とはいかないけれど、身体は少し楽になるわ」  女性に手伝って貰って、柚斗はとにかく少しでも楽になりたい一心で、渡された薬を喉へと流し込んだ。  ────『発情期』。ある程度の年齢に達したΩにのみ、一定周期で訪れるもの。  蔵で育った柚斗には、精々その程度の知識しかない。この原因不明の身体の異変が発情期なら、柚斗の第二の性はΩだったということになる。  Ωは唯一、男女どちらも子供が産めるのだから凄い、なんて軽率に考えていたけれど、発情期がこんなにも辛いものだなんて思いもしなかった。 「……俺、Ωだったんだ……」  ポツリと呟いた柚斗の身体を再び横たえながら、女性が「ごめんなさいね」と消え入りそうな声で何故か謝罪の言葉を零した。 「どうして、謝るんですか……?」  この薬を持っているということは、目の前の女性もまたΩなんだろうか。そうだとしても、彼女が柚斗に謝る理由がわからない。そもそも彼女は何故、柚斗を助けてくれたのだろう。 「……貴方は、誰なんですか?」 「……ごめんなさい。色々あって、話せないの。でも貴方に危害を加えるつもりはないから、それだけは信じて」  この人も、柚斗に関わるとやはりただでは済まないのだろうか。だとしたら、柚斗がこのままここに居ると、この優しい女性にも、卓巳のように辛い思いをさせてしまうかも知れない。卓巳といい、この人といい、どうして自分は親切にしてくれた人を、悲しませることしか出来ないのだろう。 「俺の方こそ……ごめんなさい」  見慣れない天井を見上げて謝罪した柚斗の頭を、女性の手が優しく撫でる。 「貴方は何も悪くないのよ」  貰った薬のお陰なのか、それとも撫でてくれる女性の手が心地良いからか、身体の火照りが少しだけ和らいでいく気がする。代わりに、何故か涙が出そうになった。この人の手や声は、卓巳のものとはまた少し違った安心感を与えてくれる。  知らない人の、知らない部屋。なのにどうしてだろう……この場所は、とても居心地がいいように思えた。 「貴方、名前は?」 「……柚斗です」  名乗った瞬間、それまで柚斗の髪を撫でていた女性の手がピタリと止まった。不思議に思って見上げた先で、女性は僅かに目を見開いていた。 「……どういう、字を書くの?」 「柑橘類の柚子の『柚』に、北斗七星の『斗』、ですけど……」  女性の反応を疑問に思いながら答えると、それを聞いた女性は「そう……」と今にも泣き出しそうな顔で笑った。  とても綺麗な人なのに、どうしてこの人はこんなに哀しい顔で笑うんだろう。「貴方は何も悪くない」と言ってくれたけれど、やはり柚斗という存在が、そうさせてしまっているのだろうか。  益々自分の存在意義がわからなくなって、蔵を出てからずっと握りっぱなしだった携帯を無意識に強く握り締める。すると、それに気付いた女性が緩く首を傾げた。 「逃げ出してきたということは、誰か、助けに来てくれる人が居るの?」  問われた瞬間、柚斗の脳裏に卓巳の顔が浮かぶ。  蔵で身体の異変を感じたとき、真っ先に柚斗の頭に浮かんだのも卓巳だった。もう関わることは出来ないとわかっていながら、無意識に助けを求めようとした。  ……出来ることなら、今すぐに卓巳に会いたい。けれど、柚斗を見て哀しく微笑む目の前の女性のように、卓巳にも、そんな顔はして欲しくない。  念願叶って外の世界へ出ることが出来たのに、柚斗一人じゃ何も出来ない。卓巳が傍に居てくれなければ、何の意味もない。 「……すごく、会いたい人は居るんですけど……でも、出来ないんです」 「出来ない?」 「俺は、会っちゃいけないんです……」  自ら口にした言葉が胸に刺さって、柚斗の眦から涙が零れた。薬のお陰で折角少し身体が楽になりかけていたのに、後から後から涙が溢れて、嗚咽でまた息が苦しくなる。そんな柚斗の背中を宥めるように撫でながら、女性が切なげな顔で口を開いた。 「一番大事なものは、絶対に手放してはダメよ。……でなければきっと、貴方はこの先一生、後悔することになるわ」  私みたいに…、と最後は独白のように女性は呟く。それがどういう意味なのか、問い掛けようと柚斗が口を開きかけたところで、不意に手の中の携帯から着信音が鳴り響いた。 (卓巳さん……?)  淡い期待に、薬で鎮まりかけていた心臓が再び騒いだが、画面に表示されていたのは卓巳の名前ではなく、見覚えのない番号だった。  ────一時間前    大学から帰宅した龍哉は、なかなか捗らないレポートの作成を諦め、溜息と共にPCの電源を落とした。  最近、生まれ育ったこの家が、どうにも息苦しくて仕方がない。  その原因はハッキリしている。……帰宅すると、毎晩のように龍哉の部屋へやって来ては、我が物顔で寛いでいた兄の卓巳が、この家を去ったからだ。  さすがに昼下がりのこの時間は、学生の龍哉と母親、それに家政婦くらいしか家に居ないのは当たり前なのだが、卓巳が出て行ってからは夜になってもずっと龍哉の部屋は静まり返ったままで、この家はこうも静かだっただろうかと、龍哉はずっと落ち着かない日々を過ごしていた。  卓巳が出て行ったことを知っても、両親も長兄の龍司も、特に慌てた様子は見せなかった。そんな家族の様子を見て、龍哉は酷く寂しくなった。卓巳が家を去りたがっていたのも、今となっては当然だとも思える。いっそあの夜、龍哉も卓巳と一緒に家を出れば良かったと、そんな後悔さえ生まれていた。……きっと、卓巳は許してはくれなかっただろうけれど。  卓巳が居た頃は、いつも傍で賑やかにしてくれていたお陰で気付かなかったが、卓巳の居なくなった西園寺の家の空気は、酷く重苦しい。αである龍哉ですらそう感じるのだから、これまでさり気なく龍哉の盾になってくれていたβの卓巳にとって、この雰囲気はどれだけ居心地が悪かったことだろうと、苦いものが胸の奧から込み上げてくる。  そんな空気に耐え兼ねて、数日前、龍哉は一度逃げ込むように卓巳のアパートを訪れた。卓巳が出て行ってからの西園寺家での愚痴を思わず零した龍哉に、卓巳は「珍しいな」と笑いながらも、龍哉がいつでも逃げて来られるようにと、合鍵を渡してくれていた。  バッグのポケットに入れてある合鍵を取り出して、掌に載せたそれを静かに見詰める。本来なら、この鍵は龍哉ではなく、柚斗が持つはずだったものだ。それを思うと、龍哉の胸中は一層苦しくなる。  卓巳は、もう二度と東條の家には関わるなと言っていたけれど、本当にそれでいいのだろうか。どうにかして、柚斗を助け出す方法はないんだろうか。……龍哉だって、卓巳が家を去ってしまったことを寂しいと思ってしまうのに、柚斗の手を離さなければならなかった卓巳は、本当に平気なのだろうか。  そう言えば数日前に訪れたとき、まだ卓巳は引っ越して一週間足らずだったはずなのだが、既に部屋が散らかり始めていたのを思い出す。また以前の、フラフラと夜遊びに興じるだらしない卓巳に戻ってしまいそうな気がして、龍哉は合鍵を握り締めると静かに椅子から立ち上がった。  まだ卓巳が仕事から帰るまでは時間があるけれど、逃げ場を与えてくれた代わりに、せめて掃除くらいはしてやりたい。ついでに時間が余れば、卓巳が帰宅するまでレポートの続きでもやろうと、バッグに筆記用具を詰め込んで龍哉が部屋を出ようとしたとき。  ピコン、とポケットの中の携帯が、短い通知音を響かせた。  何気なく取り出した携帯に届いていた通知内容を見て、龍哉は思わず目を瞠る。  念の為、GPSで監視している柚斗の位置情報に変化があれば通知が来るように設定しておいた携帯が、正に今、そのことを知らせていた。 「どういうこと……?」  急いで携帯を操作し、地図で柚斗の居場所を確認するが、明らかに東條家の敷地から出ている柚斗は、ゆっくりと移動していた。速度からして車ではなさそうだったが、それなら何故、柚斗は突然東條家の敷地を出て、外を出歩いているのだろう。  極力地図を拡大して見てみると、柚斗はとても車が通れそうにない細い路地を徐々に移動している。  まさか卓巳が強引に柚斗を連れ出したのだろうかと、卓巳の携帯を鳴らしてみたが、応答はない。それもそのはず、本来なら卓巳はこの時間、仕事の真っ最中のはずだ。 『龍哉:兄さん、手が空いたら連絡して。柚斗くんが東條家の敷地から出て移動してる』  一先ずメッセージだけを送って、龍哉は暫く柚斗の動きを観察する。  何度も路地を折れた先で、柚斗の動きが漸く止まった。そこは、衛星画像で見る限り、至って普通の住宅地のど真ん中だった。  もしも卓巳が柚斗を連れ出したのだとしたら、行き先は卓巳のアパートのはずだ。だが、柚斗は卓巳のアパートからは数駅も離れた住宅地から、一向に動く様子がない。  それなら一体誰が…、と訝しみつつ、龍哉はデスクの引き出しから、滅多に使用することがない車のキーを取り出した。  玄関へ下りた龍哉に、「外出されるならお車を」と申し出てくる運転手を「ドライブしたいから」と自分でも言い慣れない理由で断って、龍哉は両親から進学祝いに贈ってもらった自身の車の運転席に乗り込んだ。  卓巳からは、柚斗の件も含めてもう二度と、東條家には関わらないようにと強く言われている。だが、卓巳が香夏子から、龍哉も含めた西園寺の家と柚斗を天秤にかけられ、その結果龍哉たちを守ることを選んでくれたのだろうということくらい、気付けない龍哉ではない。  これまで何に対してもどこか投げ遣りで、全てを諦めているみたいだった卓巳が、柚斗の存在を知ったあの日から、まるで別人のように変わった。それまでは何度龍哉が嫌味を言っても繰り返していた夜遊びをピタリと止め、日々柚斗を助け出す為に必死になっていた。  きっと卓巳は、自分と同じように────いや、それ以上に東條家の中で虐げられている柚斗を、放っておけなかったのだろう。父の龍馬や長兄の龍司とはいつも反りが合わないようだったが、年下の龍哉に対しては卓巳は昔から優しくて、何かと面倒をみてくれていた。  そんな卓巳が、香夏子に呼び出されたらしい日の夜、初めて龍哉に対して声を荒げたことを思い出して、龍哉はハンドルを握る指先に力を込める。  自身の境遇と重ね合わせて、何としても助けたいとう思いから卓巳が交わした柚斗との約束。それを投げ出さなければならなかった悔しさが、あの日の卓巳の言葉や表情、態度の全てに滲み出ていて、龍哉にはかける言葉が見つからなかった。  卓巳に言われた通り、きっと卓巳の苦しさは、αに生まれた龍哉にはわからない。ずっと卓巳に甘やかされて育ってきた龍哉には、わかりたくても叶わない。そのことが、酷く歯痒かった。  ……なら、今の龍哉に出来ることは、ただ一つ。柚斗との約束を守りたくても守れなかった卓巳に、もう一度、そのチャンスを与えることだ。  龍哉がシフトレバーへ手を掛けたところで、メッセージに気付いたのか、携帯に卓巳から着信がきた。 「もしもし、兄さ────」 『どういうことだ!? 何でアイツが外に出てんだよ!?』  龍哉の応答を遮って、焦りと動揺の滲む卓巳の声がキンと響く。 「兄さん、落ち着いて。今仕事中じゃないの?」 『さっきまで客先行ってて、これからまだもう一社残ってる。……俺も今GPSで確認したけど、柚斗のヤツ、何であんなトコに居るんだよ』 「僕にも全くわからないけど、存在を伏せられてるはずの柚斗くんが東條家の敷地を出るなんて、余程のことだ。東條家の人間が、そんなこと許すとは思えない。携帯が見つかって没収されたにしては動きや場所が不自然だし、柚斗くんの身に『何か』があって、誰かに連れ出されたのか、あるいは彼自身が逃げ出したか……」 『……どっちにしたって、危険すぎるじゃねぇか。仮に誰かに連れ出されたとしたらその目的がわからねぇし、一人で逃げたんだとしてもアイツ、外の世界なんて何も知らねぇんだぞ』 「────だから、これから僕が迎えに行く」  龍哉の言葉を聞いて、スピーカー越しに卓巳が息を呑む気配がする。驚く卓巳の表情まで、龍哉には容易に想像出来た。返ってくる言葉だって、大方想像はつく。 『……お前、何────』 「何考えてんだよ、って言うんでしょ」  仕返しとばかりに卓巳の言葉を遮った龍哉の予想が的中したのか、卓巳がぐっと言葉に詰まる。 「誘拐されたかも知れない少年を助けても、迷子になってるかも知れない少年を保護しても、罪にはならない。……それに、これは僕の意思だから」 『龍哉……。けど、もしも東條の連中に知られたらどうすんだよ。せめて俺の仕事が終わるまで待て。それならまだ、何かあっても俺の責任だって押し通せる』 「そんな悠長なこと言って、それでもしも柚斗くんの身に何かあったら、それこそ兄さんは今よりもっと後悔するじゃないか」 『………』  まるで自ら『ガラクタ』だと周囲に言い聞かせるようにだらしなく振る舞っているけれど、本当は面倒見の良いお人好し。それが、龍哉が幼い頃からずっと見てきた卓巳という人間だ。  弟として、そんな兄の力になりたいと思って、何が悪い。 「兄さん、まだ仕事あるんでしょ。兄さんが僕を庇ってくれた分、絶対に僕も、柚斗くんを探し出すから」 『……俺も、この後の営業終わったら、何とか直帰出来るようにする。だから龍哉。……柚斗のこと、頼む』 「確かに、任されたよ」  卓巳との通話を終えて、龍哉は再び柚斗の位置情報を確認する。柚斗の居場所は、先ほど見た位置から変わっていない。  これ以上柚斗が移動してしまう前に、何とか彼の元へ辿り着きたい一心で、龍哉は携帯を助手席に置くと、柚斗の居る住宅地を目指してアクセルを踏み込んだ。  目的地付近にあった小さなコインパーキングに車を停め、龍哉は携帯を片手に運転席から降りた。  GPSが示している柚斗の居場所はここからほど近い場所のはずだが、実際に来てみると、見渡す限り、やはりごくごく普通の閑静な住宅街だった。  特別目を惹くような豪邸があるわけでも無ければ、目立った店舗などもない。唯一目につくものがあるとすれば、辛うじて車がすれ違えるほどの通りの先に見える、学校のグラウンドくらいだ。  車に乗っている間は、本当にこの辺りに柚斗が居るのだろうかと疑念を抱いた龍哉だったが、携帯を頼りに進むにつれ、柚斗の存在は次第に明確なものへと変わっていった。  ……雨の中でも、αの龍哉にはハッキリとわかる。発情期のΩが放つフェロモン特有の、甘くて蠱惑的な匂いが、辺りに漂っていた。 (もしかして、発情期が来たから東條家から逃げ出した……?)  余程の理由が無い限り、柚斗が自ら蔵を抜けて東條家から逃げ出すとは思えない。逆にそれほどの行動を柚斗に起こさせる『何か』があったのだとしたら、それはΩ特有の発情期くらいしか、龍哉には思い当たらなかった。  だがそうだとしたら、屋敷を出た柚斗の動きがピタリと止まった理由が気にかかる。卓巳も気にしていたが、外の世界を知らずに育った柚斗に土地勘などあるはずもないし、逃げ出した先に行く当てがあるとも思えない。何より発情したΩが無闇に外を出歩くなんて、柚斗でなくても相当危険な行為だ。  ……まさか、どこの誰ともわからないαかβに連れ込まれたりしているのだろうか。  それだけは考えたくないと、最悪の懸念を追い払うように頭を振ってから、龍哉は少し歩調を速めた。  甘い匂いは、柚斗の居場所に近付けば近付くほど濃厚になってくる。最早携帯の画面を見なくても、龍哉はその匂いを追って目的地まで辿り着くことが出来た。 「此処……?」  着いた先は、築五十年ほどは経過していそうな、古びた二階建ての木造アパートだった。  どう見ても東條の家とは無縁そうなこんな場所に、何故柚斗が居るのだろうと龍哉は首を捻ったが、一階の突き当たりの部屋から、一際強い匂いが流れ出している。GPSが示す位置と照らし合わせても、恐らくこの部屋の中に柚斗が居ることは間違いない。……問題は、誰がこの部屋へ柚斗を連れて来たのかということだ。  柚斗の境遇を考えると、下手に警察などに連絡すれば、却ってややこしいことになってしまう。せめて柚斗が今置かれている状況だけでも把握出来れば…と、龍哉は携帯の電話帳から柚斗の名前を選択する。  万が一の事態に備えて以前から龍哉の携帯には柚斗の携帯番号が登録してあるが、柚斗の携帯には卓巳の番号しか登録されていない。東條家の人間に気付かれた場合、龍哉の関与が疑われないようにと、卓巳が頑なに登録させなかった。  知らない番号からの電話に、柚斗が出てくれるだろうか。そもそも、柚斗は今、電話に出ることが出来るのだろうか。  一か八かの賭けだったが、龍哉は暫し迷った末、意を決して通話ボタンを押した。  何度も何度も、呼び出し音が繰り返しスピーカーから響いてくる。  頼むから出てくれと、祈る思いで龍哉はひたすら待ち続ける。……そうして一分ほど経っただろうか。溜息を零した龍哉が切断ボタンを押そうとした直前、プツ、と呼び出し音が途切れた。 『……はい……』  苦しげな呼吸に混ざって、不安に揺れる弱々しい声が返ってきた。きっと柚斗は発情期の辛さと闘っているのだろうが、一先ず彼が電話に応答出来る状況にあることに、龍哉はホッと安堵の息を吐いた。 「もしもし、柚斗くん?」 『え……誰、ですか……?』  いきなり名前を呼ばれた柚斗が、少し驚いた声を上げる。そう言えば、龍哉はずっと卓巳と情報を共有してきたので、自分もすっかり柚斗の知り合いのような気になっていたが、柚斗はそもそも龍哉の存在すら知らないのだ。 「ああ……ごめん、僕とは『初めまして』だよね。僕は、西園寺龍哉」 『さい、おんじ……?』  龍哉の姓に反応して、柚斗が電話越しに息を詰める。 「西園寺卓巳の、弟だよ」 『卓巳さんの……? どうして……卓巳さんに、何か、あったんですか……?』  何かあったのはむしろ柚斗のはずなのに、息も切れ切れに卓巳の身を案じる必死なその声を聞いて、卓巳がどうして柚斗を助け出したいと思ったのか、改めてわかった気がした。  龍哉は兄には恵まれていたけれど、柚斗のような弟も欲しかったと、胸の内で密かに思う。 「兄さんなら大丈夫だから安心して。ただ、今はちょっと仕事中だから、代わりに僕が来たんだ」 『あの……俺、今は蔵には────』 「知ってる。今、アパートの部屋に居るよね?」 『……どうして、わかるんですか……?』 「ちょっと宝の地図があるから。ちなみに今、柚斗くんの傍には誰か居るの?」  龍哉の問いに、少しの間を置いて、柚斗から『はい』と返事が返ってきた。 『……知らない女の人に、助けて貰ってます』 「知らない女の人?」 『はい……髪の長い、綺麗な人です』  その瞬間、龍哉の脳裏に、東條邸の前で出会ったΩの女性の姿が浮かぶ。 「……もしかして、黒髪で目の大きな人?」 『そうです……龍哉さんの、知ってる人なんですか……?』  そういうことか、と龍哉はそこでやっと、柚斗が何故このアパートに居るのかを理解した。 (兄さんの想いが届いたのかな……)  柚斗が東條の家を抜け出した経緯はわからないけれど、外の世界を知らない彼は、何処よりも安全な場所で、誰よりも安全な相手に守られていたのだ。 『龍哉、さん……?』  黙り込んでしまっていた龍哉は、心配そうな柚斗の声に慌てて我に返る。 「ごめん、何でもない。取り敢えず、状況は大体わかったから、一旦電話切るね。すぐに行くから」  そう言い置いて通話を終えた龍哉は、すぐ様目の前の扉を控えめにノックした。 「すみません」と龍哉が扉越しに声を掛けると、少しして、ゆっくりと扉が内側から押し開けられる。その先に立っていたのは、やはりあの黒髪のΩ女性だった。 「貴方、あの時の……」  彼女の方も龍哉の顔を見るなり思い出したのか、大きな瞳を驚いたように瞬かせている。そんな彼女の肩越しに、室内でぐったりと横たわる少年の姿が見えた。目の前の女性と同じ、長くて艶のある黒髪に、整った顔立ち。こうして揃っているところを見ると、確かに卓巳の言う通り、他人だと思う方が困難な程二人は本当によく似ていた。  扉が開かれたことで、柚斗から放たれているフェロモンが一際強く香り立つ。  龍哉の方は何とか理性で抑えることは可能だが、初めて発情期を迎えた柚斗の身体は、恐らく相当辛いはずだ。Ωの発情は、基本的には他人と交わることでしか治まらない。  卓巳が柚斗にどこまでしてやるつもりなのか、それは龍哉が口を挟めるところではないけれど、とにかく一刻も早く柚斗を卓巳の元へ連れて行ってやりたかった。龍哉に出来るのは、せめて彼らの心を満たしてやることくらいだ。 「兄の代わりに、柚斗くんを迎えに来ました」  龍哉の声が届いたのか、部屋の真ん中で苦しそうに胸を喘がせながら、柚斗の唇が『卓巳さん……』と確かに兄の名を紡いだ。

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